Human Touch  - in two minds -




『先輩はどうして、人物画を描かないんですか……?』


 初対面の後輩に、そう言われたのは若葉の芽吹く四月のことだった。音楽室の窓から覗く新緑と、ピアノ椅子に座る少年のまだあどけない表情、甘い声。
 この氷帝学園に入学してようやく一年。春らしい新たな出会いと、彼にもらった言葉はいまも時おり思い返している――とは美術室へと連なる特別教室棟の廊下を歩きながらふと追想にふけった。
 ――ほんの一ヶ月ほど前の、四月の昼休みのことだ。あの時も、こうして美術室へと足を向けようとしていた。しかし、ふと流れてきた鍵盤の音色につられて歩みを止めたのだ。
「ショパン……の、別れの曲……?」
 無意識に確認するように呟いてしまったのは、かの曲が持つ独特の誘うような郷愁ではなく、やけに明るく穏やかな曲調に聞こえたせいだろうか。まるで春を愛でるようなウキウキと柔らかい音だ。
 誰だろう? とは疑問を巡らせた。ここ特別教室棟には音楽室があり、もっぱらピアノを弾いているのは音楽教師を勤めている榊太郎である。ゆえに榊の奏でる音色は聞き慣れており、このショパンの名曲であり練習曲でもある、俗に「別れの曲」と呼ばれる旋律を奏でているのが榊でないのは確認するまでもなく理解できた。
 誰だろう? その疑問のままには美術室へと向けるはずだった足を音楽室へと向けた。一歩、一歩と進むたびによりハッキリと旋律が耳に届いてくる。そっと音楽室のドアに手をかけ、中でピアノを弾いているだろう演奏者の邪魔にならないよう努めて音を殺してドアを開くと、ひょいとは中をうかがった。
 室内に差し込む光がやけに眩しい。漆黒のグランドピアノは相も変わらず艶やかで、踊るような鍵盤の先では色素の薄い髪を持った見知らぬ少年が口元に笑みを湛えて音色を紡ぎ出していた。よほどピアノに触れているのが嬉しいのか、うっすらと頬が紅潮しているように見受けられる。
 誰だろう? 見覚えのない顔だ。新入生だろうか……? すっかりいち観客になり果てたはこちらに気づかず指を踊らせる少年をぼんやり眺めながら考える。やがて名残惜しむように音色が消え、奏者はそっと鍵盤から指をあげた。一瞬の静寂のあと、はっとしたはとっさに拍手を贈り、音楽室に響いたその音によって奏者はピアノから目線をドアの方へと移してきた。
「あ……」
「あ、その……びっくりさせてごめんなさい。とっても素敵な音色だったから、誰が弾いてるのか気になっちゃって」
 目があった少年に、は少しばかりの気まずさを感じつつも微笑んでグランドピアノの方へと歩み寄った。
「あ、ありがとうございます。でも、誰かに聴かれてるとは思ってなかったから……恥ずかしいな」
 少年は楽譜を閉じながら照れたようにはにかんだ。座ったままでは失礼だと思ったのだろう。すっと自然に立ち上がる様子に育ちの良さが見て取れた。背の高さはいたって平均的だが、どことなく制服に着られてる感が拭えず、やはり新入生かと思案していると少年の方が先に口を開いた。
「あの、……先輩、ですか? すみません、お見かけしないお顔なもので。俺は一年の鳳長太郎です。幼稚舎からあがったばかりで音楽室に入ったのも今日が初めてなんですよ」
 そこでは、あ、と息を漏らした。氷帝学園は幼稚舎から大学までエスカレーターの一貫教育方式だ。けっこうなマンモス校であるが、幼稚舎からそのまま中等部へあがるわけなのだから、歳の近い学年同士はほぼ顔見知りと言ってもいいだろう。彼――鳳の疑問ももっともなことだ。
「私は中等部からの受験組だから」
「ああ、それで」
「二年の。よろしくね」
「え……? ……先輩?」
 ふ、と笑いながらが自己紹介をすれば鳳はきょとんとした表情を晒した。もともと大きな瞳がさらに見開かれている。
「な、なに……?」
 つられてもきょとんとすると、次いで鳳はパッと花が咲いたように笑った。
「も、もしかして美術部の先輩ですか!?」
「え、うん。そう……だけど」
「本当ですか!? 俺、去年の文化祭で先輩の絵を見てすごく感動したんです! 先輩の名前も絵もよくコンクールで見かけるから、知ってはいたんですけど……同じ学園だと思うと感動もひとしおです!」
 キラキラ、という効果音があるなら今ほど効果的な場面はないかもしれない。鳳の気迫に半歩後ずさりながら目を一度瞬かせたはどうにか笑みを作って浮かべた。
「あ、ありがとう」
「俺も絵を描くの好きなんです。もちろん、先輩みたいにうまくは描けないんですけど」
「そうなの? じゃあ、美術部なんてどう? あ、でも……ピアノ上手いし、吹奏楽部とか入っちゃったかな」
