1月に入ればすぐにセンター試験があり、その後は自由登校となる。
 はセンターは全く問題がなかったらしく、試験慣れとセンター併用も兼ねて受けた花巻もある程度の手応えを覚えていたらしいが、センター終了後も二人は依然として受験戦争に身を置く立場である。

 に至っては受験まで東京で受験対策をするのだと、登校義務がないのを幸いに上京してしまっており現在は仙台にいない。
 と、及川は午前中は「上京まではやれ」と押しつけられた家事全てを午前中に片づけて昼過ぎに登校して体育館で自主練習を行い、その後に部活に参加して通常練習を行うという日々を過ごしていた。
 日中にある程度の空き時間が出来たゆえに、及川は今まであまり歩いていなかった場所をじっくり歩いてみたりを繰り返していた。
 この先、もしかしたら一生自分は仙台に戻ることはないのかもしれない。なぜだかそんな気がしたからだ。
 何だかんだ18年間過ごした場所で、愛着あるよな。と、散策ついでに及川はふらりと卒業後は一度も近寄らなかった北川第一の前に立ったりもしてみた。
 校門の外から中を見つめつつ思う。
 中学時代に良い思い出はあまりない。――牛島に出会って、に出会って、そして影山に出会った。中学時代がなければ今の自分は確実に居ないのに、それでもまだ「良い思い出」に出来ていない。丸ごと消し去りたいのに、消し去れば自分が消えてしまう。そんな矛盾をあまり認めたくなかった。
 ――こう考えるとき、やっぱりは確実に自分に苦みや痛みも与える存在だというのに。厄介なことに、がいない生活なんて自分にはきっともう耐えられない。
 たぶんきっとそれは牛島や影山も同じ……と考えそうになってハッと及川は首を振るった。
「ナイナイ! ウシワカ野郎と飛雄がちゃんと同じとかナイ!!」
 けれども、と思う。
 を好きになったように、もう少し違う関係を彼らと築けていたとしたら。彼らのことも今よりは理解できていたのかもしれない、と。
 でも、そうできなかったのだ。未だに牛島の顔を見ると勝手に苛立ってしまうし、影山にだって今さらどう接していいのか。

『秋山小出身、影山飛雄です。バレーは小2からです。よろしくお願いします』
『及川さん、サーブ教えてください!』

 自分が欲しくて欲しくてたまらなかった、自在にボールを操れる手を持つ後輩。彼のトスを初めて見た時の衝撃は、いまもはっきりと脳裏に焼き付いている。
 あの衝撃はあの頃に抱えていた焦燥を加速させ、無邪気に自分を慕ってくる後輩をただただ拒絶した。
 ――「主将」さえ拒絶する後輩。そんな事実が後に影山を孤立させる遠因になったかは定かではない。
 己の「天才」ぶりを自覚できない影山は、周囲にも自分と同等の力を求める。いくら北川第一を離れた彼が「仲間」や「先輩」と呼ぶに相応しい人たちに出会ったとはいえ、そこは県内の一公立校。類を見ない「天才」と彼らの技能的なギャップはいずれ歪みとなって現れるだろう。
 だが。だが、もしも中学の頃に自分が影山とちゃんと向き合っていたら……? すれば何かが変わっていたのだろうか。
 すれば……彼はあっと言う間に自分を追い越して、その才能を存分に発揮するセッターへと育っていたのだろうか。
 だとすれば、もしかするとその「もしも」は北川第一に恩恵をもたらしたのでは、と考えそうになって及川は唇を噛みしめた。
 あの頃の自分がその事に……いや今でさえ耐えられる自信はない。仮にその事――影山と仲間で、「先輩と後輩」でいる――がどれほど自分のチームを高みに導くために有利に働くのであっても、だ。
 だから、自分たちはどうあっても元の関係性を変えることはできないのだ。どうあがいても、自分は彼の「先輩」にはなれない。
 それでもね、飛雄。と及川は呟いた。
 ――俺は例えそれが皮肉でも、「王」と呼ばれるに相応しい才能を持ったお前を羨ましく思ったんだよ。
 と、一度体育館の方へ向けようとした足を止めて及川は北川第一に背を向けた。まだ、あの体育館に足を踏み入れたいと思う心境にはなれていない。
 心から愛着のある青葉城西と違って、確実にこの場所にはわだかまりが残っている。
 だからなのだろうか――、と及川は「体育教師になって北一でバレーを教えるのもいい」と言っていた岩泉の言葉を思い出した。
 岩泉の中でも、影山とのことがわだかまりとなって残っているのかもしれない。

