――3月。 はとある人物からの依頼品である絵を無事に完成させ、ホッと胸を撫で下ろしていた。 というのも、ソレが起きたのは遡ること1月2日の事だ。 『ああ、俺だ』 『跡部景吾だ。まさか俺様を忘れたわけじゃねえだろうな、アーン?』 東京は氷帝学園で顔を合わせた跡部景吾から連絡があった。連絡先は鳳長太郎に聞いたという。 跡部の家はイギリスを拠点として世界展開している跡部財閥。そのビジネスは多岐に渡り、は把握しようもないが、財閥や財団にありがちな要素の一つとして芸術関係にも力を入れ積極的に支援をしているということだった。 跡部家の場合はむろんその対象のほとんどはイギリス人であり、今回彼らが主催するという展覧会は財閥で支援しているイギリス若手画家の作品とイギリスの著名画家の作品を集めたものが中心ということだった。 跡部がその説明を始めたとき、は単純に展覧会に招待を受けたのだと思った。が、違った。客としてではなく画家として自分を呼びたいという跡部の声に二つ返事で乗った。 跡部からの依頼は二つ。「仙台の冬」と貸し出しと、ロンドンを題材にした新作の展覧会での発表だった。 まだ自分の絵をビジネスとして扱った経験のないは、むろん自分の絵に値をつけられることに懐疑的で、両親とも相談の結果、貸出料と依頼料だけを受け取ることとした。 が――それでも破格である。なぜ跡部がそこまでしてくれるのかは分からなかったが、は素直に乗ることにした。――生前、ピカソが存命中に評価を受けたのは彼が天才であると同時に商才に長けていたからである。それはの目標の一つでもあったし、チャンスは掴まなければ意味がない。 それに、もしも氷帝に通えていれば跡部とは同級生であったという思いもあり、彼への依頼品はいつもに増して気合いを入れた。 ロンドンは跡部の故郷だという。 彼がこの絵を気に入ってくれるかは分からないが、ともかく。頑張ろう――と3月は3週目の金曜日。学校を終えたはその足ですぐに家に帰り、そのまま新幹線に飛び乗って東京へと向かった。 絵は既に先方に送ってあるが、今日は展覧会開催前夜のレセプションがあるということで跡部に呼ばれていたためだ。 まずは祖父母宅に駆け込み、持参したドレスに着替える。――相手は英国人。英国社交界にはうるさい父の意見を参考にしつつも露出の多いイブニングドレスを国内で着ることに抵抗のあったは、失礼でない程度のセミイブニングを着てタクシーに乗った。 行き先は六本木のホテル内のバンケット会場である。 目的地に到着し、会場入りしてすぐには父の選択が正しかったことを悟った。スーツ姿のビジネスマンも散見されたが、イギリス人と思しき白人の男性陣はこぞってホワイトタイを着用していたからだ。 華やかに着飾った客と、その客の邪魔にならないよう給仕がさりげなくドリンクを運ぶ様を目に留めつつは目的の人物を捜した。 が――。 「よく来たじゃねえの」 どこで手に入れたか皆目見当もつかない紫色の奇抜なスーツを着た人物がおり驚いて注視するとまさかの跡部敬吾本人で、は目を白黒させつつも取りあえず挨拶に向かった。 「こんばんは、跡部くん。お招きありがとう」 「ああ。今日のプレ・オープンでここにいる客は既にお前の絵も観てるはずだぜ」 「ホント? 私も観たい……! ウィリアム・ターナーの作品も展示されてるんだよね?」 「そう焦んじゃねえよ。それよりお前に依頼した絵だが……テムズ川辺りの絵だったな。何故あそこを選んだんだ?」 「ああ、私ね……東京にいたときは有明に住んでたの。去年、初めてロンドンに行ったときにテムズ川からの光景を見て、有明を思いだして懐かしくなっちゃったから……」 「なるほどな。なかなか良い絵だったぜ」 「ありがとう」 そうして笑みを浮かべれば、跡部が英語はできるかと訊いてきたためは肯定した。 国内の画商やキュレーターは元より本国イギリス有力紙のプレスも呼んでいるらしく、紹介するという跡部に従って挨拶回りを始めた。正確には回らずとも向こうから次々と挨拶にくるわけであるが――、同じ17歳だというのにいっそ清々しいほど堂々とした跡部の立ち振る舞いには感心した。