春夏リーグ戦が終わり、大学生活も二ヶ月が過ぎる頃には及川はすっかり新生活に慣れていた。 不満があるとすれば、昨日は久々の日曜オフだったというのにこの時期恒例のの「その日、試験なの。ごめんなさい」という理由によりデートが出来なかった事だろうか。と、やけにスッキリと晴れた空を見上げる。 今日は6月の第一月曜日。――1年前の今日、この時間。自分は仙台市体育館にいた。そして最後のインターハイ出場権をかけて、自分は青葉城西を率いて宿敵・牛島若利率いる白鳥沢学園と戦い、敗戦した。 あの日、筑波大に推薦進学できるかもしれないという僅かな望みが絶たれてもはや自身の未来は閉ざされたのだとショックを受けたものだ。が、結局望み通りの進学が叶ったのだからやっぱり俺って凄い。と思う気持ちもそこそこに、気になるのは今年の宮城県予選の行方だ。 今日の4限目である心理学の講義が休講になった事で、及川は同じく心理学を取っている佐々丘と共に外に出てベンチに座り休息を取っていた。とはいえ、隣では佐々丘は熱心にタブレットに目を通している。曰く休講とはいえ本来は講義の時間なのだから本来の学習に充てる、ということらしかったが。佐々丘を見習って自身も必読の文献を読もうにもインターハイ予選の結果が気になってそれどころではない。 ――仙台は地元に残っている松川と岩泉は昨日から観に行っているらしく、青葉城西は無事に最終日まで残ったことを例の4人用のLINEグループにて教えてくれた。 腹が立つことに烏野も最終日に残っているらしく、両者は決勝戦で顔を合わせる組み合わせらしい。他は順当に白鳥沢が勝ち上がり、とはいえ牛島を欠いた事で去年ほどの強さではないらしいが及川としてはまあ納得だった。残りの一つはブロックに定評のある伊達工業高校で、最終日の顔ぶれは及川としても予想の範囲内だ。 携帯を見やると時刻は15時近い。そろそろ表彰式も終わった頃ではないだろうか、とディスプレイを睨んでいると急に携帯が震えて及川はビクッと肩を揺らした。 件のLINEグループだ。急いでタップして、及川はこれ以上ないほど瞼を持ち上げ目を見開いた。 ――速報! なんと烏野優勝! そこには松川からのメッセージが入っており及川は思わずベンチから立ち上がった。 「ハァッ!!??」 隣で佐々丘がビクッと反応していた気配がしたが、構ってはいられない。 ――へえ烏野やるじゃん。ウチの後輩たちどうなの? ――ウチは準決勝で伊達工に負けた。 ――マジか。って事は伊達工準優勝かよスゲーな。 LINEには花巻が話に加わり、松川が答えている様子が流れている。そしてそれは及川の感情などお構いなしに続けられた。 ――及川の後輩クン、ベストセッター賞取ったぞ。さすがだよな。 ――マジか。やっぱ及川の後輩だな。 ――金田一、表彰式後になぜか号泣。 ――は? 表彰式? なんで? ――烏野のセッターと元チームメイトじゃん? 健闘讃え合ってとかじゃねえの? ホレ写真。 及川の意識が追いつかないまま会話が続き、そしてLINE画面には写真が一つアップされた。タップして大きく表示するまでもなく、それはベストセッター賞の賞状を握りしめる影山の肩を抱いて泣いている金田一と、同じく肩を叩いている国見の様子を観客席から松川が撮ったらしき写真だった。 「……ッ……」 一気に及川の脳裏が与えられた情報を正確に処理して、ようやく意識が追いついた。烏野が――影山が自分の成し遂げられなかった県制覇を達成し、インターハイに出場すること。影山が自分と同じようにベストセッター賞を獲得したこと。 「及川……?」 不審げに声をかけてきた佐々丘を振りきるように及川は携帯の操作した。 「ごめん佐々っち、ちょっと電話する!」 そのまま逸る気持ちで岩泉へと電話をかける。おそらく岩泉も自分からかかってくることを予測していたのだろう。2コールほどで繋がり、及川は声をあげた。 「あ、岩ちゃん? 久しぶり俺だけど、ねえ飛雄がベストセッター賞ってどういうこと!?」 