――11月。
 春の高校バレー宮城県予選で惜しくも予選敗退となった青葉城西高校バレー部は既に2年生以下が中心となっており、在籍していた3年生も全て引退して受験に備えていた。
 及川は筑波大に願書を提出し、岩泉と松川は目前に迫った試験に向けて目下面接・小論文対策に勤しんでいるらしい。が、この3人は実技があるゆえに週の半日以上は部活に顔を出していた。逆に花巻だけは完全に勉強の方に集中しているようだ。
 とはいえ――。それもこれも文化部であるにはあまり関係のない事であり、は明日に迫った文化祭の準備に追われて悲鳴をあげる寸前であった。
 隔年で行われる文化祭は文化の日に行うと決まっている。
 高校に入って以降に獲った知名度のある賞の受賞作品は全て展示して欲しいという顧問の要請により、は母に車を出してもらって丁寧に作品を搬入しどうにかこうにかそれらしく飾った。
 来客数の増員を見込みたいらしく、青葉城西のHPには華々しくでかでかと自身の事がほぼ無断で宣伝されており――ふとの脳裏にマネジメントをちゃんとしろ云々と言っていた氷帝学園の跡部敬吾の姿が過ぎった。

 もしかすると、その一瞬の回想が呼び水となってしまったのかもしれない――。

 翌日、11月3日。
 文化祭は2年生が中心となって取り仕切られているために文化部以外の3年生は自由登校の日でもある。が、この日ばかりは息抜きにとおおよその3年生は参加して自身の所属していた部活等に顔を出す。
 及川も例に漏れずで、午前中は第三体育館で行われていたバレー部の公開試合を見学した。
 自分たち3年生が見ていることで緊張の表情を走らせた後輩たちを見て思わず笑ってしまう。――自分が一年の時はどんな形であれ公開型の試合に出られたことが嬉しくて。先輩の正セッターを負かすことだけを考えていた可愛げのない後輩だった事を思えば、なんて可愛らしい後輩達だろうと思わざるを得ない。
 ホントに懐かしいな、と及川は2年前の文化祭の事を何となく過ぎらせた。一年の頃は岩泉とが同じクラスで、岩泉に会いに行くのだと自身に言い訳しつつに会いに行ったりしてたんだっけか、と我ながら苦笑いが漏れた。
 後夜祭を抜け出して美術室にいたに会いに行って、一緒に後夜祭に行こうと誘うも断られて、岩泉と一緒ならと行くと暗に言われて。たぶんあの頃に感じていたモヤモヤはきっとだたのヤキモチだ。全然気にしてなんかない、と自分に言い聞かせていたが、たぶんずっと中学の頃から自分はが好きだったんだろうな、と考え至るとさすがに居たたまれなくて及川は少し顔を伏せて僅かに宿った熱を必死に逃した。
 今日のはたぶんずっと美術室にいるだろう。代表作を数点展示すると言っていたし、試合が終わったら行こうかな。と、試合が終わって第三体育館を出て校舎の入り口を目指していると正門のあたりがザワついているのが見えた。
「ん……?」
 近づきつつ目を凝らすと、及川の目に黒塗りのリムジンらしき物体が飛び込んできて「へ!?」と間抜けな声が漏れた。
「ナニアレ!?」
 というか「リムジン」とやらは想像上の乗り物ではなく実在していたのか――と野次馬根性でいそいそと近づいて見ると、運転手らしき人物が開けた後部座席の扉からは制服姿と思しき青年が姿を現した。
「あれ……」
 及川はその面差しにどことなく見覚えがあり、瞬きをしつつ思考を懲らす。そしてハッと思い至って思わず大声をあげていた。
「あ……、跡部財閥のおぼっちゃま君だ!!」
 そうだ。確かの知り合いでをレセプションだかに招いた時の記事に写真が出ていた。と記憶を蘇らせつつ言えば、一気に視線を集めて当の青年本人からも睨むようにして見られ「しまった」と及川は頬を引きつらせた。
「アーン? なんだお前……俺様のこと知ってんのか?」
 うわ、しかも偉そう。と、その尊大な声と態度に脳裏で突っ込んだものの言葉はどうにか飲み込み、及川は少しだけ筋肉を引きつらせつつも得意の外向けの笑みを向けた。
「ドーモ! お会い出来て光栄デス。君のことはちゃんから聞いて見知ってるんだよネ」
