――バレンタイン当日。

 結局なにも用意していない……と、は寒空の下を登校しながらため息を吐いた。
 及川は及川でバレンタインについてなにも触れなかったし、今日の及川が忙しいのは目に見えているし。
 けれども。チョコはともかく、デートはしたかったかも。と、正門をくぐったの頬が一気に引きつった。
 正門からの道を直進すれば第三体育館があるのだが――その入り口には女生徒による人だかりが出来ており、一瞬にして彼女たちの目的を悟ったのだ。朝練後の及川にチョコレートを渡すのだろう。
 そうこうしている間にもを追い抜いていった女生徒たちが可愛らしい包みを持って第三体育館の方向へ駆けていくのが見え、は小さく息を一つ吐いて校舎の入り口に向かった。
 その後、一限目開始のギリギリになって花巻が現れ、手に大きめの紙袋を提げているのを見ては少し微笑んだ。彼も色々とチョコレートを受け取ったのだろう。
「おはよう、花巻くん」
「おはよ」
 甘いモノが好きだからバレンタインは好きだと言っていた花巻にとってはきっとチョコは嬉しい贈り物に違いない。
 及川にしても甘いモノを好んでいるのは知っているが――、と2限目が終わって中休みに入り、ふと廊下に響いた黄色い声につられては外を見やった。
 すると磨りガラスの向こうに見えた長身の影にたくさんの女生徒が駆け寄って取り囲んでいるのが見え――、声まで聞こえてきてその主が誰かを悟った。見るまでもなく及川だ。
 あのチョコ、全部食べるのだろうか……とそのままぼんやりと窓の方を見ていると、こちらを見ていたらしき花巻の視線に気づいた。瞬きをして花巻を見やると、彼は少しばかりこちら側に身を乗り出してきた。
「気にならない?」
「え……」
「及川。イヤでも目に入るだろうし、あんなひっきりなしだとさすがに気になるデショ」
 言われては目を見開いたが、数秒後に「ああ」と悟った。彼は自分が及川と交際していることを知っているのだろう。
「うん……、でもいつもの事だし」
 は少し肩を竦めて笑った。
 出会った頃からあの光景はごく身近にあったもので、今さら思うことはなにもないし思ったところでどうにもならないことも分かっているため、結局はどうしようもなく。
 にとってはごくごく普通の一日だった。
 ただ、今夜は両親が家をあけるため晩ご飯を自力で何とかするしかなく。やっぱり及川を誘えば良かっただろうかと少しばかり後悔していた。
 とはいえ。いくら一年で一番女生徒に囲まれる日であっても、及川が練習時間を削ってまで彼女らに時間を割くとは思えない。――あとでメールしてみようかな。
 という考えもそこそこにすっかり人の気配が消えて静まりかえった特別教室棟でキャンバスを前にしつつ、は壁時計に目を向けた。7時半だ。通常、部活は7時まででそれ以降は自主練習となる。
 及川の場合は通常練習後も1時間、2時間、いやもっと長く残っている日も多いが……今日はどうだろうか。
 及川は体育館までは携帯を持っていっていないため、たいてい一緒に帰るときはこちらが第三体育館に出向くかあっちが美術室に来るかである。――まだ残っているなら一緒に帰ろうと後でメールしておこうと思いつつ絵へと意識を戻すと、いつの間にか30分ほど時間が経っていた。
 ふと廊下に足音が響いてはハッと顔を上げた。次いですぐに美術室のドアがノックされ、ドアのほうへ向き直る。すればガラッと開いたドアの先には常と同じようにウインクでピースサインを決める及川がいた。
「イェーイ! ちゃんの大好きな及川さん参上デス!」
「及川くん……!」
 思わずは立ち上がった。及川もこちらへ笑顔で歩み寄ってくる。バレンタインだというのに意外にも身軽そうだ。
「ちょっとはやく切り上げてきちゃった。ちゃん、このあと時間あるよね?」
「え……」
「バレンタインじゃーん。デートしようよ」
 さも当然のように言われてぴくりとの頬が撓った。嬉しい反面、ややどう反応すればいいか迷っていると、及川が少し屈んで解せないと言いたげに首を捻る。
「どうかした?」
「う、ううん。なんでもない」
「あのさちゃん。今日バレンタインなんだけど……」
「うん」
「俺宛に、カノジョからのチョコレートとか有りマスカ?」
 う、とは思わず瞳を逸らして後ずさった。あ、やっぱり、と及川は笑顔でまるで予測していたように言う。
「うん。そんな気はしてた」
「だ、だって……及川くんいっぱいもらうし」
「カノジョからのは特別に決まってんじゃん!」
