六月に入ると、天気も不安定な日々が増えてくる。 (雨、嫌いじゃないけど髪がなぁ……) 今にも頭上から雨粒が落ちそうな分厚い雲を仰ぎながら、緩くクセのある自分の髪を指に絡めては肩を窄めた。その脳裏に、ふと級友の姿が過ぎる。 (こういう日は宍戸くんのサラサラストレートが羨ましくなるなぁ) 一年に続き二年も同じクラスになった男子生徒だ。テニス部でもある、と過ぎらせつつは指でフレームを作って周りの風景を切り取るように探った。どの風景をどう表現するか、常に考えるのもにとっては立派な日常のことである。行き交う生徒達の声をBGMのように流し聴いていると、ふと、自分を呼ぶ声がうしろからかけられた。 「あれ、先輩?」 振り返ると、立っていたのは色素の薄い柔らかそうな短髪を持った少年の姿だ。 「あ、鳳……くん」 「こんにちは。なにしてるんですか? 昼休みなのに」 俺は職員室からの帰りなんですけど。と初対面の時と少しも変わらないニコニコとした笑顔で話しかけてくる様子には僅かばかりペースを乱されてしまう。 「え、と……、景色を探してたの」 「景色を探す……?」 「うん。絵になりそうな場面はないかな、って。ちょうど、美術部の課題で梅雨がテーマの風景画も考えなきゃならなくて」 「あ、なるほど。俺もよく歩いてたりすると同じようなこと考えます。特に綺麗な青空とか見ちゃうといつまでも見ていたいって思ったりとか。今日は、あいにくと曇り空ですけど」 言って空を見上げた鳳はわずかに苦笑した。まるでそれが合図になったかのように、ついに重い雲は雨を地上へと落とし始め――渡り廊下に立っていた二人の耳に突如として、ぽつぽつ、という音が届き始めた。次いで葉を叩く、ピチョン、という音が交互に耳に入り――は「降ってきちゃったね」となにげなく鳳を見上げた。すると彼はどこか曖昧な笑みを浮かべて、耳を澄ますようにして瞳を閉じていた。 「鳳くん……?」 「雨音が気になってしまって」 声をかければ、眉尻を下げるようにして鳳は笑い、僅かに渡り廊下から身を乗り出してしまっては思わず止めてしまう。 「濡れちゃうよ」 「平気ですよ、そんなに強い雨じゃないし」 手で雨を受け止める鳳の意図がサッパリ分からずは首を捻るしかない。 「どうしたの?」 「ミ、ラ、レ、ミ……」 「え……?」 「音を聞いていたんです。俺、音はぜんぶ音階で聞こえるから」 「え……、それって、絶対音感ってこと?」 そうですね、と笑う鳳には目を見張った。絶対音感とは、平たく言ってしまえば世の中の音という音の「音階」が分かってしまう能力のことである。むろん、レベルの差はあるが雨音の音階が分かるのは相当だろう。 「え、じゃあ……もしかして、うるさい?」 気になるということはそういうことなのだろうか。訊いてみると、鳳は「いえ」と小さく首を振るった。 「今は平気です。そりゃ、あまり激しい雨だとうるさく感じることもありますけど、それは皆さんも同じでしょう?」 「う、うん」 「もっと小さい頃は、雨音をうるさがって怒ったり泣いたりしたこともあったんですが……でも」 気恥ずかしそうに笑って、鳳はそばの腰くらいの高さほどの木に目線を落とし、先ほどからほぼ規則的に雨を弾く葉を見据えた。 「でも……?」 「笑いません?」 ちらりとこちらに目線をやってはにかむ鳳に「うん」と頷くと、彼は一度クシャッと笑った。 「気づいたんです。雨の音は、無数の音楽だって。この雨音は、俺の耳には優しいカノンに聞こえる。だから……、いまは好き、かな」 つ、とはリアルに自分が息を詰めたのを自覚した。鳳はまた葉に目線を戻してから、雨音を楽しむように微笑んでいる。 「雨音が、カノン……」 誘われるように呟いて、も渡り廊下から少し身を乗り出した。