「お前……、の知り合いか?」
「知り合いっていうか……んー、まあいいや」
 にわかに注目を浴びていたため及川は言葉を濁し、青年――跡部の方へと近づいていった。
 すると「まあいい」と跡部の方が話を切りだした。
「文化祭での絵が展示されると聞いて来てやったんだが……。ずいぶん規模の小さい文化祭じゃねえの、アーン? やる気あんのかこの学校は」
 うわホントに偉そう。と、思ったことは口に出さず取りあえず笑顔でかわしてみる。
「う……ウーン。まあ、そこは予算の関係とかイロイロ。ね?」
「で、お前誰だ?」
「あ、俺? 及川徹デス。よろしく」
「及川、か……。まあいい、取りあえず俺様を美術室に案内しろ」
 君は俺の上司デスカ、とさすがに今度は喉から出かかったものの何とか飲み込み、ヘラッと及川は笑ってみせた。
「なに、ちゃんに会いに来たの?」
「あん? お前、数秒前に俺様が言ったことも覚えてねえのか?」
「あ……ハイ。絵、ですよね。ちゃんの絵」
 及川は思った。まだ生まれてたったの18年とはいえ、それなりに色んな人に会ってきたし自分はそこそこ適応力が高いと思っていた、が。この跡部は初めて接するタイプの人間である、と。まさか世の金持ちと呼ばれる存在はみんなこうなのだろうか、と唸りつつも取りあえず言われた通り跡部を案内してやる。
 にしても、と思う。過剰に堂々とした態度のせいか、自分よりも5センチは低い身長だというのにやけに大きく見え、それでいて派手な跡部は目立つらしい。今日に限っては他校の生徒など珍しくもないというのに、だ。おまけに我ながら自分は学内で一番目立つ男と自負しており、そんな二人が連れ立って歩いていればいつも以上に視線が突き刺さって久々に及川は「痛い」という感覚を覚えた。
 すると、チッ、と跡部が舌打ちをした。
「ここのメス猫どもはどうなってやがんだ。どいつもこいつもジロジロ見てきやがって」
「うわ……その言い方はさすがにないんじゃない? こーんなイイ男二人が連れ立ってんだからそりゃー女の子は見ちゃうよ!」
 いつもの調子におべっかも混ぜつつ、二、と笑ってみせれば跡部は露骨に「ハッ」と息を吐いて及川は内心「しまった」と呟いた。あまり冗談は通じない相手らしい。
 そのまま廊下を歩いて特別教室棟に入り、美術室に入ればまたも一斉に視線を浴びたものの気にせずの姿を見つけて声をかけると、はギョッとしたような顔をした。
「あ、跡部くん……!?」
「よう。久しぶりじゃねえの」
「ひ、久しぶりって……。お、及川くん?」
「あー、うん、なんか正門のところにリムジンとまっててさ、ほらニュースでちゃんと跡部君が映ってた写真見たことあったから誰かは分かっちゃって、それで声かけちゃったんだよネ」
「リムジン!? え、車で来たの? 東京から?」
 ああ、と当然のように頷く跡部を見ては目を丸め、及川としてはもはやリアクションに困って取りあえず笑みを浮かべておいた。
「それで跡部くん、どうして……」
「アーン? お前の絵を見にきてやったに決まってんじゃねえの。”恋人たちの橋”と”バレンタインの夜”も展示してあんだろ?」
「あ……うん」
「あ、その絵、俺も生で見たいんだった」
 言うとは傍目には分からない程度に目元を染めた。
 跡部にしてみれば高名な賞を取ったの絵を見たいのだろうが、及川にとってはその絵はが自分との思い出を絵にしたものだ。――がそう認めたわけではないが、それ以外考えられないし。と無意識に鼻歌を紡ぎ出し、跡部に並びつつやや人だかりの出来ていた絵を覗き込む。やはり背が高いと便利だ、と見やった先に描かれていたポンデザールを見て及川は口元を緩めた。
 修学旅行でパリに赴いた際の自由行動の日――、橋の上でキスをしようと言ったときも、直前に「キスしていい?」と訊ねたときも。懸命にには悟られないようにしていたが、けっこうあり得ないほど緊張してたんだよな。と思い出しつつちらりとに目線を送るとうっかり目があって、パッとは頬を染めた。
 あ、もきっと同じことを思い出していたのだな。と及川はくつくつと笑った。
