――10月某日。
 氷帝学園二学年の生徒達は成田空港に集っていた。しかし今回は全日程私服での移動となるため、彼らが氷帝学園の生徒か否かは一見すると分からない。ドイツと日本の気候の違いを考慮して生徒には男女問わずダウンコートなどの厚手の上着の着用、スカート不可のズボンのみと義務づけられていたが、まだ日本はコートを羽織るには暑く大半の生徒は脱いでいた。
「てめーら! この俺様自ら完璧な旅程を組んでやったんだ。存分に楽しみな!」
 全員集合ののち、最後の一言を生徒会長の跡部が言い放ち、まずは成田−フランクフルト便に搭乗する生徒達がチェックインを済ませて出国審査へと移る。この辺りはさすがに海外に出ることに慣れた生徒が多いため、滞りなく搭乗までこぎ着けた。
 行き先はドイツの大都市ゆえに日系のキャリアも直行便を持っていたが、行き帰りともに今回はルフトハンザを使うこととなった。ドイツのフラッグキャリアで欧州最大手の航空会社でもあり、外装も内装もドイツ国旗の色をあしらった山吹色がやけに目に付く、堅実さと華を兼ね備えたドイツらしいキャリアである。
 は右ウイング付近の三列のうち通路側の席になり、手荷物を仕舞うと腰をおろした。さすがに機内まで宍戸と一緒ということはなく、クラスメイトの女生徒が隣である。搭乗者のほぼ全員が氷帝学園の生徒および教師その他関係者だったが、むろん他の客も少数ではあるものの搭乗している。しかしながら中学生だらけの機内はいつもよりも騒がしいのは仕方のないことなのか、離陸を目前に機内は独特の高揚感に包まれていた。
 ふと、の隣の女子が「あ」と小さく言った。
「ねえ、跡部君ってビジネスに座ってるらしいね」
 知ってた? とふられては首を振るう。
「そうなの?」
「いいなー。長距離線の何がイヤかってエコノミーに座りっぱなしの所だもの。ビジネスだったら寝て食べて映画見てハイ到着なんだから」
「そ、そうなんだ」
「さすが跡部君だよねー」
 彼女はとくに跡部に対する妬みはなく、むしろ好意を混ぜながらそう言っては相づちを打つに留めた。確かに、長距離便の辛さは狭いエコノミーに半日ほど座っていなければならないところだ。各自、時間のつぶし方は自分で見つけなければならない。
 そうこうしているうちに飛行機は成田を飛び立ち、達は機上の人と相成った。
「くっそー、跡部のヤツ。なにが"俺様が貨物まがいのエコノミーに乗れるわけねぇだろ?" だ。ふざけやがって」
 悪態をついたのは宍戸だ。ちょうど離陸から7時間ほど経ち、機内食も食べ終わって小腹も空いたうえにエコノミーの狭さに耐えかね身体が苦痛を訴えるのと戦っている頃合いだった。
「まあ、いつものことじゃん」
「もういい加減、諦めろよ宍戸」
 両隣のクラスメイトに窘められて、宍戸は露骨に顔を歪ませた。
「激ダサだな、お前ら。あいつがこんなに氷帝学園を変えちまったってのに、悔しくねぇのか? 幼稚舎の頃はこんなんじゃなかっただろーが!」
「便利になったんだしいいんじゃね? そりゃアイツはむかつくけど、俺は普段関わらないから害ないしな」
「イヤでも毎日顔合わせなきゃならねぇ俺の身になれよ!」
「つったって、跡部財閥の恩恵を一番受けてるのってテニス部じゃね?」
 う、と宍戸は友人らの言葉に声を詰まらせた。確かに跡部本人が所属しているだけあってテニス部の施設等々の充実ぶりは群を抜いている。特にレギュラーともあらば他の生徒が知れば目を丸めるに違いない待遇を受けており、準レギュラーとはいえ宍戸もその恩恵に預かっているのは否定はできない。
「俺は望んで跡部と同じ部活に入ったんじゃねぇっつーの。知ってんだろ? 俺やジロー達が昔からテニスやってたのをよ」
「でもジローは跡部とうまくやってんじゃん。正レギュラーなんだろあいつ」
「う……、いや、まあ」
「お前、まず跡部に勝つより寝てばっかのジローに勝てよ。話はそれからじゃね?」
