――決勝リーグ二日目。
 その週末に行われた湘北vs海南は海南が白星をあげた。そして湘北は今年のインターハイ出場を絶望的にしたまま最終日を迎え、流川たちの今年の夏は終わりを告げた。

 湘北が予選敗退したことで湘北バスケ部内部はかなり揉めていたという。
 というのも次の部長についてだ。
 桜木か流川か、で意見が真っ二つに割れるも桜木はリハビリ明けのそもそも素人で部長らしい指導はできない。かといって流川も中学時代のように顧問に指導を丸投げというのは高校では通じない。しかしながらサブのポイントガードである流川たちの同級生を部長に据えるのはやや不満。――ということで全員で宮城を説得にかかり、宮城はしぶしぶだったが冬までに流川を主将らしく育てサブのガードを自身の後任にできるまでに鍛えるということを受け入れたということだった。
 しかし。宮城がモチベーションのよりどころにしていたマネージャーの彩子は湘北では成績優等生らしく、受験勉強に専念するためにマネージャー業を引退し彼のモチベーションはダダ下がりだという。

 そんな話を決勝リーグから二週間ほどたった日曜の午後に自身の部屋で流川から聞いたは苦笑いを漏らしていた。
「宮城くんも大変ね……」
「まー……ガードがいねーと困るし、助かる」
「宮城くんの後釜に入るガードって桑田くん……だっけ? 流川くんもこの際、宮城くんがいるうちにガードの心構えとか教わったらどうかな」
 言いながらは机の上に置いてあったいくつかの本を持ってローテーブルの上に乗せた。今日、部活後の流川を家に呼んだのもこれを渡すためだ。
「差し出がましいかなって思ったんだけど……、両親に頼んで送ってもらったの」
 置いた本はNCAA――全米大学体育協会つまりアメリカの大学の競技スポーツを取り仕切る協会の、とりわけバスケに関する解説本である。流川が望むようにアメリカの大学でバスケの試合に出ようと思ったらまずNCAAに個人登録し、かつNCAAに登録されている大学のチームに所属しなければならない。
 他にもはノースカロライナやUCLAといった強豪チームの解説本と、ニューヨーク州のNCAAディビジョン1に所属するすべての大学――願書応募方法や成績の足切ライン――を解説した本を流川に渡した。
「これ……」
「日本じゃたぶん手に入らないと思うの。流川くんが本当にアメリカの大学を受験する気なら、知らなくちゃいけないことがいっぱいあるから」
「英語……」
「このくらい読めないと。そもそもアメリカの大学を受けるならSATを受けないといけないし、いまからいっぱいいっぱい勉強しないと間に合わないよ」
 流川は聞きながらパラパラと資料をめぐって難しい顔をしている。それも無理からぬことだろうが、ここは厳しめに言わなければ本人がのちに苦労するだけである。
「なんでニューヨーク州……?」
「あ、私の両親、今春からトロントに転勤になったの。ニューヨーク州は隣だからアメリカ側に行った時に買ってきてって頼んで……メジャーカンファレンス以外の特集はその地域のしか手に入らなかったみたい。でもディビジョン1の大学の雰囲気も分かるだろうし、それに……前も言ったけどアメリカだとバスケばっかりやってればいいってわけじゃないから、流川くんがなにを勉強したいのか探すのに参考になればいいなって思って」
 聞きながらパラパラと本を流し見ていた流川が顔をあげた。
「あんたはトロントに行くのか?」
「え……う、うん」
「オレがニューヨーク州の大学に行けば……近いのか」
「え!? そ、それはどうかな……トロントとニューヨーク市は飛行機の距離だし、場所によると思う」
 流川は神妙に考える様子を見せた。――アメリカは広いため、流川がどの地域に決めるかはにとってはさして問題ではなかった。資料を読めば分かる事であるが、まずは彼自身が現状がいかに厳しく、どう突破するかをちゃんと自覚して何とか突破することが先である。
「サンキュ」
 少しして流川が資料を閉じてほんのり表情を緩め、も小さく笑った。
 しばらくすると紳一が帰宅して夕飯に呼ばれる。今日はが流川を夕食に誘い流川も家にそう伝えてきている。
 試験時期等けっこうな頻度で牧家に来ている流川であるが、叔母はすっかり流川のファンらしく流川が来ると異様に機嫌がいい。と今日もニコニコしている彼女を見ても紳一も苦笑いを漏らすしかない。
「決勝リーグ、惜しかったな」
「まあ……いまは選抜で勝つこと考えてるんで」
「今年のインターハイは名古屋開催だからな。オレとは里帰りついでに行くつもりなんだが……お前も一緒に来るか?」
「……行かねーっす」 
 部活あるし。とむすっとする流川に紳一は苦笑いを漏らす。――今年の神奈川代表は海南と陵南だ。そりゃ流川はいつもに増して観たくないだろうな、とも頷く。
「流川くんはNCAAでプレイしたいんだから……日本よりアメリカ事情に精通しないとだしね」
「お……そうか、そうだったな。どこか具体的な志望校とかあるのか?」
 ノースカロライナ以外で、と紳一が言うと「イヤ」と流川が口ごもる。
「まだ具体的なイメージはねーです」
「そりゃずいぶん気楽なもんだな。オレが知る限り日本の大学の推薦みたいにゃアメリカは甘くねーぞ」
「お、お兄ちゃん……!」
「流川、お前がもしバスケだけに集中したいってんならお前ならいくつもの強豪から誘いも来るだろう。日本に残るってのも手だぞ」
 紳一はあっけらかんと流川にとっては厳しめなことを言っており、若干ハラハラしつつは流川を見やる。でも紳一のいう事ももっともなわけで――とも過らせていると口ごもって少し逡巡していたらしき流川が口を開いた。
「それがアメリカでやっていくのに必要だってんならオレはやる」
「ほう……」
「そ、そうよお兄ちゃん流川くんにはまだ二年くらい時間あるんだし! あ、でも流川くん……厳しいっていうのは本当だと思う。日本とはやり方も環境も違うしびっくりすることも多いんじゃないかな。でもアメリカの選手はそれで結果を出してるんだし……流川くんがあっちにうまく合わせられたら得られることも多いと私は思う」
「ん……」
 そうしてが双方をフォローしていると、あらあら、と黙って聞いていた叔母が呑気に笑った。
「いいわねーあなたたちはこれからいろんな可能性があるんですもの……。流川君も頑張ればきっといい結果がついてくるわ。それにがカナダに行っちゃうんですもの。流川君がアメリカにいてくれればも嬉しいと思うの」
 ね? と話をふられて「う」とは口ごもる。
「と、隣の国だけど大きな国同士だから近くはないし……」
「あら日本にいるよりは近いでしょう? 流川君、ちょっと気が早いけどアメリカに行ってものことよろしくね」
「うす」
 そうして話が早速飛躍してしまい、当然のように真面目に返事をしている流川を見て嬉しいよりも気恥ずかしさが勝っては乾いた笑みを零す以外にできることはなかった。