「なかなか良い絵じゃねえの、アーン?」
 おそらくそんな事情など知らないだろう跡部が満足そうに言い下して、はハッとしたように跡部に礼を言っていた。
 そうして続く「バレンタインの夜」を観た跡部は、描かれていた薔薇がよほど気に入ったのか「この絵は俺様の目には――」と以下よく理解できない例え話を長々と始めた。
 でも……この絵は、と及川は思い浮かべる。この絵は、今年2月のバレンタインでの出来事を描いた絵であることだけは確かだ。

『ん、ちゃん、くっつきたいモード?』
『うん』
『ほんとちゃん俺のこと大好きだよね』
『うん』

 絵画など見る人の解釈でどう捉えてもいいのだろうが、たぶんきっと絶対この絵はが自分のこと大好きっていう気持ちが詰まった絵なのに。と己の自己解釈に満足しつつ及川は薄く笑った。
「おい、この絵どうすんだ? 売るのか?」
「え!? えー……と、その予定はないけど……」
「だろうな。この先、どう値が上がるか分かったもんじゃねえしな」
「でも……、前に跡部くんに言われたマネジメントは近いうちにちゃんと考えた方がいいかなってちょっと思ってるの」
「ほう……良い傾向じゃねえの。お前がその気ならいつでも力になってやるぜ?」
 そういって跡部はとの間の距離を縮め、「ちょ、近い!」と脳裏で突っ込んだ及川はさりげなく跡部との間に笑みを浮かべたまま割って入った。
「跡部君、もうちゃんの絵は見終わったよね? せっかく来たんだし学校見学でもしてかない?」
「あん? 見学するようなトコとかあんのか?」
「えー……と」
 言ってはみたものの、バレー部の試合は終わったばかりであるし、とぐるぐる考えつつ訊いてみる。
「あ、跡部君てなにか好きなものとかある? 部活とかやってた?」
「ああ、俺様はテニス部の部長で生徒会長だ」
「え!? 部活とかやってるんだ……!」
 おぼっちゃま君なのに。とは続けず、けれどもそれなら、と及川は取りあえず跡部を連れ出そうと試みた。
「んじゃテニス部のブースとか行ってみちゃう? エキシビションマッチみたいなのやってたかは覚えてないけど……」
「ほう、面白そうじゃねえの」
 すれば跡部は本当にテニスが好きなのか案外簡単に乗り、及川はの方を振り返って手を振りつつ跡部を美術室から連れだした。
 そうして道すがら適当に学校の説明などをして会話を繋げていると、ふいに「くく」と跡部が低く笑い及川はキョトンとした。
「ナニ? なんか俺そんな面白いこと言っちゃったっけ?」
「いや……。お前と話しているとどこか奇妙な感覚になってな」
「ん……?」
「口調もしゃべりの癖も正反対だが、俺様の後輩にお前と声質がほぼ同じヤツがいる。声だけ聞いていると、そいつがトチ狂ったかのように聞こえてまるでコントだぜ」
 言われて及川は口をへの字に曲げた。なぜなら聞き覚えのある話だったからだ。
「あー……うん、なんかちゃんに聞いたことある」
「そうか。ま、だろうな。それほど似ている」
「ふーん……。俺としてはあんま嬉しくないんだけど。ていうかアッチが似てんでしょ、俺より年下みたいだいしさ」
「たかだか一歳程度の歳の差になんか意味でもあんのか? あいつはまだまだ甘ちゃんだがこれ以上ないくらい優秀な後輩だ。俺様はあいつがいるから安心してテニス部を引退できた。あいつなら必ず我が氷帝学園を全国制覇に導いてくれるはずだ」
 そして跡部はうっすら笑い、及川はあまりに予想外のことに一瞬表情をなくした。――こんな偉そうなおぼっちゃまでさえ、こんな顔をして「後輩」を讃えられるのか。
「なに、その俺のソックリさんて跡部君より強い選手なの?」
「バーカ、まだまだ俺様レベルにはほど遠いぜ。だが、サーブだけは別だ。あいつはサーブの全国記録も持ってるしな」
「サーブ……」
 また余計な共通点を発見した、と思いつつ息を吐く。――なんかもう、財閥とか全国制覇とかきっと住む世界が違うんだ。そう思えば腹も立たない気がしてきた。
 やだな、と少しだけ思った。――「天才」の後輩に今まで振り回され続けて、きっとこれからもそうであろう自分がバカみたいじゃん。と目線が自然と下がってくる。
