及川は基本的に朝は目覚ましがなくとも早い時間に目が覚める。
 おそらく長年に渡り身に付いた朝練の習慣が、朝に対する強弱を問わず目覚めさせてしまうのだろう。

 その及川が目覚めて身体を揺らした気配が伝い――、もうっすら目を開けた。耳にムクッと上半身を起こしたらしき及川のやや掠れた声が届く。
「……いま何時だろ……」
 掛け布団の上にでも乗っていたシャツを掴んだのかゴソゴソと布擦れの音が聞こえる。
「さむ……ッ」
 そうして上半身にシャツを着込む及川を覚醒しない頭でぼんやり見ていると、ふと振り返った及川がハッとしたように目を見開いた。
「――わ! お……おはよちゃん。ごめん起こした?」
「おはよう……」
 あまりにも普段と変わらない及川にいっそ感心しつつ、あまり寝起きを見られたくなくて布団の中に身を潜める。すると、ん、と及川は首を傾げた。
「なに、寒い……?」
 及川と違い、は辛うじてパジャマの上着は羽織って寝たため寒いということはなく、小さく首を振るう。
 そう? と言いつつ及川は申し訳なさそうに少しだけ布団を捲った。
「ていうか俺のズボンが行方不明なんだけど……」
 やや居たたまれなさそうな及川をぼんやりと見つつ、起きるか否かのせめぎ合いで葛藤しているの目に急に及川が大げさなほどに身体を震わせたのが映った。
「ちょッ……ナニコレ」
 何ごとかとが身体を起こす間にも及川の視線は捲れて露わになったシーツに注がれている。
「ギャー! まさか血!? もしかして血……ッ!?」
 悲鳴に近い声をあげる及川の視線の先を追うと、うっすらとほんの少しだけ朱色に染まった部分があり、「あ……」とは口元に手を当てた。その間にも及川はこちらに視線を向けて肩を掴んできた。
ちゃんまさかケガしてる!? 大丈夫!?」
「え……、だ、大丈夫だよ――」
「ほらもう! だから止めようって言ったのに!」
 取り乱す及川を見つつ思う。――夕べは、いざというときに痛みがあり中断しようとする及川と平気だと押した自分とで色々あった。が、本当に平気なのに……と思いつつ何とか及川を宥める。
「シーツ、洗わないとね……」
 目も覚めてきたし起きようとすると、及川は納得いかなかったのかそんなを制した。
「ダメダメ! ちゃんはまだ寝てて!」
「え……、でも……」
「いいから寝てて!!」
 そうしてやや強引に寝かされ、及川はというと見つけたらしきズボンを掴んで「シャワー借りるね」と言い残して起きていってしまった。
 唖然としただったが、数十秒ほど天井を見つめ、寝起きであまり頭が回らなかったことも相まって「まあいいか」と言われたとおりにもう一度瞳を閉じた。
 少しウトウトとまどろみ……、そろそろ起きようかとゆっくりと上半身を起こす。
 及川ではないがパジャマの下が行方不明だ、とやや気恥ずかしくゴソゴソと布団の中をまさぐっているとちょうどシャワーを浴び終えたのかすっかり身支度を整えたらしき及川がリビングに入ってきた。
ちゃん、朝ご飯はパンと目玉焼きでいい?」
「え? うん」
「食材使わせてもらうね」
 先ほどよりも落ち着いたらしき及川に相づちを打ち、及川が背を向けたのを見計らって見つけたパジャマを履きそのままも起きあがってシャワーを浴びに行く。
 何だか夕べの余韻に浸るタイミングを逸してしまった。
 それとも案外と現実はこういうものなのだろうか?