「う……」
 さすがにバツが悪く、は俯いた。そもそもバレンタインという行事に馴染みがなく、自分の家では日本式ではなく本場式がまかり通っている事も説明すると、及川は「なんだ」と軽く笑った。
「それイイね。だったら今夜は俺とご飯食べるしかないよね!」
「え……」
「はい決まり。行こ!」
 そうしてあっけらかんと言う及川にはあっけに取られたものの、この柔軟なところはいかにも及川らしい。
 うん、と頷いて後片づけを済ませ、揃って学校を出て駅に向かうバスに乗る。バスはいつも通りガラガラで、たちは後方の二人がけのシートに腰を下ろした。
 及川は鼻歌を歌いながら携帯をチェックしている。曰く、夜遅くまで営業しているカフェを調べているらしい。一応はバレンタインであるしチョコレートケーキで良ければプレゼントすると言ったら二つ返事で、スイーツの美味しいカフェを見つける、と張り切っているのだ。
 だいたいこの手のスイーツやオシャレアイテム的な情報は花巻が情報源である事が多いのだが、とちらりと及川を見やると「あった!」と及川は上機嫌で笑った。
「駅まで行かないで途中で下りた方が近いっぽい」
「うん、分かった。あの……及川くん」
「ん?」
「荷物ってカバンだけ? チョコ、いっぱいもらってたのに……」
 は及川が美術室に現れたときから疑問に感じていたことを聞いてみた。すると及川は意外そうに瞬きしたのちに、ヘラッと笑った。
「部室に置いてきちゃった。とてもじゃないけど持って帰れないし、食べきれないしね」
 ちょっとずつ部のみんなでシェアしながら食べる、と及川が続け「そっか」とは頷いた。特に聞いたことはなかったが、及川は毎日のようにもらっている差し入れもほとんど部で消費しているという。
「安心した? それとも俺がプレゼントもらうだけで妬けちゃう?」
「そ、そんなこと言ってない……!」
「えー、ホントかなァ」
 及川は軽く笑いながらさりげなく膝に置いていたの手に自身の大きな手を重ねてきて、ドキ、との心音が跳ねた。頬も熱い気がする。たぶん顔、赤い。と思わず俯いてしまう。
 及川が女の子に囲まれているのなんて、それこそ及川を及川徹として認識する以前からの事で、ごく当たり前のことで。妬いたりなんてしていないつもりだったが、本当は及川の言うとおりだったのだろうか、とバスに揺られながら考えるも答えなど出るわけなくて「次のバス停ね」と及川に声をかけられてハッとは意識を戻した。
「んーっと……、広瀬通りの方みたいだね」
「じゃあ帰りは歩いた方が早いかな」
「だね。そうしよっか」
 下車して話しつつ手を繋いで歩く。こうやって歩くことには段々と慣れてきたが、いまも誰かに見られたらと思うとちょっとだけ周りが気になってしまう。と雑談混じりに歩いていくと及川は目的地を見つけたようで、入り口へと誘導した。
 ビルの中に位置するカフェは階段を上がらねば入り口に辿り着けず、登っていくとエントランスが見えて及川がドアをあけた。
「いらっしゃいませ」
 まず目にアンティークのピアノが飛び込んできて「わ」とは小さく呟いた。
 店内は雰囲気ある照明にバラバラだが不思議と統一感のある木のテーブルが程良い間隔で並べられており、客層は学生が目立つようだった。
 二人であることを告げればちょうどあいていた座り心地の良さそうなシングルソファが向き合ったテーブルに案内され、及川がぼそりと呟いた。
「うっわ、オシャレー。さっすがマッキー」
 それを聞いて、やはり花巻情報だったのか、と悟ると同時には痛いほどの視線を背中に感じる。
 バレンタインなためかカップルも多かったが、女性客も多く――必然的に及川が視線を集めているためだ。彼の容姿を褒める声もどこからともなく聞こえ、いつものこととはいえ慣れない、とはソファに座った。
「お腹空いたね。なんにしよっか」
「んー……。あ、及川くんほら、ケーキ付けられるみたい」
「ホント? やった。じゃあ俺チョコケーキね」
 けれども嬉しそうに笑う及川を見ているとやっぱり嬉しくて、も頬を緩めた。
 及川はビーフシチューを大盛りで頼み、はパスタセットを頼んで及川にのみ食後にチョコレートケーキを付けてもらった。
 店内には静かにクラシック音楽が流れており、としては非常に好みで無意識にテンションが上がってくる。
「そういえばちゃん、いまって何の絵描いてんの?」
