今ごろはが部屋で洗濯物を干してくれているだろう頃。
 及川は大学の球技体育館に足を踏み入れていた。
 まだ部活開始には時間があるため余裕の一番乗りだと思って足を踏み入れた及川だった、が。
「あれ……?」
 二面あるコートの手前側に長身の影が見えて、及川は瞬きをした。どうやら一番乗りではなかったらしい、と挨拶をしようと口を開きかけたとき。
 その影が振り返って及川は目を見張った。
 長身とショートカットのせいで分からなかったが。女の子だ。と、思った先で「あッ……!」と及川は反射的に相手を指さしていた。
「永山早希――ッ! 全日本ジュニアの!」
 どうも見覚えがある。と思った面差しはテレビで良く見る、去年には世界ジュニア選手権で銅メダルを獲得した立て役者でもある長身のミドルブロッカーだ。
 同い年なために割と記憶に残っている彼女のプロフィールによれば確か187センチくらいあったはず、と「見上げる」形になった及川は、いきなり自分に名指しされて口を曲げた「永山」選手を見つつさらに口を開いた。
「なんで全日本ジュニアがここにいんの!?」
「……なんでって、新入生だから……」
 やや堅い声が響くの「え!?」とさらに及川の声は勢いを増す。
「大学入ったの!? プロ入りしなかったワケ!?」
 そうなのだ。有望な女子選手は男子と違って高校を卒業したら大学へは進学せずプロ入りするのが一般的な道である。筑波の女子は男子に勝る圧倒的な強さを誇っているが、その事実は変わりない。
 目の前の彼女――永山は聞き飽きたと言わんばかりに手を腰にあてた。
「バレー続けるかは分からないし、続けなかった場合はプロ入りしちゃったら将来悲惨だから」
 その一言に及川はやや冷静になりムッとする。
 彼女は今年にもシニアで全日本入りが確実視されている選手だ。知っている限り華々しいバレー人生を送ってきたはずだというのにその言いぐさとは。――なんて憤っても仕方ない、と及川も息を吐いて腰に手を当てた。
 しかも新入生ということは春から同じコースで学ぶ同期となるはずで、と感じていると相手も疑問だったのだろう。
「あなたも新入生?」
「そ。及川徹。よろしく」
「てことは推薦入学でしょ? どこの高校?」
 ――ゲッ。と及川はごく自然の流れだろう質問に頬をヒクつかせた。母校・青葉城西の事は誇りに思っている。が。
「……青葉城西……」
 言えば案の定、相手が知るよしもなく「宮城県」と言ったところで永山の表情が変わった。
「宮城……! 宮城か……あそこの女王にはイヤな思い出しかないな。最後のインハイ取れなかったしね」
 ひく、と及川の頬がさらにヒクついた。宮城県の女子バレーは実は白鳥沢を上回る実績を持つ新山女子という強豪がいる。去年のインターハイは優勝しており名実ともに女王なわけであるが。女バレにそこまで関心のない自分は関係ないしと及川は苦く笑った。
「それは俺に言われても……、ていうか俺、彼女らと面識あるわけじゃないしネ」
「ま、そうか。宮城の男子だと……、そうだ! 若利君は? 深体大に行ったって聞いたけど元気?」
 ぴく、とその一言に今度は及川の方がコメカミに青筋を立てた。
「ワカトシ君ってもしかして白鳥沢のウシワカ野郎のこと……? 俺が知るわけないじゃん」
 さすがに初対面の人間の前で声を張り上げるわけにもいかなかった及川は精一杯声を殺してなんとか笑みを浮かべてみる。
「ていうかウシワカと知り合い?」
「知り合いっていうか……、全日本の合宿とかで昔から顔合わせてたから、会えば話す程度の顔見知りね」
 彼女の話を聞きつつ及川は懸命に笑みを張り付かせた。彼らにはジャパン・ネットワーク的なものがあるのだろうが凡人の自分には全く関係ないし。と、これ以上深入りすると本格的にイライラしそうだったためさっさと切り上げることを決める。
「ていうか女子ってこっちのコートじゃないんじゃない? じゃあ俺、アップ取るから」
 球技体育館は二棟あり、それぞれ2面のバレーコートを持つバレー専用体育館だ。その二棟は繋がっているとはいえ女バレと男バレは基本的に違うスケジュールで動いていて接点はない。
 それなのになぜ彼女はここにいるんだ。という疑問もそこそこに及川はアップを取りつつ一人コートに残ってブロックの確認等々に精を出している永山を見ていると、終わった頃に彼女がこちらを振り返って言った。
