試合に負けた時って、どんな気持ちだったっけ……?
 あまり覚えてないな。だって、試合はいつだって勝ってきた。お兄ちゃんと、大ちゃんと、そして私と……。
 だから、私が覚えているのは、ただ、三年前の夏の――。


「大ちゃん…………」
 シンと静まりかえった館内で、白昼夢のように諸星の声がリフレインしては色なく呟いた。
 表彰式が終わってからどれくらいたっただろう? 時間の感覚が完全になくなっている。
 既に観客は自分を除いて全て帰ってしまった。ここにあるのはバスケットコートと、そして自分だけ。
 ふー、とは息を吐いた。
 いつまでもここに居座っているわけにもいかないだろう。重い腰をあげて外に出ると、既に時計の針は15時を指していた。どうやら3時間近くあの場に居残っていたらしい。
 既視感を覚えるな、と思う。世界はいつもの日常で彩られていて、なにひとつ変わらないのに。自分の世界だけが180度変わってしまった――あの三年前の夏の日の――。
 人もまばらのJRに乗り、辻堂駅で降りる。歩いていると見えてきた海南の校舎を前には足を止めた。
「…………」
 なんとなく、そのまま家に帰る気分になれずととぼとぼと校門をくぐって校庭に入ると、部活をしているらしき生徒達がまばらにいた。
 さすがにバスケ部は会場で解散だったのだろうか、と足をバスケ部が使っている体育館の方に向けると、やはり音は聞こえず。紳一ももう家に帰っているのだろうか、などと過ぎらせつつチラリと中をうかがった。
「あ……!」
 すると、中には散らばったボールを片づけている神がいて――思わず声を漏らすと神も気配に気付いたのかこちらを向いて、あ、と手を止めた。
ちゃん」
「神くん……、一人……?」
「うん。今日は表彰式のあとに軽いミーティングと軽めの流しだけで終わっちゃったから、だいぶ前にみんな帰っちゃったんだ」
 オレもいまシュート練習終えたとこ、と神が続けてはハッとして靴を脱ぎ、体育館にあがった。
「あ、片づけ手伝うよ」
「ありがとう」
 ニコッと神が微笑み、二人してボールを拾い集めていると神が学校になにか用事があったのかと訊いてきて、は一瞬だけ口籠もる。
「なんとなく……。帰りたくなくて」
「え……?」
 すると神も動きをとめてなにか考え込むような仕草を見せた。
「陵南のこと?」
「え……?」
「いや、なんかちゃん、ショック受けてたみたいだったから……」
 顔を上げると、神は穏やかながらもどこか複雑そうな表情を浮かべている。
「オレも、ちょっと残念なんだ。陵南には中学で一緒にバスケやってたヤツがいるから、一緒にインターハイいけてたら嬉しかったんだけど」
「あ……」
 言われては紳一から陵南の福田吉兆は神の同級生らしい、という話を思い出した。
「福田くん……」
「そうそう。表彰式のあとに声をかけたら、来年はオレの番だ、って言って行っちゃった」
 ははは、と神が軽く笑う。――神も、暗に仙道にはまたチャンスがある。と励ましてくれているのだろうか。
 だが、そういうことではないのだ。と考えそうな気持ちを押しとどめてどうにか抑え、一度キュッと唇を結んで切り替える。
「そうだ、神くんは今大会のベスト5で得点王だ。おめでとう」
「ありがとう。オレ、出場試合数も総合出場時間も少なかったから取れるとは思ってなくてちょっとびっくりしたよ」
 実際すぐ後ろは流川だし、と続けて神が笑う。
「流川は新人王にも選ばれちゃって、信長が悔しがってたなぁ」
「でも、流川くんの得点王ゲットは神くんが阻止した……。流川くんも悔しいかもね。だって、去年の仙道くんは新人王と得点王の二冠だったし。でも……」
 それでも。去年の仙道も全国へは行けなかった。
 飲み込んだ声は確かに事実で。今年もまた彼が全国へ行けないのも事実なのだ。とは歯を食いしばった。