「あん? どうかしたか?」
「別に。しがない庶民の悩みですぅ」
 唇を尖らせてみれば、「ハァ?」と言いたげに跡部は呆れたような顔をした。
 ――跡部は本当に高校テニス界では有名な選手だったらしく、そこそこの強さを誇るテニス部に連れていけば全員が「氷帝学園」と「跡部敬吾」という名を知っておりテニス談義に華が咲いていた。
 おまけに跡部は使用人にリムジンに積んでいたテニス道具を持ってこさせて彼らと一戦交え、端から見ていても情け容赦なくコテンパンにのされていく青葉城西の選手をみて及川は人ごとのように「うわカワイソ」などと思った。
 そういえばお昼ご飯を食べ損ねた。お腹が空いた、と一時間以上テニス部と戯れて満足げに戻ってきた跡部を売店の方に促した。
「取りあえずなんか食べようよ。俺、お腹空いた」
「あん? この学園はカフェテリアでも併設してんのか?」
「そんなわけないし。ていうか文化祭なんだから露店でいいじゃん、焼きそばくらいならおごったげるよ」
 すると「焼きそば……?」と首を捻った跡部に及川も首を捻り、ピンと来た。まさかおぼっちゃまゆえに焼きそばも露店も知らない。という漫画じみたことがあり得ちゃったりするかもしれない。
 と、冗談交じりに思っているとまさかの案の定で、焼きそばを売っていたクラスの露店から2パック購入して周辺に設置されていた立ち食いスペース用の簡易テーブルの上に乗せると跡部はしかめっ面をした。
「なんだこれは……」
「跡部君、いくらお金持ちでも日本人で焼きそばしらないとかヤバいよ」
「生憎と俺様はロンドン生まれロンドン育ちだ」
「へ!? あ、そうなの? あれ、でも俺、ロンドンでこの手の麺類売ってんの見たけど?」
「お前、ロンドン行ったことあんのか?」
 及川が割り箸を割って焼きそばに有り付こうとしていると意外なところで跡部が食いついてきて、及川は修学旅行で行ったことを説明しつつ焼きそばに口を付けた。
「跡部君も食べなよ、冷めちゃうじゃん」
 言うと跡部は疑心暗鬼そのものといった具合に恐る恐る口を付け、及川は笑った。
「どう?」
「これが庶民の味というヤツか……。まあ悪くはない。が、特別どうということもないな」
「たかだか250円のしかも高校生作の焼きそばにトクベツなクオリティとか求めないでよ」
 肩を竦めつつ、及川は空腹も手伝ってハイスペースで完食した。何だかんだ跡部も空腹だったのだろう。最後まで訝しげにしていたものの全部食べきり、及川はなお笑った。
「食べ切れたじゃーん」
「ああ、まあ悪くない体験だった」
 相も変わらず偉そうではあるが、意外と面白い人間なのかもしれないと感じつつゴミを片し、「さて」と及川は携帯の時計を見やる。
「もう3時だけど……。まだ他に行きたいところとかある?」
「もうそんな時間か……。いや、そろそろ戻る時間だな」
 言って跡部も携帯を取りだし、おそらくはリムジンの運転手に車を回すよう告げた。
 それなら、と正門へと跡部を促すとタイミングよくリムジンが横付けされて運転手が降りてきて、やはり周囲からは好奇の目線を集めてしまう。
 が、跡部は慣れているのか気にするそぶりもなく及川の方に向き直った。
「今日は世話になったな。焼きそばとやらの礼もそのうち必ずしてやる」
「いや……別にイイよ気にしないで」
「及川徹……。覚えておいてやるぜ」
 じゃあな。と、最初から最後まで偉そうな姿勢を崩さず運転手に開けられた扉の向こうに消えてリムジンと共に走り去った跡部を見送り、及川は張り付かせていた笑みを通常に戻して肩で息をした。
 取りあえず校舎側に踵を返し、携帯を取りだしてに連絡を入れてみる。
「――あ、ちゃん? うん、跡部君なんだけどたったいまお帰りになられマシタ」
 は美術室を出たあとずっと自分たちが一緒にいたとは思っておらず驚いたようで、及川は苦笑いを零しつつ「あとでゆっくり話すね」と携帯を切った。
