春の風物詩。――というとにとっては北川第一時代から続く、いわゆる入学式・始業式で見られる「及川フィーバー」であったが、大学だとさすがにそこまではないのだろうか?
 入学式を終えた翌日にオリエンテーションをこなしつつはそんなことをぼんやり考えていた。筑波大は今日が入学式だ。

 当の及川は自分の所属する体育学専門学群の式典時間に間に合うよう大学会館講堂に向かった。スケジュール表によれば美術や医学等々の学生と共に入学式をやるようだ。
 平日であるし、両親はもちろん上京などしてくるはずもなく――、講堂に入れば学生・保護者問わず彼らがこちらを注視してザワつくのも慣れたものである。むしろいままででいちばん大人しい反応だ。全体的に男子学生の割合が高いし、そのせいだろうか?
 けれども。女の子に騒がれるのは嬉しい反面、「もう少し静かに過ごしたい」と少し思っていた事も事実で。試合の応援は別として、普段はこの程度が喜楽かもしれない。と思いつつ空いていた席に座った。
 入学式が終わっても正規授業が始まるまでには数日ある。そんなわけで、及川は基本的には部活に重点を置いた。むろん新入生歓迎の各種コンパに興味がないわけではなかったが、顔見せ程度で十分だと判断した。
 なぜなら……、他人が遊んでいる間に自分が少しでも伸びれば有利になるからだ。
 最初こそ関東一部リーグという自分の実力より数段上のレベルに混ざるのが不安でたまらなかった。が、こちらを追いかけてくる後輩の影に怯えるよりは、追いついて追い越してやるという立場の方がよほど気が楽なのだとすぐに気づいた。だから他人が新歓だ何だと気が緩んでいる時こそチャンス――と考えるのはさすがに及川だけではなかったようで、入学式の直後には一般入試を経ての男子バレー部入部希望者はほぼ出揃った。がぜん及川も気合いが入る。
 二次リーグとはいえ、プロと共に練習できるという環境も及川にとってはありがたかった。
 元より、全国にも出たことがない未経験な無名選手、という肩書きなのだ。悔しいと思う反面、やはり気は楽だ。
 それともう一つ、及川は学業スケジュールの組み立てに熱を燃やしていた。なぜなら、筑波大の特徴として基本的に他の学群の授業も選択できるからである。
 が――。
「ゲッ、フランス語二年からしか取れないじゃん……!」
 第二外国語はフランス語と決めていた及川だったが、体育専門はあまり語学を重要視していないのか第二外国語は望んだ場合によりようやく二年時から取れる仕様になっており、むー、と唇を尖らせてから及川はハッとした。
 ――額面通りに受け取ったら負けである。取りあえず担当に聞いてみればいいのだ。
 もしも成績が良ければ二年次からは単位取得制限の縛りも弱くなるようであるし、やはり大学。学びたい学生を邪険にするなど許されないよな、と思いさっそく問い合わせメールを書きつつふと考える。
 もしの大学で体育の授業があって、種目を選べたとしても。はたぶん、バレーを選んだりはしないんだろうな。と過ぎらせてしまい手が止まった。
「いやいやそんなことないし。ちゃんけっこうバレーのニュースとか詳しいし」
 フランス語の勉強ついでに記事を読んでるだけらしいけど。と口からは出さず、ハァ、とため息を吐いた。
 オールorナッシングとはよく言ったモノで、自分の偏見かもしれないが「天才」は基本的にコレだと思う。影山にしても牛島にしても、だ。自身が持っている才能を発揮できるフィールドで発揮することに全力を注ぎ込み、その他はあくまで「その他」。取るに足らないモノなのだ。普通の人間なら迷うところをアクセル全開で踏み込む。それだけならいずれ破滅して身の程知らずで片づけられるのだが、「天才」ゆえに破滅しないし、仮に壁があっても強行突破できてしまう。
 対する自分は……と及川は考え込む。
 自分はたぶん、バレーかかと問われたら答えに窮してしまう。そして両方欲しいと言うだろう。けれどもは――確実に迷わず絵を選ぶ。だからこそは自分と付き合うことを最初は承諾してくれなかったのだ。
 とはいえ、それを込みで了承したのは自分だ。というより、絵より自分を選ぶは自分の好きなではないし……と考えればもはや出口のない迷路である。
 ああ、ホントに厄介、と思う。
 そう、厄介なのだ。自分の前から消えてくれと思っていた存在――影山や牛島――さえ、いざ彼らが完全にバレーを辞めてしまったら自分はおそらく自身を見失うほど取り乱すだろう。きっと駆けつけて問い質すに違いない。――とうっかり影山に詰め寄って慌てふためく自身を想像してしまって及川は自嘲した。
「飛雄がバレー辞めるワケがないのにさ……」
 辞めてくれたらいいのに、なんて思うのはそれがあり得ないと悟ってしまっているからだ。そして苦さが増していくのだ。天才ってそうだよな、と。
 きつく眉をよせた先で、ふ、と及川は肩の力を抜いた。変に考えるのはよそう。目の前の新生活にしっかり順応しなければならないし、せっかくなのだから興味がある教科は入れられるだけ入れよう、と目一杯自身のスケジュールを埋めた。