「及川君ってポジションどこ?」
 聞いてきた彼女はこちらの身長からある程度の予測はついていたに違いない。
「セッターだけど?」
 案の定だったのか「やっぱり」と頷いた彼女が及川の目の前まで歩いてくる。
「クイック、あげてくれない?」
 速攻の練習がしたい。という彼女に及川は反射的に瞬きをした。
 女バレからトスを上げて欲しいと請われたのは初めての経験かもしれない。それどころか覚えている限り女バレからは邪険にされていた記憶が……と過去の思い出が一瞬だけ過ぎったものの。やはりこういうハングリーさは全日本なのかも。と及川にしても面白そうだなと思って了解する。
 ていうか試されてるのかも。レベル高いセッターなんて色々見てるだろうし。
 思った通りの場所にドンピシャ。なんて技術にはほど遠いけど。さっきブロック練習見たし、彼女の最高到達点はバレー関連の本で何度かデータを見たことあるから知ってる。
 ふぅ、と深呼吸をして、ボール籠からこちらへふわりとボールを投げた永山の助走からジャンプを見やって及川はAクイックをあげた。
 バシッ、と気持ちのいい音が響いて彼女の表情からもその手応えが分かり、及川も口角をあげた。
「もうちょっと高くてもいけるんじゃない?」
 言うと彼女は頷いてもう一本と促す。――この場でどれほど息が合っても同じコートでプレイ出来ないため意味はないのだが。と思いつつ続けてしばらく。
 そろそろ終わろうか、と散らばったボールを片づけていると不意に視線を感じて及川は体育館入り口へと視線を向けた。
「あれ……?」
 見やると、入り口のところに立っていた学ラン姿の高校生と思しき青年と目が合った。
 身長は180くらいだろうか。短めの前髪。いかにもスポーツマンという短髪に、自分ほどではないが、端正な顔立ちをしている。と思った先で青年はくるりと踵を返して体育館に背を向けた。
「誰だったんだろ、高校生ぽかったけど……」
「入学手続きに来た新入生じゃないの?」
 永山が言って、ああ、と及川も納得した。前期入試の合格者は今週から入学手続きが始まるらしいというのは知っていた。
「じゃあ入学手続き後にバレー部の様子を見に来たってトコかな」
「身長的にセッターぽかったね」
「ゲッ! じゃあライバルじゃん」
 おののいた及川に、はは、と永山は笑った。まるで人ごとといった笑みだ。レギュラー争いなど彼女にはほぼ関係ない世界の話なのだろう。
「でもけっこうイイ男だったね。惜しいな、あと10センチ高かったら好みだったのに」
「は……?」
「私、若利君も好みなのよね。私よりは背高いしスパイク上手いし」
 じゃあね、と永山も手に持っていたボールを籠に入れてスタスタと出入り口の方へ向かい、及川は絶句してから「ケッ」と悪態を吐いた。
 ――やっぱり女バレは鬼門だ。こんなイケメンがそばにいるのにウシワカだ何だって全く。と苛立つ気持ちもそこそこに切り替える。そろそろ他のメンバーがやってくる時間だ。

 一方のはというと、洗濯物を終えて及川の部屋を出、大学へ向かうバス停まで歩いていってバスにて大学キャンパスへと赴いていた。
 数時間ほど図書館で予習をし、少し休憩しようとお茶をしに別の図書館に併設されているコーヒーショップへ向かう。
 春休みなためか学生は多くはなく、人の行き来をぼんやり見つつしばし物思いにふける。
 及川の行く体育学群は専門性が高く他の学群とは交流がほぼないということだったが。同エリアの芸術学群とは同じ場所で勉学に励むわけで。確か筑波の芸術学群はかなり女子の比率が高かった気がする……。ならばやはり及川は中高の時のようにアイドル扱いになってしまうのか。それともさすがに大学だと落ち着くのか。
 いずれにしても及川と学校が離れるのは初めての事で、このキャンパスで及川は何年も勉強して、その中に自分はいないのだな。と思うとちょっとだけ寂しさが過ぎっては握っていたコーヒーのカップをギュッと握りしめた。
 休息を終えて球技体育館のところまで戻り、はスケッチブックを取りだして及川の部活が終わるまでの時間はスケッチに没頭することにした。バレー部が主に使っているという球技体育館は人工池のほとりにある。なかなかに良い眺めだな、と口元を緩める。
