ポンデザール――芸術橋。またの名を「恋人たちの橋」。
 元はナポレオンの命令によって建てられた、パリでは初めてとなる金属製の橋である。が、近年はもっぱら恋人たちが愛を誓う場所として有名な、いわばデートの聖地のような場所である。

 ポンデザールはエコール・デ・ボザールの前の道を真っ直ぐセーヌ川方面に抜けて右折した先にあり、は上機嫌で歩いていく及川をちらりと見上げた。
 まさか及川がポンデザールに行きたいと言い出すとは思っておらず。それよりも何よりも、やっぱり大きな手だな、と繋いだ手の温かさに恥ずかしいよりも心地よさが勝って微笑んでいるとすぐにセーヌ川が見えてきた。
 横断歩道を渡って橋を見やれば、フェンスに重々しくずっしりズラリと取り付けられた南京錠が目に飛び込んできて「わあ」と2人声を揃えて瞠目した。
 ポンデザールのフェンスには恋人たちが名前を書いた南京錠を取り付け、その鍵をセーヌ川に投げ入れ永遠の愛を誓うという一種のイベント的なものが近年流行っている。そのあまりの流行ぶりにフランス政府は南京錠の重みによる橋の崩壊を危惧し、最近ではフェンスを撤去して南京錠を付けられないよう作り替えるという議論も活発らしい。
 及川は感心したようにぐるりと視線を巡らせて言った。
「すごい数の南京錠だねー……、てかすごいカップルの数」
 有名な橋であるという事実を除いても、橋は寄り添い合うカップルで溢れており、さすがにその光景はヨーロッパにいるという実感を得るには十分であった。日本ではこうも堂々とした光景はまず拝めない。
 橋を渡りきってしまえばルーブル美術館だ。及川がルーブルに戻りたがっているとは思えないし、どうするのかな、とがさりげなく聞いてみると彼は笑顔でとんでもないことを言い放った。
「ん? キスしようよ、橋の真ん中あたりでさ」
「――え!?」
「ファーストキスがパリの橋の上とか超リリカルじゃーん」
 うへへ、とはにかんだように言われては絶句した。何をサラッとさも当然のように言っているのだろうか。
「ん、イヤ?」
「えっと……いや、ていうか……」
「見たところ、ウチの生徒いないっぽいよ?」
 キョロキョロ辺りを確認している及川に、そういう問題ではない、と突っ込もうとしては止めた。確かに及川と一緒にいるところを青葉城西の生徒に見られたら面倒というのは常々思っていることではあるものの。こうもはっきり宣言されると照れるという感情さえ追いつかない。
 フェンス側に寄ればますます重々しい様子が映り、んー、と及川も口を曲げた。
「これ寄りかかったら壊れちゃいそうだよネ」
「うん。近いうちに撤去しちゃうかもって話、ニュースで読んだ覚えがある」
「そうなの!? えー、じゃあ思い出の場所も変わっちゃうのかー……」
 及川が何気なく呟き、思わずの心音が跳ねる。
 おそらく自分は、数年後にはこの場所に戻ってくるだろう。それが小さい頃からの夢で、叶えられるよう精一杯頑張ってきたつもりだ。けれども、その時は及川とは――と過ぎらせては繋いでいた手に無意識に力を込めた。
 5年後、10年後、自分はここに立って、それで今日を思い出すこともあるのだろうか。フェンスに取り付けられた無数の南京錠と、秋晴れの空の下で繋いだ温かい手の温もりと、こうして及川と2人で過ごしたことと。――過ぎらせつつそっと及川の顔を見上げる。少し見開かれた瞳は相変わらず整っていて、やっぱり綺麗な顔だな、と感じて少し目尻が震えた。
「キスしていい?」
 そっと及川の大きな右手が頬に触れ、先ほどよりも控えめに言われて、聞かなくてもいいのに……と感じつつ頷くと、及川の手から彼が少し緊張したような気配が伝った。
 目を閉じると一瞬だけ唇に触れた感触が伝い、目を開けると間近で及川のココア色の瞳と目があって、互いに頬を染めた。
「は……恥ずかしい……」
「俺も……」
 言い合って小さく笑い合い、再び何となく目があって自然ともう一度唇を重ねた。
 初めて及川に抱きしめられた時よりももっとドキドキして昂揚して、けれどももっともっと心地よくて。は改めて及川を好きな自分を自覚した。
 しばし間を置いて自然と唇を離し、へへ、と互いに笑い合う。――5年後、ここに立っている時は一人。一瞬その姿が過ぎって、思わず振り切るようにギュッと及川の身体を抱きしめた。
「ん? ちゃんてばそんなに俺と離れたくない?」
 頭上からいつもの軽い声が笑みを含んで下りてきて、うん、と素直に頷くと僅かに狼狽えたような気配が伝った。
「――俺も!」
 そうして感極まったような声と共にギュッと抱きしめられて、はくすりと笑った。ちょっとだけ涙が滲みそうだったが何とかこらえて及川から身体を離し、ふふ、と笑う。及川も、ニ、と歯を見せて笑った。
「ちょっとあそこのベンチ座ろ。ちょっとこれからの行き先確認もしたいし」