「あー……、どうもこうも、その通りだ。そりゃあの伊達工のブロック振って勝ってんだもんよ。そりゃ賞の一つも取るべ」 「だろうね飛雄、腹立つけど天才だしね」 「相変わらずお前めんどくせぇわ」 「ヒドイ!!!」 ――言いながら、自分以外の誰かが影山を差し置いて県内一のセッターになられても困るという自分の中の葛藤と矛盾を自分で悟って及川はギュッと携帯を握りしめた。それはそうだろう。影山は自分が認めた「天才」。技術を重視するセッター賞はむしろ必然だ。問題はそこではなく――。 「なんで烏野が優勝してウチは4位止まりなワケ!?」 「知るか! 強いて言うなら伊達工デカすぎんだよ、しゃーねえだろ!」 「俺はインハイ行けなかったのに飛雄は行くとかズルくない!? 今年の白鳥沢なんなの!?」 「俺たちの下の世代は中学の頃から白鳥沢一強じゃなかっただろうが」 「つまりウシワカ野郎のせいだよね!?」 そこまで捲し立てると、携帯の先から盛大なため息が漏れてきた。 「ま、今年の烏野は強かった。それだけだ」 「飛雄が全国に出たら、みんなが飛雄に注目しちゃうじゃん! あいつ……これでもう進学決まったようなもんじゃん」 「及川……」 「まあ別に、飛雄がどう進むのかなんて俺は知らないし、関係ないけどね! それと矢巾にお前もっと頑張れって伝えといて!」 じゃあね、と話を終えて通話を切り、及川は肩で息をした。しばらく無言でそのまま立ち尽くし、ふとハッとして後ろを振り返る。すると案の定、やや困惑気味にこちらを見つめている佐々丘がいて、及川はヘラッと笑ってみせた。 「ごめん佐々っち、うるさかったよね」 「いや……まあ。……宮城のインハイ予選、終わったのか?」 佐々丘は困ったように目を揺り動かしてから、どこか慎重に当たり障りのない言葉を選んだのかそう聞いてきて、及川は「うん」と頷きつつベンチに腰を下ろした。 「それが俺の中学の頃の後輩がいるチームが優勝したみたいでさー」 「へえ、白鳥沢じゃないんだろう? 宮城から白鳥沢以外が出てくるの、久々だな。確か……俺が覚えている限り、中学一年の頃だったか。春高に宮城から強いチームが出たことあったな。何だっけか……烏……なんとか」 「あ、そこデス。烏野高校」 すさまじい佐々丘の記憶力に感服しつつ頷くと、そうか、と佐々丘は相づちを打った。 及川は気怠げにベンチの背に体重をかけ、ぼんやりと空を仰いだ。 「俺さー……、一度も全国出たことないし、正直烏野はライバル校の一つだったし。もう俺は卒業しちゃって関係ない人間だけど、やっぱ知ってる奴らが全国行っちゃうと胸中穏やかじゃないというか」 皆までは言わなかったが、少なくとも及川には金田一たちのように素直に烏野や影山を祝ってやることは不可能で。かと言って身体の芯から湧き出るような激しい感情はいまはなく。思ったままを呟くと、佐々丘は「そうだな」と応えた。 「俺は……むしろ不思議に思った。この二ヶ月お前を見てきたが、俺はお前を優秀な選手だと思うし、伸びしろもまだまだある。筑波はいい素材を見つけてきたと感心した。だから全国未経験なのが不思議だった。お前ならいくらでもチャンスはあったんじゃないのか?」 「あー……、それは、なんで白鳥沢に進学しなかったのか、って意味?」 「まあ……そうだな」 あっさりと言い下され、及川はうっすら眉を寄せた。内情を知らない佐々丘にいつものように激高するわけにもいかないし、そもそも佐々丘の疑問は客観視すれば当然だろう。 ハァ、と及川は肩を落とした。 「俺の中学……、宮城じゃかなりのバレー強豪校だったんだよネ。俺もなんていうか、そこそこ自分の力に自信あってサ。けど、3年連続万年準決勝。一度も白鳥沢に勝てなかった。そこで及川少年は思ったワケさ。高校でリベンジしてやる、ってね」 軽く皮肉混じりに言い下すと、佐々丘は少し目を見開いた。その顔を及川は覗き込む。 