 けれども。やっぱり。夕べは及川といっぱい触れ合えて嬉しかったが……と湯を浴びつつ熱くなる頬もそこそこに手早く身支度を済ませてキッチンへと向かい、及川の隣で2人分のコーヒーを煎れる。
 ミルクたっぷりがいい、という及川のリクエストを聞きつつ二人で朝食をリビングに運んだ。朝食を一緒に取るのは初めてのことだ。
「及川くんは週明けから部活って言ってたよね?」
「うん。けどま、新入生で参加するのは推薦組だけだろうけどね。さすがにチョット緊張しちゃうかも」
 言って及川は本気か冗談か分からない笑みを零しつつトーストを頬張っている。
 及川の部活が始まればオフはいつになるか分からない。貴重な休みでもあるし、今日はどこかに出かけようかと訊いてみただったが及川はどこか煮え切らない返事をした。
 曰く、今日のうちに出来るだけの食事をストックするための買い物と調理を済ませておきたいらしい。
 一人暮らしが始まったばかりだし、及川もペースを掴むまではきっちり準備をして不安要素をなくしたいのかもしれない。とは納得しつつも今日一日一緒にいれないだろう事に少しだけ寂しさも感じた。
「及川くん、昨日言ってたことなんだけど……」
「ん?」
「その、大学が始まるまで及川くんの部屋に……って」
 本当に大丈夫か、と朝食を片づけたあとに切り出してみると「ああ」と及川は笑った。
「うん。たぶんヘーキ。クタクタになってるかもだけど俺だってそこそこ鍛えてるし」
 その笑顔はいつもの及川の笑顔で、はホッと胸を撫で下ろす。
 そして話もそこそこに帰り支度を済ませた及川は帰り際ににこう言ってきた。
「じゃあ、ちゃんは今日はゆっくり身体を休めてね」
「え……」
「ていうかホントに平気? どっか痛い?」
「え!? へ、平気だよ」
 その一言で及川の煮え切らない態度はこちらの体調を気遣っていたのかと察するも、及川はどこか訝しげにこちらを見ている。
 そうして及川はもう一度「とにかくゆっくり休んで」と念を押してからの部屋を出て、その背を見送ったは瞬きをしつつ首を捻った。
 それほど血のあとがショックだったのだろうか……。もうちょっと一緒にいたかったのにな。と思うも、ふぅ、と大きく息を吐く。
 明日の夜にはまた会えるのだし、及川も初めての大学での練習を前に余裕がないのかもしれない。自分も負けないように今日は1日絵を描いて過ごそう。と切り替えるとはそのまま作業室に向かった。

 そうして週明けの月曜日。
 部活が終わったら連絡する、という及川からの連絡を待っては部屋に置いていたら足の速そうな食材と荷物を持って家を出た。
 及川の部屋はつくば駅からはバスで行かなければならないらしく、及川とはバス停での待ち合わせとなっている。
 及川自身は大学へは自転車で通う予定らしく不便ではないということだったが、都心へ出るときはやや不便かもしれない。とも思いつつバスに揺られて数ストップ。目的のバス停がアナウンスされ、降車ボタンを押してはバスから降りた。
「やっほーちゃん。いらっしゃーい」
 すれば夕焼けの中で待っていてくれたらしき及川が手を振ってくれ、も自然と笑みを浮かべる。
「こんにちは。部活どうだった?」
「うん。今日は顔合わせと全体練習に混ぜてもらっただけだしフツーかな。部活のオリエンテーション的なモノは新入生が揃ってからだってさ」
「そっか……。及川くんの他にどのくらい新一年生がいたの?」
「ん? 俺と……あとはリベロ一人だけだよ」
「え!? じゃあ……推薦で受かったのって二人だけ?」
「ま、そういうコトだね」
 男子バレーに限ればだけど。と付け加えた及川には驚きつつ感嘆した。予想以上に狭い門だったんだな、と感じていると及川が住んでいるらしきマンションが見えてくる。
「住んでるのってほとんどウチの学生らしいんだよネ」
 肩を竦めつつ及川は二階にある及川の部屋へと案内してくれた。
「ドーゾ」
「お邪魔します」
 玄関をあがれば目の前の廊下に数個のドアが見えた。それぞれキッチン、リビングルーム、寝室へのドアらしい。
「まあキッチンも寝室もリビング内で繋がってるけどね」
 言われつつリビングに足を踏み入れれば、リビングの開いた引き戸の先には和室が見えては小さく笑う。
「及川くんの家の部屋とそっくりだね」
「そうそう。やっぱ落ち着くしさ、あえて和室有りの部屋を選んだんだよね」
 ヘヘ、と笑う及川を見つつ和室の方に荷物を置かせてもらう。
 リビングにはテレビやソファもきっちり置いてあり、自身の部屋よりもよっぽどそれらしい生活空間が広がっている。
 及川はというと夕食の準備をしようとキッチンに行き、も追った。