 本当に幼なじみというものは言いたいことをポンポンポンポン言ってくれるものだ。宍戸はぐうの音も出ないほどに言い負かされてムスッとしたまま黙り込んだ。おまけにこの手の会話を続けようものなら「跡部様を悪く言ってんじゃないわよ、バカ宍戸」などと女子からのクレームが飛んでくるため、そうそう好き勝手も言えない。全く、自分を怖がるくせに遠巻きで集団となれば平気で罵倒してくるのだから女というものは、とイライラを無駄に募らせて宍戸は居眠りを決め込んだ。
 ルフトハンザ機はほぼ定刻通りフランクフルト国際空港に降り立ち、生徒達は長い機内での時間に疲れの色を残すどころか、ほぼ全員が初めてとなるだろうドイツの地への高揚感ですこぶるハイテンションであり――教師陣他大人たちは機内疲れからか引率の緊張からか顔に陰りを落としていた。
 日本とドイツでは8時間の時差があるため、午前中に日本を発って半日の旅をしたというのにこちらはまだ昼過ぎだ。そのことがまた時間を超えたような錯覚に生徒たちを陥らせ――広大なフランクフルト空港ではしゃぎ回る彼らをまとめるのにさぞ教師陣は苦労したに違いない。どうにか各クラス、チャーターしていたバスに乗せたら乗せたで大騒ぎだ。
「おい、見ろよあの駅! ハイジで見たぞハイジで!」
「すっげー、フランクフルト中央駅! 本物だー!」
 行き交う人々、街並み、すべてが日本と違っており興奮するなという方が無理な相談なのだろう。そうしてマイン川沿いをバスは走り、何だかんだでホテルに着いて各自割り当てられた部屋で落ち着く頃には陽は既に落ちていた。
 冬が近いこの時期の欧州は日本よりも早く陽が落ち、そして一気に気温が下がる。そんな時季、ましてや中学生に個々の外出許可など出るはずもなく――ホテルでの夕食ののち、ホテル内という制限付きで自由時間となった。
 の割り振られた部屋は珍しくトリプルルームで広々としており、これもまた修学旅行の常だろうか。女の子三人というシチュエーションゆえか、当然のように恋愛話に花が咲くこととなっていた。主にサッカー部、野球部などの運動部に所属するどの男子が好みか、が中心らしく当然のようにテニス部の話題へと移行していく。
「やっぱり跡部様よねー」
「えー、私は跡部君はちょっとなぁ……、生徒会でだって全然雑用やらなくて他の人すごく大変みたいだし。その点、同じテニス部でも忍足君なんか落ち着いてて知的、って感じだけど」
「忍足君もカッコイイけどー、なんかちょっと暗そうなのよねー」
 主に以外の二人が話しており、は話を耳に入れつつも内容は頭に入ってこないままスケッチブックを広げてバスの中から見えたマイン川沿いの風景を描いていた。
「ねえ、ちゃんはどう思う?」
「え……?」
「テニス部!」
「テニス部……?」
「誰がいい?」
 急に話をふられてはスケッチブックから顔をあげた。返事に窮していると一人が「ああ」と納得したように笑う。
ちゃんは宍戸君だよね」
「あ、そっか。そうだよねー宍戸君」
「え、えっと……んー」
 矢継ぎ早に言われては眉を捻った。いったい話題の主旨は何なんだ。テニス部で誰がいいという質問だったか。それなら――とスケッチしていた心情のまま思ったことを口にする。
「向日くんかな。うん、向日くんがいい」
 そう口走ったものだから、二人は顔を見合わせて「ええ!?」と声をあげた。
ちゃん、向日君が好きだったの!? 宍戸君は?」
「え、と……好きっていうか。向日くんはよく描いてるから、そういう意味ではテニス部で一番だよ」
 ほら、とは瞬きする間もないかと疑うほどの速さでスケッチブックにいま口にした「向日」を描いてみせた。彼は器械体操部と見まごうほどの身体能力でアクロバティックなプレーを得意としており、デッサンを鍛えるにはもってこいの人材なのだ。よってテニス部の練習をスケッチしに行った際にはは自然と向日を参考にさせてもらっていた。ただ、彼の人となりを知っているかというとそうではなく、顔見知り程度だ。
 出来上がった絵を見て二人は感嘆の息を漏らしたのち、肩を落とした。
