10月のドイツ、と聞いてなにを浮かべるか? その答えに「オクトーバーフェスト」を選ぶ人間はかなりの確率でいるだろう。
 オクトーバーフェストとは、毎年10月に行われる、いわば「ビール好きによるビール好きのためのビールの祭典」である。というのは多少の嘘であるが、毎年ミュンヘンで開かれる世界最大規模の祭りだ。
 しかしながら中学生である氷帝学園生にはビールは無縁だ。ドイツの法律では16歳ともなればビールを飲むことが可能だが、ほぼ全員まだ14歳である。とはいうものの、この時期にミュンヘンにいてオクトーバーフェストに行かないなどという選択肢はなく、帰国を明日に控えたドイツ最後の一日はオクトーバーフェストに繰り出すこととなっていた。――が、多数の人間が酒に浮かれている場所であるのを考慮し、「禁酒エリア」となっている会場限定での終日自由行動となった。教師陣からすればこのスケジュールは冒険であったことだろう。
 人でごった返す会場は民族衣装を着て踊る人・歌う人はもちろん至る所で食べ物や土産物の屋台が並んでおり、見たこともないほどのお祭り騒ぎで生徒達の心を一瞬にして鷲づかみしてしまった。
 むろん宍戸も例に漏れず、フード屋台をぐるりと見渡してごくりと喉を鳴らしている。
「よっしゃ、今日は食うぞ!」
 こうなればもうとしてはついていくしかなくなる。少し落ち着いた場所で食事したい、などと言っても速攻で却下されるに決まっているため余計なことは口にしない。
「あ、宍戸くん」
「あ?」
「ねえ、ほらあそこの屋台。かわいい女の子がいる」
 どこもかしこも似たような屋台が並ぶ中、父親らしき人物の横で一緒に店を切り盛りしている15歳くらいの金髪の少女が目に付いたはそちらを見やった。ちょっと覗いてみよう、と宍戸を引っ張って行った先はソーセージ屋台のようだ。しかも、先日のフランクフルトで見た屋台とはだいぶん趣が変わっている。人混みに紛れて物色していると、「かわいい」と称した白人の少女と目が合って、は思わずこう言い放ってしまった。
「グ、グリュス・ゴッド!」
 すると、少女の青い瞳が見開かれてパーッと明るくなり「グリュス・ゴッド!」と同じように返事をくれた。――しかし、その後彼女がドイツ語で言った言葉は「ご注文は?」とか「何にする?」だったのだろうがには分かるわけもなく、首を捻った少女は苦笑いを浮かべた。
「キャン・ユー・スピーク・イングリッシュ?」
「――イ、イエス」
 勢いで肯定したものの内心まずいと思っただったが、そこは母国語でないもの同士お互い様だろう。少女は英語で「何にする?」と言い直してくれた。
「これ、何なんだ?」
 宍戸が屋台に並んでいるソーセージを見て首を捻ったものだから、が訊いてみれば「"ヴァイスブルスト"、という名のミュンヘン名物の白いソーセージ。付け合わせはプレッツェルで、剥いて食べるの」という返答だった。それをが宍戸に伝えると「マジか!?」と宍戸の目が輝きを増した。
「んじゃそのソーセージとプレッツェル二つな。えっと……ツ、ツヴァイ……ビッ、テ……?」
 先日のフランクフルトでの失態を思い出したのだろう。次こそピースサインではなくグーに握った手の親指と人差し指を開いて宍戸はたどたどしくドイツ単語を口にした。しかしたどたどしくとも単語だけでもドイツ語を話そうとする姿勢はやはり嬉しいのだろう。ニコニコ笑いながら「ヤッ!」と返事をした少女はさながら天使のようだった。同じ人間といえどこれほど造形が違うと素直に見とれるしかないというものだ。少女から食べ方の指南を受け、去り際に頭を下げると彼女は微笑んで「セアヴス!」と言ってくれ、はっとしたも「セアヴス!」と返した。
「なんだ、それ?」
「じゃあね、って意味なんだって。ドイツ語でバイバイだと、チュースって言うんだけど、南ドイツだと同じドイツ語でも少し違うみたい」
「”なんだって”って何だよ。跡部にでも聞いたのか?」
「ううん、鳳くん」
「は……? 鳳?」
「うん。修学旅行に行く前に簡単なドイツ語とか色々教わったの。ふふ、南部では南部の言葉を使ったほうがいいって鳳くんの言った通りなんだもん、聞いててよかった」
