一人っ子だと、一人遊びが得意になってしまうのかもしれない。
 最初に絵を描き始めたのは何歳のころだっただろう? そしていつしか、シャッターチャンスの一瞬を捉えたような印象的な絵を満足いく出来で描き上げたいと思うようになった。例えるなら、木の葉が舞う一瞬にはっとするような瞬間そのもの。表現には技術が必要なのだと気づいたのはいつだったか。誰よりも上手くなりたい、誰にも負けたくないと自分を律して描き続けてきた自分に少しも迷いはない。
 自分の人生のほぼ全ての時間を絵に捧げている生活に、自身は何の不満も疑問も持ってはいない。むしろ、より高みへと駆け上がろうと思う、この気持ちはもしかすると日本一、世界一を狙うスポーツマンに似ているのかもしれない。
 夏休みも目前に迫ったある日の昼休み、と宍戸は揃って購買部を目指した。特に一緒に行こうなどと言い合ったわけではないが、たまたま目的地が同じだっただけだ。――しかし、購買部に着くやいなや宍戸は声にならない悲鳴のような声をあげた。
「――う、売り切れ!?」
 あからさまに落胆の色を宍戸が顔に広げたのは、彼の好物であるチーズサンドが完売していたためである。いつもなら昼休み直後に売り切れることなど滅多にないのだが、そういう日もあるのだろう。チーズサンドだけならばまだしも、今日は全体的に品薄だ。
 飲み物のみを買いに来たではあったが、隣でショックを受けている宍戸を無視して帰るわけにもいかず慰めるように声をかけた。
「え、えっと……どうしよう?」
「……」
「そうだ。せっかくだし、今日は学食に行く?」
 とっさに返答の叶わなかった宍戸にはそんな提案をしてみた。すると宍戸は大きな溜め息を一つ零した。そしてトボトボと歩き始めた方角は教室ではなく学食の方だ。も一瞬の逡巡のあと、ドリンクは購入せずに宍戸を追った。
 学食で食事をするには、いったん校舎から出て学食専用の建物「カフェテリア」に行かなければならない。外観は西洋風の立派な建物であり、一階は食事スペース、二階は喫茶スペースのある吹き抜けになっている。ゆったりとした作りになっており、生徒達でごった返すこの時間にあっても騒々しいという雰囲気はない。しかしながら満員であることも多い学食で、幸運にもテーブル席に座れたと宍戸はそれぞれ来慣れない学食を見上げた。
「久々に来ると……やっぱり凄いね、うちの学食」
 テーブルにはの選択した本日の洋食・ブルゴーニュ風煮込みハンバーグとフランスパン、宍戸の選択した本日の和食・和風ハンバーグと五穀米が乗っている。およそ、中学生の食する学食レベルを遙かに超越したものだ。カフェテリアの雰囲気と相まって、それなりに名の知れたレストランとなんら遜色がない。
「こんなんじゃなかったんだけどな、氷帝学園ってのは」
 箸で器用にハンバーグを掴みつつ、宍戸が軽く眉間に皺を寄せた。
「お前は中学からだから、知らねーだろうけど。……って何回も言ったよな」
「うん、聞いた。ここの学食もだけど、跡部くんの実家が援助してくれて作られたんでしょ?」
「ああ。俺が幼稚舎にいたときの中等部の学食なんざ、いまと比べりゃその辺の食堂レベルだったぜ? そりゃ、公立に比べりゃ恵まれてんのかもしれねぇけど、こんなバカげたレベルじゃなかったのだけは確かだ」
「凄いよね、跡部くんの家」
「チッ、金にモノ言わせて理事長レベルでもあいつにヘイコラしてるってのは俺は気にいらねぇけどな」
 は宍戸の言い様に苦笑いを浮かべた。跡部は、元々イギリス育ちらしくイギリスから帰国してこの氷帝学園に入学したらしいのだ。その際、跡部が学園生活を送るに相応しい学園へと作り替えたか否かは定かではないが、莫大な資金を跡部の実家である跡部財閥が学園に投入して学園の施設等々のリニューアルを行ったことはも聞いている。