しばらくすれば奇抜な格好すら気にならなくなるほどの振る舞いだ。 はまだ未成年でアルコールは飲めないため、しばし挨拶や歓談に精を出し――夜も更けたところで跡部と共に会場を出て跡部家の所有するリムジンに乗せられ帰路についた。 さすがにリムジンなど慣れずに居心地悪くしていると、「さて」と跡部が話を切りだしてきた。 「今日、お前をこの場に呼んだ理由だが――」 「え……?」 「平たく言や、青田買いだ」 ふ、と跡部は足を組みながら不敵に言った。え、とが再度首を捻ると、さも当然のように彼は言い放つ。 「お前、渡仏するつもりだと言ってただろ」 「それはそうだけど……」 「早い話が、フランスの画商どもに目をつけられる前に俺様の家と専任契約を結べということだ。悪い話じゃねえだろ、アーン?」 「え――ッ!?」 なぜか命令口調で言われては混乱した。話の内容的に跡部は依頼している立場だろうに、だ。おそらくは跡部は元々がこのような口調でこのような物言いなのだろうとは理解したものの、困惑したまま眉を寄せてしまう。 「フ、フランスに行けるかなんてまだ分からないし……、私はフランスの画商の名前も知らないよ……!」 「だから青田買いだつってんだろ、バーカ。ワケも分からないままお登りさん状態でテメーの絵を安く買いたたかれたらどうするつもりだ? アーン?」 「う、売る予定なんてない……」 「少なくとも、マネジメントは必要だぜ」 「わ、私はまだ学生だし……! そんなの、すぐに決められないよ」 すると、跡部は露骨にため息をついて肩を竦めた。 「ま、だろうな。お前の絵を誰に売ろうがお前の自由だ。権利はお前にある。が……いずれ俺様が跡部財閥を継いだ時、優先権が欲しいと言っているだけだ。悪い話じゃねえだろ?」 「そ、それは……!」 そうかもしれないけど、と小さく続けると、跡部は面白そうに喉を鳴らした。 「お前は俺様の氷帝学園に入り損ねた時点で既に遠回りの道を選んでんだ。そこから這い上がるためなら全てを使え。自分を甘やかすな。てめーでチャンスを掴み取りな」 次々と止めどなく不敵な声と共に浴びせられる言葉に、はあっけに取られつつも何とか落ち着こうと深呼吸をした。おそらくこの人は元来こういう物言いをする人なのだから。たぶん他意はない。と今日で何度目になるか分からない思いを過ぎらせて、ふ、とは息を吐いた。 「跡部くんは……」 「あ?」 「それだけ……私の絵に可能性を感じてくれたってこと?」 「あん? そうじゃねーならわざわざ呼び寄せるわけがねえだろ。仮にビジネスじゃなく俺様の趣味であっても、だ」 「そっか……」 何をバカなことを訊くんだと言いたげな跡部を見やり、はようやく少しだけ笑った。単純に跡部は自分の絵を好きだと言ってくれている。そう思えば幾分気が楽になった。 リムジンが祖父母の家の前に止まり、は跡部に礼を言って車を降りた。そして再び発進したリムジンを見やった直後、ドッと疲れが押し寄せてうっかり壁にもたれ掛かってしまった。 「……疲れた……」 無意識に呟いた言葉は、他ならぬの本心だった。 が、つい先ほどまで自分が居た世界こそが、自分が飛び込もうとしている世界。――慣れていかなくては、と考える脳裏に強く及川の姿が過ぎった。 いま無性に及川に会いたい……と強く思うも仙台に戻るのは日曜の夜。会えるのは週明けか……と夜空を仰いで一つため息を零した。 一方の仙台。日曜の午後。 金曜から日曜にかけて行われた県民大会は最終日・決勝――相も変わらずカードは白鳥沢VS青葉城西となったものの、新人戦の時よりは青葉城西は白鳥沢に迫る結果となった。が、センター陣の弱さが浮き彫りになる形で面白いほどに牛島にスパイクを決められ、1セット目は粘ったものの、2セット目は比較的容易く取られて青葉城西は定位置の準優勝で終わった。 「んなカリカリすんなよ。準優勝って割とすげーじゃん」 「マッキーそういう目標低いこと言うのやめてください!」 「まァ、お前にとっちゃ北一時代からのインネンだからな」 「松つん人ごとみたいに言うのやめて!!」 