「――って、違うし!」
「テニス部の、誰が、好きかって話だよ。ぶっちゃけ付き合いたいとかそういうの」
「あ、……そっか。――え!? ちょ、ちょっと待って、宍戸くんとは全然そういうのじゃないよ」
「でも仲良さそうじゃん」
「まあ、よく話すほうだけど……」
「跡部君とか忍足君とか、興味ないの?」
 問われてはなお返事に窮した。跡部は正直なところ苦手であるし、忍足に至っては顔と名前が一致しない。とは言い出せず――「うーん」と唸って誤魔化してみる。
ちゃんって好きな人いないの?」
「跡部様と結婚して玉の輿乗りたい! とかって願望は?」
 の唸りはなおのこと深くなった。この、絵ばかり描いている生活のどこに恋愛する時間があるというのだろう? 好きな人、か。考えたこともなかった。というかテニス部は一体にしてどれだけ女生徒から注目を集めているのだ、とひとごとのように感心してしまった。と同時に跡部と話している時の女子からの視線の痛さも思い出して一人頬を引きつらせる。――もしも跡部に彼女などがいた日には氷帝がひっくり返るのではないか、とさえ思ってしまう。
「テニス部かぁ……」
 ふと一人、の頭に過ぎった人物がいた。思えば彼もそうなのだ――、と過ぎったのは鳳長太郎だ。もしや彼もあれで一年生の間では女生徒に騒がれている存在なのか、それとも。過ぎた影を追うことなく、はすぐに振り払った。
 時差ボケによる疲れなど若い身体には無縁なのか、ガールズトークは夜更けまで続き――達の部屋の電気が消えた時にはすでに日付変更が迫っていた。
 翌朝、朝食はバイキング方式であり会場となっている広間には多数の氷帝生でごった返していた。バイキングとはいえ、並ぶ料理はやはりドイツのそれらしいものばかりで、日本では見慣れないものが並んでいる。特に特徴的なのはライ麦を使った黒めのパンが見たこともないほどの種類で並んでいたことと、チーズの種類の豊富さだ。チーズなどはゴロリとした固まりを好きにカットして取れるようにセッティングしてあり、その前で熱心に目を輝かせながらカッティングしていたのは宍戸である。
「し、宍戸くん……すごい量だね」
 そばにいたが思わず声を漏らしてしまうほどに宍戸の皿の上はチーズがこんもりと盛られていた。
「だってよ、見ろよこれ! このでけーカマンベールっぽいのの固まり! 日本じゃこんなのありつけねぇよ」
「そ、そうだね」
 あえて宍戸がいまカットしているのがカマンベールではなくブリーチーズであることはは口にしない。チーズはクセのあるものも多いというのに、勇気があるものだ。などと横目で見つつ自身もチーズを取ろうとチーズ山を一望すると、とあるチーズが目についてはそっと手を伸ばした。
「あ、モンドールだ」
 スプーンで掬えるようになっているウォッシュタイプのチーズだ。試しに掬ってみるとウォッシュタイプチーズ独特の強烈な臭気はなく、やはりそうだと確信して皿の上に少し乗せてみる。
「ほう、モンドールじゃねぇの」
 すると後ろからあまり得意ではない声色が響いて、の手がぴくりと撓った。
「跡部!」
「あ、跡部くん。……おはよう」
 先に声を出したのは宍戸だった。次いでも振り返ると、フ、と相変わらず跡部は尊大な笑みを顔に広げた。
「まさかモンドールを置いてるとは、庶民ホテルにしちゃなかなかやるじゃねぇか」
「なんだよ、それ?」
「言うなら冬季限定のウォッシュタイプチーズだ。名の通り、フランスのモンドール産のな」
「クセがなくて美味しいよね。他のウォッシュタイプは、私はダメだったりするんだけど」
「なんだ、ウォッシュタイプがダメとはまだまだ甘いな。ま、でもモンドールに目をつけた所は誉めてやるぜ?」
 たかだかチーズでこの言われよう。あまり絡まれないうちに退散しよう、とが思うより先に食いついたのは宍戸だった。
「マジかよ!? そんなに美味いチーズなのか? って、この皿じゃもう乗せらんねぇ」
「おい、宍戸。お前もうちょっと上品に盛れねぇのか? アーン?」
