翌週――、は集中講義が入っているらしく週中にいったん自身のマンションに帰ったが、及川は普段通りの授業だ。
 サーブ練習の時間確保のために朝はサーブ練習に費やし、がいない数日は練習後に佐々丘と連れだって近くのファミレスで試験対策に勤しんだ。客はもとよりほぼ全員筑波大生である。
 心理学や理論系の科目は、お互いに提唱者や理論内容の確認・展開のさせ方を確認し合い――とはいえおおよその場合は及川は佐々丘の解説をただ聞くだけだったが――、記憶の漏れがないか細々と確かめ合った。
「すいませーん、スイーツ盛り合わせ追加お願いしまーす」
 根を詰めた辺りで及川は呼び出しボタンを押してやってきた女性店員にいつも通り笑いかけながら注文した。
 甘いモノでも食べなければやっていられない。普段ならこちらの食べるものに厳しくチェックを入れてくる佐々丘も何も言わず、ジッと見つめるのみだ。
「甘いモノ食べないとやってらんないよ」
 一応、言い訳してみると「そうだな」とやや疲れたように肩を落とした彼が開いているのは解析学のテキストとノートだ。
「佐々っち、やっぱソレ難しい?」
「まあ……それほど自信はないな」
 中間テストの結果は及川よりも佐々丘の方がはるかに良かった。が、彼は元々バリバリの理数系ではないらしく、自然科学よりは社会科学の方が好きで得意らしい。「お前は?」と訊かれて、んー、と及川は唸った。
「いま猛勉強中で理解しかけてる最中なんだけど……」
 佐々丘はたいていのことは全て及川に教えてくれていたが、に教わっている科目だけは例外であった。
 及川はちらりと佐々丘のノートを覗き込み、頭を悩ませているという問題を見てみた。――テイラー展開とその応用だ。が数日かけて根気よく教えてくれ、ようやく理解にこぎ着けたシロモノでもある。
「あ、俺それ分かるかも!」
 とっさに言葉が口をついてでると、少しだけ佐々丘が目を見開いた。
「――ほんとか!?」
「うん。教えよっか?」
 頷いた佐々丘に及川は彼の向かいから隣へと席を移動し、幾度となく解いてその都度に何度も教わった問いをの解説を思い出しながら丁寧に解説していった。そして及川は不思議な感覚に襲われる。に教わって理解したことを同じように教えているだけだというのに、自分でもなぜかいま「あ、完全に理解した」と感覚的に悟るような不思議な感情が沸いてきたのだ。
 佐々丘はというと一度やって見せただけではやや首を捻っていたが、もう一度解説を加えて2度ほどやってみせると得心がいったように頷いた。
「どう?」
「分かった。サンキュ」
「いえいえ。ていうかコレだけで分かるとか佐々っち凄すぎ! あ、解説が良かったって事かな??」
 さっすが俺! とうっかり素の調子でピースサイン付きで言ってしまい、及川はハッと口を噤む。佐々丘は一瞬目を見開いたあと、フハッ、と笑った。彼が破顔するところを見るのは初めてだ。というか素の自分を晒しても割と受け入れてもらえるかも、などと思いを錯綜させていると佐々丘がこちらに目線を流してくる。
「正直、予想以上に分かりやすかった。助かったよ」
「そ、そう……? や、でも俺も……なんかいま佐々っちに教えながら、ようやく理解したようなカンジがしたんだよねー」
 やや気まずさを誤魔化すように軽い声を出しつつ元いた席へと戻る。すると佐々丘はキョトンとしたような顔をしたあと、なぜか頬を緩めた。
「だろうな……」
「へ……?」
 及川が目を瞬かせると、佐々丘は一息入れたかったのだろう。コーヒーカップを手に取った。
「”人がもっとも成長するのは、他人に教えている時”だそうだからな」
 ビジネス書曰く、と佐々丘は付け加える。実際にそれは彼が強く実感している事であるという。聞いている及川はというと、複雑な心情が胸に飛来していた。