 跡部が入学する以前の氷帝を知らないとしてはその辺りの差異は分からないが、氷帝の生え抜きである宍戸からすれば腑に落ちない部分もあるのかもしれない。しかしながら――、海外育ちとあらば跡部のあのおおよその日本人との感性の違いや基本性格の違いなども仕方のないことなのかもしれない。もっとも、仕方ない、で済まされないからこそ宍戸は度々跡部と衝突しているのだろうが。
 快適すぎる環境に浸るとぬるま湯に溺れてしまうのだろうか? いまの氷帝しか知らないは溺れない意志を持っていたが、変わってしまった氷帝に抗いつつも徐々に慣れていった宍戸が自身を律し続けられたかどうかは定かではない。
 いずれにせよ――、この夏の氷帝テニス部は目標にしていた関東優勝は達成できず、関東二位で出場した全国はベスト16で終わった。


 俺がに初めて会ったのはいつだっただろう。中等部に上がって、指定された自分の教室へ入った時だっただろうか。幼稚舎からエスカレーターで中等部へ入る生徒が大多数な氷帝では既にほとんどと顔見知りで仲の良いグループが出来る中、一人、スケッチブックを抱えてる姿が目に留まった。――と宍戸はほんの一年半ほど前の出来事を懐かしく思い返していた。
 と初めて話したのは中等部に入って最初の美術の授業の時だ。最初ということもあり、教師は男女でペアを作り相手の顔をスケッチするよう指示した。宍戸は別に女嫌いというわけでもなかったが、硬派を気取っているうえに多少の気恥ずかしさもあり、また非常に喧嘩っ早い性格で幼稚舎時代から女生徒があまり自分には近づかなかったことは十二分に自覚しており、当然あぶれることになる。おそらく、もなかなか相手を見つけられずにいたのだろう。結果として教師から組むよう指定され、宍戸とはペアとなった。
「よろしく。宍戸……くん」
 控えめに微笑んでいたの表情はいまもハッキリ覚えている。まさか幼稚舎時代の自分を知らない人間にさえ恐れられたのだろうか? と少なからず思ったからだ。大人しそうで、あまり接したことのない、どちらかというと苦手な部類のタイプだと感じた。しかし――、直後に印象はがらりと変わった。先に描くことを選んだは画用紙に向かうや否や、歴戦の戦士さながらの強い目線で鉛筆を走らせた。かと思えば、ふ、と表情を緩め宍戸を見てふわりと微笑んでみせたのだ。
「宍戸くんの髪、綺麗だね」
 急に宍戸自身、自慢に思っていた髪を誉められて絶句したのは言うまでもない。柔らかい表情と声。裏腹に、の手で描かれていく自分の絵は正確無比で、さながら熱を持たない彫刻のようですらあった。それはの芯の強さを示すものか、宍戸への興味のなさを示していたのかは分からない。しかし彼女の技術に目を見張ったのは本当で――のちに誰かが「コンクール荒らし」と呼んでいたのを知った。もっとも本人にその事を言ってみれば、心外そうに苦笑いを浮かべていたのだが、いずれにせよこの一件をキッカケに宍戸とはことあるごとにペアを組まされるのが常となり、いまに至る。
 そう、まさに今回もそうだ――と宍戸はロングホームルームにて「修学旅行のしおり」と睨めっこをしていた。来月の十月に、氷帝学園の二年生は修学旅行としてドイツに行くこととなっている。修学旅行といえば5、6人の小班体制であたるのはもちろんのこと海外であるが故に女生徒だけでの行動は禁じられた。ゆえに、必ず女生徒はグループ内の男子生徒と一緒にいなければならないというのだ。
「またお前とかよ」
「いいじゃない。よろしくね」
 宍戸が頬杖をついて悪態をつけば、前の席のが振り返って緩く笑った。
「ドイツねぇ……。フランクフルト入りのミュンヘン出だっけか」
「うん。私たちのクラスはそう。I組からO組まではミュンヘンインのフランクフルトアウト」
「まっ、しゃーねぇよな。二年だけで五百人以上いるんだしよ」