「うるせぇ跡部! 、それ俺にも味見させろ!」
「え……?」
「ほらこれ、一緒に持っていってどっか座っとけ。俺はパンを取ってくるからよ」
 言うが早いかチーズで山盛りとなった皿を渡され、宍戸は今度はパンを盛るべく去っていってしまった。残されたはあっけに取られたあと、溜め息を吐くしかない。言われたとおり、空いた席を見つけてどうにか着席した。少し経つと宍戸はこれまた大量のパンを携えて現れ、チーズサンドが好きな宍戸はチーズにもパンにも興味があるのだろう。その日の朝食はパンとチーズのテイスティングおよび解説に終始した。
「いやー、マジで美味かったよな!」
「そ、そうだね」
「あんだけ腹いっぱいチーズ食ったのって初めてだぜ! 俺は硬いチーズ一択だと思ってたんだが、モンドールとかいうやつも美味かったしよ」
 朝食からこっち宍戸はすこぶる上機嫌で、移動バスに着席してからでさえ名残惜しむように朝食の話題を口にしていた。少量をすくってパンに付け、食べるというモンドールの食べ方を宍戸は少々面倒がっていたが味の方はいたく気に入ったらしい。ともあれ、これも異文化に触れるという意味では修学旅行の目的の一つなのだろう。
「はい皆さん、各自しおりにもあるとおり、本日はいまからフランクフルト市内をバスで観光ののちレーマー広場で休憩。そこからは徒歩でゲーテハウスへと行きます。では本日もよろしくお願いします」
「よろしくお願いしまーす」
 担任と副担任の一言ののち、旅行会社から派遣されてきたガイドからの挨拶が済むと運転手達が無線で連絡を取り合い、合計7台にも及ぶ氷帝学園生徒を乗せた観光バスはホテルから出発した。
 フランクフルト・アム・マインはその名の通りマイン川沿いに発展した街であり、経済都市ということもあっておおよその欧州のイメージよりは東京やニューヨークに近い現代的な高層ビルの建ち並ぶ都市である。とは言え、乾いた空気の中で色付いたプラタナスや西洋風の建物は生徒達の目には新鮮であり、「見て見て!」「すっげー!」など感嘆の声は絶えることなく響いていた。も例に漏れず、感嘆の声を出しつつ指でフレームを絞って景色を吟味しながら目を輝かせていた。
「いいなぁ、もったいないなぁ……止まって描きたいなぁ」
 旧オペラ座、パウロ教会、ガイドの解説を耳に入れながらは流れていくだけの景色を名残惜しむように呟いた。中でもひときわ後を引いていたのは川沿いに建つ立派な建物を目にした時だ。
「あ、シュテーデル美術館! うわぁ本物! あー……入りたい」
 普段あまり声を強めないが興奮気味だったのが宍戸にはよほど珍しかったのだろう。諦めきれない様子のをうるさいとも言わずに慰めるように相づちを打った。
「ま、まあ、なんちゃら美術館には明日行く予定だろ」
「んー……、でも、こっちのほうがクラシカルだし……。ああ、モネが……」
 既に見えなくなったシュテーデル美術館を惜しむように振り返ったに宍戸は肩を竦めるしかない。によれば、明日の訪問予定に入っているシルン美術館よりもシュテーデル美術館の方が規模が小さいのだが、名画揃いらしく――さっぱり分からない宍戸としてはなんとなく相づちを打つしか術はない。本当にこれほど趣味も合わないというのによく友人をやっていられるものだ、と宍戸が苦笑いしている間にもバスは進み、昼が近づいたあたりでレーマー広場付近にて生徒達は降ろされた。
 古いヨーロッパの街並みの特徴として、広場を中心に放射線状に道が延びているということがまず挙げられる。対する日本は京都に代表されるように旧市街の作りは碁盤目が基本であるため、街作りにおける最大の違いと言ってもいいだろう。ともかく、フランクフルトにおける「中心の広場」がレーマー広場でありフランクフルト最大の観光要所でもあり、ひとたび広場に出れば周囲にぐるりと建ち並んだゴシック様式群の景観に圧倒されること請け合いだろう。生徒達も例に漏れず、みな一様に広場に出た途端歓声をあげ、周囲を一望し、そしてそれぞれに感想を興奮気味に口にしていた。