鳳の目線を追うと規則的に緑の葉が雨を弾いている。だが――、一つ、また一つと追ってもの耳に鳳が聴くカノンが届くことはなく、少し羨ましいような残念なような笑みを彼に向けた。 「素敵ね……。私には、分からないけど」 すると鳳はニコッと笑い、次いでハッとして慌てたように声をあげた。 「せ、先輩! 濡れちゃいますよ!」 「え? へ、平気だよ。それに鳳くんだって――」 「俺はいいんです! 鍛えてますから」 「ええっ!? そういう問題じゃ――」 面食らう間もなく渡り廊下の屋根の下まで強制的に引っ張り戻され、更にはあっけに取られる間もなく鳳はズボンからハンカチを取りだして水滴を含んだの髪にそっとあててきた。 「ほら、濡れてるじゃないですか」 「だ、大丈夫だよ。鳳くんこそ濡れてるよ」 実際、ぱらりと雨がかかった程度で大したことはないと鳳だ。しかしの方もスカートのポケットからハンカチを取りだして鳳の濡れた頬にあてた。そうして互いに間近で目を合わせ、一瞬の間を置いてから同じタイミングで弾かれたように笑い合った。 「ありがとう鳳くん。梅雨入り前で少し気が滅入ってたけど、素敵なお話を聞かせてもらって雨が楽しみになりそう。これからは髪にクセがあるから湿気が辛いなんて思わずに雨の音を聞いてみるね」 「俺もクセ毛だから湿気多い日は辛いっすよ。ていうか……やっぱり内心笑ってません?」 「そんなことないよ」 少し拗ねたような声を出した鳳にが笑ってみせると、鳳も肩の力を抜いたようにフッと笑って「じゃあ、俺はこれで」とに背を向けた。その背を見送ってからは再び雨を弾く木の葉へと目線を向けた。先ほどとは打って変わって、真剣な面もちで、だ。左肩にさげていたバッグからスケッチブックを取りだして、目の前の光景をさっと描いてみる。 「雨音はカノン、か」 梅雨をテーマの良い絵が描けそうだ。と思ってしまった自分にハッとしてから首を振るった。浮かんできたイメージが「勿体ない」と告げていた。もっと大きな、もっと良い絵が描けそうだ。もう少し温めてみよう、と昂揚のままに一通り描き終わったスケッチブックを閉じる。するとちょうど予鈴が鳴り――いったんは美術へとスイッチが入ってしまった自分の頭をリセットしてスケッチブックを仕舞い教室へと足を向けた。 そうして自身のクラスへと戻ると、あ、とすぐそばにいた女生徒に話しかけられては足を止めた。 「ちゃん、ちょうどよかった」 「え……?」 「このレポート、いま廊下を歩いてたら国語の小林先生に渡されたんだけど……宍戸君に渡しておいてくれ、って」 言われておずおずと彼女はレポート用紙をに差しだし、はきょとんとしつつ受け取った。 「宍戸くんに?」 「お願い! 渡しておいてもらえる?」 「いいけど……」 「ありがと! じゃあ、頼んだね」 級友はホッとしたように笑い、はふっと肩を落とした。こんな事は、日常茶飯事である。なぜなら、彼女のいま口にした人物――宍戸こと宍戸亮は一見にして取っつきにくい人物であるのだ。中学受験組のには知らないことであるが、幼稚舎から作ってきた武勇伝たるやなかなかに凄まじいものがあるらしく、特に女生徒からすると「怖い」イメージがあるらしい。しかしながらにとっては一年以上の付き合いがあり、およそ宍戸に対する先入観も持っていなかったため特に苦手ということもない。 レポートを受け取ったは自分の席でもある窓際を目指して足を進めた。その最後尾に座り、頬杖をついて長い髪をサイドに垂らしつつ不機嫌そうに窓の外を睨んでいる少年――宍戸を見やる。そうして宍戸の前の自身の席に腰をおろしつつ声をかけてみた。 「宍戸くん、まだ機嫌なおってないの?」 ピク、とその声に宍戸の手が反応し見事には目線だけで睨まれてしまう。 「ウルセーな。