 実は今年度の修学旅行先がドイツというのは生徒会長を務める跡部の鶴の一声で決まった。旅程等々のモデルコースもほぼ跡部が考え、あとは生徒会のメンバーが教師陣と肉付けしていき、しおりとして生徒達の手元に届く形となったのだ。しかし生徒数と航空機の座席数の問題もあり、A組からO組までを二分してそれぞれ逆のコースを行くことでどうにか航空機の確保と修学旅行先の混雑問題を解消した。達のクラスは前半グループに属していたため、入国先はドイツ最大の経済都市・フランクフルトである。
「楽しみだね。私、ドイツ初めて」
「俺はヨーロッパすら初めてだ。つーか学校行事以外で海外なんざ行ったことねーっつの」
 が笑いかけると宍戸は少々眉を歪ませた。去る夏休み、テニス部のレギュラー陣はカナダに合宿へ行っていたが準レギュラーである宍戸は行くことを許されなかったのだ。正レギュラーには跡部以外にも同級生が数人おり、彼らの背を見送った悔しさもあるのだろう。
 しかしながら年に数回、海外で強化合宿を敢行するテニス部のスケールの大きさにもはやついていけない。と、は秋晴れの空を眺めながら思った。同時に羨ましいとも思う。色んな国でその国の空気を感じながらキャンバスに筆を滑らせたらどんなに素敵だろう。と何度目になるか分からない物思いに耽っていたのは音楽室で鳳のピアノを聴いていた時だ。
 鳳はしょっちゅう音楽室に入り浸っているのか、特別教室棟にいると鳳が弾いているらしきピアノの音がよく聞こえてくる。たいていは、また鳳がいるんだな、くらいで気に留めないであったものの、時おりその音色に惹かれて音楽室を訪ねることがあった。鳳の方もすっかり慣れたもので、に気づけば、ふ、と微笑み演奏の手は中断しない。今日もそうである。
 今日の旋律はには聞き覚えのないものだったが好みの曲調で、鳳はかなりの枚数の楽譜を隙間なく並べ懸命に目線が鍵盤と楽譜を往復している。険しい表情で、最後の方は汗を飛ばしながら胸を上下させており――、最後の音を惜しむように鍵盤から離したときはも思わず感極まって大きな拍手を送った。
「すっごーい! 素敵!」
「あ、ありがとうございます」
「凄いなぁ……。なんていう曲? ごめんなさい、無知でわからなくて」
「ブラームスのラプソディ、ロ短調です。まだ全然弾きこなせてなくて恥ずかしいんですけど」
 えへへ、と鳳は演奏中とは打って変わってはにかみながら額の汗を拭った。そうしてゆっくり立ち上がってにっこり笑う。
「ていうか、今日、先輩来るだろうなって思ってました、俺」
「え……?」
 意味が分からずが首を捻って「どうして?」と尋ねると、鳳は「なんとなく」とお茶を濁した。さらに首を捻っていると「あ」と鳳は思いだしたように小さく呟く。
「二年生って来月、ドイツへ行くんでしたよね?」
「うん、フランクフルトから入ってミュンヘンから戻ってくるコースみたい」
「ミュンヘンか……。ドイツだけなんですか? ミュンヘンまで行くのならオーストリアだって近いのに」
「うーん残念ながら……今回はドイツだけみたい。鳳くん、音楽が好きだからやっぱりオーストリアが気になる?」
「はい。気になるっていうか懐かしいというか……俺、夏休みは少しの間ウィーンに音楽留学してたんですよ」
「え……!?」
「ちょうどいまのブラームスもあっちで見てもらったので弾いてみたんですけど……、なかなか教えどおりには弾けなくて、まだまだです」
 あっけらかんと笑って言い放った鳳には一瞬惚けてしまった。そういえば、と氷帝のプログラムの中にウィーンへの音楽留学が組まれていたことを思い出す。
「そっか……音楽留学……。どうだった?」
「もう凄いなんてもんじゃないっすよ! レベルの違いをまざまざと見せつけられたというか……、あちらって普段の生活から芸術への関わりがこっちと全然違っていて、とても刺激になりました」