 ここからはひとクラス単位の行動になり、ひとクラスがゲーテハウスに出発したら時間差で他のクラスも出発し、またレーマー広場に戻ってくることになっていた。ひとえにゲーテハウスの混雑緩和のためである。各クラス、出発時間の5分前に集合ということが告げられ、レーマー広場周辺を出ないという制限付きではあるものの自由時間と相成った。
 達のクラスは出発まで一時間以上余裕がある。さっそくクラスメイト達は記念撮影をし始め、絵には及ばないものの写真も得意であるは撮影係を受け持っていた。
「お前、撮らねぇのか? まだなんだろ?」
 一頻り撮り終わり、最後に宍戸と数名の男子を撮ったところで宍戸にデジカメを返していると彼は何気なくにそう言った。
「んー……、大丈夫。ありがとう」
 撮ってやろうとしたのだろう。のデジカメを渡すよう手を伸ばした宍戸の申し出をは断って自身でレンズを覗く。撮られるよりは撮る方が好きなのだ。そんなを見て、ふ、と宍戸は息を吐いた。とはペアでもあるため互いに互いのそばを離れられないのだ。
「どうしよう。みんなに混ざる?」
「別に構わねぇよ。どうせお前、絵でも描きたいんだろ? 女と騒ぎまわるのも激ダサだしよ」
 宍戸としては男子だけで盛り上がれるならそれはそれで、なのだが必ず女生徒も一緒に行動しなければならないため、そうであるならばといた方がいいのだろう。どちらともなく歩き出し、やはりキョロキョロ辺りを見渡しては物珍しさにお互い弾んだ声で感想を言い合ってしまう。
「すげー、本場のビールだぜ! 父ちゃんが見たら涙モンだろうな」
「え……?」
「あ……い、いや。うちの親父、ビール党だからよ」
 家の中では父親のことを「父ちゃん」呼びしているのだろうか。はっとしたように言い直して宍戸は少し気恥ずかしそうにから視線をそらせた。見ると、ドイツといえばビール、という先入観から外れず至る所にあるレストランのオープンテラスで多数の人間がビールをジョッキ飲みしている。
「寒いのに凄いね」
 白人はなぜオープンテラスを好むのだろう? 日中とはいえ肌寒い中、テラス内にヒーターは出ているもののわざわざ外で水分を取っているのが不思議でならない。とは目を瞬かせた。どちらにせよ二人ともまだビールを楽しめる年齢でもなく、見るだけに留めるしかない。
 いずれにせよ、と宍戸では視点が違うのか物珍しい風景を手で作ったフレームで切り取り、およそ宍戸が思いつかないような構図で覗き込んでは「素敵!」と独り言のように呟き、ここはこうであれはどうというの解説を宍戸は耳に入れてはいたものの生返事を繰り返していた。
 そして少しだけ時間をくれと言ってがスケッチブックを広げ、宍戸はふと訪れた静寂に耳を凝らしてみた。耳に届く声は全て外国語で、宍戸にとっては雑音にしかならない。見渡す限り、男も女もさすがゲルマン人だけあって異様に背が高く、リアルにここが日本ではないことを意識してしまう。友人達と連んでバカ騒ぎしている最中には気づけないことだ。ふいに感じたのは恐れだったのだろうか? 視線をに戻すと、変わらず鉛筆をスケッチブックに走らせる姿があり、宍戸はほっと胸を撫で下ろした。と同時に宍戸の鼻は香ばしげなニオイをキャッチして、思わずごくりと喉を鳴らす。そういえばとっくに正午をまわっているのだ。空腹を感じないわけがない。しかも自由時間であるがゆえに昼食は各自好きにとっていいこととなっている。

「え……?」
「ドイツっつったらソーセージだろ。このニオイ、間違いねぇ!」
「え?」
「行ってみよーぜ!」
 言うが早いか宍戸はを急かし、も急ピッチで鉛筆を走らせるとスケッチブックを閉じて肩に提げていたバッグに仕舞った。
「お昼ご飯なら、どこかレストラン入ろうよ」
「アホ! 旅行の醍醐味は屋台だろ、ぜってースタンドで焼きフランクフルト食うっつーの!」
「え、フランクフルトって……」