及川はというと、青葉城西に戻っての解散後にいつもの4人で帰り道にラーメン屋に寄ってのヤケ食い大会を開催していた。 とはいえヤケ食いをしているのは及川のみであり、替え玉を繰り返しては地団駄を踏んでいる及川に付き合うことに全員が飽きてきた頃。 花巻はすっかり空になったラーメンを横に携帯をチェックしつつ、「お」と切れ長の目を瞬かせた。 「及川」 「なに?」 ん、と花巻は携帯をカウンター横並び一列に座っていた及川へと隣の松川の背中越しに差しだし、及川はラーメンをすすっていた箸を止めてやや眉を寄せた。 「なんなのさ……」 「面白いもん見つけた」 見てみ、と差し出した花巻の携帯を及川は腑に落ちないといった表情で受け取る。こんな最悪の気分の時に「面白いもん」もなにもないだろうとでも言いたいのかもしれない。 その及川が携帯画面と向き合い――彼は長い睫毛で縁取られた整った瞳を大きく見開かせた。 ――イギリス若手画家展・本日より開催。 まず及川の目に飛び込んできた文字はそれだ。日付から察するに昨日の記事のようだ。及川が言葉を失っていると花巻がこちらに向けて言った。 「さんだろ、それ」 及川は無言で記事を追う。そこにはいくつか写真が掲載されており、そのうちの一つは奇抜なスーツを着た少年とドレスアップをしたのツーショットだ。及川には何が何だかサッパリ分からない。 「彼女、六本木の美術館に絵を出展してるんだって? やっぱスゲーのな」 「――聞いてない」 「は……?」 「東京で展覧会があるから今日試合に行けないとしか聞いてない!」 「知ってんじゃん……」 「ニュースになってるとか聞いてないよ!」 「ウルセー及川! 黙って食え!」 すれば及川の隣に座っていた岩泉ががなって及川の頭を叩き、「いたッ!」と及川は抗議して岩泉の方を睨んだ。 岩泉も負けじと及川を睨み上げる。 「おめーも意味不明なテレビとか雑誌、たまに出てんじゃねーか」 「ヒドイな意味不明じゃないしイケメンかつバレー選手としてだし! ていうかそんなのはどうでもいいの! なにこの変なスーツの男!」 が美術関連の記事に取り上げられるのは及川としても意外ではなく慣れてもいたが、問題はと一緒に写真に写っている相手だ。さすがにドレスアップしたうえ男と一緒に写真を撮られたなどとは聞いていない。 ああ、と花巻が及川の方へ手を伸ばして自身の携帯を取り戻しつつ目線を流した。 「ソレ、跡部財閥の一人息子だろ」 「え、マッキー知り合い!?」 「なわけねーし。記事に書いてあんじゃん。跡部財閥、って世界展開してるイギリス財閥でロックフェラーみたいな……って知らねぇの?」 「知らない」 「……。まあ……要はパトロンみたいなもんなんじゃね?」 花巻は淡々と投げやり気味に言って、松川はスープを飲み干しながらちらりと目線だけを及川に送った。 「けっこうイケメンっぽいな、そのおぼっちゃま」 「ハァ!? 松つんなに言ってんの全然イケメンじゃないし! 俺の方がイケメンだし!」 「けど金持ちじゃん」 その一言に、うぐ、と及川は押し黙る。すると途端に花巻たちから声があがった。 「ドシャット! 松川ナイスキー」 「ナイス、松川」 「お前ら酷すぎる!!!」 及川は踏んだり蹴ったりのまま今の替え玉でラストにして、その後は4人揃ってラーメン屋をあとにした。 「じゃあな、岩泉」 「また明日」 「おう」 しかしながら負け試合のせいか、それとも本気でのことがショックだったのか。 及川は帰宅を拒んで一人そのまま学校に戻り、岩泉達はのらりくらりと徒歩で仙台駅を目指して繁華街までたどり着いた辺りで岩泉は花巻達と別れた。 そうして岩泉が目指したのはスポーツ用品店だ。 そろそろ愛用のシューズがくたびれてきて買い換え時なのだ。 実際に今日の試合でちょっとヒヤッとした場面もあったしな、とうっかり牛島に綺麗にスパイクで抜かれた場面を思い出して岩泉は小さく舌打ちをした。 岩泉の愛用しているアシックスのバレーボールシューズは手頃な値段で基本的にどこでも手に入るものであり、岩泉は特に考えることなく適当に頭にインプットされているスポーツ店の一つに入ってシューズを探した。 