『及川さん、サーブ教えてください!』

 もしも――、もしも影山を受け入れていたら?
 もしも佐々丘の言う通りならば、自分は彼の踏み台などにはならず共に成長できたのでは……。などと考えそうになって無意識に唇を噛み締めた。
「ともかく、いまは期末に集中するぞ」
「え……、うん」
 佐々丘の声にハッとして及川は意識を戻す。考えてはいけない。彼の言う通り今は試験に集中しなくてはと再び自身の勉強の意識を向ける。
 そうして試験最終日。
 ――試験が終わるまで、メールはフランス語でしよう。というありがたい取り決めによりからはけっこうな頻度で添削メールが返ってくるため、が頻繁にメールで構ってくれて及川としては嬉しく、試験準備期間で一番伸びたのは結局フランス語だったという何とも言い難い結果となったが、無事に試験が終わり結果は神のみぞ知るであるものの及川はホッと胸を撫で下ろしていた。
「やっぱり帰っちゃう?」
「うん。仕上げたい絵とか描きたい絵とか色々あるし……。それに及川くんも部活忙しくなるんだよね?」
「そうだけどさー……」
 その試験明けの春学期の最終日、さっそく荷物をまとめて自身のマンションへ帰ろうとするを見送りつつ及川は頬を膨らませながらため息を吐いていた。
「俺まだ一緒にい足りないよー……。勉強ばっかしてたんだしー」
 未練がましくの肩に頭を乗せてじゃれついていると、どこか呆れと困惑が混ざったような苦笑いがから漏れ、むぅ、と唇を尖らせる。勉強ばかりだったとはいえ毎日が家にいてくれるのはむろん楽しかったが、恋人らしい触れ合いをしている余裕はそうそうなかったためその辺りは不満である。
「お盆……どっか行こうよ。中高と違ってオフ長いし、帰省の予定も入れてないしさ」
 というか早々に盆休みの旅行予定を立てておくべきだった。いまからだと厳しいかもしれない。
 ギュッと抱きしめた先でが頷いてくれ、及川はようやくを解放して共にマンションを出て最寄りのバス停までを送った。
 バスを見送って、ふぅ、と息を吐く。ともあれ勉強に一区切りも付き、しばらくは気持ちをバレー一本に集中しなければならない。
 正セッターで主将でもあるキャプテンは4年。つまり、来年は早々にレギュラー入りのチャンスがある。はずだ。
 きっと監督もそれを見越して採用してくれたはずであるし……、と思い気合いを入れ直して今日も部活に赴くも、相も変わらず自分の練習メニューの比重はウィングスパイカーのそれに偏っている。それに、実はまだ一度もレギュラーメンバーに練習でトスを上げたことはない。が、さすがにそれはおこがましいか。と感じていると不意に監督に呼ばれた。
「及川、君は今年の高校総体を観たかい?」
 瞬間、ゲッ、と及川はうっかり口から出かけた。
「イイエ。試験期間中だったので勉強してました」
 ――録画は一応しているし、内心気にはなっていたが、さすがに勉強を優先させて見ていない。
 そうか、と監督は続けた。
「私も録画していたものを何試合か観たんだが……、宮城代表に凄いセッターがいたぞ。知り合いだったりするのかな?」
「あー…………。はい。ええと、後輩ですたぶん。中学の頃の」
 飛雄のことか、とすぐに悟り、ウソをつく理由もないため一応は正直に答えつつもどうしても目線が泳いでしまう。
 なるほど、と監督は笑った。
「もしかすると、と思ったよ。ブロック、サーブ、スパイク。なにをとっても君にそっくりだったからね。君が教えたのかな?」
「エッ!? あー……さあ、どうですかね。後輩は二つ下なんで、実際に接したの数ヶ月ですし、高校は別でしたから」
 教えたんじゃなく勝手にコピられただけ。とは言えず、及川の目線は下を向いてしまう。――自分が高校三年の頃の影山は、あくまで中学の頃の自分を手本にしていたが。彼が高校二年になったいまは高校時代の自分を手本にしているのかもしれない。だとしたら、少しずつ改良を加えていったサーブのモーションなんかもコピーされてるのだろうか。録画で確認するの気が重い。それにどうせトス技術では敵わないんだし。と気が沈みかけたところで監督が話を変えた。
「すまない、ちょっと気になってね。本題に入ろうか。盆のオフ明けの下旬に法政学院と練習試合が入っているのはマネージャーから聞いてると思うけど、君をライトで使おうと思っているんだよ」
「え――!?」
「午後からキャプテンの指示でレギュラーチームの練習に混ざってもらうけどいいかな?」
「あ……はい!」
 返事をしつつ及川の脳裏に相反する二つの感情が駆けめぐる。試合に出れる、嬉しい。という昂揚と、なぜにライト起用なのか、コンバートはイヤだ。というネガティブな不安だった。
 とはいえレギュラー陣に混ざれるのは思ってもみないチャンスであり、昼食を挟んで午後の練習が開始されると及川はやや緊張しつつも指示通りに主将の下へ向かった。