『バレーはコートに6人だべや!』
『相手がウシワカだろうが天才一年だろうが、6人で強い方が強いんだろうが、このボゲが!!』

 無意識だったのか、意図的か、岩泉はあの時に後輩だった影山を「自分たちの共通の敵」だと暗に言った。言ってくれた、と言った方が正しいかもしれない。
 あの言葉はずっとずっと自分の希望だった。天才に対抗するためのたった一つの手段。それが間違いであると認めてしまえば、きっと自分はバレーを続けられない。そんな事すら思っていた。
 けれども――。

『6人で強い方が強いってのは、その6人に俺が含まれてなくても変わんねえだろうが、ボゲ!』
『俺がいなくても……お前は最強のセッターだべや!!』

 強い6人が機能したチームが強い。――そしてそんなセッターになれ、と岩泉はかつての自分の言葉を言い換えた。
 もしかしたら岩泉は、もうこれ以上、かつての後輩を敵視し続けることに嫌気がさしたのかもしれない。なんて考えすぎなのだろうか?
 けれどもたぶん、岩泉は岩泉なりに何かを抱えて、何かを変えようと、いずれ指導者として北川第一に戻りたいと言っているような気がしてならないのだ。
 子供だった自分たちが揃って一人の後輩に向けた「敵意」が、今も燻ってわだかまっている。
 ――って、飛雄はおバカだから、自分たちの彼へ向かう感情の正体になんか気づいてないだろうけどさ。
 と、いっそ憎らしいほどマイペースな後輩の姿が過ぎって及川は肩を竦めた。

『及川さんのサーブ、相変わらずかっけーです』

 そうだ、敵意なんて向けても無駄。飛雄はどうせ、飛雄でしかない。

『及川さんを越えて県一番のセッターになるのは俺ですから』

 せいぜい俺のいない宮城で一番のセッターになればいいよ飛雄。俺はもっと上に行く。いずれお前に完全に追い抜き去られる運命でも――そう簡単には負けてやらない。
 でも――。

『及川さん』
『及川さん』

 飛雄の中で、自分が飛雄の尊敬する「及川さん」でなくなったとき。ああ及川さんなんてこんなもんだったんだ、と自分を追い抜いた先で思われたとしたら。
 それに自分は耐えられるのかな……、と過ぎらせてしまうあたり、やっぱり自分はまだ「覚悟」とやらはできていないのだろう。
 ――「天才」が本当に羨ましいよ。天才のくせに、誰よりも貪欲で誰よりもがむしゃら。屈辱に耐えられないかもしれない、なんて恐れさえもなくて、ただひたすら真っ直ぐ。迷いなんてこれっぽっちも持ってなくて。

 だから自分は彼らを「天才」と感じて、皮肉にも惹かれてしまうのだろうか。と及川は相変わらずの自分の不毛さに苦笑いを浮かべて、どんよりと重苦しい冬枯れた空を見上げた。