「あ、俺、テニス部なんです」
 にこにこ、と笑って続ける鳳には今度こそ大きく目を見開いた。会って間もないというのに、なんという突拍子もない事をポンポンと言う少年なのだろう。
「え、テニス部? テニス部って……あの、テニス部?」
「あの、って……?」
「あ、ううん。なんでもない」
 とっさに笑って誤魔化しただが、よりにもよってテニス部とは。――氷帝学園運動部の花形である男子テニス部はあらゆる意味で学園の注目を浴びる存在だ。むろん、理由がある。強いのは大前提としてそもそも――と考え込んだだったがそこで思考を止めた。しかしながら眼前の穏やかそうな少年が"あの"テニス部に居る様子は想像もつかない。
「大変そうだね」
「でも、凄い先輩たちばかりで刺激になります。俺もはやくレギュラー陣に混じれるように頑張らないと」
 眩しい。と目を窄めたくなるほどの眼差しだった。まるで、いま芽吹いた若葉のように瑞々しい希望に満ちている。合点がいった、とは肩を竦めた。
「さっきのエチュード、すっごく音が明るかった理由がちょっと分かった気がする。あんなウキウキする"別れの曲"を聴いたの初めてだから、誰が弾いてるのか気になっちゃって来てみたんだけど……」
 すると鳳は、えへ、と少年らしい甘さの残る声ではにかんだ。
「俺、ここのピアノに触れるの初めてで、嬉しくて。一番最初になにを弾こうか考えたら、やっぱりショパンの中で一番美しい旋律を持ってるエチュードのホ長調かなって思ったんです。弾き始めたらやっぱり嬉しくて感情が抑えきれなくなってしまって……まだまだ、甘いっすね」
 ショパンに悪いことしちゃいました。と続けた鳳につられてもくすりと笑った。すると鳳は、でも、とはにかんだまま楽譜棚に目をやる。
「もう少し、弾こうかな……」
 ひとりごちて楽譜を物色し始め、はっとしては楽譜を探る鳳の指先を目で追った。
「あ、お邪魔してごめんね。じゃあ、私はこれで」
 そもそも美術室に行く途中だった。と踵を返そうとしたを「あ!」と呼び止めたのは意外にも鳳だ。
「せ、先輩!」
「え……?」
「良かったら、聴いていきませんか? せっかくですし」
 また表現を間違えちゃうかもしれませんけど、と謙遜しながらも微笑む鳳には僅かばかり逡巡した。コンクールに追われている時期ならありがたい申し出も断るしかないのだが、一番大事にしている年度末のコンクールは終えたばかりでとしても時間と心のゆとりがあったからだ。
「あ、もし……良かったら、ですけど」
 迷惑なのか、それとも忙しいのかと控えめに訊いてくる鳳をさすがに無碍にはできず、最終的には鳳の言葉に甘えることにした。すると鳳は微笑んで再び椅子に座り、鍵盤に指を乗せた。彼は今度もショパンを選択しており、よほど好きなのだろう。手慣れているのか見事に弾きこなしていて、中学一年生まして男子生徒のレベルは軽く超越しているのは確認するまでもないことだ。そんな彼が、テニス? と少なからずは疑問に思った。しかしながら育ちの良さそうな彼にすれば、ピアノもテニスも嗜みの一環ということなのだろうか。
 やがて予鈴が鳳の演奏を中断させ、自然、と鳳は並んで音楽室を出ることになった。そういえば、と鳳が思いだしたように口を開く。
「先輩、昼休みなのに……特別教室棟に用事でもあったんですか?」
「あ……うん、その。用事ってほどじゃないけど、絵の練習でもしようかと思ってたの」
「ああ、それで美術室に……って、え? もしかして俺、邪魔しちゃいました?」
 途端、オロオロと表情を崩した鳳には慌てて手を振ってフォローした。
「ううん! あんな近くで素敵な演奏を聴かせてもらえたんだもん。かえって得しちゃった」
「そ、そうですか、良かった。俺も聴いてもらえて嬉しかったです」
 へへ、と笑う鳳にが新鮮さを感じるのはおそらく「後輩」というものに慣れていないからだろう。まして一人っ子のからすればこうして一歳とはいえ年下の人間と接するのは珍しいことだ。
 遠くで木々のざわめきのように生徒達の声や足音が響いている。みな、午後の授業へと足早に向かっているのだろう。
 美術室のある一階まで降りて廊下を行くと、鳳は美術室の方を振り返って「それにしても」と呟いた。
「休み時間まで練習なんてさすが、熱心ですね。確か……いま上野でやってる美術展でのコンクールも入選してましたよね?」
 訊かれて、は肯定しつつどことなく気まずげで悔しげな色を表情に滲ませる。
「まあ、佳作だけどね。展示してもらえないから、優秀賞以上を狙ってたんだけど」
「でも中高生部門なんですから、十分凄いっすよ! けど、展示されないのは俺も残念でした。どういう絵だったんですか?」