 だからどんなシチュエーションで鳳にそんなことを教わるに至ったんだ。――という疑問を宍戸が抱く前に「あ、あそこが空いてるよ」と近くのスタンドを指したの一言によってその話題は打ち切りとなってしまった。そうして二人して意識を食べ物に移し、購入したばかりの白ソーセージを食してみる。
「美味しい!」
「う、うめぇ……!」
 優しい味わいはソーセージ専用の甘いマスタードによって更に引き立てられ、先日の焼きソーセージとはまた違った感動が二人の口の中に広がった。特に宍戸はこのあまりにドイツっぽい、ソーセージとプレッツェル、という組み合わせがたまらないのか拳を歓喜で震わせている。
「これでビールがあれば最高なのによ!」
 終いには会社帰りのサラリーマンのような台詞を吐く始末だったが、これは大人への憧憬ということなのだろうか? いずれにせよ宍戸は再び「海外旅行とは食と見つけたり」状態となり、例によって今日も屋台巡りに終始することとなった。

「どうだお前ら! 俺様と共に来た修学旅行、存分に楽しんだか? アーン?」
 翌日、ミュンヘン国際空港にて全員集合した氷帝学園生徒を前に跡部がシメの音頭を取り――慌ただしかった修学旅行は幕を閉じた。


 終わってみればこれといったトラブルもなく良い思い出が出来た。――と帰国して数日経った今もなかなか生徒達は旅行気分が抜けないでいた。
 むろん、も例に漏れずだったが、学園に戻って最初にしたことといえば鳳に礼を言いに行ったことだ。
「本当に役に立ったの。どうもありがとう」
「いえ、お役に立ったのなら良かった。俺、ちょっと心配してたんです。先輩が……」
「え……?」
「あ、いえ。皆さん、怪我もなく無事に帰国されて良かったです」
「うん、ありがとう。でも……そうだ、ちょっとしたトラブルならあったよ。ノイシュバンシュタイン城で――」
 鳳の一言で芥川失踪事件を思い出したは、その事を鳳に話すとさすがに鳳も苦笑いを浮かべた。曰く「いつものこと」らしい。やっぱりそうなんだ、とも再度確認させられて苦い笑いを漏らすしかない。そして、あの日の宍戸の言葉を思い返す。伸び盛りの鳳――と彼は評していたのだ。あまり意識はしていないが、やはり四月に比べると相当に目線が遠くなった――と見上げていると鳳は変わらない笑みで柔らかく言った。
「先輩、なにかリクエストありますか? 弾きますよ」 
「え……? え、っと……じゃあ、鳳くんの好きな曲がいい」
「俺の? いえ、俺は先輩の聴きたい曲を弾きたいです」
「そう言われても……そんなに詳しくないし」
「じゃあ、先輩の好きそうな曲を弾きますね」
 鳳はあくまで鳳。こうして音楽室でピアノを弾いている後輩にしかすぎない。それで十分だし、テニス部での鳳を知ろう、とまでは思わない。が、鳳は――とは楽しげに楽譜を物色する鳳の背を見やった。
『先輩はどうして、人物画を描かないんですか……?』
 今も引っかかるあの言葉の答えを――無理に出す必要はないだろう。そう、無理に出す必要はない。ただ、疎ましく思っていた雨をカノンのように優しい音楽だと言った鳳の言葉は今も気にかかっていて、それは鳳だからなのか、単に言葉のみなのかには判断しかねたが、結局のところとしてはその気持ちをキャンバスに乗せるしか出来ることはなかった。
 あの日、鳳の言葉を受けて「ちゃんと描かなければ勿体ない」と感じた心のままに、より高レベルの絵を描くための糧。それだけに過ぎない。
 しかし唯一違っていたのは、自身でモチーフを決めるときに誰かの発言に影響を受けたということだろうか。風景を切り取る一瞬も、心を奪われる光加減も、今までは自分自身と無機質なものとの対話だったのだから。けれども、今回は少し違う。――キャンバスに向かっていると鳳の声がリフレインする。出会った春の、若芽が弾けるようだった彼の声、ピアノの音。雨粒を追ってカノンに耳を澄ませていた静かな吐息。鳳の見ている世界・聴いている音が分からなくて寂しくて、何度も何度も真似るように耳を澄ませてみたこと。巡る音、時間の流れ。それの全てを筆に乗せたい。
 ――また春がやってくる。いま自分が目指すべきは常に今の自分を越える最高傑作。
……、ごめん、あんまり意図が分かんないかも。綺麗なんだけど」