 ここの地名なんだけど。と口から出そうになったはすんでの所で飲み込んだ。今朝あれほど大量のチーズとパンを食べたというのにもうお腹がすいたとはさすがに育ち盛りである。は歩き出した宍戸に小走りで並び、二人して「ニオイ」の方角を探った。その方向はレーマー広場の「広場」より路地に続いており、は少々躊躇う。
「し、宍戸くん」
「ちょっとくらい大丈夫だろ」
「うーん……」
 広場を中心に放射線状に伸びる道は、いったん別の路地に迷い込めば延々と中心部から外れていくという罠が潜んでいる。そこが何とも表現しがたい異国情緒を誘い、宍戸は食欲を、は見知らぬ風景への好奇心を抑えきれず――中心部より少々薄暗い路地に入ってみた。すると角を二つ曲がった所で宍戸の目論見どおり屋台が一軒立って客が数人おり、「うっし!」と宍戸はガッツポーズを決めた。しかしここで問題発生である。宍戸にしろにしろ、ドイツ語はさっぱりなのだ。
「お、お前……注文できるか?」
「え、ええ!? え、英語なら……なんとか。と、取りあえず挨拶だよ」
「そ、そうだな」
 目当ての屋台を前にして少々尻込みしたものの、二人して少々顔を引きつらせつつ一人で屋台を切り盛りしているらしき年輩の男性の前へ行けば思いっきり目が合ってしまった。
「ハ、ハロー!」
「グ……グーテンターク」
 出来うる限り現地語を話すべきと思っているが挨拶だけでもとドイツ語で言ってみると、店主は笑いながら「グーテンターク!」と返事をくれた。
「お、おい! 通じたらしいぞ!」
「う……うん」
 おっかなびっくりではあったものの、宍戸は言葉の壁よりも大きなフライパンで焼かれているソーセージへの興味をうち砕く方が難しいらしく、目を輝かせてまさに音を立ててグリルされ食べ頃となっているソーセージを見やった。
「うまそー! しかも1ユーロって書いてあるぜ! おい、お前も食うだろ?」
 ふられては一瞬考え込んだものの、返答を待たずに宍戸はの分も頼むと決めたのだろう。思い切りピースサインをして店主を見やった。
「ソーセージ二つ! っと……ツー・ソーセージ・プリーズ!」
 途端、店主は首を捻ったように見えた。宍戸もこれほど単純なことなのだからまさか通じないとは思っておらず、困惑する。そこでははっとある事に気づいた。相手から見ると宍戸の「2」を表すピースサインはピースサインでしかないのだ。
「だから、ツーだよツー! ソーセージ! フランクフルト! そこの焼き……いや、グリル! グリル!」
 なんとか意志疎通を試みようとする宍戸を見つつ、は「たぶんこれでいいはず」と思いつつグーに握った手から親指と人差し指だけを開いてみせた。
「えっと……ツヴァイ・ブルスト・ビッテ」
 途端、店主の困惑気味な顔が一転し、「ヤッ!」と明るい返事をくれた。そしての方を向いてこう訊いてくる。
「カリー? ブラート?」
「あっ……えっと、ブラート! ――で、お願いします」
 頷いた店主を見てホッとは胸を撫で下ろした。――とっさには鳳に聞いたドイツ語を思い出したのだ。数字や挨拶はも知っていたものの、鳳から「先輩、ソーセージはブルストって言うんです。日本だとウインナーとかフランクフルトとかほとんど地名で定着してるから変な感じですよね」などと雑談しつつ焼き方はどうとか聞いてメモも取っていた。聞いておいて本当に良かったと心底思う。
「すげぇな、ドイツ語喋れんのか!」
「ううん、全然わかんない」
 実は鳳に――と話そうとした所で店主が「ビッテ!」と二人へパンに挟んだ焼きソーセージを差し出してきた。まさかホットドッグ形式で来るとは思っていなかったのだろう宍戸は「おお!」と感動しつつポケットから5ユーロ紙幣を取り出して店主に渡した。「ダンケ!」とおつりを手渡した店主に、これは日本人の性なのだろう、二人して頭を軽く下げた。
「サンキュー!」
「ダンケシェーン!」
 そして挨拶をし、店主に背を向ける。――日本であればたかだかスタンドで食べ物を購入しただけに過ぎないが、海外ということもあって一大イベントをこなしたような気分になるのも無理からぬことだろう。元来た道を戻りつつ、大口をあけて戦利品にかぶりついた宍戸は感動に打ち震えてさえいた。