「あ、実はね……。ある人に誘われて3月に開かれる展覧会にいくつか絵を出させてもらうことになったの。それで、ロンドンの絵を描いて欲しいって指定されて……いま描いてるのはそれ」
「え、ていうか……3月って、まさかまた県民大会中に東京ってオチ!?」
「あ……!」
 言われてはハッとする。自身の予定を思い返すと、確か3月の3週目の週末だった気がする、と思い当たって唇を引いた。県民大会もその頃のはずだ。
 及川は小さく肩を落とした。
「まあ、いいけどさ。ちゃんはいつになったら及川さんのセットアップが見られるんだろうね」
 諦めたように言った及川は決してこちらを責めているわけではない。及川は部活や用事を押して試合に来てくれと言ったことは一度もないし、自分がそうできないこともきっと理解してくれているはずだ。が――そのうちに必ず行こうと思ってもは返事はできなかった。なぜなら来年度のインターハイ予選も試験と被っている確率が高くて、と段々と視線が落ちていっていると及川は慌てたように言った。
「ちょ……、俺気にしてないから!」
 その様子にも、うん、と頷いていると料理が運ばれてきて二人で舌鼓を打つ。
 そういえばさ、と及川はビーフシチューを頬張っていた手をふと止めた。
「先週って私立高校の合格発表があったよね」
「あ……そういえばそんな時期だね」
「白鳥沢行きますーとかタンカ切った飛雄がどうなったか、俺夜も気になって眠れないんだよね」
 ハァ、と及川は思い切り「心にも思っていない」と言いたげな声を漏らした。事実、彼は影山が白鳥沢に合格したとは思っていないのだろう。
 けれども気になる、というのが本音のはずだ。相も変わらず厄介だな、とは肩を竦めた。
「白鳥沢じゃなくても、影山くんはどこにいたってバレー続けるだろうからきっとそのうち会えるし対戦できるんじゃないかな」
「俺、別に会いたくないんだけど」
「でも、対戦したいんだよね?」
「そりゃあね。白鳥沢に落ちてウチも蹴って、いくら天才だからって一人で何とかしようったって無駄だってことしっかり教えたげないとだからね。先輩として」
「またそんな……。でも、それって影山くんは選手として優れてるから、ウチとか白鳥沢に来たらもっと強くなるって意味だよね?」
「う……!」
「やっぱり強い選手がいっぱいいるチームは強くなると思うもん」
 ね? と言えば、及川はしまったと言いたげに心底嫌そうな顔を浮かべた。
「その手には乗んないよ。俺はウシワカ野郎には一生トスあげません」
「別に牛島くんじゃなくても、強い選手なんてこれからいくらでも……。あ、そうだ及川くん、志望校とかもう決まった? バレー、大学でも続けるんだよね?」
 すると及川は、ぴく、と少しだけスプーンを持っていた手を撓らせて言いにくそうに目を泳がせた。
「んー……、まあ、何となく」
「ホント? どこ?」
「言えない! 行けるかなんて分かんないし、とにかく、白鳥沢に勝たないことには話になんないからね……」
 そこまで言って及川は口籠もり、も追及はしなかった。ただ一つだけ言えることは、及川の中で志望校が以前よりも明確になったということだろう。
 そうだ、と及川が切り替えたように明るい声で言った。
「次のクラス替えこそ俺たち一緒のクラスになれるよね、たぶん」
「え……?」
「ほら、ウチの学校は3年は第一志望校に合わせて割り振られるじゃん」
「あ……そうだね。え、じゃあ……及川くん、国立理系クラス志望なの?」
 ん、と及川は頷いた。
 は意外な答えに目を見開いた。青葉城西普通科はほぼ私立受験を想定――実際は普通科で大学進学するのは半数以下であるが――しているため、3年次は私立理系・私立文系がそれぞれ複数あってほとんどの生徒はそこに分類される。残りが国公立の文理に分かれるわけであるが、は国立を受験するため得意の理系クラスを志望していた。それは及川も知るところだ。
 及川にしても今や理系の方を得意としているため、理系を選ぶのは理解できたが。国公立ではなく私立だと思っていたのに――と巡らせる。国立大でパッと浮かんだスポーツの強い大学は全国でたった一つだけだったが、及川の学力ないしはバレーの実力で「そこ」に行けるかは皆目見当も付かず、押し黙る。
 もしかすると自分が知らないだけでバレーに特化した大学が他にあるのかもしれないし、と考え込んでいると及川が、ニ、と笑った。
「同じクラスだったら、昼休みにご飯一緒に食べたり喋ったりできるよね」
「え……、うん、そうだけど……でも」