が、生憎と自身のサイズが売り切れで、次の店を目指す。ところが次の店も売り切れで、痺れを切らした岩泉はこの界隈で在庫のある店舗を店員に訊ねた。 すれば駅の近くの百貨店には置いているということで、岩泉はそこまで出向くことにした。 しかしながら大会帰りのジャージ姿で百貨店に単独突入というのはそれなりに羞恥心を煽る。エントランスまで辿り着いた岩泉は無言で早歩きにてグランドフロアを突破しエスカレーターを駆け上がるようにして目的地に着くと、さっさと用事を済ませようとぐるりと棚を見渡した。そして自身の探していたシューズを発見するとさっそく手に取ろうとした。が、またもやサイズが違い、近場にいた店員を捕まえて自分のサイズを持ってきてもらえるよう頼んだ。 そうして時間つぶしに他の靴を物色している時――。 「岩泉か……?」 聞き慣れない、だが聞いた覚えのある声に呼ばれて岩泉は振り返った。その顔が一気に硬直してすぐさましかめっ面になる。 「ウシワカ……」 「その呼び方、やめろ」 振り返った先にいたのは長身の少年。今日の決勝戦で会ったばかりの相手であり中学時代からの宿敵でもある白鳥沢の牛島若利だ。 彼にしても試合帰りなのか、白鳥沢のクラブジャージを身に着けている。 「こんなところで何をしている」 「あ? スポーツ用品店に来る用事なんざ買い物に決まってんじゃねーか」 自然と口調が敵意を含んでしまうのは、もはや致し方ないことだろう。 それもそうだな、と牛島は牛島でやはりシューズを見に来たのか棚に目線をやり、岩泉も「お待たせしました」と店員が目的物を持ってきてくれたため足早にこの場を去ろうとした。 が――。 「待て、岩泉」 「は……?」 「お前に少し話がある」 言われて岩泉は眉を寄せた。 「話……?」 怪訝に思った岩泉ではあるが、僅かの逡巡の結果聞いてみることにした。珍しく及川ではなく自分に話があると言った牛島に興味が沸いたからだ。 それぞれ目的のものを購入して無言で百貨店を出て、少し先にある小さな公園に場所を移した。 歩きつつ、我ながら何ともシュールな図だ、と岩泉は思ったもののちらりと見上げた牛島は相も変わらず読めない表情をしている。この「表情」に自分たちは何度苛立たせられて来たことか――と余計なことまで思い返していると公園に着き、さっそく牛島が切り出してきた。 「まず、前提として話しておきたい」 「何だよ」 「俺は、及川を優秀な選手だと評価している。中学の頃からだ」 「何だ……話って及川の事かよ。それなら直接アイツに言ってくれ」 チッ、と岩泉は舌打ちをして両手をジャージのポケットに突っ込んだ。 「及川にも何度か話そうと試みた。が、及川が俺の話を最後まで聞いたことは一度もない」 「だろうな」 「だからお前に聞きたい。及川は……なぜ白鳥沢でなく青城に行った?」 「――は?」 ピキ、と岩泉のコメカミに青筋が立つ。 「んなもん、テメー含めて白鳥沢をぶっ潰すために決まってんだろーがボゲ! むしろなんでアイツが白鳥沢に行くと思える? 宿敵じゃねーか!」 「だが、ウチは及川を誘った。破格の特待生としてだ」 「は……」 「それでも及川は白鳥沢を蹴り、青城に進んだ。その結果が今だ」 岩泉は、「頭が真っ白になる」という文字通りの体験をまさに生まれて初めてしていた。――及川が白鳥沢からの誘いを蹴った。そんなこと、いま初めて聞いたからだ。 「てめぇ……、ホラこいてんじゃねえだろうな!? 俺はそんな話、聞いちゃいねえぞ!」 思わず牛島に掴みかかった岩泉を、牛島は解せないという面もちで見下ろした。 「なぜウソを付く必要がある? 及川は、あの年のベストセッター賞。つまり県でもっとも評価されたセッターだった。サーバーとしてもスパイカーとしても高位置で安定しているのは知れたこと。むしろなぜウチが及川を誘わない理由がある?」 言われて岩泉は歯ぎしりをする。チッ、と舌を打ちながら牛島を解放し、眉を寄せた。 確かに道理は通っている。いやむしろ考えれば考えるほど当然のことだ。 