 結果――、及川の主張は受け入れられ第二外国語を一年次から受講できることとなった。

 しかしながら及川は改めて正式に決定した自身のスケジュールを見て「やりすぎたかもしれない」と思った。
 体育専門でさえマジョリティは普通に入学試験を突破してきた学生だ。現時点での学力は自身の方が劣っているに決まっている。まして他の学群なんて……と思うも今さらだ。の父にも言われたことであるが、大学は自分を包括的な「見込み点」で取ってくれたのだ。バレーだけに優秀であればそれでいいというわけではない。
 講義開始第一日目にクラス別の講習にいけば、やはり7,8割は男子学生。うっかり男子校に紛れ込んだかのような錯覚を覚えた及川だったが、それはそれ。基本的には体育専門は他学群とは隔離されておりあまり他と交流する余地がない、とは先輩に聞かされていた及川であったが積極的に他の専門領域の講義に手を出した及川にとってはその限りではなかった。
 週中、フランス語の初回講義を受けるために及川は自転車を走らせた。さすがに日本一の広さを持つキャンパス、講義によってはかなりの長距離移動を強いられる。実際、迷って遅刻などという学生を数日目にして数え切れないほど見かけた。
 それでも取りあえず同一エリアに集中している分、取手と上野を行ったり来たりらしいよりは楽と言えるだろう。まだ自分がフランス語を取ったことはには話していないし夜にでも電話しよう、と考えつつ目的の建物に入り、指定の教室に入って「わあ」と及川は内心声をあげた。
 フランス語、という何となく女性が好みそうな響きの通り、パッと見で女の子しか視界に入ってこなかったからだ。少しだけこちらを見た学生らがざわついた気配が伝ったが及川としては慣れたもので、真ん中辺りの通路側の席が空いているのを見つけて壁際に詰めて座っていた女の子複数ににこりと笑いかけた。
「ここ空いてる?」
「え……! あ……う、うん」
「どうぞ!」
「ありがとう」
 振り返った女の子たちが上擦った声で答えてくれ、及川は笑って腰を下ろした。
 ともあれ何の準備もしていない。けど、たぶん他の学生だって初心者だよな。きっとそうだよな。――ダメな気配がしたら、に教えてもらおう。うん。と、そんなことを考えていると隣の女の子たちから声をかけられ、瞬きをして横を見るとこちらに興味津々といった瞳が揃って及川を見上げてきた。
「どこの学群?」
「一緒になったの初めてだよねー?」
 及川は、ああ、と頷いた。自分たちが外と繋がりが薄いのと同じように、彼女らも体育専門とはあまり関わりがないに違いない。
「体育。第二外国語は二年かららしいんだけど、入れてもらったんだよね」
「えー、体専!? すごーい!」
「なにやってるの!?」
 体育専門がそんなに珍しいのか、やっぱり自分は大学でもモテてしまう運命なのか。などと思いつつ、バレー専門だというと彼女たちは背の高さなどを褒めてくれた。彼女たちも体育は必修ゆえにどの競技を選んだかなど話していると時間となって講師が現れ、及川は意識を講義に集中させた。
 講師の簡単な自己紹介とコースの概要のあとはさっそくメインに入り――。

「Bonjour! Vous allez bien?」
「Je vais bien, merci. Et vous?」
「Moi aussi, merci beaucoup!」