「一緒のクラスなら喋ってても不自然じゃないし、バレたっていいじゃん。ね?」
 諭すように言われて、は曖昧に返事をした。
 中学の頃から及川とは一度も同じクラスになったことがないため、もしもクラスが一緒ならば嬉しいし、毎日教室で顔を合わせられればきっと楽しいだろう。が――と考えるとは裏腹に及川はすこぶる楽しそうに笑っている。
ちゃんお昼ご飯食べなさすぎだし、この際お弁当の日とか作っちゃおうよ。絶対楽しいって!」
 その笑顔を見ていると、純粋に自分と同じクラスになることを心待ちにしてくれている様子が伝って、も今度は笑って頷いた。
 そうして料理を食べ終わり、及川は運ばれてきたチョコレートケーキを頬張った。
「あ、美味しい! ありがとちゃん」
「どういたしまして」
 本当に嬉しそうな及川を見ているとも嬉しくて、来年はチョコレート用意しておこうかな、と考えつつゆっくりとコーヒーを飲み、そろそろ出ようかと高校生のタイムリミットである22時を前に店を出た。
「んー、美味しかった。満足満足」
「うん。素敵なお店だったね」
「ほんとマッキーていつ新規開拓してんだろうね。バレー真面目にやってんのか主将としては甚だ疑問だけどさ」 
 花巻の多趣味ぶりに舌を巻く及川の気持ちはも十二分に理解でき、そうだね、と相づちを打った。趣味がイコールそのままバレーの及川にとっては花巻を真似ることはほぼ不可能に近いのだろう。
 けれどもこうして他人の価値観を受け入れて吸収していく及川の柔軟な部分はの好きなところでもあり、良い気分のまま並んで歩きながら横断歩道を渡って家へ向けて進み始めた直後に及川はぴたりと足を止めた。
「ごめんちゃん。ちょっとだけ待っててもらえる?」
「え……」
「すぐ戻るから!」
 言って、及川は急にに背を向け小走りで走って行ってしまいはあっけに取られつつもその背を見送った。
 この辺りは石畳の続くヨーロッパ風の通りで人も多く雰囲気も良く、はすぐそばのベンチに腰を下ろした。
 トイレにでも行ったのだろうか。そういえばちょっと先にはレンタルショップがあった気がする。ビデオでも返しそびれていたのか。と待つこと数分。
 元来た道から及川が走って戻ってくるのが見えて、自然とは立ち上がった。
「お待たせー!」
 言いながら及川が笑顔で目の前までやってきて、ううん、と首を振ろうとしたその時。「はい」と及川が透明なシートに包まれた真っ赤なバラを一輪差し出してきて、は極限まで目を見開いた。その先にはいつも通り笑顔を絶やさない及川が常のように笑っている。
「パリで見た時からいつかやろうと思ってたんだよね。ちょうどバレンタインだし」
「え……」
「ジュテーム!」
 そしていつも通りパチリとウインクを決めた及川を見て、は思わず口元を両手で覆った。
 確かにパリで、デートに向かうだろう男性が花を購入している所を二人で見たが。確かに今日は父が母に花を贈ることが習慣だと話したが。まさか及川が花をくれるなんて――しかも、と言われたフランス語の意味を後追いで理解して「ボン!」と効果音でも付きそうなほど一気に頬が熱を持つのを感じた。
「? あれ? なんかそんな真っ赤になるような事だっけ?」
 しかも本人はあまりよく理解してなさそうなのが余計に羞恥心を煽り――は小さく呻きつつも及川の手からバラの花を受け取った。
「モ、モワ・オスィ。メルシー」
 そうして小さく言えば、「え?」と及川は首を傾げた。
「え、それ何て意味?」
「お……教えない……!」
「えー!?」
 ショックを受けたような顔をする及川を見つつ、ふふ、とは頬を染めて笑った。たぶん夜まであいている花屋の場所とか色々前もって調べてくれていたのだろう。胸がいっぱいで滲みそうになっていた涙を拭ってからはギュッと及川の腕に自分の腕を絡めた。
「ん、ちゃん、くっつきたいモード?」
「うん」
「ほんとちゃん俺のこと大好きだよね」
「うん」
「え――ッ」
 そんな会話を交わしたのちに見上げた及川はなぜか頬を染めており、小さく唸っているのが見えては肩を揺らした。
 ――いつまで一緒にいられるか分からない。いまはそんな言葉は頭の隅の隅に追いやって、は素直に「幸せだな」と感じていた。
 できればずっとこのまま一緒にいられればいいのに……と、ひたすらそう考えて胸がいっぱいのまま家への道を二人で歩いていった。



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