 夕べの残りを確認しつつから受け取った食材を見て野菜スープでも作ろうと呟いている及川に、部屋だけでなく既に一人暮らしが板に付いている、と感心しつつ話してみる。
「まァね。受験終わったあとはずっとおさんどんさせられてたし。お母ちゃんも暇暇にイロイロ仕込んでくれたからネ」
「そ、そっか……。偉いね……!」
「なになに、今からでも及川さんと住みたくなっちゃった?」
 健康的な生活送れちゃうよ、とケラケラ笑う及川には肩を竦めた。――渡仏の予定さえなければそれも良かったかもしれない。などとうっかり過ぎらせてしまいパッと首を振りつつ及川と並んで夕食の準備に精を出す。
 及川は春休みの間は部活と自主練習を合わせても朝夕は余裕があるらしく、大学が始まるまではある程度ゆったり過ごせそうだということだった。
 その事はも良かったと感じた。自身の受験でしばらく離れていた時間も取り戻せそうだ。それに……及川とは長い付き合いになるが、こんな風にプライベートな空間で一緒に食事をしたりゆっくり過ごした事は初めてで新鮮で。でもじんわり温かくてホッとする、と他愛もない雑談に興じつつ夜も更けてきてそれぞれ風呂を済ませる。
 洗面所でじっくり髪を乾かしてちょっとドキドキしつつリビングに戻ると及川がソファの辺りで何やらゴソゴソしており、気になって近づくと「あ」と気づいた及川がこちらを振り返った。
ちゃん。寝る場所ってソファベッドでもいい?」
 どうやらソファをベッドに変形させているらしく、あまりに予想外だったは「え……!?」と喉元を引きつらせた。
「え……、あの……。別々、なの……?」
 思わず出てしまったの言葉に今度は及川の方が「え!?」と目を瞬かせた。
「え……、えと……い、一緒がいい……?」
「お、及川くんがイヤじゃないなら……」
 こく、と頷くと更に慌てたような声が頭上から降ってきた。
「イ、イヤなわけないじゃん! 分かったオッケー、一緒ね!」
 大げさとも取れる慌てふためきようにはやや不安になる。もしかして無理強いをしてしまったのかも、と思いながら布団の敷いてある和室へと向かった。
 というか……、自分が自意識過剰なのだろうか? 恋人だからといって毎回そういうコトをするわけではないのかもしれない。が、及川はそういうつもりは全くないのだろうか。
 と、布団に横になっても距離を取って「お休み」と明かりを落とした及川の肩を暗がりの中でチラリと見つつはしゅんと眉を下げた。
 昨日はこちらの体調を気遣ってくれていると思っていたが。もしかして及川には何か不本意なことでもあったのかもしれない。
 でも。だけど。こんなに近くにいるのに少しも触れられないのは寂しい。ちょっとだけでも触れたらダメかな、とはゴクッと息を呑むと少しだけ身体を移動させて、ほんの少し及川に寄り添うように身を寄せてみた。
 とたん、ビクッ、と及川の身体が跳ねる。ドキドキしつつチラリと及川を見やるも暗くて表情までは見えない。わずかに及川の息があがったのが伝った。
 が――、少しの間を置いて彼はを遮るようにして背を向けてしまった。
「ゴメン、ちゃん。もうちょっと離れてもらってもいい?」
 少しだけ掠れ気味の小さな声はを重く打ち抜き、ドクッ、と嫌な音を立てて心臓が脈打った。
「ご、ごめんなさい……」
 及川に寄せていた手を引っ込めるも、目元が熱くなってきて居たたまれず、はその場から腰を起こす。
ちゃん?」
「私……やっぱりリビングで寝る。ごめんね、無理言って」
 そうして立ち上がろうとすると、及川はギョッとしたようにこちらを振り返って跳び上がるように身を起こした。
「ま、待って待って!」
「え……っ」
ちゃんぜったいなんか誤解してるよね!?」
 暗がりで必死な表情をしているらしき及川が肩を掴んできて、訳が分からなかったは逃げるように目を伏せた。及川の意図が全く分からない。
ちゃ――」
「一昨日のこと……、期待外れだった……?」
 震えた声で告げると、ぴくりと及川の腕が撓った。
ちゃん……?」
「わ、私は……及川くんといっぱい触れ合えて幸せだった……けど……及川くんは違ったのかも、って」
 やっとの事で言葉を紡ぐと、及川の喉が引きつったように張りつめたのが伝った。次いで、大げさなほどに及川は首を振るう。
「違う違う! ぜんぜん違うから!」
「え……」
「まだ二日しか経ってないし、ガマンしなきゃって思ってただけでイヤとかじゃないの!」
「え……!?」
 意味を解せずにいると、暗闇に慣れてきた目が焦りつつも目元を染めて伏せた及川の様子を映した。
ちゃん……すんごい痛がってたし、ケガだってしてたじゃん。けど、くっついてたら俺だって触りたくなっちゃうからさ……」
「わ、私……大丈夫って言ったのに……!」
