ドイツも三日目の昼過ぎ、シルン美術館の見学を終えた氷帝学園生一行はバスにてフランクフルトを出発し、南部のバイエルン州へ向かった。俗に「ロマンティック街道」と呼ばれる観光ロードを目指すわけだが、ひとたび平行に並ぶ高速に乗ってしまえば平坦な風景が続くのみで、生徒達は連日の疲れと昼下がりも相まって居眠りを決め込むものが多数いた。
 時おり見える葡萄畑はいままさに収穫の時期を終えたばかりであり、今ごろはワインの製造に精を出しているのだろうが、生憎と中学生の彼らにはその昂揚を理解しろというほうが無理な相談だ。ヨーロッパらしいその光景に盛り上がっていたのはもっぱらガイドと教師陣である。
 そうして十分な昼寝も取り、ロマンティック街道で1、2を争う観光名所であるローテンブルクに到着する頃にはほぼ全員がすっかり目覚め、目を凝らして窓の外を見やっていた。中世の面影が色濃く残るこの街は、差し込む西日のオレンジと相まっていっそうメルヘンチックな雰囲気を醸し出している。ガイド曰く「この時間にオレンジの屋根が見える塔の上から見た景色は、もっと素晴らしい」らしいが生徒達の目にはいまの風景でも十分すぎるほどに素晴らしかった。はもちろん、宍戸でさえあまりに非日常的な光景に息を呑んで窓を見やっている。
「フランクフルトと全然ちがうね……」
「そう、だな」
 差し込む西日、染まるプラタナスの木々、道さえも全て石畳が続いて非日常さをいっそう醸し出しており――秋の夕暮れは寂しさというよりはむしろ豊かさを見るものに感じさせた。
「バスの中にいるのがもったいないなぁ。なんだか……黄金の秋、って言葉がぴったりだね。プラタナスの葉が太陽の光で輝いているみたいに見える」
 また恥ずかしいことを、と宍戸はなんとか言葉をかみ殺して眉を寄せた。の横顔は感動に打ち震えていて、いまにも飛び出して街を歩いてみたい昂揚が痛いほど伝わってくるため水を差すのも不粋な気がしたのだ。
「フランクフルトもいいもんだと思ったが……、こっちはこっちで、すげぇな」
 それにしても、同じ国でこうも印象が違うとは。フランクフルトはまだ日本人にとっても馴染みのある雰囲気だったが、ここは完全に別世界である。みなで惜しむように流れる景色を見つめ、しかしながら日程の都合上ここで時間は取れないため、ぐるりとゆっくり市街地をバスにて回るだけに留めてバスはロマンティック街道の終着点であるフュッセンを目指した。
 目的地に到着した頃にはもはや闇の帳は降りきっており、長時間の移動の疲労もあって生徒達はホテル到着後に夕食をとりそのまま解散となった。
「明日の夕方にはミュンヘンに移動して、明々後日にはもう帰国かー。あーあ、帰りたくないなぁ」
 ルームメイトであるクラスメイトの呟きに相づちを打ちつつ、もう旅行も折り返し地点か、とも淋しく思った。5泊7日という限られた日程で、ドイツ横断などというギチギチスケジュールではなく比較的ゆっくりと観光の時間も取ってもらえたのは旅程のひな形を作った跡部なりの配慮なのか。それともベルリンなど他の地へ行ってみたければ自力でまた来いという無言のメッセージなのか。5年後、10年後の自分ははたしてどこにいるのだろう? などと思いを巡らせつつ、はベッドに入ってそっと瞳を閉じた。
 翌朝、朝食を済ませた生徒達はすぐにバスに乗り込み、本日の目的であり修学旅行最大の目玉である「ノイシュバンシュタイン城」を目指した。ほぼ丸一日ノイシュバンシュタイン城界隈の散策に時間が取ってあり、修学旅行のしおりには「跡部生徒会長おすすめのスポット」とわざわざ記してあった。そのせいもあって胸を高鳴らせるものと、若干引き気味になっている者にみごと二分されたことは言うまでもないだろう。
「跡部のオススメかよ……」
 どちらかというと引いていた側の人間、宍戸はバスに着席するや否やしおりをめくって頬を引きつらせていた。
「でも有名なお城だよ。……って言っても、世界遺産とかじゃないんだけど」
「そうなのか?」
 宍戸とがそんなやりとりをしているとバスは出発し、ノイシュバンシュタイン城までの道のりの間、ガイドからの解説が入ってくる。