 仙道のことを、よくは知らない。
 コート上でも、コート外でも、彼はいつも穏やかでにこにこしていて、少しの苦しさも見せない。事実、彼はがむしゃらというよりのほほんとしている印象が強い。なにせ試合をしているか、釣りをしているかという姿しか見たことがないのだから。
 けれど、周囲は彼に異常と思えるほどのプレッシャーを常にかけ続けている。今回も、負けてさえ、仙道が主将となる来年はぜったい大丈夫。そんな声すら聞こえたほどだ。
 が、今までに加えて主将というプレッシャーまで加えるとは……。
 ひょっとしたら仙道は過度なプレッシャーなど何とも思っていないのかもしれない。けれども。でも――彼ほどの選手が、このまま神奈川で埋もれていってしまうかもしれない現実に焦燥を覚えるのも事実だ。だって、こうしている間にも彼のライバル達は死にものぐるいで鍛錬を積んでいるはずなのだから――とはジョギング中の足を止めた。

「仙道くん……」

 週末の土曜、昼。おそらく、この時間は普通ならば部活中のはずだ。
 でも、どう声をかけたらいいのか――。
 防波堤で見つけた仙道の背中を横目で見つめて、はそのままその場を走り去った。

 たぶん、大会終了後から毎日ああしているのだろうな――。

 と、感じつつ翌日の日曜の朝。出かけようとしていると、ちょうど紳一も出かけるために降りてきたらしく玄関で一緒になっては声をかけた。
「お兄ちゃん、出かけるの? 部活は?」
「今日は自由参加にしてもらった」
「え……?」
「今日は愛知県大会の決勝だからな。一応、観にいっとこうと思ってな。お前も行くか?」
 ピク、と自然と身体が撓った。数秒だけ考えて、静かに首を横に振るう。
「いい。大ちゃんの活躍は……全国で見られるから」
 そのまま紳一に先立って玄関を出る。

 パタン、と閉じられた玄関のドアを紳一は靴ひもを結ぶ手を止めて見据えていた。
「あいつ……、まだ気にしてんのか」
 やれやれ、と思いつつ家を出て自分が愛知県大会を見に行くと聞きつけ強引に付いてきた清田と合流して藤沢駅へと向かう。
「なんでお前がついてくるんだ、清田」
「だって、その"愛知の星"ってポジション2番なんでしょー!? じゃあマッチアップはこの清田! 将来のライバルは見ておく必要が……」
 思わずため息が漏れるのを紳一は抑えきれなかった。もしもこの場にがいたら大激怒だったかもしれん。と思えばついてこなくて良かったのかもしれない。
「誰がライバルだ、誰が」
 しかし実際に愛和学院と全国であたったら誰が諸星をマークするのか? 清田では話にならん……などと考えていると、なぜか湘北の桜木とバッタリ会った紳一はそのまま桜木を拾い、引率気分で古巣の愛知へと向かった。