 その後、の家で夕食を済ませた流川は帰路につきさっそく自宅に戻るとに貰った資料を開いてみた。
 視界いっぱい広がるアルファベットの羅列に一瞬だけ眩暈がしたものの、や紳一の言う通り、ここで躓いたら完全にアメリカへの道は閉ざされてしまうだろう。
 それに、アメリカ進学に対して流川自身が具体的な情報を持っていないのもまた事実であった。書かれていることを読んで理解することはまさに自分自身のためでしかない。
 取りあえず辞書をそばに置いて読み始める。
 NCAAとはアメリカの大学のスポーツ関連を運営・組織する協会。男子バスケットにはディビジョン1から3までがあり、数字が若い方が規模も大きくレベルが高い。そのディビジョン1に所属する大学は全米で300を越え、それらはカンファレンスと呼ばれる30ほどの地域・実力の近いリーグに所属している。いわゆるメジャーカンファレンスとマイナーカンファレンスに分かれており、流川が名を知っているような大学は全てメジャーカンファレンスのそれもNCAAトーナメントの上位に来るような大学ばかりである。代表的な出身者もまさにNBAで見知った名前ばかりであり、さすがに読みながら流川は息を呑んだ。
 300を超えるディビジョン1の大学のバスケチームは所属選手には奨学金をオファーしており、これを約束されての入学でない場合は試合に出るチャンスすらないと言っていい。その300という膨大な数ですら選ばれしエリートであり、さらのその上の一握りだけがメジャーカンファレンスに所属し、その中でさらに日本で名が知られているような大学は……と考えればさすがに流川でもそれがどれほど厳しいかは分かった。
「NCAAディビジョン1でプレイするには求められるGPAとSATのスコアが……???」
 読み進めていくとおおよその場合の入学条件の具体例が書いてあり、流川は首を捻る。
 とある州立大学の条件としてGPAおよそ3.5、SATはGPAの平均値が高ければ考慮される可能性ありと書いてあった。
 注釈があったので読んでみる。GPAの算出方法を頭に疑問符を浮かべながら長い時間をかけて理解してさすがの流川も目をむいた。
「は!? 平均値オール4以上だと――!?」
 理解した内容に絶句してさすがに額に汗を浮かべた。おまけに英語にて複数科目でSATという試験を受けて求められる点数を出さなければどれだけバスケが上手くても、仮にマイケル・ジョーダンであっても不合格になると少なくとも資料には書いてあり。流川は初めて、具体的な意味で危機感を抱いた。