見りゃわかんだろ、ったく」 「で、でも、跡部くんも悪気があったわけじゃ……」 「あったに決まってんだろーが!」 言葉を遮られて声を荒げられたはさすがに少しだけ身を引いた。――今日の宍戸は機嫌が悪い。と言うのも原因は午前中の体育の授業での出来事が発端だ。二年ながらテニス部の部長を務める跡部景吾のクラスと合同でバレーボールと相成った今回の授業で宍戸は跡部の強烈なスパイクを顔面に喰らい、頬に擦り傷を負ったのだ。自身も隣のコートでプレイ中だったため、その場面こそ見ていないものの、「なにしやがる跡部うらああああ!」という体育館中に響き渡る宍戸の怒声は耳にした。もっとも、宍戸の不機嫌は負傷ではなく跡部のクラスに負けた事なのだが、そんないきさつもあっていまの宍戸は一層近寄りがたい雰囲気が増している。 やれやれ、とは小さく息を吐いた。宍戸と跡部は元々折り合いが悪い。というよりも一年の頃からなにかにつけては宍戸が跡部に突っかかっていっていると言った方が正しい。もっとも、宍戸の気持ちも痛いほどに分かるのだが――と思いつつは宍戸の机に先ほど頼まれたレポート用紙を置いた。 「何だよ?」 「小林先生からの返却レポート」 「ゲッ! 何だよ、うわッ、要再提出とか書いてあるじゃねーか。マジかよ……ってしかも今日中かよ! チッ、部活あるっつーのに」 絆創膏を乗せた痛々しい頬を歪ませて宍戸は露骨に悪態をついた。そこでははっとする。そういえば宍戸もテニス部だった、と思い出したのだ。 「ねえ、宍戸くん。訊いてもいい?」 「あ?」 「一年生の……鳳くんって知ってる? テニス部らしいんだけど」 ん、とそこで宍戸はレポートから目線をあげて考え込むような仕草を見せた。 「鳳? あー……そういや、いたかもしれねぇな。鳳……長太郎、だっけか」 「そうそう、鳳長太郎くん」 「で? その鳳がなんだよ」 「あ……どうってわけじゃないんだけど……。強い、の?」 やっぱり本当にテニス部なんだ。と思いつつ聞いてみると、宍戸はサイドの艶やかな髪に指を絡ませるようにして首を捻った。 「強いか、って……部活入ったばっかの一年だからな。まあ、普通なんじゃねぇの?」 よく知らねぇし、と付け加えた宍戸には「そっか」と肩を落とした。氷帝学園テニス部は部員数200余名を抱える学園の華である。後輩一人一人の能力はおろか名前すら把握するのは困難だろう。むしろフルネームで覚えられているだけ鳳は良い方なのかもしれない。 「宍戸くんは……、えっと、いまって試合出てるんだっけ?」 「――先月の地区予選出てただろうが。知らなかったのか?」 「え……、あ、そう、だっけ」 「ったく。……ま、どうせ準レギュだしよ。次の都大会、出られるかはまだわかんねーけどな」 いっそう眉間の皺を深めたかと思えば、宍戸は少し自虐気味に肩を竦めた。 テニス部の部員数からも察せる通り、テニス部は華であり、また全国大会出場の常連校でもあるためレギュラーを勝ち取るということは楽でないのは誰もが承知していることだ。しかしながら、中体連の大会に例え地区予選とはいえ正レギュラーを使わず準レギュラーを出させるとはいささか問題ではないか。と感じつつもは励ますように宍戸に声をかけた。 「二年生なのに試合に出られるだけで十分凄いよ。いくら跡部くんが部長っていったって、まだ三年生もいるんだし」 「ま、次はぜってー正レギュラーになってシングルス枠を奪い取ってやるけどな」 それは跡部から? とはは続けなかった。ちょうど本鈴が鳴った、ということもあるが不毛な言い合いになるのは目に見えていたからだ。 その跡部は――、名前を浮かべただけでも気が重くなる、とは五限目の授業を終えて六限目の授業の準備へと取りかかった。本日の六限は選択科目である。