 美術部の友人や顧問にダメ出しもくらいつつ、描いては直し描いては直しを繰り返して何とか出来上がった絵を提出し、あとは評価を待つのみである。自信過剰というわけではないが、賞を取れるのは最低ライン。目指すところは、あくまで一番だ。
 結果は――、大満足、とはいかないが、まあ、満足だろうか。――とは3年の始業式を明日に控えた4月最初の日曜日、上野にある美術館にて自身の絵を睨むようにして見上げていた。嬉しいが手放しでは喜べない、と複雑な心境を抱えていると後ろから聞き覚えのある声に呼びかけられる。
「あれ、先輩……?」
 はっとして振り返った先にいたのは鳳長太郎だ。
「鳳くん……」
「こんにちは。先輩もいらしてたんですね」
「こんにちは。うん、まあ……」
 まさか鳳に会うとは、という思いもあったが絵画を好む彼のことだ。そう珍しい偶然でもないだろう。も少し微笑み返したのちに少々苦笑いに変えると「ああ」と鳳は、ふ、と笑った。
「今回はおめでとうございます。俺も嬉しいです、ここで先輩の絵を見ることができて」
 鳳の声には何の含みもなく、ありがとう、とが礼を言うと鳳はニコッと笑ってからスッとの絵の前に立った。としては眼前でこの絵を、しかも鳳に見られるのは少々心が騒ぎ、どこかハラハラしながら鳳の横顔を見上げてしまう。すると鳳は絵の下に書かれたタイトルに目をやったようで、少し驚いたように瞬きをしていた。
「"Like a canon."……? これって……」
 独り言のように呟いて鳳は再び絵を見やり、にとっては永遠のような長い時間が過ぎたのち、鳳は頷くような仕草を見せた。そしての方に視線を流したものだからはちょっとばかり目尻を染めて視線を下に流した。
「先輩、この絵ってもしかして……」
「あ、あのね! 鳳くんがね……ほら、覚えてないかもしれないけど、一年くらい前に……その、雨音がカノンに聞こえるっていうから。その……」
「生命の息吹は巡る、って意味ですよね?」
 焦り気味のの、続かない言葉を補助するように鳳はさらりと言ってのけた。事実、の描いたキャンバスには新緑の鮮やかな葉が雨を弾き、水面には雨粒が輪を描きつつも絶妙の光加減で色合いが調節されており――「まるでカノンのよう」というタイトルが示す通りの内容が手に取るように分かる抜きんでた技術力がまざまざと全面に押し出されていたのだ。
「う、うん。……伝わってるなら、良かった。鳳くんのおかげ、だし」
「俺の……?」
「その、覚えてない……? 鳳くん、絶対音感があるから雨の音が音階に聞こえてうるさく感じたことがあったって。でも雨がカノンを奏でてくれてるって考えることにして、雨が好きになったって言ってたこと」
「覚えて、ます……けど」
 頭上で鳳が少しばかり目を見開き、は尚さら焦ってしまう。やはり、事前に「こういう絵を描くことにしたから」と伝えていた方が良かっただろうか。
「その……私、あの言葉に本当にはっとしたの。上手く言えないけど……鳳くんが見えてたものってどんな世界なんだろうな、って膨らませていったというか……その」
 次第に目線が降りて行ってしまい、黙って聞いてくれている鳳の姿にいたたまれなくなりはばつの悪そうな顔を浮かべた。
「勝手に鳳くんの言葉を使ってしまって……その、気を悪くしたのなら……ごめんなさい」
 すると鳳がひどく狼狽した空気が伝ってくる。
「そ、そんな! そりゃ、驚きましたけど……俺は、俺の一言でこの絵を描いてくれたらな、むしろ――」
「え……?」
「いえ。光栄です」
 見上げた鳳は相変わらずの笑顔でニコッと笑い、が鳳の返事にホッとする間もなく再び絵と向き合ってじっくりと眺めていた。絵から感じ取れる表現を一つ一つ拾っているのか、何度も小さく頷きながら微笑み、「凄いなぁ」と口にする。
「むしろ、俺の何気ない一言でここまで描いてしまう先輩に脱帽です」
「でも……、なにか足りないのよね、きっと。最優秀、取れなかったし」
「そんな……」
 むぅ、とは少しばかり唇を尖らせて恨めしそうに最優秀賞の作品を見上げた。
「来年は、ぜったい最優秀を取るんだから」
「先輩……」