 そうして日も暮れてきた頃、メールにて及川から部活を終えた連絡が入った。いまいる場所を伝えてしばらく、自転車に乗った及川がやってくる。
「お待たせー!」
「お疲れさま」
ちゃんずっとここにいたの?」
「ううん。図書館行ったりお茶したりしてた」
 話しつつ及川は自転車のサドルを下げ、ハイ、とこちらに渡してくる。
 を自転車に乗せて自分は走って帰るつもりのようだ。ちょうどいい運動になる、という及川に従って及川のペースに合わせ15分ほど自転車を走らせて及川の部屋へと帰る。
 部屋へ着いて一番に汗を流しに行った及川を横には洗濯物を取り込んだ。なにせ自分の下着類もあるためやっぱり少し恥ずかしい、と片づけていると部屋着に着がえた及川が慌てたようにこちらにやってくる。
「ゴメン、ちゃん。俺やるから」
 改めてスポーツ選手は毎日の洗濯物が多い。及川が乾燥機付きの洗濯機を欲しがった理由がよくわかるというものだ。と納得できる量の洗濯物を前にして及川は今日の出来事をポツポツと語り始めた。
「なんか、女バレに全日本ジュニアの代表がいたんだよね」
「へえ、すごいね……! 筑波って女バレも強いんだね」
「女バレも、ってか女バレの方が強いというか……」
 感嘆していると及川が肩を竦めて苦く笑う。
「俺より身長高いしさー。プロになりたくないから大学来たとか、極めつけはウシワカ野郎が好みとか言っててさ。意味分かんない」
 及川は、あまり名の知れた選手が集まらない、という理由も国立の筑波大を選んだ理由だと言っていたが。さすがに強豪。大学全体を見れば有名な選手は多々いるのだろう。
 今日会ったという女バレの選手はバレーだけのキャリア人生に疑問を持つタイプだったようで。及川の話を聞きつつは頷いた。
「私は……ずっと絵を描いて生きていこうって決めて頑張ってきたけど……。スポーツ選手は身体的なコンディションもあるだろうし、色んな選択肢を残しておくのも良いことなんじゃないかな」
「そりゃ理屈は分かるけどさ! 理屈は分かるけどジャパンが言うのってなんかイヤミっぽい!」
「で、でも……及川くんの大学ってどっちかというとそういうタイプを対象にしてるんじゃないかな……」
「そうだけど! そういうんじゃないの!」
 どうやら彼は身近でナショナル選手を見るのが気にくわないらしい。と察したは地団駄を踏む及川の言い分を一通り聞きつつ肩を竦めた。
 しかしながら新しい環境での話を聞いているといやでも今までとは生活が変わっていっている事を実感させ、人間関係もこれからどんどん変わっていくのだろうな。などと感じていると、及川もそうだったのだろう。「でも」と彼はギュッとこちらを抱きしめてきた。
「おんなじ家にちゃんといられるのはすんごい嬉しい」
 も笑って頷き、抱きしめ返す。
「いつも学校が終わったらお別れだったもんね」
「いまは二人っきりだし、邪魔も入んないしね」
 言って及川がチュッと頬にキスをして、それが合図のようにどちらともなく唇を重ねた。
「んっ……ん」
 及川とこうして触れ合うことは元々好んでいたが、やっぱり前よりももっと自然になった気がする。と身体を這う及川の右手を心地よく感じながらギュッとは及川にしがみついた。
 シャワーを浴びたばかりだからか及川の使っているボディソープの匂いがほんのり感じられる。――美術室や体育館でこうして触れ合っていた時は、もちろん二人ともキス以上はできないとわきまえていて。でも今はお互いが触れ合うことを望んでいて誰からも咎められる事がない、とも覆い被さってくる及川の肩や背を手でなぞって身体が疼くような感触に酔っていると、ふと辺りに豪快な腹の虫らしき音が響いた。
 瞬間、自分を見下ろしている及川の表情がバツが悪そうに歪んだ。
「……食欲の邪魔が入ったっぽい……」
 その言い分には一瞬だけあっけにとられたものの笑みを零し、お互い一頻り笑い合う。
 そのまま体を起こすと、畳んだままだった洗濯物を仕舞ってから取りあえず夕食の準備をしようと二人してキッチンに向かった。

 入学式までの間、は日によっては自分の部屋で集中したいと取手のマンションに帰宅することもあったが基本的には及川の部屋で生活を共にしていた。