けれども――、と言葉を発せないでいると牛島はなお言い放った。 「今さら、過去のことをどうこう言う気はない。だが、もしも及川が白鳥沢に来ていれば少なくとも奴は全国ベスト4の正セッターだったことは確かだ。それがどういう意味だか分かるか?」 「何が言いてえんだよ……、はっきり言えよクソが」 「これからバレーを続けるならば、最低でも全国ベスト8という成績は必須だ。俺は既に進む大学が決まった。だが、及川にはそれは無理だ。及川は……白鳥沢を選ばなかった事でハンデを背負った」 「それは……、青城に来たのが間違いだったと……そう言いてえのか、ああ!?」 「端的に言えばそういうことになる。だがそれも今さらだ。俺が忠告したいのは一つだけ。これから進む道は誤るなと、そう及川に伝えて欲しい」 それだけだ、と言い返せない岩泉に言い捨てて牛島は岩泉に背を向けた。 岩泉は血が滲むほどに自身の手を握りしめていた。――脳裏に、中学最後の大会で泣きながら白鳥沢にリベンジを誓った時の光景が過ぎった。 『高校行ったら、今度こそ白鳥沢凹ましてやる……!』 『当然だ……!』 それは負けた直後の一時的な気の高ぶりだったとしても、自分たちには必然の選択だった。及川も心からそれを望んでいたはずだ。 なぜなら――と忘れたくても忘れられない出来事が蘇った。 『一対一でウシワカに勝てるヤツなんかうちにはいねえよ! けど、バレーはコートに6人だべや!?』 『相手がウシワカだろうが天才一年だろうが、6人で強い方が強いんだろうが、このボゲが!!』 焦って自暴自棄となり今にも爆発しそうだった及川にぶつけた言葉。それが及川の救いとなったことを岩泉はイヤと言うほど自覚していた。 時には恐ろしいほどに及川がその言葉に依存していることも見てみないふりをしていた。 だってそうだ。元来の及川は、「個」で上に駆け上がることを望んでいたのだ。だからこそ「自分」が「牛島」に勝てないことに絶望し、そして「影山」という才能に打ち拉がれて焦燥していた。 それがあの時以降、彼は自分の元来の欲求を心の奥底に眠らせてしまった。全ては「天才」に対抗する手段として彼が無意識に選び取った事だ。天才には勝てない。だから6人の凡才で立ち向かうと彼は決めた。 だから――と岩泉はなお拳を握りしめた。 だから、及川は後輩でありチームメイトであった「天才」を「敵」だと認識して除外した。 そして自分は見て見ぬふりをした。――あれほど及川を慕っていた後輩を、と影山のことを考えるたびに僅かな罪悪感は過ぎったが岩泉にとっては詮無いことだった。 自分にとって、及川はかけがえのない幼なじみで相棒で。及川を守るためならその他の犠牲など取るに足らない事だったからだ。 及川の影山に対する揺らぎには気づいていた。才能への嫉妬と、羨望と、追われる焦り。そして慕われている事へのくすぐったさと、影山へ向かう抗いきれない先輩としての情。 「敵」だと認識することで、及川の揺らぎが平穏になるならそれで良かった。 及川徹は、体格にもセンスにも恵まれた自慢の相棒だ。けれどもそんな彼は、「天才」ではなかった。 無理に「天才」と同じステージに立つ必要はない。そうすれば、アイツはまた暴走していずれは壊れてしまうかもしれない。そんな畏怖の念が岩泉を支配していた。 だから――。 『え、だって……勉強する意味わからない、って。世界に出たとき困るよ……?』 『牛島くんはいまは敵同士だったかもしれないけど、同じチームになったら頼もしい選手だったりするんじゃないかな……』 「天才」はさも当然のように――上へ上へと突き進む。それは及川の心を揺らす。及川は常人よりも遙かに「天賦の才」とやらに惹きつけられてしまう。 だから……近づかなければ良かったんだ、と岩泉は歯ぎしりをした。 及川にとって自分の存在が大きいことは自覚している。他人の言葉に左右されやすい及川にとって、自分の一言が時に大きすぎるほど大きく影響するというのも自覚している。 だが、それ以上に及川は牛島の、影山の、そしての一挙手一投足に全身で感情を揺り動かされてしまう。 ――これ以上、そいつに構うな。そいつはお前ら「天才」とは違う。そのボーダーを踏み越えさせないでくれ。 いっそそう叫べればどれほど楽か――。 自分が間違っていたかもしれない。踏み越えろと背中を押すのが正しかった可能性だってある。――時々込み上げる感覚に全身で抗ってきた。 だってそうだろう。そのラインを越えさせてしまえば、自分は二度と及川と並べない。――と岩泉は俯いた。 『これから進む道は誤るなと、そう及川に伝えて欲しい』 クソが……ッ、と血が滲むほど歯ぎしりをして、岩泉は夕暮れの公園から一歩も動けずただジッと立ちすくんでいた。 ――その頃の及川は。 岩泉と牛島の会合など知るよしもなく、一人でいつも通りの自主練習に精を出していた。 体育館に入る前に一度だけに電話をかけてみたが繋がらず、イライラも募っていっそう今日のサーブ練には力が籠もった。 やや焦りもあったのかもしれない。はどんどん遠くへ行こうとしていて、自分はいつまで経っても白鳥沢に勝てない。 数え切れないほどのサーブを叩き込んで、少しだけ朦朧とする意識の中で及川は両膝に手を付いた。 ――いつか、夢を見た気がする。 前を見たら、影山がいて、牛島がいて、そしてがいた。呼ぶ声が聞こえた。こちらへ来い、と確かに呼んでいた。 けれども後ろを振り返ると岩泉がいて、彼は自分に背を向けて歩いていって。 どちらを追うか決めかねて、立ちすくんだ。立ち止まったまま動けず、立ち竦んでしまったのだ――。 荒い息を吐く中で、ハッとして及川は意識を戻した。見渡せばいつも通りの体育館である。 一瞬意識がトンだ、と頭を押さえつつ壁の時計に目をやる。もう19時を回っている。 確か16時にはラーメン屋を出て学校に戻ったはずだ。 さすがにやりすぎたかな……とため息を吐いてストレッチをこなし後片づけをして帰り支度を済ませ、体育館を出た。 携帯を取りだして見やるとからの不在着信があって「あ」と及川は目を見張った。折り返しかけてくれたのだろう。 そのまま発信ボタンを押して、及川は携帯を耳にあてた。は携帯を手元に置いていなかったのか、しばらく待ってようやく彼女の声が聞こえた。 「もしもし」 「あ、ちゃん? いまどこ?」 「え……新幹線の中だけど」 「え、話して大丈夫?」 「デッキに移動したから平気」 の声を聞きながら、及川は少しホッとしている自分を自覚した。開口一番にあの変なスーツの男の事を問い質そうと思っていたのに、と肩を竦める。 「ちゃん……、あのさ」 「ん……?」 「展覧会、行ってたんだよね? そのことで……俺になにか言うことない?」 しかしながら気になるのも本音で、やや口を尖らせ気味に言ってしまうと「え」と携帯の先のは息を詰めたように感じた。 戸惑うなんて何か後ろ暗いことでもあるのだろうか、とその反応を勝手にネガティブな方向に受け取り、少し眉を寄せて返事を待つことしばらく。実際はほんの数秒ほどだったかもしれないが、やけに長く感じた間のあとにちょっとだけ躊躇したようなの声が漏れてきた。 「及川くんに早く会いたい」 「――え」 「だから明日、学校に行くの楽しみなの。ね、お昼一緒に――」 はにかんだような声と共に流れてきた彼女の言葉を遮るように及川は反射的にギュッと携帯を握りしめていた。 「ちゃん、何時に仙台駅に着くの?」 「え……と8時過ぎだから、あと30分後くらいだけど……」 どうして、と言いたげなに及川は校庭を走りながら明るく告げた。 「オッケ。じゃあ俺、改札で待ってるね」 「え……!?」 「だって及川さんに会いたいんでしょ?」 言って及川は携帯を切り、急いでバス停を目指した。いったい何をモヤモヤ考えていたのか、一瞬で忘れてしまった。 自分もはやくに会いたい。会って話したいことがたくさんある。――なんだ、いつも通りじゃん。と全開の笑みを一人で零して及川はやってきたバスに飛び乗った。 高校生活最後の春が訪れようとしている。 みなそれぞれの分岐点があることをまだ知らずに――同じ道を歩いていたい。 そう考えていたのは誰だったのか、まだ誰も知るよしもない。 |