 基本的な呼びかけと、使う人間の性別、モノに割り当てられた性別によって単語が変化する等々のさっそくの説明に「これはやばい」と予感していると、プロジェクターに表示された文章を講師が読み上げ、その音に聞き覚えがあって及川はハッとした。
 プロジェクターには対日訳と対英訳が載っており、ピンと来る。

『ジュテーム!』
『モワ・オスィ、メルシー』

 高校二年の時のバレンタイン。――パリの街角で見かけた紳士を真似てに薔薇を一輪贈った際、は確かにそう答えてくれた。
 意味を聞いてもはぐらかされ、綴りも分からずそのままで――、でも確かにいま講師が読み上げた音と同じだった。なんてことはない。「me too」という良く使う言葉らしい。が――。

『ありがとう、私も愛してる』

 うっかりあの時の照れ笑いでそう答えてくれるを想像してしまった想像力逞しい自分の脳内ののあまりの破壊力に及川は思わず口元を覆ってやや頬を染めてしまった。
 ――知ってたけど。が自分を大好きなんて知ってるんだからぜんぜん照れてないしぜんぜん今さらだし。
 ――フランス語選択して良かった。と過ぎらせつつおそらくハタから見たらいまこの瞬間は不審者だろう自分を誤魔化しつつ及川は懸命にノートを取った。
 そうして「次回からは毎回小テストを行う」というありがたい言葉を残して去っていった講師にどよめく教室内の雑踏を耳に入れながら思う。やっぱりこれはに世話にならなければならない予感がする。と荷物をまとめて席を立とうとしているとまたも隣から声をかけられた。
「あの……、バレー専門ってことは部活に入ってるんだよね?」
「ウチのバレー部って強いんだよね? 練習とかって見に行ってもいいのかな?」
 及川はノートを仕舞いつつ、「モッチロン!」と軽くピースサインしそうになった手を止めた。練習に関しては見学可なのか知らないため断言できない。
「俺的にはイイと思うけど……、はっきり分かんないし今度聞いておくね。けど試合とか来てくれたら確実にウレシイよ」
 先輩たちが……、とは言わずに言うと彼女たちは「えー」「じゃあ行っちゃおうかなー」とはしゃいでくれ、及川も緩く笑う。
 そのまま何となく流れで一緒に教室を出て外に向かっているとこんなことを言われた。
「男子でフランス語って珍しいよねー。ウチの学群は大半がドイツ語とか選んでたよ」
「確かにいまのクラス、女の子が多かったよネ」
 及川は軽く答えつつニコッと笑った。
「俺はカノジョがフランス語ペラペラだから何となく自分も覚えちゃおうかな……、てカンジで選んだんだよね」
 単純だよねえ、と茶化しつつ笑うと、一瞬女の子たちの空気が変わった気がした、が、すぐに「そうなんだ」と笑ってくれた。
「カノジョめちゃくちゃいそうだもんねー……えっと」
「あ、名前? 及川だよ、及川徹」
「及川君かー。ねえカノジョって体専の人?」
「ううん。違う大学」
「えー、じゃあ遠距離ー」
 この大学隔離されてるしね、などと続ける彼女らに、確かにそうだな、と思いつつ及川は外に出ると手を振った。
「じゃあ、また次の講義でね。練習試合とかしょっちゅうやってるっぽいから応援ヨロシクね!」
 そうして駐輪場に向かいながら鼻歌を歌う。
 ――体育専門はあまり他学群と交流がない。体育専門はそもそも女子学生が少ない。というコンボのせいか、同期が新入生歓迎会やらでさっそく先輩たちから「女子を連れてこい」と無茶ぶりされているのを見知っていた及川としては、仮に動機は何であれ女の子がバレー部を応援に来てくれる。そして自分はそもそもカノジョ持ちだしファンと接点を持つ気はない。という二段構えは確実に自身に有利だと経験から知っていたためバレー部に興味を持ってくれる女の子の存在はありがたかった。
 ――モテる男はやっかまれて大変なんだよね。まったく。と自身で頷きつつ自転車にまたがって次の目的地を目指す。
 そうして講義を終えると部活に出て、自主練習まで終えて家に辿り着けば高校時代と変わらずどっぷり夜だ。
 しかしながら及川は新学期開始数日目にして自分の置かれている状況がかなり厳しいことを今さらながら実感した。ぎっしりと詰まったスケジュールのことだ。
 バレーにあてる時間は削りたくないし、かといって高校の時のように休み時間を復習に充て、試験前に一気にやるという方式はたぶん通用しないだろう。予習復習をしないと付いていける気がしない。
 風呂を沸かしつつ、作り置きの食事を温めながら及川は改めて今学期のスケジュールを見直した。
 幸い、バレー部は正規朝練はない。こうなれば週に3回は高校まで朝練に当てていた時間を予習復習に使うしかないだろう。そして残りはロードワークや補いたい練習にあてる。毎日フルコマで授業があるわけでなし。空いた時間はやっぱり勉強に充てよう。 
 でもでも、に会う時間だけはぜったい確保する。じゃなきゃ死んじゃう。と、手早く自身の予定表を書いてから風呂を止め、夕食をとった。
 もう23時が近い。だってまだ起きていると思うが――と思いつつも及川は電話は控え、メールを送ってみた。