「どう、って……。普通の、風景画だよ」
「風景画かぁ……。そういえば、去年の文化祭も先輩が個人で描かれた絵って風景画でしたよね。他にも……俺が覚えてる限りは、風景画と静物画……」
 懸命に記憶を辿っているのだろうか。眉を捻る鳳の横顔を見上げつつ、は小さく息を吐いた。鳳がいくら考えたところで、描いている自分ですら専ら風景・静物専門で他に描いた記憶がないのだから答えは変わりっこないのに。と思案していたところで鳳は足を止めて真っ直ぐを見据えた。
「先輩はどうして、人物画を描かないんですか……?」
「え……?」
「あ、俺が知らないだけだったらすみません。でも、思い返してみると先輩が人物をモチーフにした絵を出してるのを見たことがないから不思議で」
 訊いてきた鳳は純粋に疑問だったのだろう。真っ直ぐ見据えてくる大きな瞳と目があって、は一瞬だけぽかんとあけた唇をキュッと引いた。
「それは――」
 わずかな逡巡のあとに口を開いたの声を虚しくも掻き消したのは学園中に響き渡る本鈴の音だった。ハッと我に返った二人は慌ててそれぞれの教室へ急ぐことになり、会話は強制的に終了と相成ったのだ。
 もっとも、その後に自分がどんな言葉を続けていたか自分自身でも分からないのだが。――と追想を終えたはいつもどおり放課後の美術室へと足を踏み入れた。
「あ、ー! ちょうど良かった、待ってたのよ。ちょっとこれ見てくれる?」
 同時に明るい顔をしたショートカットの快活そうな少女が瞳に映り、彼女がずいと差し出してきたスケッチブックを受け取る。荷物を置き、椅子に座ってパラパラとスケッチブックをめくったは首を捻った。
「サッカー部……? デッサン練習?」
「うん、昨日、一年生を連れて行って来たんだ。みんな上手いから気抜けなくて」
 へー、と頷きながらスケッチブックに目を通すにショートカットの少女は添削してくれるよう色鉛筆を差し出した。
「良いんじゃない? 難しいカットやってるのね」
 言いながらサラサラとデッサンの狂いを分かりやすく修正してみせるに少女は肩を竦める。
ってさ……、前々から訊こうと思ってたんだけど、人間描くの嫌い?」
 つ、と一瞬言葉に詰まったは顔をあげて少女の顔を見た。
「んー……どうして?」
「だって私、一度もキャンバスに描いてるの見た事ないし。これだけデッサン出来るのにどうして?」
「基本的な技術は欲しいからね……。ピカソなんか小さい頃から完璧なデッサン力が備わってて――」
「もう! 答えになってないよ!」
 横から聞こえてくる質問を流しながらサラサラと鉛筆を動かしていたは、一通り修正し終わると「出来たよ」とスケッチブックを隣の友人に渡した。そして、いったん間をおいて若干声のトーンを落とす。
「大変そうだから」
「え?」
「風景や静物が対象だと気持ちを入れやすいけど、人物相手だとそう簡単にいかないでしょ? 特定の人を描く訳だし、相手あってのことだし」
 言いながらは、自分自身のクセでもある手で四角のフレームを作り、片目を瞑ってそこから見える風景を見つめた。開いた窓からフレーム越しに外の風景をぼんやり見つめていると、眼前の少女が「確かに」と相づちを打ってくる。
「エネルギーはいるかもね……。あ、じゃ私は今日も一年連れて外に出てくるから。三年生いないし、いいよね」
「分かった。頑張ってね、副部長」
「ヘヘッ、荷が重いけどね、二年で副部長なのも。……よーし、一年生、集合!」
 運動部と違い、美術部の体制はすこぶるフレックスである。建前上、日々の出席の義務はあるが活動はほぼ自主性に任せられていると言っていい。は友人の明るい声を聞いて微笑むと自分もスケッチブックを取り出して鉛筆を握った。そうして思う。別に人物を描くことが苦手なわけではない。ただ――興味がない、という言い方に語弊はあるものの、そういう気持ちが強いのだ。まっさらなキャンバスに相対したとき、考えるのはモチーフとなる対象のことだ。だからこそ、そうまでして特定の人物に思い入れることに興味が引かれない。対象が生きている人間となると、自分の一方的な思い入れだけでは良い絵になりそうもなく、かと言って――と一瞬だけの頭に先日聴いた鳳の、ちぐはぐな「別れの曲」が過ぎった。間違いだよ、あれは。鳳くん。だって、と考えそうになった頭を振って一度深呼吸をする。
 余計なことを考えている暇はないはずだ。図らずもさっき話したとおり欲しいのはピカソ並の完璧な技術、と思い直すとそこから一切の邪念は捨て、はひたすらデッサン練習に没頭した。



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