 一方の影山飛雄は及川の心情など知るよしもなく、一昨年の暮れから愛用している及川にもらったマフラーに首元をすっぽり包んで月刊バリボーの最新号を手に入れるべく書店に寄ってから帰宅した。
「ただいま」
 部屋にあがって学ランを脱いで部屋着に着替え、さっそくパラパラとページを捲っている。今月号は主立った高校生の進路が特集してあるのだ。
「牛島さん……、は、深体大か。すげえ」
 全日本ユース代表でもある白鳥沢の牛島若利の進路は名門中の名門でもある深沢体育大学。――いいな、とちょっと羨ましく思った。
「あ、木兎さん……。東海大」
 木兎、とは烏野が合宿等で親しくしている東京の強豪校・梟谷学園の主将兼エースであった選手である。全国五指に入る屈指のアタッカーでありながら気さくで自分にもよく「トスあげてくれ!」とせがんでくれたりして他校ながら慕っている先輩の一人だ。
 彼は東海湘南大学――通称・東海大というこちらも名門に進学らしく、影山は少し心惹かれた。東海大から推薦がくれば、木兎と同じチームでプレイできる。というか推薦が来ない限り自力で進学は危うい気がする。と唸りつつページを捲って影山は思わず目を見開いた。

 ――筑波天王大学:宮城県私立青葉城西高等学校・及川徹。

 という文字が飛び込んできて「ハァ!?」と思わず声をあげてしまった。
「及川さんが筑波大……!?」
 マジかよ……、と思わず呟いてしまった。筑波大といえば国立の難関校かつ男子バレー部は関東一部リーグの超強豪校である。が、国立ゆえに他の私立大と違って内々で選手に声かけなどはしていないはずだ。
 ならばなぜ及川が? と頭を捻ったが、答えなど出るはずもなく読んだままを理解する。
 つまるところ及川は上京して関東一部リーグの強豪校でバレーを続ける、ということだ。
 目の前の事実を飲み込んで影山は、むぅ、と唇を尖らせた。
 ――目下、一秒でもはやく及川に追いついて追い越したいというのに、これではますます水をあけられた形になってしまった。
 ハァ、と息を吐いて雑誌を閉じると、影山はそばに置いていたバレーボールを手にとってごろんとベッドに仰向けになった。
 ――「あの」及川さんを越えるなんて、やはり大きすぎる野望だったのだろうか。
 性格は心の底から最低だと感じているが、コートに立った時の及川は誰よりもかっこよくて、強くて、初めて見た日から自分のヒーローだ。
 本当に嫌な人だが、セットアップ上手くて格好いいし、サーブも格好いいし、ブロック高いしレシーブ上手いし。
 やっぱり及川さんは格好いい。――マフラーくれたし、少しは良いところもあるのかもしれない、とちらりと制服と一緒にハンガーにかけたマフラーを見やって影山はため息を吐いた。
 けれども……と思う。筑波大では万に一つも自分が入るのは無理だ。学業面で完全にアウトである。
 それに、もう一度及川と同じチームになりたいなんて思ったことはない。と影山は眉を寄せた。
 どうせ彼は他の後輩たち――金田一や国見に向けるような笑顔を自分には向けてくれないし、なにも教えてくれない。
 それでもたぶん、自分は毎回期待しているんだと思う。「しょうがないな、いいよ」っていつか振り返って向き合ってくれるんじゃないかと挑み続けて100%の確率で玉砕して、断られることには既に慣れた。
 それでも――。

『俺、推薦断りました。青城には行きません』
『お前、ウチに来るのが怖いの? 金田一たちとまた一緒にやる自信ないんだろ、”王様”だもんねお前』

 もしも怖いものがあるとしたら、それは金田一たちと一緒にやることじゃねえ。アンタが、金田一たちに「だけ」良い先輩でいるとこを目の当たりにしたくなかった。と、影山は持っていたボールをグッと握りしめた。