 ――フランス語の講義とってみたよ!

 ピースサインのデコレーションを付けて送って、携帯をテーブルの上に置く。は携帯を常にそばに置いているわけではないので返事が来たとしても時間がかかるだろう。

 ――第二外国語フランス語なんだね。こっちもフランス人の先生がいて、私も見てもらうことにしたよ。

 するとしばらくしてそんな返事が来て、割と強引に選んだんだけどね、と思いつつ先行きが不安なことを綴った。

 ――及川くんの大学、色んな分野があって講義も幅広そうだよね。
 ――うん。基本的に好きな講義取り放題!

 そのおかげで苦労しそうな気がするけど。とは綴らず、及川は携帯を置いて夕食の片づけをしてから風呂に入った。
 大学に入ったら遊び放題。とか高校の頃に同級生が言っていた気がするが。身の回りの事や勉強の負担が増えて想像以上に忙しくなりそうだ。たぶん、実家を出て遊び放題とか思ってた連中はお母ちゃんのありがたみに今さら気づいたに違いない、と及川は自身の身体には狭い浴槽で深く頷いた。
 家事炊事含めて甥っ子の世話を貴重な休みに丸投げされてたおかげで自分は割と難なくこなせるけど。やっぱ俺って凄い。と自画自賛しつつ風呂を出て、髪を乾かしてリビングのテーブルを見やると携帯が光っていて及川は手に取った。
 からのメールの返信だ。とメールを開いて文章に目を通した及川は目を剥いた。
「ハァ……!?」
 盛大に不満な声が口から出て、及川は文章を二度見した。
 好きな講義取り放題、という部分がの琴線に触れてしまったらしく、は自身の大学のカリキュラムに不満を抱えているといった内容が書いてあった。主に、ディープな理数系の科目がない、という事だ。――このままでは自身の理学的知識が後退してしまうかもしれない、と恐れた彼女の出した答えは。

 ――上野で講義がある日は、隣の東大の学生と共同の物理学研究同好会に参加することにしたの。

 芸大からは以外は全て建築学部の学生が参加しているらしく、及川はもう一度文章を読み終えてグッと携帯を握りしめた。
「なんでそんなインテリ野郎に囲まれちゃってんのさ!!!」
 勢いのままにに電話をかけてみるが、繋がらない。まだ寝てはいないと思うので時間的に風呂かもしれない。いや作業室に籠もっている可能性もある。
 ハァ、と及川はため息を吐いた。何だかんだと出会ってからと違う学校に通うのは初めての経験だ。少なくともいままでは毎日会えていたのに……と項垂れる。
 別にぜんぜん気にしてないけどは自分が大好きなのだからぜんぜん離れてたって平気だし別に。
 と、思うけどやっぱり気になる。と、むぅと唇を尖らせる。
 けれども。中高の時と違って、土日祝日や休暇時に上京する必要はもうなくなったワケだし。きっと休みの時にゆっくりデートはいまの方がしやすいし。それに何よりお互いの部屋で一緒に過ごせちゃったりするわけだし。――うん、なにも問題ない。どうしても会いたくなったら会いに行ける距離だし。問題ないよな、と及川はもう一度深いため息を吐いた。



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