「皆さま、本日見学するノイシュバンシュタイン城は、まだこのバイエルン州がバイエルン王国であったころ、当時この国を治めていたルートヴィヒ二世によって建設されました。”狂王”の異名で知られるルートヴィヒ二世は、ロマンチシズムな世界に傾倒し、特に作曲家のワーグナーを崇拝した王は彼を庇護・多大な援助を行ってワーグナーの作る音楽の世界を現実にするために作られた究極の理想がノイシュバンシュタイン城と言われています」
 王がこの城を建設するために多額の資金を投入して国は傾き、国民は貧困に喘いだこと。それは紛れもない事実である。とはいえ、いまとなってはロマンティックの権化であるような城は多数のおとぎ話のモデルにもされ、観光資源という形で時を経てバイエルン州に貢献している。とガイドは続け、聞いていた宍戸はさらに頬を引きつらせた。
「なんつー悪趣味……とんだバカ王じゃねぇか。これだから金持ちは……」
 呟いた先に目的地が近づいてくる。まだうっすらと朝霧の晴れない森が渓谷の先に見え、まるで幻想の世界のような白亜の城が遠目に現れて――悪態を吐いていた宍戸でさえも一瞬喉を詰まらせた。まるでファンタジーのような世界がいきなりポンと現れたのだ。まさにこれこそがルートヴィヒ二世の狙い、かどうかは定かではないが浮世ばなれしていることは確かだ。しかし近づいてくるバイエルンの自然が持つ美しさは本物であり、宍戸の隣では少しだけ頬を緩ませた。
 本日は、まずノイシュバンシュタイン城のすぐ手前にあるマリエン橋を見学してから徒歩で城を目指し、城を見学ののちに森を散策しつつ麓まで戻るというコースを取ることになっている。城の内部見学に加えて散策にも十分な時間を与えたいという目的どおり、基本はクラス単位での移動となるが各自責任をもって自由に移動することが認められた。ただし、単独行動は許されていない。
 「出発するぞー」という担任のかけ声むなしく、テレビや写真でよく取り上げられる「マリエン橋から望むノイシュバンシュタイン城」の風景をカメラに収めようと生徒達はデジカメのシャッターを切るのにひと騒動。橋を渡ろうものなら、下の渓流を見やって悲鳴やうめき声の大合唱となりまたひと騒動。なかなか計画通りには進まないものだ。
「わぁ、綺麗だね」
 も例に漏れず、橋を渡りながら眼下に広がる渓流の美しさに溜め息を漏らした。としては、城よりも自然の方が興味をひかれたのだ。
「おい、こんな所でスケッチブック広げるんじゃねぇぞ!」
「あ……、宍戸くん、もしかして怖い?」
「なっ……!? ア、アホ! そ、そんなわけねぇだろッ!?」
 ふふ、とが宍戸に微笑み返しているとふいに前方からひときわ興奮気味の声が響いてくる。
「うひょー、たまんねぇッ! こっから跳んでみたいぜ!」
 それに宍戸はぎょっと声の主を振り返った。すると、あろうことか橋の上でぴょんぴょん飛び跳ねている人影が映り宍戸は尚さらギョッとして声を荒げた。
「なっ、なにやってんだてめぇ! おいこら岳人! 危ねぇだろうが!」
 宍戸が怒鳴った先にいたのは、きれいに切りそろえられたおかっぱ頭が印象的な小柄な少年だった。先日、が「デッサンの手本になる」と誉めていたテニス部の向日である。
「なんだよ、宍戸。いいじゃん別に。ぜってー気持ちいいって! ほれ見てみそ、この高さ!」
「うるせぇ! つか、一人でなにやってんだよ! もうお前のクラスは先行っちまったぜ?」
「げっ……マジだ。置いてかれた」
「迷子になるんじゃねぇぞ、アホ!」
「うるせぇ!」
 そんなやりとりののち、向日は自身のクラスに合流すべくまるで羽が生えたように走り去っていってしまい、はぁ、と宍戸は溜め息を吐いた。
「ったく、世話のやける」
「向日くん、だよね。同じテニス部だし、仲がいいんだね」
「ああ、アイツは別だ。幼なじみの腐れ縁ってヤツでよ、幼稚舎に入る前からの付き合いだ。家も近所だしな」
「へぇ……」
「ジローも含めてガキの頃からの付き合いなんだが……あいつはもっと世話の焼けるヤツでよ。岳人なんか家が隣同士だからしょっちゅう面倒みてるんだぜ」
「ジロー? えっと……テニス部、だっけ」