『アンタがいるから……、俺は青城には行かない』

 自分はたぶん、他人の感情の機微を読みとるのはとてつもないほど下手で、他人の心情なんて良く分からない。だからずっと及川のあとを追っていた時も、なぜ及川が犬や猫と同じように自分を理由もなく避け嫌うのかワケが分からなかった。心底性格が悪いのだろうと解釈したし、実際に性格が悪いと思っているのは今も変わらない。
 けれども他のチームメイトは口を揃えて「及川さんは優しい」「良いキャプテンだった」と口にしていたし、実際に彼はチームをよくまとめていたと思う。
 じゃあなんで自分が……と分からないまま及川の卒業を見送って、そして自身が3年になり迎えた中総体の県予選決勝。スパイカーたちは自分のトスを拒絶し、自分のあげたトスは虚しくコートに落ちて自分は初めてチームメイトたちに仲間として受け入れてもらえていないのだと知った。
 ――コート上の王様。というあだ名を広めたのも北川第一のチームメイトたちだ。それほど彼らにとって自分は我慢のならない存在だったということだろう。
 「さすが、あの及川さんが嫌ってただけあるよな」「だよな、さすが王様」。そんな言葉をたびたび耳にした。そうして自分は初めて、客観的に「及川が自分を嫌っている」という事実を理解した。
 もしかしたら気づかないうちに彼の気に障ることをしてしまっていたのかもしれない。けれども、いくら考えても思い当たらないのだ。毎日毎日、あの大きな背中を追いかけていただけ。振り向いて、教えて欲しかっただけだ。
 見よう見まねで、サーブもブロックも全て及川を「見て」覚えた。けれど、自分が望んでいたのはそうじゃない。
 ――青葉城西から推薦の話をもらったとき、本当はずいぶんと悩んだ。
 第一志望は白鳥沢だったが、青葉城西のことも全く考えなかったわけではない。
 北川第一のメンバーが何人も進学するといっても全員じゃないし、トスを拒絶された事は青葉城西を蹴る決定的な理由にはなり得なかった。
 ただ、北川第一の頃を繰り返すのだけは心底イヤだった。自分はもう既に自分自身が及川に嫌われていることを知ってしまっていたし、自分以外にとって及川が良い主将であり先輩であったことも理解してしまっている。

『だいたいお前が言ったんだろうが、俺がいるから青城に来るってサ。100%違うよね言ってること』
『じゃあ俺が青城行けば及川さんサーブ教えてくれるんですか?』
『教えねーよクソガキ!』
『なら意味ないです』

 及川を追って青葉城西に行ってもいい。と思っていた頃の自分は、自分がトスを拒絶されるほどチームメイトに拒否される存在だとは、及川に嫌われている存在だとは自覚がなかった。
 だから、そんなメンツばかりの青葉城西に行っても北川第一の頃を繰り返すだけ。そんな無意味な時間の過ごし方は心底ゴメンだった。
 別に及川がいなくともバレーは続けられるし、手本になるような上手い選手はいっぱいいる。及川から得られなかったものは他で得ればいいし、目標が及川を越えるセッターになるということに変わりはない。
 なのに。なんであの人、こうも他人を引っかき回してばっかなんだ。といっそ嫌なる。
 もっと嫌なのは、こう思っている今でさえ不意に及川が気まぐれにでも「教えたげる」とでも言えばどこへでも飛び出して行ってしまうのだろうな、ということだ。

 ――いまなお、及川徹という存在の大きさが自分の中で変わらない。

 けれども筑波大への進学を決めた彼は、ますます遠い存在になってしまった。
 たぶんこの先、彼と再び同じチームでプレイするというチャンスにはきっと恵まれないだろう。だからもう、いい加減本当に諦めたい。たぶん及川に会えば、自分は及川を恐れながらも彼のあとを追ってしまう。きっとチャンスがあれば「教えてください」と言ってしまうだろう。話さえ聞いてくれないと知っていながら、きっとバカみたいに同じ事を繰り返してしまう。
 でも、もしかしたら死ぬまでに一度くらいは――。一度くらい、気まぐれを起こしてくれるかもしれない、と思っているからきっと自分はまた繰り返す。

「及川さん……」

 ぼんやりと視界に及川の背中が映った気がして、影山は呟きながら手からボールを零れさせた。
 ジャージの色、青……なのだろうか。北川第一の頃なのか。
 大きな背中が振り返って――、そして彼がどんな表情をしていたかを視認する前に影山は意識を手放していた。



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