「どう? バカみたい? その結果、またも三年連続決勝敗退ってオチだしね」 「いや、まあ気持ちは分かる」 「でも選択ミスって思うんだよね?」 「ある意味ではそうだろうが、そうでもないぞ。お前が白鳥沢に行っていた場合、お前は少なくとも高確率で筑波には進学していない。それは勿体ないと思う」 すると佐々丘が口元をやや綻ばせながらそう言って、及川はキョトンとした。そして数秒後に肩を揺らして笑う。 確かに……、とひとしきり笑っていると、佐々丘はなおも目を細めた。 「過去は、過去だ。お前はこれからいくらでも全国大会に出るチャンスがある。もしかしたらその先も掴めるかもしれない。そういうチームにお前はいて、それで良いんじゃないか」 言われて及川は目を見開く。そうこうしているうちに佐々丘は立ち上がって、自身のバッグを背負った。 「そろそろ行くぞ。5限目始まる」 「――うん」 及川も少し口元を緩め、ベンチに置いていた自身のバッグを背負って佐々丘に並んだ。 ――いずれ、あと二年後。おそらく自分は再び影山と相まみえるだろう。いずれは負けてしまうかもしれない天才・影山飛雄。でもそう簡単には抜かせない。出来ればずっとずっと一歩前を歩いていたい。そして一生、及川さんには敵わない、って思ってればいいんだよ、飛雄は。と、何度も何度も思い描いた事をもう一度過ぎらせつつも、及川ははっきりと前を向いた。 そうして7月に入れば、の大学はそろそろ試験期間に入る。 及川は主立った試験があるのは8月上旬らしく、の方が先に夏期休暇に入るためにしばらく付きっきりで勉強を見て欲しいと頼まれていた。曰く、特に解析学の中間試験が芳しくなく学期末で巻き返したいということだった。 おそらく及川にとっては高校までの能力値の上を行く大学であるため周囲に比べて不利なのは自覚しているらしいが、それでも好成績を収めたいのだという。何でもそうすれば単位取得制限が広がって学べる機会が増えるかららしいが――及川がこうも勉学に熱心になるとは中学の頃を思えば随分と変わったものだと思う。むろんそういう理由なら出来る限り手助けしたく、は了承の返事を送っていた。 にしても。数学はともかくも、及川はビギナーとはいえフランス語の成績はそこそこ良いらしく、やはり喋るのが好きな人間に語学というのは有利なのかな、と思う。 の方もつい昨日、先月受けた試験の合否が出て、無事に受かった旨を報告しに単位外のフランス語を受け持ってくれているフランス人の講師の元へ向かっている最中だった。 「おめでとう、!」 アポイントメントを取っていた時間ちょうどに教官室を訊ねて試験の結果を告げれば、中年に差し掛かったフランス人の男性講師はニッコリと笑って湛えてくれた。むろん、会話は常にフランス語だ。 「君のフランス語はとても素晴らしい! フランスのどのグランゼコールに入っても恥ずかしくないレベルだよ」 「ありがとうございます」 「はフランスへの留学は考えてないのかい? 夏期休暇中だけでも色々なカリキュラムがあるよ」 「あ……、そのことなんですが――」 それをキッカケとして、は自分がエコール・デ・ボザール・パリへの交換留学を希望している事を告げた。すると第一声に彼は「素晴らしい!」と賛同する。 「パリ・ボザールは素晴らしい学校だよ! だけど……、交換留学の対象は主に院生ではなかったかな?」 「はい。なので……もしダメだった場合は来年、受験しようと思ってます。もう受験資格は満たしているので」 「え……!? せっかく芸大に受かったばなりなのに、辞めちゃうってことかい?」 「そう、ですね。一年遅れてしまうので、できれば交換留学という形で行って……その後を決められればと思っているんですけど」 辞める、という単語に講師の顔が強ばった。しばし考え込んだ彼は「うーん」と唸る。 「なら大丈夫かもしれないね。大学も……君に辞められたらちょっと困っちゃうだろうしね」 自身が描いている青写真は、来年度の交換留学生に選ばれてパリへ行き、そのままパリ・ボザールに編入してパリに残るということだった。