 鳳はフォローしてくれようとしたのだろうか? 彼の言葉を待たずにそう言い放てば、鳳は肩を竦めて苦笑いを浮かべた。そして自然と並んで絵画鑑賞をし、美術館の外へ出る。途端にふわりと緩い春風が二人のくせ毛を揺らし、よく晴れた空の青に目を細めてはそっと髪を押さえた。
「先輩、この後ってなにか予定ありますか?」
「え……? 特にないけど」
「良かった。それなら、一緒に桜を見にいきません?」
 不意打ちのような鳳の誘いに「え……」と呟いたは思わず歩みを止めた。それを否定と取ったのか鳳が「あ、無理にとは」と困惑と落胆の入り交じった声を出すものだからとしてはそれを更に否定するしか術はない。良かった、と微笑む鳳を見上げても少し眉尻を下げつつ緩く笑う。
 全国的な桜の名所である上野界隈は今が盛りで、しかも日曜日ということもあり多数の人間でごった返しているのがこの場所からも見て取れ、優雅というよりはむしろ騒々しい。
「凄い人だね」
「ですね。でもみんな桜を見たい気持ちは同じですから、仕方ありませんよ」
 鳳の言葉を受けて、は一瞬言葉に詰まったものの「そうだね」と小さく笑った。もしもこれが宍戸だったらまず宍戸がこの人混みに愚痴を言い始めて自分が宥める側に回るのだが――本当に彼はいっそ他人と視点が違うのではと思うほど穏やかで優しい。それに――と、は先ほどからすれ違う少女たちのほとんどが鳳に視線を送って何かを話していたり、振り返って二度見しているのに気づいていた。一年前に出会ったときはそうも思わなかったのだが、今の鳳は格段に人の目をひく。育ちの良さそうな上品な出で立ちはそのままに、これだけの長身があればイヤでも目に付くというものだ。もしも自分が見知らぬ他人で鳳とすれ違ったとしたら――やはり振り返ってしまうのだろうか、とは鳳を見上げた。
「鳳くん……、いま身長って何センチあるの?」
「え……身長ですか? 180センチ以上あると思いますけど、正確には分からないです」
「ひ、180……!? うそみたい……去年の春は、そりゃ小さくはなかったけど、飛び抜けて大きくもなかったのに」
「一年で10センチ以上伸びたんですよ。急に伸びたせいか、たまに関節が痛くて……」
 成長痛による苦しみでも思い出しているのだろうか。少しばかり苦み走った顔をしてみせる鳳にふわりと桜の花びらが乗って、それさえも優美だ。
「でも、テニスするには有利だから背が伸びたことには感謝してますけどね」
「あ……そっか。そうだね」
 そういえば、とは以前に宍戸が鳳のことを一年生の最有望株と誉めていたことを思い出した。しかしながら、テニス部へはたまにデッサン練習を兼ねたスケッチをしに赴くだけで、そう部活動そのものに刮目していたわけではないため鳳の実力の程は分からないが、と思案していると「あ」と鳳が声をあげた。
「先輩、桜が髪についてます」
「え……?」
 言うが早いか鳳はすっとの髪に手をやって絡まっていたらしき桜の花びらを手に取り、「ね?」とに目線を合わせて笑った。そして再び空中に舞った花びらを目の端に留め、はかっと頬を染める。
「……ッ」
「先輩……?」
「な……なんでもない。ありが、とう」
 誤魔化すように俯けば、再度疑問を孕んだ鳳からの声が降りてきて、は動揺した自身の落ち着きを待ちつつ少し頬を膨らませてみせた。
「なんか……負けた気分」
「え……?」
「鳳くん、背が高いから常に見下ろされてるみたいなんだもん。去年はこうじゃなかったのに……ちょっと悔しい」
「えぇッ!? いや、去年だってぜんぜん俺の方が身長高かったっすよ?」
「そ、そうだけど! でも、見下ろされてはなかったもん。私だってもう少しは身長伸びるだろうけど、ぜったい鳳くんの方がもっと伸びるから……追いつけないじゃない」
 の言い分に鳳は一瞬呆れたような表情を晒したあと、あはは、といたって含みもなく楽しそうに笑った。
「これこそ勝ち負けの問題じゃないのに、先輩ほんと負けず嫌いですね」