「芥川慈郎。知らねぇのか? 正レギュラー、だぞ」
 若干語尾を消え入るような声で言った宍戸をよそに「うーん」とは唸った。
「ごめんなさい。向日くんは知ってるんだけど……、テニス部なら練習何度も見てるから見覚えあるはずなんだけどなぁ」
「あ、いやアイツは……」
 宍戸が言い淀んだ所で「でも」とは笑った。
「凄いんだね、正レギュラーなんて。幼なじみ同士でみんなテニス上手いなんて、素敵ね」
「ま……、ジローは俺や岳人より天性のモンがあるからな」
 若干複雑そうな表情で宍戸は言いつつ「あ」と何かを思いだしたように瞬きをする。
「天性といや、アイツだ。鳳長太郎。前にお前、鳳のこと聞いてきたよな?」
「え? うん……」
「あいつ、最近の伸びハンパねぇぞ。身体もでかくなったしよ、一年じゃいま一番の有望株だぜ」
「へぇ……そう、なんだ。鳳くんが」
 なにげなく相づちを打ったは、ふと、修学旅行に出る前に会った鳳の姿を思い浮かべた。確かに、出会ったのはほんの半年ほど前だというのに、その頃に比べてかなり急速な勢いで身長が伸びたとは思う。ただ、中身は相変わらずの鳳である。ウィーンに留学するほどピアノに傾倒しているかと思えば、あのテニス部にあって一番の有望株だという。
『先輩はどうして、人物画を描かないんですか……?』
『ピアニストか……考えたことがないわけではないんですけど、俺はたぶん、ピアノで他人と競うことには向いてないんだと思います』
『テニスならスポーツだから別ですけど』
 えへへ、とはにかむ鳳の姿が頭に過ぎってしまっては小さく溜め息を吐いた。分からない、という思いからだ。見渡せば凛とした冷たい空気の中に渓流の音が心地よく耳に響き、木々は見る者の目を癒してくれるような雰囲気を纏っている。――この風景のみを描いてなにが悪いというのだろう? 先ほどの宍戸ではないが、もしもここで”狂王”ルートヴィヒ二世を同じキャンバスに入れてしまった日には周りの木々でさえおどろおどろしいものとなってしまうだろう。いや、考えるのはよそう、とは思考を振り払った。城への入り口はもう目の前だ。
 城内はルートヴィヒ二世の愛したワーグナーの歌劇をモチーフにした絵画が至る所に飾られ、ルートヴィヒ二世同様にワーグナーを愛する者、そうでなくとも、童話の世界に浸りたい者にとっては感涙の極みなのかもしれない。が、それ以外の者はどこに着目すればいいのか迷うのは無理からぬことであり――、腹減ったな、などと眼前の夢の城よりも食べ物に思いを馳せる宍戸にしてもどこにどう目をつけていいか皆目検討もつかない。
「なんつーか、あんまよく分かんねぇ。……なになに、跡部からのワンポイントアドバイス、だぁ? "城内にはローエングリン、タンホイザーなどの世界を描いた素晴らしい絵画が並んでいる。お前ら、脳の奥までしっかりと刻み込んでこい"? ハァ? 意味わかんねぇ!」
 しおりに目線を落とした宍戸は長い髪を掻きむしって地団駄を踏んだ。城の中は宍戸の目から見ても明らかに統一性のない作りになっており、なるほど「王の夢」の城だと言われてもそうなのだと納得せざるをえない。再度「悪趣味な王だ」と感じた宍戸だったが、裏腹にメルヘンチックなものに弱い女生徒達のハートを掴むにはバッチリ成功したらしく、至る所から聞こえてくる黄色い歓声を耳に入れながら、つくづく相方がで良かった、と肩を竦めた。
 そうして最上階に進むと、そこには王がもっとも心を砕いていたと思しき「歌人の間」が絢爛と広がっていた。
「この部屋こそ王が完成を心待ちにしていたらしいんだけど……、結局、ここで舞台を観ることなく亡くなったんだよね」
「そうなのか?」
 ノイシュヴァンシュタイン城の向かいには、王の住んでいたホーエンシュバンガウ城がある。ここから見下ろすホーエンシュバンガウ城の光景は、ノイシュヴァンシュタイン城では感じられない確かな現実味があり、一通り見学を終えた二人は、バルコニーに出て風景を見やっていた。
「ホーエンシュバンガウ城から、王は自分の夢のお城の完成を待ちわびてこっちを見てたんだろうね」