どのみち芸大に卒業まで残るつもりはないが、出来れば一から受験し直すよりもまずは交換留学生として行きたいと言うのが第一希望だ。 そう、どのみちもうそれほど長く日本にはいない。一緒にいられるのも――長くてあと一年かな、とは脳裏に及川の姿を思い浮かべて無意識に手を握りしめた。 『ぜっったいないと思うけど、ちゃんが東京行っちゃうより先に別れちゃうかもしれないし。ぜったいないと思うけど』 『だからそんな先のこと心配するより、いま俺と一緒にいてよ』 付き合うときにそう言われて、了承した。 及川は自分の希望進路を熟知しているし、分かっているはずだ。だからこそ側にいられる間はずっと側にいる、というのが暗黙の了解なのだ。 いまはあまりいずれ来る分かれ道のことは考えずに、出来る限り及川と一緒にいよう。――と、7月の試験期間を乗り切り前期の授業を終えた翌日。土曜日。 は午後になってから小旅行程度の荷物を抱えて家を出た。今日から及川の勉強を見る約束をしているため荷物は泊まり込み用である。及川の部屋に自分の生活用品も置いてあるにはあるが、長期滞在は想定していないためだ。 電車に乗り、いったん上野へ向かう。美味しいと評判のケーキ屋にケーキを注していたため、取りに向かうのだ。今日は7月20日、及川の誕生日でもある。 まずデパートに寄ってデパ地下で身体に良さそうかつパーティ向けの総菜を購入してからケーキを取りに行き、筑波へ向かった。 試験前・期間中に関わらず部活はあるらしく、しかしながらこの時期は遠征は控え試験に備えるということで及川も自主練はせずに練習後には部屋に戻るという。 生憎ながらデートは出来ないが、及川は午後には戻ると言っていたしゆっくり食事は出来るだろう。 17時半を過ぎた辺りで及川のマンションに付き、インターホンを押してゲートを解除してもらい中に入る。部屋の呼び鈴を鳴らすと程なくして及川がドアを開けてくれた。 「いらっしゃーい!」 「こんにちは。及川くん、お誕生日おめでとう!」 言うと及川は、へへへ、と肩を揺らした。 「ありがと。ていうかちゃん凄い荷物だね!?」 「色々美味しそうなお総菜とか買ってきちゃった」 及川は手を伸ばして下げていた荷物を持ってくれ、も「おじゃまします」と部屋にあがって額に滲んだ汗を拭いつつ、洗面所で手を洗わせてもらう。 「外、暑くなかった? 東京……ってここ茨城だけど、俺暑くて毎日死にそうなんだけど」 「うん。仙台も夏は暑いけど、こっちはもっと暑いね」 話しつつケーキや総菜類を冷蔵庫に仕舞い、取りあえず及川のスケジュールと試験科目を聞いた。一覧が記載されたペーパーを見ていると及川が肩を落としつつやや自信なさげな声を漏らした。 「おおよその科目はちゃんと同期と予習復習やってるから、ヘーキなはずなんだけど……。とにかく理数系以外は何とか自力で乗り切るし」 は及川の話を聞きつつ思った。力学系までとっている。とはいえスポーツ専門なのだから力学はまだ分かるとしても、つくづくなぜ解析学を取ろうと思ったのだろうか、と。自分の場合は純粋な知的好奇心と血筋で理数系分野を好んでいるが……。とはいえ高度な専門性がないだけで体育専門も理数系に分類される科目はあるし、とマジマジと見つめる及川のスケジュールは多岐に渡っている。医療系の学群からも授業を取っているようで、そのバラエティの富み具合にはいっそ感嘆した。 「いいなあ……、面白そう……!」 「面白いけどキッツイ!」 「でも、同期の人も同じような科目を取ってるってちょっと安心だよね。話し合ったり出来るしね」 「まぁね。たぶん俺、そいついなかったら割とほんとにやばかったと思う……」 曰く、及川としてはきちんと日々の生活の中で勉強時間を確保してるらしかったが完全には追いつかず、優秀だという同期と合間合間で授業内容を確認し合う事で理解を深めているらしい。 