 まさに鳳の言うとおりであり、後輩相手になにを言っているのだろう――とは自己嫌悪も含めつつバツの悪そうな表情を浮かべた。でも、こんな休日に偶然とはいえ二人してこんな場所を歩いているなんて、まるでデートのようだ。と一瞬でも感じてしまったははっとして小さく首を振るった。鳳とはいつだって二人きりで話してきたではないか。いやしかし、それは学校の音楽室という限定された場所であって。今日は、偶然だ。でも、だけど――周りから見ればそう思えるのかな、との胸中には複雑な思いが飛来した。その複雑さの正体までは分からずに、見上げた鳳はいつもと変わらない。風が吹けば舞う花びらに目を輝かせて見入る様子など本当に出会ったときと変わらずに――もワンピースの裾を押さえながら彼につられたように口元を緩めた。
 あちこちで宴会を営む人々の大声も、多すぎる人波もいつしか気にならなくなっていた。晴天の中で見る桜は、やはり並はずれて美しいものだ。普段から散歩に出ては風景をスケッチ、という生活を送っているには人の少ない穴場をキャッチできる能力が鍛えられているのか、ほぼ奇跡に近いほどの確率で静かな場所に行き当たり「あ」と声をあげた。
「あそこで少し休憩しない?」
「あ……すごい、先輩。よく見つけましたね。でも……俺はいいですけど、先輩、ワンピースだし服が汚れちゃいますよ」
「大丈夫、レジャーシート持ってるから」
 たいていはどこでもスケッチできる用に持ち歩いているのだと説明すると、鳳はぽかんとしつつ「さすが、ですね」と感心か呆れか分からないような声で呟いた。
 の持ち歩いているシートは一人用であるため、手狭ではあったものの青い芝生にシートを敷いて二人して腰を下ろしようやく落ち着いて満開の桜を見上げる。そうしてさっそくスケッチブックを取り出そうとしたに先駆けて「実は」と鳳が携えていたカバンを開いた。
「俺も常に持ち歩いてるんです。スケッチブック」
「え……!?」
「俺、気に入った風景って写真に撮るより描いて残す方が好きで……。小さいスケッチブックですけど、これと水彩色鉛筆は手放せないんですよ」
「そう……なんだ」
「先輩もいつも大きなスケッチブック抱えてますよね。俺、いつも――」
 いつも、何だと続けたかったのだろうか。そこで鳳ははっとしたように言葉を止めて「い、いえ」と言葉を濁してしまった。少しだけ頬に赤みが差して見えたのは思い違いだろうか。だがはさして気にすることもなく、緩く笑った。
「なんだか嬉しい。ちょっとテニス部に嫉妬しちゃうな、鳳くんみたいな後輩がいたら……きっともっと楽しかったのに」
 としては純粋に感じたことだったが、しかしその一言は鳳にとっては予想外だったのか心外だったのか、明らかに落胆の色を顔に広げた。その反応には少々たじろいでしまう。
「あ、ごめんなさい。気に障ること言っちゃったかな」
「――いえ、違うんです。でも……後輩、かぁ……」
「え? う、うん……そう、だよね?」
「そう、ですよね。すみません、ほんと何でもないんです。忘れてください」
 そこまで言うと鳳はクシャ、と表情を崩してからまた元のように笑い、取りあえずもほっと息を吐いた。そうしてしばし二人でスケッチに勤しむ。時おり二人で、どの桜がどのように綺麗か言い合い、およそ宍戸が聞いていたら「いい加減恥ずかしい表現はヤメロ!」と怒鳴り声の一つもあげるところだが二人にとってはごく自然な会話で、随分と長い時間その場に留まってどれほど経っただろう。
「明日から新学期だね。氷帝に入ってもう二年かぁ……あっという間だったな」
「ホントですね。俺は幼稚舎から氷帝だから、中等部に入って劇的に何か変わったことはなかったですけど……もうすぐ新入生が入ってきてテニス部も賑やかになると思うと、ちょっと緊張しちゃうな」
「そっか。運動部はすぐ中体連の公式戦が始まるから、これから夏まで忙しいよね」
「そうなんです、実は俺――」
 そんなやりとりの後、鳳は何かにはっとしたように言葉を止め、は首を傾げた。
「実は……、なに?」
「あ、いえ。その……、何でもないです。また今度、話します」
 やけにはにかむような表情を見せた鳳に、実はとても話したいことなのでは、と感じただったが当の本人がこう言うものだから深く追及せずに「そっか」と頷いてその話は打ち止めた。
 その後――、出来上がった鳳の絵を見て、は一瞬だけ絶句したのちになんとか良い表現をと懸命に考え、「ピ、ピカソの再来かもしれない!」と強く心の中で思ったという。



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