「けど……俺は一般庶民だからな。なんつーか、当時の国民に同情しちまうけどな」
「まぁ……ルートヴィヒ二世に限らず、国民の生活とかお金の使い方とか知らない人っていっぱいいたみたいだしね。知ってたら違ってたのかもしれないけど……っていうのも今だから言える話かもしれないし」
「うーん、よく分かんねぇ」
 そうだね、とは苦笑いを浮かべて再び人の波に身を任せた。それほど寄り道もしていないため、視界にはクラスメイト達の姿が確認できる。このまま城外へ出て、散策しつつ森を下れば今日のイベントは無事こなし終えたこととなる。
 いずれにせよ城外のほうが人混みも緩和され、にしても周辺の森を少しばかりスケッチしていきたいと考えていたので外へ出て二人してリラックスしながら休息を取っていたのだが――予想外の展開となってしまったのは、それから数十分ほど経ったころだった。
「あ、いたいた! おーい、宍戸!!」
 慌てたような大きな声で宍戸を呼んだのは、違うクラスの向日岳人である。呼び声に振り返って、宍戸はコメカミをヒクつかせた。
「岳人! お前、また単独行動しやがって――」
「それどころじゃねぇんだって! お前、ジロー見なかったか?」
「ジロー? いや、見てねぇけど」
 肩で息をしていた向日は宍戸の返答を聞いて「やっぱりか」とガックリ肩を落とした。
「どうしたんだよ?」
「それが、あいつまた迷子になったらしくて……。あいつのクラス、もう城外に出たはずなのに見あたらないんだとよ」
「ハァ!? マジかよ、ったく激ダサだぜ相変わらず。で、どうすんだよ?」
「取りあえず跡部が城の出口まで来いっつって全員に集合かけてんだけどさ」
「チッ、俺たちはジローお抱えの捜索隊じゃねーっつの」
 向日の話によれば行方不明の芥川を捜索するためにテニス部は全員集まるよう跡部からの指示を受けた、ということだった。そばで話を聞いていたとしてはオロオロする他はない。
「だ、大丈夫かな……。どうしよう。宍戸くん、私は大丈夫だから……」
「アホ! 置いてけるわけねぇだろ、行くぞ!」
 暗に自分に気にせず向日と行ってくれと言ったを一蹴して、宍戸はを伴い向日と共に元来た道を戻って城の出口へと急いだ。着くと既に大部分のテニス部員が集まっていて、跡部がなにやら係員と話し込んでいる。
 跡部はドイツ語が堪能であるため、直に友人が迷子ゆえに捜索するため中へ戻してくれ、と交渉しているとのことだった。係員からすれば、英語すらおぼつかないような中学生が自国の言語で話してくれているのだから感動もひとしおだったのだろう。加えて日本ほど融通が利かないということもなく――跡部の交渉は成功したのか、テニス部員たちは無事に城内へと戻れることとなった。
「いいかお前ら。あくまでここは公共の施設だ。騒ぐ、走るはナシだぜ。分かったな?」
 集合したテニス部員たちに跡部が指示を出し、部員達は散り散りに芥川探索へと繰り出した。しかしながら部外者のは居づらそうにしている他はなく、そんなを知ってか知らずかすっと宍戸が跡部の方に進み出る。
「跡部、こいつのこと頼んだぜ」
「アン? どういう意味だ?」
「お前、どうせ自分で探す気ねぇだろ? 俺もジロー探しにこいつを付き合わせるわけにもいかねぇし。いいか、ぜったい目を離すんじゃねぇぞ」
「えっ、ちょ、宍戸くん――ッ!」
 言うが早いか、の反論も待たず「じゃあな」と宍戸は足早に人の波を逆行して行ってしまった。残されたは、もはやあまりの展開に顔面蒼白になるしかない。
「……イ、オイ!」
 跡部の呼びかけにすらしばらく気づかない程に放心していたは、何度目の問いかけか分からない声にはっと意識を戻した。
「な、……なに?」
「と、いうわけだ。仕方ねぇから俺様がエスコートしてやるぜ、ありがたく思いな」
 見上げると跡部は、フ、と不敵に口の端を吊り上げており、はしばし硬直したのちに諦めの溜め息を吐いた。幸い、ほとんどの生徒達は既に城外に出てしまっている。ならば跡部と共にいても変な噂を立てられることもないだろう。
「ま、とにかくもう少しマシな場所へ移動するぞ」
「う、うん……」