 その日、帰宅後――。
 及川は一人意を決してインターハイの録画を再生、鑑賞した。
 眉間に皴が寄りっぱなしで無意識に低い唸り声をあげっぱなしなのは外でもない、中学時代の後輩の活躍のせいだ。実況と解説が追い打ちをかけるようにその後輩を過剰に持ち上げるものだから更にイライラが加速する。
「ほんっと腹立つ! また上手くなってるし!」
 唯一の救いは影山は絶対に自分の大学には進学しない。と確信を持てる部分だろうか。本当に筑波大を選んで良かった、とどうにか良い方向に考えて試合終了を待ちビデオを切る。
 ふーっと息を吐いて考える。明日から晴れて夏休みだというのにイライラしているのはもったいない。というか。そうだ。盆のオフにどこかに出かけようと提案してOKを貰ったばかりではないか。これは記念すべき初旅行のチャンス、と思い至った及川はパッと気持ちを切り替えてパソコンの前へと座った。
 意気揚々と目ぼしいところを検索してしばらく、盛大に及川はがなる。
「たっかい!! どこもここもたっかい!」
 さすがにトップシーズン。及川は唸った。
 と付き合っていて、基本的に問題になるのは自身の財布事情だったりする。なぜなら自分の予算に対してが出せないという事がまずないからだ。よって最高限度額を決めるのは自分である。

 ――お盆、どこか行きたいところある?
 ――景色の綺麗なところがいいな
 ――泊まりでもイイ?
 ――うん

 とりあえずにメールしてみるもからのリクエストは相変わらずで、しかし当然ながら二人きりでの旅行は初めてで及川は思わずガッツポーズをした。
 そういえば去年の夏、今度は二人っきりで温泉に行こうと約束したしここはやっぱり温泉かな。と温泉と景勝地に絞って探していく。近場だと……、そうだ日光があるではないか、とさっそく検索をかける。そして。
「たっかい!! どこもここもたっかい!」
 温泉付きの宿泊施設、ましてあわよくば部屋に露天風呂付き、というと二人きりで温泉を楽しむという自身の願望を詰め込んだ旅館やホテルはどこも及川には手が届かず思わず地団駄を踏む。……いや、自分は至って普通の大学生なのだからこんな予算出せなくて当然だしぜんぜん普通だし。むしろポンと払える方がおかしい。と、おそらく問題なさそうなやどこぞの財閥のおぼっちゃまの顔を浮かべつつ及川は深く息を吐いた。
 と一緒にいられるならどこだっていいが、やっぱり温泉は諦めがたい。と粘り強くリサーチしてしばらく。お盆ど真ん中という日程は無理だったが、数日あとであれば一泊で予算内、しかも個室露天風呂付きのホテルを見つけて及川は感嘆の声をあげた。
 すぐさまに予約してもいいか聞く。そして了承を得てから及川は直ぐに予約を入れた。心内でガッツポーズをする。
 と二人きりで温泉……、と昂揚する脳裏に過ぎったのは去年のことだ。去年のプールでのデートの時は初めてみるの水着姿にあまりにドキドキしすぎて顔を見ることさえ緊張したものだ。と、やや目元を赤らめ少し唸ってからブンブンと首を振るう。
「いやいやもうあの頃の俺とは違うし二人で温泉とかぜんぜん平気だし!」
 とはいえ。一緒にお風呂に入ったことはまだないし……いやでもそれはこの部屋の狭さが理由でが今さら嫌がるとは思えないしきっと温泉楽しみにしてくれてるし。
 でも。だけど。ヤバイ……と期待と昂揚で勝手に口と頬が緩んでくる自分をどうにか抑えようと及川は自身の大きな手で口元を覆った。



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