氷帝は基本の五教科・サブの四教科に加えて多彩な選択科目を取り扱っており、二年次からは本人の学ぶ意志さえあればいくつでも選択できるようになっているのだ。特に語学の充実ぶりは他を圧倒していてがこの学園を受験した理由の一つでもある。なぜならば自身、第一外国語の英語よりも第二に選択しているフランス語の方を優先的に取得する必要があるからだ。と、は自分がもっとも大事にしている授業に臨むため気合いを入れて授業の行われるサブ視聴覚室へと向かった。 しかし、大事な授業のはずがいささか気の重いこともある。が視聴覚室に足を踏み入れると、その気の重い理由である張本人が尊大な態度で大股を開き長机にまるで王座に跨るかのようにして他を見下ろすような目線で座っていた。噂の跡部景吾、まさにその人である。自身、一年生の時は全く接点のなかった跡部であるが、どういうわけかフランス語を選択したらしき彼とは選択フランス語の時間のみ一緒になる、ということとなっていた。 テニス部部長、そして二年ながらにして生徒会長をも兼任する彼は女生徒に非常に人気があり、いまも遠巻きにチラチラと複数の女生徒が彼を見つめており、軽く頬を引きつらせたはなるべく関わり合いにならないようにそっとそばを抜け、前の方の席に落ち着いた。しかし。 「よう、」 思い虚しくその張本人が話しかけてきてしまい、いったん間を置いてから仕方なく顔をあげる。 「なに、跡部くん?」 努めて普通に声を出したつもりが、少々硬くなったのは気のせいではないだろう。跡部は気にした様子もなく、フ、と尊大な表情を顔に広げた。 「前回の小テストも俺様に続き、二位だったらしいな? いつもいつも定位置をキープしてんのは誉めてやるぜ」 が二の句に詰まったのは言うまでもない。しかし引くのも癪なはキュッと唇を結んで目線を強めた。 「跡部くんこそ……、いつもトップですごいね」 「ハッ、当然だろ」 実はこの手の会話は日常茶飯事である。跡部は学年トップの成績を誇り、語学も堪能であるため特に外国語を得意としていたがとしてもフランス語には力を入れており以前から独学で学んでもいたため、負けず嫌いも相まって跡部とはこの時間に限りよく張り合っていたためだ。とはいえ――としては、あまり彼には関わりたくないというのが本音だ。理由は複数あるが、彼本人が苦手ということを除けばいちいち女生徒の視線が痛いということだろうか。 「アン? 冴えねぇ顔してんじゃねーよ」 いけない、露骨に表情に出ていたらしい。とは努めて表情を柔らかくした。はやく自分の席に戻ってくれ、とも言えず「あ」と一つ彼と話せる話題を思い出して口にする。 「そうだ。宍戸くんのことなんだけど……、今日、放課後に再提出用のレポート書かなきゃいけないから、部活遅れるかもしれないって言ってたよ」 「宍戸が? ったく、しょうもねぇ理由だな。ま、どうせ今日は自主練だし構わねぇけどな。再レポート喰らってるようじゃ準レギュラー落ちも近いんじゃねぇの」 跡部の返答には僅かにムッとした。が、彼の物言いはいつものことだ。どうにか受け流して息を吐く。そもそも言い方はともかく跡部の意見も一理あるのだし――と感じただったが沈黙を肯定としてしまうのも気持ちのいいものではない。 「そんな言い方しなくても……」 「俺様はテニス部のキングであり続け、成績もトップだぜ?」 しかし、ささやかな反抗を試みたのが失敗だった、とは心底後悔した。おまけに返事をできないでいると教師が入ってきてしまい、跡部が自分の席付近に着席してしまったのも計算外だった。しかも――今日の授業は会話形式。成績のいい跡部とが組まされるのは珍しいことでもなく、今日もフランス語で意地の張り合いという不毛な一時間に終始することとなった。 |