 そうして4月に入っていよいよ入学式が近づいてきて――及川はやや不安に思う。この一ヶ月ほどがあまりに満たされすぎており、本当の「一人暮らし」が始まったら落差で辛くなるのではないか、と。
 それほどと一緒の空間で生活するのがしっくり来てしまった。と、明日にはが自身のマンションへ帰るという夜。及川はやや感傷に浸りつつを抱きしめていた。
 ずっと一緒にいるからといって毎晩そういうコトをしていたわけではない、が、それでもひと月近く経てば最初の時よりは多少慣れてきたように思う。
 慣れてきたのはの方も同じだろう。もともと人の些細な変化には気づきやすい及川だ。普段以上にと肌を合わせている時はの様子をしっかり見るよう気を配っており、彼女もこうして自身と身体を重ねる事に日々馴染んできているのは見て取れる。と少し熱に浮かされたまま及川はを見下ろした。
「及川く――」
 の頬に添えた右手の親指を少し口に含ませると、熱を持った口内から覗く赤い舌がぬるりと絡みついて、うわ、と及川の頬が一気に熱を持つと共に全身が粟立った。
ちゃん……ッ」
 たまらず情動のまま口付けて、そのままの背中を抱き抱えるようにして一緒に上半身を起こす。
「んー……っ」
 そして唇を重ねたままゆるゆると揺さぶっていると、がこちらにキュッと強くしがみついてきて及川は彼女から唇を離した。
「キツい……?」
 間近で覗き込むようにしてと目線を合わせれば、は小さく首を振るった。
「へい、き……。もっとくっつきたくて……」
 そのまま彼女は縋るようにして及川の肩に手を回して耳元で囁いてきて、ぶわ、と及川に衝動が走る。
 及川もの首筋に唇を埋めて強く掻き抱き、お互いもっと求め合って深い繋がりを求めつつ思う。――は自分が思っている以上にこうした触れ合いが好きなようだ。もともと自分のカラダが好きっぽいというのは分かっていたが。もちろんそれだけではないだろうし、と愛しそうにこちらの肌に触れてくるの頬に張り付いた髪を優しく払う。柔らかくて温かくて、手に吸い付くようにしっとりとした彼女の肌は言い表しようがないほど心地良い。
 こんな満たされた気持ちが自分の中にあるなんて少し前までは想像もできなかった。――と存分に絡み合ってから二人して布団にくるまりつつ思う。
ちゃん……、明日帰っちゃうんだよね……?」
「ん……? うん、明後日……入学式、だし」
 ぼんやりと暗い天井を見つつ聞いてみると、及川に身を寄せつつまどろんでいたらしきの途切れ途切れの声が響いた。
「俺、もっと一緒にいたい……、離れちゃうのチョット不安だよ」
「ん……」
 零してみるも、相づちを打ったの声は途切れ、見やると寝息を立てていて及川は唇を尖らせつつ肩を竦めると自身も大人しく目を閉じた。

「やっぱり帰っちゃう?」

 翌日、帰り支度を済ませたにしつこく言ってみるとは呆れたような面差しで肩を竦めながら苦笑いを漏らした。
「及川くんも大学始まったらもっと忙しくなるんだし、一人でもきっと大丈夫だよ」
ちゃん冷たい! 切り替えはやすぎ!」
「そ、そんなこと言われても……」
「大学始まったらいつ会えるかもわかんないのに……!」
 言いつつギュッとを抱きしめて、ハァ、と及川はため息を吐いた。むろん及川自身どうしようもないことは分かっているが、と唇を結ぶ。
「俺、毎日メールするからね!」
「う……うん」
「ちゃんと時間見つけてちゃんと会おうね!」
「うん」
 はというと頷き、そろそろバスの時間だと言って荷物を持ち「またね」と手を振って玄関から出ていってしまった。
 やっぱり切り替えがはやすぎる……と恨めしく思いつつ、急にシンとした自身の部屋の寂しさを感じつつ肩を落とす。
 これから本当にのいない大学生活が始まる――。あまりに満たされていた反動だろうか? 大学生活への希望とは裏腹に、彼女との未来に漠然とした不安を感じてしまった。お互いの気持ちも関係もより強くなったというのに、だ。
 ――ぜったいに別れないし。ぜったいに。と幾度となく復唱した言葉をもう一度脳裏で呟き、ふ、と及川は気持ちを切り替えるべく息を吐いた。



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