 歩きながら、は跡部から芥川の持つ伝説について色々と聞かされることとなった。なんでも並はずれた睡眠時間を要するらしく、どこでもここでも眠りこけ、集合時間や出発時間に遅れてはひと騒動起こすのが日常茶飯事ということだった。うわぁ、ととしては若干引いてしまったものの、テニス部員は慣れているのだろう。跡部にしても極めていつものこととして処理しており、極めつけに「ま、ここだと隠れんぼのし甲斐もあるだろうよ」などと言い出す始末だ。
 そうこうしているうちに、カフェや売店が併設してあるエリアに着き、二人はバルコニーに出て外界の様子を見やった。
 眼下に望むホーエンシュバンガウ城の後ろには雄大なアルプスがそびえ立ち、湖さえ湛えたこの光景はまさに絶景と言っていいだろう。残念だったのは先ほどよりも雲が厚くなり、どんよりと薄暗いことだったが、それでも美しいものは美しい。いやむしろ、匂い立つような美しさはいっそう増している。
 この際、跡部を無視してスケッチと決め込んでみようか。と考えただったが、今も芥川を捜索しているだろう宍戸達のことを思うとさすがに手控え、生まれるのは溜め息のみだ。
「なんの溜め息だ? この絶景を前にして気が晴れねぇってのか?」
 対する跡部はひどく満悦気味にこの場所からの眺めを見下ろしている。そういえば、とは今日のノイシュヴァンシュタイン城見学が跡部オススメだったことを思い出した。
「跡部くんは……、ここが好き?」
「どういう意味だ?」
「別に……。ただ、世界のお城の中でもちょっと特殊でしょ、ノイシュヴァンシュタイン城って」
「特殊もなにも、素晴らしいじゃねぇか。ここにいると……俺様の脳にはワーグナーの旋律が響いてくるぜ」
「あ……、そっか。そうなんだね」
 まさに跡部その人がワーグナー好きだったのか、とはひどく納得した。それ以上口を開くことはせず、再び外の景色に目をやる。やはり、ここから見える景色だけは幻想でもおとぎ話でもなく、本物なのだ。だから移ろうのか――、とついにぽつり、ぽつりと落ち始めた雨には少々眉を寄せた。無意識にクセのある髪に手をやって、しばし靄がかってきた景色を見つつ、そっと雨音を拾うように目を閉じてみる。
「なにしてんだ?」
 長らく目を閉じていたせいだろうか。跡部から疑問を寄せる声があがって、はそっと目を開いた。
「今日なら、もしかしたら分かるかもって思ったんだけど……」
「は……?」
「雨の音が奏でるカノン。でも……やっぱり私には分からないな」
 アン? と跡部は首を捻り、は少しだけ眉尻をさげた。彼は、鳳は――もしもここにいたらどのような感想を抱いたのだろう? と考えていると、くく、と跡部が低く笑う。
「成る程な、雨音がカノンねぇ。なかなか詩的じゃねぇの、アーン?」 
 しかし跡部のその発言ではっとしては少し頬を染めた。それを言ったのは跡部の後輩なのだが、とは続けず小さく肩を竦めてみせる。そしてしばしの沈黙ののち、「例えば……」とは小さく声を漏らした。
「ルートヴィヒ二世が賢王だったら、このお城ってなかったんだよね。だけどその方が……良かったのかな」
「アン、なに言ってやがる。あのルートヴィヒ二世あってこそ、だろうが。じゃねぇとワーグナーは貧困に喘ぎ、結果数々の名作は歴史の中で消え失せてしまったかもしれねぇ。それだと俺様が困るじゃねぇか」
「そ……、そうだね」
 もしも、の話をすればキリがないが、例え歴史を作り替えることが出来たとしても跡部ならば数多の犠牲を惜しむことなく今を選んでしまうのだろう。しかし、その一方で逆を選択する人間だっているのだろうな、とは再び雨の奏でるカノンに耳を澄ませた。繰り返される旋律が、時間の巡りを思わせる。そう、まるで輪廻のように――と考え込んでしまった自身に苦笑いしつつ、はこの幻想の城からの風景を瞳に焼き付けた。
 その後、1時間ほどしてようやく見つかった芥川はなんと「鍾乳洞の間」の隅で眠りこけていたらしく――いくら慣れている事とはいえ、テニス部全員が脱力していたことは言うまでもない。



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