「何だよこれ、激ウマじゃねーか! やべぇぜマジで、こんなの食ったことねー!」
「本当……、おいしい」
「スーパーで売ってるウインナーとは比べものにならねぇぜ! しかも1ユーロだろ? ドイツやべぇ!」
 実際、二人の口にしたソーセージは塩加減が絶妙で肉がギュッと詰まっており、ツンと香る胡椒の風味がたまらなく焼き具合もバッチリで非の打ち所がなかった。しかもメイン広場から少し離れたおかげか価格も低く設定されていて、満足度も桁違いである。
 本場の味に痛く感動した宍戸は、まだ自由時間が残っているのを確認して「路地から見る風景も素敵だね。まさに異国に迷い込んだって感じ」と風景に浸っていたを引っ張って片っ端から屋台でソーセージ食べ歩きを決め込んだ。
「いやー、食った食った。腹いっぱいだ」
 ご満悦気味の宍戸の声にが苦笑いをしたのはゲーテハウスへの道行きである。何に感動を見いだすかは人それぞれで、宍戸の場合は建築物よりも異国の風景よりもまず「食」なのだろう。
 レーマー広場から歩くこと10分ほど。気をつけていなければうっかり通り過ぎてしまうような場所にドイツの偉大なる詩人・ゲーテの生家は在った。いまは観光用に一般公開されており、世界中から訪れる人間が後を絶たない。先導されるままに門をくぐって受け付けを通り抜けるとエントランスにてまずガイドによる解説が始まり、宍戸はつまらなそうに眉を寄せた。
「ゲーテハウス、ねぇ」
 対ソーセージ時と違って宍戸のテンションが明らかに落ちているのは火を見るより明らかだ。
「シューベルトの魔王もゲーテの詩なんだよ」
 音楽の時間に習ったよね、とが話してみると宍戸は「うーん」と唸る。
「詩とか……苦手だしよ。恥ずいだろ」
「ゲーテの詩ってそんなに恥ずかしいかなぁ……。私は翻訳版しか知らないけど……」
 話しつつエントランスを抜けるといよいよゲーテの家に足を踏み入れるわけであるが、その前に達の眼前には庭園が飛び込んできては「わぁ」と声を漏らした。冬枯れ前であるが手入れされた庭に、少し覗き込めば立派な花園が見えてフェアリーテイルを体現したような作りに心が騒いでしまう。
「すっごーい! 花がないのが残念だけど……わぁ、春が来たらバラが咲くんだね、きっと。素敵……おとぎ話の妖精が出てきそうな光景なんだろうなぁ」
「――って、だからそういうのが恥ずかしいんだよ俺は!!」
 は感動を口にする際にやたら抽象的で大げさな表現を使うことがよくある。そこは芸術家気質なのだろう。素直と言えば聞こえはいいが、と宍戸は自慢の黒髪を揺らしながらに噛みついた。しかしこんなやりとりももはや日常茶飯事で、も多少たじろぐもののあまり気に留めず、景色を目に留めておこうと指でフレームを作ったりデジカメで記録を残すことに勤しむ。
 ゲーテハウスの中は、階段の手すり一つとってみても凝った作りになっており、至る所に絵画が飾ってあり、のみならず宍戸の目も飽きさせることはなかった。豊かな暮らしぶりがまざまざと感じられ、数世紀前にタイムスリップしたみたい、から始まりいつもの装飾形容詞をふんだんに使うの一言一言に今回ばかりは宍戸も反論せず素直に頷いた。
 そうしてゲーテハウスを出る頃には陽も傾きかけ、頬を撫でる風の冷たさはより一層増していた。
 ほんの少しの移動とはいえ、自分たちの足で歩いたフランクフルトの光景は生徒達一人一人の脳裏に焼き付き、またとない経験となったことだろう。幸い、なんのトラブルもなく無事に今日という一日を終えることができて一番安堵しているのは他ならぬ教師陣に違いない。

 明日は午前中にシルン美術館を見学したのち、フランクフルトを離れてバスにて南下することとなっていた。



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