 その時の興奮を思い出したのだろうか。うっすら頬を染める鳳にも小さく笑った。成長著しいとはこのことなのか、初めて会った時に比べて鳳はだいぶ身長が伸びたように思う。表情はまだあどけなさを残しつつも少し大人びて、ついいま鍵盤に乗せていた指など自分とは比べものにならないほど大きく節張っており――、一瞬意識してしまったはぱっと鳳の指から視線をそらした。
「先輩……?」
「あ、ううん、なんでもない。そっか……でも、鳳くんはテニス部……だよね? それとも、ピアノの道に進むの?」
「え……」
 意外な質問だったのか、鳳は瞬きをしてから考え込むような仕草を見せた。
「あ、ごめんなさい。答えにくいこと訊いちゃったかな」
「いえ。でも、そうですね……ピアニストか……考えたことがないわけではないんですけど、俺はたぶん、ピアノで他人と競うことには向いてないんだと思います」
「え……?」
「テニスなら、スポーツですから別ですけど」
 にこ、と鳳が笑ってはまたも首を傾げた。
「先輩は、勝ちに拘る人ですよね。それが例え、絵でも」
「そ、そりゃ。やっぱりやるからには一番うまくなりたいし……、でも勝ちに拘ってるわけじゃなくて、あくまで結果だよ」
「分かってます。俺は先輩のそういうところ、凄いなって思いますし。でも、ピアノとか絵画で順番をつけるのって俺はナンセンスだと思うんですよね」
「んー……そう、なのかなぁ」
 釈然としない、とが渋ると「あはは」と鳳は明るく笑った。
「先輩って物理とか数学、得意な人でしょ?」
 途端、は「なぜ分かったんだ」と言いたげな表情を浮かべ、鳳は「やっぱり」となお笑った。
「そんな気がしました。なんとなく俺、先輩の好きな曲の傾向も分かっちゃいますし」
「え? どうして……え? だって絵を描くのに数学的能力って必須だよ?」
「そういう意味じゃないですよ。そういう所がそうだって言ってるんです」
「――ぜんぜんわかんない」
 無意識に頬を膨らませると鳳は少し肩を竦めた。鳳の意図することは分からなかったが、ただ、鳳自身の口にしたことはなんとなく分かった。確かに芸術的分野で白黒をつけるというのは不毛さも伴う。その不毛な争いに野心と向上心をもって生涯臨まなければならないのだ。鳳は――素直な性分だ。美しさの影に潜むどろどろした世界に足を踏み入れたくないのかもしれない。才能というものは性格も含めての話なのだから、自分の性分に合わないと思えば引き際を見定める勇気も必要だろう。
 とは言え、彼の本心は自分には分かるはずもないが。とも息を吐いたのちに笑った。
「鳳くんってドイツ語話せるの? ウィーンってドイツ語だよね?」
「えーっと……ほんの少し、なら。音楽用語はたいていイタリア語ですし、あとは何とか英語で凌ぎました」
「そうなんだ……。私、ドイツ語は未知の世界だからちょっと不安」
「俺もぜんぜんダメっすよ。でも、フランクフルトとミュンヘンって同じドイツ語でもけっこう違いますし」
「え!? そうなの?」
「ウィーンもそうなんですけどミュンヘンは南部なまりだから……。例えば挨拶はドイツ語だとグーテンモルゲンとかグーテンタークですよね」
「うん」
「ミュンヘンだとまとめて"グリュス・ゴッド"なんですよ。俺も英語とか北方の挨拶じゃけっこう淋しい思いもしたんですけど、挨拶だけでも南部式にしたら皆さん笑顔になってくれて嬉しかったです」
「へぇ……そっか。ミュンヘンだとそうなんだ……。あ、じゃあ他には――」
 後輩にものを教わるのもどうなのか。などと他人が見たら言うのだろうか? しばし予鈴がなるまで、はスケッチブックの端に鳳のアドバイスを書き連ねていった。



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