 愛知県予選決勝、愛和学院対名朋工業。既にどちらもインターハイ出場を決めているため、消化試合兼優勝決定戦だ。
 が――。

「巻き返すぞ!! オレたちは一位で全国へ行くんだ!!!」

 あまりに予想外の展開に、紳一は親友の叫びを聞きながら……しばし観客席に呆然と立ち尽くす結果となってしまった。


 その日の夕方に帰宅した紳一がリビングに入ると、やはり試合は気になっていたのだろう。待ちかねたようにソファに座っていたが立ち上がってこちらに歩み寄ってきた。
「おかえりなさい。大ちゃんの試合、どうだった?」
 その瞳は「勝ったか否か」ではなく、諸星の勝利など大前提で「諸星がどう活躍していたか」を聞きたがっているものだ。ふ、と紳一は肩を落とす。
「愛和は準優勝でインターハイ出場だ。諸星のチームは名朋ってところに負けた」
 瞬間、は瞬きをした。一瞬では理解できなかったのだろう。無理もない。まだ自分自身が信じられない思いなのだから。考えていると目を見張ったがなお詰め寄ってくる。
「ま、負けたって、なんで!? 大ちゃんが負けたの? なんで……!?」
「諸星が負けたというか……。あいつは試合開始直後に怪我したらしくて、オレが会場についた時、ちょうどタンカで医務室に――」
「怪我!? ちょっと大丈夫なの!?」
「ああ、ラスト5分で――」
 説明しようとした紳一だったが、次の瞬間にははその場を離れて電話の方へ駆け寄っていた。そのまま無言でダイヤルしている。
「――あ、こんばんは。諸星さんのお宅ですか? 牧と申します。――はい、お久しぶりです! あの、大ちゃんは…………」
 速攻並みの速さだな、と紳一はいっそ関心しながらその様子を見守る。
「あ、大ちゃん!? 怪我したってホント? ――うん、うん。うん、ごめんなさい、ちょっと用事があって行けなくて……。そっか、良かった。うん、もちろん行くよ! うん、今年はぜったい、大ちゃんの愛和が日本一! あはは、うん、今年も海南に勝てるよ、きっと」
 ――おいおいおいおい。お前も海南じゃねえのか。追いつかない突っ込みを入れつつ見やっていると、受話器をおろしたはホッと肩をおろしたあとに笑顔で振り返った。
「良かったー……。大事には至らなかったみたい」
 紳一は、コホン、と一つ咳払いをする。
「ま、そうみたいだな。実際、諸星は試合ラスト5分でコートに戻ってきた。そのあとのヤツは、まあ……凄かったぜ。一人で30点近く巻き返しやがった。特に復帰後一発目のドライブからのダブルクラッチは仙道の数倍以上のキレだったぜ」
 ヤツの十八番だしな、と言うと、ピクっとの頬が撓る。
「それはちょっと違うと思う。仙道くんのダブルクラッチが凄いのは、仙道くんが逆手で打つからだから」
「…………。いや、まあ、そういえば……そう、だな」
 複雑だな、と思うもの指摘自体は正解で、確かに仙道はより難しいことをわざわざやってのけているのだった、と思いつつなおも咳払いをして紳一は諸星のスタッツの詳細を話した。
 事実、怪我から復帰した諸星はたった5分間でダブルクラッチ、ダンクシュート、アシスト、スリーポイントと鬼のような数字を積み上げて猛追を見せていた。惜しくも逆転は叶わなかったものの、ラスト五分で、30点以上の点差が開いていてなお、巻き返せる、と折れないタフな精神力。実際に、やれるかもしれない、と思わせる圧倒的な活躍。諸星は紛れもない、"愛知の星"という二つ名にふさわしいスター選手だ。
「さすが大ちゃん……! シューティングガードの鑑……!!」
 脳裏にはっきりと諸星の活躍をイメージできたのだろう。は久々に明るい顔を見せ、手を叩いて笑顔を見せている。
「冬のウィンターカップだとウチは三位決定戦で愛和に負けちゃったけど……今年は勝てそう? 手強いよ、大ちゃんは」
「分かってるさ」
 ふふ、とが笑い、フ、と紳一も笑みを漏らす。
「お前はどっちに勝って欲しい?」
「んー……、分からないなぁ……。大ちゃんには勝ち上がって欲しいけど、もちろん海南に全国制覇してもらいたいし……」
 選べない、というのが正解だろう。愛知県は紳一にとっても故郷であるし、もしも海南以外でどこに勝ち上がって欲しいかといわれれば、諸星のいるチーム以外にない。
 考えていると、ねぇ、とが呟いた。
「もし、私たち、3人だったら…………日本一になれるかな? 昔みたいに、お兄ちゃんがポイントガードで、大ちゃんがシューティングガードで、私が……」
 フォワードで、と最後は力なく呟いたに紳一は眉を寄せる。
「そうだな。オレたちは……強かった」
「3人だったら……、仙道くんにも勝てるよね……? それとも、3人でも、やっぱり……仙道くんの方が…………」
 の脳裏に浮かんだのは、小学生の頃の自分たちと、高校生の仙道だったのだろうか? 紳一は自然と眉を寄せていた。

 、お前は……本当に仙道が諸星を打ち負かすことを望んでいるのか?
 仙道は、お前とは違う。もしも仙道に自分自身を託しているのだとしたら――。
 もしも諸星の敗北を目にしたら――お前は…………。

 やはりまだ、吹っ切れていないのだろうか。あの、三年前の晩夏の――。
 髪を伸ばして、勉強という逃げ場を作っても、やはり――。

 『今日ってまだベスト16の試合でしょ? お兄ちゃん、いくの?』
 『おう。今年は陵南にいいルーキーが入ったって噂でな。偵察だ』

 少しだけ、紳一は一年前の夏にを陵南の試合へ連れて行ったことを悔いた。
 もしも仙道に出会っていなければ。の、断ち切ったはずの過去の歪みが表へ出ることはなかったのかもしれないのだから――、と。