その同期さえも難しいという科目のために自分がここに来たのだが、とあらかじめ自身が用意していた資料教材を出しつつ及川の勉強ノートを出してもらって見やる。解析学に関しては微積が散々、ではないものの中間テストの結果が芳しくなかったらしい。だが、中間以降に焦点を合わせられるのは範囲が狭くなりラッキーである。――導関数、テイラーの定理が主だ。――でも導関数の基礎って高校でやらなかったっけ、とは頭を抱えた。 訊いてみると覚えてはいるが要求される内容が高度、らしい。取りあえず夕食までの少しの間、全体の復習から入ろう、とは小一時間ほど及川が特に躓いたという部分の解説をしていった。 及川が数学を好きだと感じている以上は、分かって解ければ面白いはずだ。30分ほど話した辺りで初めてピンと来たのか、ほわ、と及川の表情が変わった。 「ちょっと分かってきた……! やっぱちゃん教えるの上手いね!」 「ありがとう」 そのまま続けて19時前になると、そろそろ夕食にしようかと一旦勉強をストップした。 気持ちを切り替え、及川の誕生日用に二人で食材を盛り付けていく。 そうしてケーキもテーブルにセットしてロウソクに火を付け、の買ってきたノンアルコールのシャンパンで乾杯した。 「あらためてお誕生日おめでとう」 「ありがとちゃん。去年は18歳で何だか俺もオトナかな、って思ったけど19歳だとそういう感慨も沸かないよね」 「一年、あっと言う間だった気がする……」 「ホントホント。去年はスタバでお祝いしてもらったんだよね」 そう言えばそうだったな、とは言われて小さく笑った。及川はこういうイベントごとではたいてい女の子に囲まれていたし、思えばゆっくり二人で及川の誕生日を過ごすのは初めてだ。 そう思うとやっぱり嬉しい、と頬を緩めていると及川も笑いつつ「ね」と真っ直ぐこっちを見つめてきた。 「来年もこうやって一緒に過ごそうね」 「え……?」 「来年、俺たち二十歳じゃーん!」 急に話が来年に飛んでが面食らっていると、及川はどこか茶化すように笑った。かと思うと少しだけ縋るような瞳で見つめてくる。 「俺がオトナになったとき、そばにいてよ」 ね? と囁くように言われて、ドク、と胸が脈打つ。――来年のこの日、自分はどこにいるのだろう。と無意識のうちにギュッと手を握りしめていると、いつもの調子で及川がヘラッと笑った。 「俺、初乾杯の相手はちゃんって決めてんだよね! 一緒にビールデビューしよ!」 「え……と、で、でも私、及川くんより早く二十歳になるし……」 「えー、いいじゃん一ヶ月くらい待ってよー!」 少しだけ頬を膨らませながらも及川は笑い、は傍目には分からない程度に眉を歪めた。お別れしたら、こんな幸せな時間を過ごすことは一生なくなってしまう。――なんて考えても意味のないことは考えないようにしなくては。と押し込めて笑ってみせる。 あとでケーキを食べようと、いったんケーキは仕舞ってから食事にして食後のデザートとして二人でケーキを食べ、コーヒーを飲んだ。 夜は二人でゆっくり過ごして翌日に及川を部活に送り出してからはあらためて課題に向き合った。 及川のノートは高校の頃からだが、割と分かりやすい。何が分かりやすいかというと、要所要所に「分かんない!」や「ちゃんにきく!」等々の愚痴めいた事が書いてあるおかげでどこが分かっていないのか明確なのだ。 取りあえず解析学と力学が理解できれば体専の理系科目にも応用できるだろうという前提のもとで及川用の資料を作り終える頃には昼過ぎになっていた。 ――及川は普段の食生活は管理栄養士からのチェックとアドバイスが入っているという。週末は作り置きの料理を作る時間を設けているらしいし、今日も帰りは買い物をしてから帰ってくると言って出かけた。 キッチンの棚にはレシピや管理栄養士から受けたらしき助言を綴ったノートが置いてあるが。――本当にしっかり生活しているな、と一読して自身の好きなだけ絵を描いているだけの日常とつい比較してしまい苦笑いを漏らし、パタンとノートを閉じた。 |