「けど……辛そうなちゃん見てるのヤだし……。この前だって俺ばっかキモチよくてちゃんはいっぱいガマンしてくれてたのかも、ってあとからどんどん考えちゃって」
 ごめん、と小さく呟いた及川に今度はが首を振るった。
「そ、それは……ちょっとは辛かったけど、私、ほんとに平気だよ。あのあとも何ともなかったし……」
「けど……!」
「こ、これから慣れていくと思う……し……。だから、」
 そうしてさすがに気恥ずかしかったは及川の肩に顔を埋めてギュッと強く抱きついた。
 ぴく、と及川の身体が撓るのが伝わり、しばし間を置いて及川の喉がごくりと上下するのが伝った。そして及川はの肩に手をかけてそっと身体を離すと無言でスッと立ち上がる。
「及川くん……?」
 そのままローテーブルのそばに歩いていった及川はスタンドライトをつけ、反射的に目を窄めたの耳に引き出しを開け閉めしている音が聞こえた。
 そうしてこちらに戻ってきた及川が腰を落とし、手に持っていた小さく包装されたモノを枕元にひょいと置いて「あ」とは瞬きをする。
 及川に目線をやると、真剣ながらも気恥ずかしさを湛えたような瞳と目があった。
「ちょっとでも辛かったらゼッタイすぐ言ってね」
 当てられたようにの頬も熱くなって滲みそうになる涙を懸命にこらえ、は両手を伸ばして及川の頬を包み込む。
「――うん」
 そのまま及川の薄い唇に自身の唇を重ね、少し二人で笑い合ってからもう一度深くキスをした。

 その夜は一昨日よりももっと満たされていた気がする――、と薄ぼんやりとした感覚に意識が戻ったのは及川の声に起こされた時だった。
「そろそろご飯ですよー」
 起きれる? と覗き込んできた及川の顔を認識してようやくはハッとした。
「お、おはよう」
「おはよ。いまからオムレツ作るからはやくシャワー浴びといでよ」
「う……うん」
 ニコッと笑って戻っていった及川を見送るの脳裏にじわじわと夕べの記憶が蘇ってくる。とたんカッと頬が熱を持って、は両手で顔を覆って小さく唸った。
 何だか恥ずかしいことをたくさん言ったし、しちゃった気がする……。
 けど、でも、やっぱり幸せ。と、勝手に緩んでくる頬のまま身体を起こすと着替えを持ってバスルームへと向かった。
 夕べの残りのスープとパンとオムレツという朝食を取り、食後にインスタントのコーヒーを淹れてソファでくつろいでいると及川がいつもに増してニコニコと上機嫌そうでさすがには首を捻った。
「どうかした……?」
 すっごく楽しそうだけど、と訊いてみると及川は「えー」とさらに頬を緩めた。
「だって夕べはちゃんにふかーーく愛されてることを再確認しちゃったんだし。嬉しいに決まってんじゃん」
 そして、うへへ、と笑う及川に軽く抱き寄せられも少しだけ頬を染める。
 まあ知ってるけどさ、といつもの調子の軽口を続けていた及川だが、ふと、口調が柔らかいながらも真剣みを増した。
「けど……もっとちゃんと色々話し合わなきゃダメなんだなって改めて思っちゃった」
「え……」
「俺、ちゃんとは割と何でも意思疎通出来てるって思ってたからさ」
 少し自嘲気味に言われ、も目を瞬かせる。――確かに、ああいうコトに関しては、具体的にお互い言葉にしたことはなかったかも。と感じ……自分も伝える努力を怠っていたかもしれない、と自省しつつ「うん」と頷いてキュッと及川の腕を握りしめた。
 えへへ、とそのままじゃれ合ってしばらく。不意に及川が「あ!」と何かを思いだしたように声をあげた。
「ヤッバ! 洗濯機回すの忘れてた……! ドウシヨウ干せない」
 聞けば今から洗濯機を回すと部屋を出る時間までに洗い終えて干すという作業が終わらない。ということらしく、「それなら」と提案する。
「私が干すから大丈夫だよ。私はあとから部屋を出ればいいんだし」
 すると今度は「え!?」とやや引き気味に狼狽えた及川の頬に少しだけ赤みが差した。
「え、で、でも、及川さんのパンツとかあるよ!?」
 平気!? という及川に、今さらそこなのかと思いつつは肩を竦める。
「及川くんが気になるんだったらやめるけど……」
「う、ううんダイジョウブ! ちゃんがいいなら大丈夫デス」
 ありがとう、と及川は洗濯機を回しに向かい、部活の準備を始めた。
 及川の通う体育専門と同エリアには芸術専門があり、バレー部の使う球技体育館のそばには体芸専門の図書館がある。は今日はそこで大学でやるだろう科目の予習、息抜きにスケッチをして過ごそうと決めていた。
 部活が終わったら落ち合おうとバタバタと出かけていった及川を見送りつつは穏やかに笑った。



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