 一般公開終了まであと2時間弱だ。に「公開時間が終わったら美術室で待ってて」とメールを打ってから及川は後輩たちのクラスを周りながら時間を潰した。
 そうして17時になれば一般公開は終了となり、この後は青葉城西の生徒のみでの後夜祭となる。
 片づけは明日に持ち越しなため、展示品も基本的にはそのままだ。と、17時をやや過ぎた辺りで美術室に顔を出せば一人で残っていたが笑みで迎えてくれた。
 及川はさっそく今日の跡部との体験談を話し、後夜祭で盛り上がる外の音を聞きながらふと懐かしい気分に浸った。
 二年前の文化祭の日も、こうしてここでと話をした。美術室の電気が付いているのが外から見えて、が一人でいることを確信して訊ねて来たのだ。
ちゃんさー……」
「え?」
「二年前に俺が後夜祭のあとの花火を一緒に観ようって誘ったら、乗ってくんなかったよね」
 あげく、岩泉と一緒ならいいと暗に言われて自分はきっとたぶんショックを受けたのだった、と口を尖らせるとは困ったように眉を下げた。
「今日は乗ってくれるよね?」
「う……、うん」
 それでも未だに「完全に乗り気」ではなさげなを見て及川は肩を竦めてしまう。
 たぶん理由は、人の多い校内で自分とのツーショットを晒して悪目立ちしたくないということなのだろうし、二年前だってきっとそうだろう。万に一つも岩泉の方を好きだったなんてあり得ないし。あの頃からだって自分のこと好きだったし、きっと絶対そうに決まってるし。という自信はある程度はあるのだが……と及川はふと思う。
 と自分とでは、互いへの気持ちの濃度とか温度とか重要度とかに越えられない壁があるのではないか、と。
 自分にとってはいまこの場に立っている事でさえ、がいなければまるでダメで、のいない生活なんて想像すらできない。が、にとっての自分は、仮に自分と関わらない人生でもにとっては何の影響もない。凡才と天才のように越えられない溝があるのだ、と考えないように考えないようにと抑え込んでいる想いがほんの時たま、ふ、と表面化しそうになっては「そんなはずない」と首を振って考えないようにしてきた。
 だから……この絵を知ったときは嬉しかったっけ、と及川は視線を展示されたままの状態の「恋人たちの橋」と「バレンタインの夜」に目を向けた。
 ――「仙台の冬」を観たときには確証は持てなかったが、この二つは紛れもない。が自分を好きにならなければ描けなかったものだと思えば、の人生に自分が関わったことの意味を見いだせる気がして嬉しかった。
 でも、万一にあり得なくても否定されたら立ち直れないから本人には訊けないけど。と、ジッと無言でを見やると不審に思ったのかは首を傾げた。
「どうかした?」
「なんでもなーい」
 軽く言って及川は腕を伸ばして緩くの身体を抱きしめた。すればもこちらの胸に身体を預けてキュッと抱きしめ返してくれ、及川は緩く笑う。
 たぶんこうして触れているときが、が自分を好きなことをちゃんと実感できる。ちょっと頬を染めて、でも嬉しそうで。でも――、自分はちょっともうキスだけだと足りなくなってきちゃったんだよな、と緩く髪を梳きながら唇を重ねて及川は思った。
「……ん……ッ」
 は違うのかな……、と懸命に応えてくれるのふらついた身体をすぐ後ろの壁際に寄せながら過ぎらせる。
 けど、まあ。もその気でも、ココじゃどうにもなんないけど。と、しばらくして唇を解放すると、は荒い息を吐きながらやや力なく壁にもたれ掛かった。真っ赤に頬を上気させている様子が胸を抉るように揺さぶって、及川はの腰を抱き寄せてギュッと胸に閉じこめた。
 すれば小さく苦しいと抗議され、「ごめん」と呟いて少し力を抜く。すると素直に自分の方へ体重をかけて寄りかかってくれて、及川は薄く笑った。
 花火の前に少しだけ後夜祭も観ようと思ってたけど、もうこのままでもいいや。と抱きしめたの身体の柔らかさに酔うようにして及川はそっと目を閉じた。
 遠く外から聞こえてくる生徒たちの歓声でさえ、いまは耳に心地よかった。



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