 インターハイ県予選終了から二週間――。
 陵南は魚住・池上ら三年生が引退をし、仙道をキャプテンに据えての新体制に移行していた。が――。
 ふ、と練習明けの帰り道、彦一はため息を吐いた。今日は土曜日。練習は午前だけの軽めのものだったが、肝心の新キャプテン・仙道はついに姿を現さなかった。
「仙道さん、どないしはったんやろ……」
 もともと時間にはルーズで練習もそれほど熱心とは言い難い仙道だったが、予選終了後、その頻度が増している。
 校門までの坂道をとぼとぼと歩いていると、なにやら校門前にキョロキョロと中をうかがうようにしてそわそわしている女性の姿が目に入り――「あれ?」と彦一は呟いた。
 自分よりも5センチほど高い長身――。セミロングの髪をワンサイドに寄せたヘアスタイル。何より――、"彼"を連想できない顔つき。
「牧さん? 牧さんの妹さんやおまへんか?」
 声をかけてみると、ハッとしたように彼女はこちらを向いた。
「あ……えっと……。バスケ部の人……?」
「はい。一年の相田彦一いいます。ウチになんか用ですか?」
「え……!? あ、その……」
「牧さん家って、ひょっとしたらこのあたりやったりします? あ、名前のほう教えてもらってもいいですか? 牧さんやとなんやお兄さんの方連想してしもて。あ、ワイもみんなから彦一呼ばれてますんで、気にせず呼んでください」
 ついいつもの調子でペラペラと話すと、眼前の彼女は若干退き気味だったが、ふ、と肩の力を抜いたように笑った。
、です。牧
さん、と」
 海南大附属の牧紳一の妹さんの名前ゲットや。と密かに心の中のチェックノートにメモする。確か彼女は仙道と顔見知りのはずだ。――これはチェックごとが多い、と俄然彦一のチェック魂に火がついた。
「あ、もしかして仙道さんに用ですか!?」
「え―――!?」
「けど、今日は仙道さん来てはりませんでしたよ。新キャプテンやっちゅーのに、最近多いんですわ」
 つい漏らすと、え、とは目を見開いた。
「新キャプテン? もしかして、魚住さんって引退したの?」
「はい。ワイも選抜まで残りはると思っとったんですけど……。なんや家庭の事情とかで」
「そっか……。仙道くんが、キャプテン……」
 はどこか憂うような表情を浮かべた。その横顔を見つめて、「ほんま、似てへん」と彦一は改めて思う。どう見ても高校生には見えない迫力のある紳一と比べてしまい、兄妹と言われても信じる人の方が少ないだろう。
 少し憂うような表情を見せたあと、ね、とは彦一の方に視線を流した。
「仙道くん、学校ではどう? 元気にしてる……?」
「え……? あ、ワイ、学年違いますから普段のことははっきりとは言えへんのですけど……。どうやろ、いつも通りやと思いますよ。それに、仙道さんも湘北の流川くん並とは言わへんけど、モテはるんですわ! ワイもクラスメイトからしょっちゅう手紙だのなんだの渡してくれー言うて頼まれて、ワイの姉ちゃんも仙道さんの大ファンやし。あ、姉ちゃんバスケ専門の記者してまして――」
 そこまで言って、彦一は苦笑いを浮かべるに気付いてハッとした。
「すんません! 関係ないことペラペラと……ッ」
「ううん。監督は……仙道くんを無理やり引っ張っていかないの? 部活に」
「それが……、言うても無駄やーとか言わはってて……。それに監督自身、今年のインターハイ行きにかけてはりましたから、大会後からなんや元気ないっちゅーか……」
 自然、彦一の声色がかげりを帯びてくる。事実、監督の田岡は予選後は相当に気落ちをしていて覇気がない。大会前のような鬼のような練習は今のところ出来ていない。
 新生陵南として早めの再出発をすることが来年に繋がると分かってはいても――、まだ切り替えが上手くいっていないのだ。
「あ! けど、神奈川県民として海南の活躍はほんまに祈ってますんで! ワイたちの分も頑張って、全国で大暴れしてくださいって牧さんに伝えとってください!」
「ありがとう。……彦一くん」
「はい?」
「仙道くんに…………」
 そこまで言って、は確かに唇を動かそうとしたあとに口を噤み、キュッと結んでから小さく首を振るった。
「ごめん、なんでもない。じゃ、私……そろそろ行くね。練習、頑張って」
「は、はい! ありがとうございます」
 そのままくるりと背を向けて小走りで坂を下っていったの背を見送って彦一はハッとする。
「ぐあああしもたぁあ!! もっとチェックせなあかんこと山ほどあったっちゅーのに!!!」
 仙道とどんな関係なのか、とか、あわよくば海南のマル秘情報を聞き出す、とか。
 考えたところで、もはや後の祭りである。ハァ、と息を吐いて彦一はそのままトボトボと駅に向かって坂を降りていった。


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