『アメリカの大学はいくらバスケが強くてもバスケばかりやってればいい場所じゃないの。高校で赤点常連なんて門前払いに決まってるでしょ……!』

 まだ付き合っていなかったころにがああいっていたが……、それでも多少は「なんとかなる」と思っていた。が、どうやらならなそうだ。
 それでも彼女に勉強を教えてもらうことになって以降は一度も赤点は取っていない。とはいえ5段階評価の平均値が4に届くかというと、まだまだ厳しいのが現状だ。
 やべー……ここはもうすこしやって少しでもあとで有利に……と流川は改めて誓いを立てた。
 資料の内容は興味深く、読み進めたい気持ちが勝っていたがまぶたが重くなってきて翌日に回そうとその日は流川はベッドへと入った。
 次の日、流川は資料の一部を持って学校に向かった。あまりに読むのに時間がかかるため空き時間を利用して読むためだ。
 読んでいるうちにアメリカの大学は、が言ったように、学業に重きを置いていることがよく分かった。大学で学ぶ中にバスケもあるという具合で、バスケのシーズンは冬でありそれ以外のチーム練習は禁止されているらしい。おまけに週当たりの練習時間も厳しく管理されているようで、豊富な練習量を誇る流川にはにわかには信じられなかった。が、の言う通りアメリカの選手がそれで結果を出している以上なにか秘訣があるのだろう。
 こうなると学ぶ内容にも目を向けなければならなくなる。
「エコノミー……ポリティカルサイエンス……、フィジクス???」
 学部一覧を見て流川は頭を抱える。――キョーミねえ、とも言っていられない。大学選びはバスケが強ければそれでいいというわけではなさそうだ。
 できるならばディビジョン1の大学がいい。そして自分の興味のある学部のある大学でなければならない。かと言ってバスケ以外で自分ができる事とは……と考える脳に限界が来て、次に流川が気付いたのは昼休み開始のチャイムが鳴った時だった。


 ――数日後。

 はいつものように朝に流川と練習している公園に向かった。
「おはよう」
 そしていつものように先に来ていた流川に声をかけるとやけに神妙な顔をした流川がこちらに歩いてきた。
「頼みがあんだけど」
「え……?」
 頼み? と目を瞬かせていると流川が小さく頷き、こういった。
「これからバスケしてる時……指示とかいろいろぜんぶ英語でやって欲しい」
 予想外の頼みには目を見開く。ジッと流川を見つめて数秒、得心がいった。渡した資料を見て危機感を抱いたんだな、と理解して頷く。
「わかった。いいよ」
 流川はNBAをよく観ているらしいから慣れているかもしれないが。指示やチームメイトからの言葉が日本語でなくなるというのは慣れるまでは結構なハンデになるだろう。理解が遅れればそのぶん動きも鈍るからだ。――というのはその日の練習だけで流川はいやというほど実感したらしく、そろそろ練習を終わろうというころにはいつも以上に肩で息をして芝生に座り込んでいた。
 ――バスケ以外はやりたくない。ともしも流川が言うようであれば、流川のアメリカへの気持ちはその程度だったのかと発破をかけるつもりでいたのだが。どうやら杞憂のようだ。たぶんこの人は頑張るんだろうな、と理解してうっすら笑っていると「なに」と荒い息を吐きながら流川が少し唇を尖らせる。
「ううん……、資料が役に立ったみたいで嬉しくて」
「知りたくない現実だった……」
「でも知らないとたぶん困ってたと思うよ」
「……まーそーだけど……」
 息を吐きつつ流川はドリンクを飲み欲し、汗を拭う。
「まだ入りてー学部とかまったくわからん。経済とかキョーミねぇし」
「んー……、じゃあ将来やりたいことに関わる学部とか」
「? バスケ……?」
 ややキョトンとしたような声には肩を揺らした。やはりバスケしか流川の頭にはないらしい。
「バスケって言っても……現役でいられる時間はながくないし。バスケ関係だったら、コーチング教えてくれる学科とか、スポーツマネジメントとか、スポーツ科学系の学部もあるんじゃないかな」
「スポーツ科学……」
「うん。スポーツ科学の発達で少しずつ色んなスポーツの選手寿命も延びてきてるし……身体の具体的な使い方とか学べたら便利じゃないかな」
 バスケを長く続けるために、と続けると流川は無言で考え込むような仕草を見せた。
 しかし。まだ高校生の流川が現役を引退したあとのことなど想像も付かないが――いずれは考えていかなければならないことだろう。
 10年後の流川と自分が一緒にいるところはあまり想像できないが……と考えてしまうと少し苦しくなってきては小さく首を振るった。


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