 そうして及川に促されて橋のほぼ中央に数メートル間隔で設置されているベンチに腰を下ろすと、及川はバッグから小さなガイドブックを取りだした。行きたいところをチェックしていたのか、いくつか付箋が挟んである。
「マッキーじゃないけど、俺もさっきの駅の辺りちょっとブラブラしてパンとか食べたいんだけど……」
 パラパラと捲りながらそう言う及川には及川が甘いパンを好物にしていたことを思い出した。及川の好物――牛乳パンがパリにあるかはともかく、気にはなるのだろう。
「それと……ココ行かない?」
「ん……、モンパルナスタワー……?」
 うん、と及川は頷いた。モンパルナスタワーとは、モンパルナス地区に建っているフランスで一番高いビルである。そして、モンパルナスといえばかつてはアーティストがこぞって集まっていたエリアであり、ピカソやシャガールも住んでいた芸術家たちの聖地の一つでもあってにとっても興味を惹かれるエリアであった。
「穴場って書いてあるし、たぶんウチの生徒そんなにいないと思うんだよね。ゼロとは言わないけどさ」
 そうして及川はそんなことも付け加えた。及川曰く、さりげなく他の生徒達が自由行動でどこへ行くかをリサーチした結果、大半が昨日は外観だけ見て終了したエッフェル塔に登ると答えたらしい。
 なぜ及川がそんなリサーチをしたのかは分からない。が、は自分があまり及川と2人でいるところを青葉城西の生徒に見られたくないと思っていることに彼が気が付いているのだと悟った。
 ランチもそこでしよっか、と言いつつ及川はバッグからさっき買ったマカロンの紙バッグを取りだして箱を手に取った。
「味見してみよ。……あ、その前にマッキー用に写真っと」
 言いつつ携帯を取りだしてマカロンの入った綺麗な箱を開け、中身が見える状態にしてウインクをキメて自撮りをした及川は相変わらずと言っていいだろう。
 こんな写真を送り合うとはよほど仲が良いのだな、と思いつつ、もしも岩泉に送ればきっと文句を言われるのだろうな、などとも考えていると及川が箱を差し出してきた。
 ドーゾ、と言われて断るわけにも言わず、礼を言って受け取る。白っぽい色のマカロンを手にとって口に入れると、サクッと軽い歯触りと共に上品なココナッツの甘さが広がった。
「美味しい……!」
「うん、美味しい! やっぱりパリだね!」
 2人で笑い合って一通り試食を済ませ、手を繋いで元来た方向に向かって歩き始める。先ほどとは違う道に入ってメトロ駅を目指していると、ひときわ賑やかな通りが見えて誘われるように右折してみた。
「うわー、凄い人!」
 及川もキョロキョロと辺りを見渡している。カフェやビストロの多い通りらしく、辺りのテラスは昼を前にしてけっこうな人で埋まってしまっている。
 バゲットをかじりながら歩いている人も多く、何となく2人で通りを注視していると外まで行列の出来ているスイーツショップが見えた。
 及川が何やら店名を見つめて、先ほどのガイドブックを取りだして熱心に見入っている。
「あ! あのお店、クロワッサンが美味しいらしいよ!」
 言うが早いか行こうと手を引かれてなし崩し的に列に並ぶ。ショウウィンドウには華やかなスイーツも色とりどりに並んでいて、やはりスイーツの本場らしさを感じさせた
 並んではいるものの回転は速く、もせっかくだから食べてみようと二人して一つずつクロワッサンを購入した。
 店を出て通りを歩きつつ周りのパリジャンたちに倣ってさっそく試食してみる。よりも及川がその美味しさに感動したらしく、彼は頬を震わせて紅潮させた。
「ナニコレ超おいしいじゃん! 俺ちょっとパリ見くびっちゃってたよ! 本場ってやっぱ凄いね!」
 作った人もここまでリアクションを取ってくれればきっと笑顔になるに違いないという褒めようで、はくすりと笑った。
 マカロンにクロワッサンと立て続けに食べ、の喉はコーヒーを欲して駅に向かう道沿いでカフェラテを買って及川にも渡した。
「ありがと。なんかすっごいパリを満喫してる感じするよね俺たち」
 及川はいつもに増して上機嫌で、そうだね、とも笑った。そのまま見えてきたサンジェルマン・デ・プレ駅に入り、モンパルナスタワーの最寄り駅であるモンパルナス=ビヤンヴニュ駅を目指す。
 駅を出ると、目の前に目指していたタワーが飛び込んできて、その前にはパリの名物の一つでもあるマルシェが開かれていた。
 少しマルシェを見物していこうと物色すれば、氷の上に乗せられた牡蠣や魚、山盛りに詰まれたキノコ等々あまり日本の日常ではお目にかかれないものばかりで及川はひっきりなしに携帯カメラのシャッターをきっていた。
 その笑顔につられても笑う。
 常日頃から基本的には笑みを浮かべている及川であるが、いまの及川の笑みは邪気のない心から楽しんでいる時の笑みで、自然とも笑顔になったのだ。
 そうしてひとしきり見て回り、タワーへと向かう。並ばずスムーズにチケットも買え、そのまま専用エレベーターで最上階を目指した。
 一面ガラス張りの最上階のさらに上には屋上テラスが設置されており、せっかくなら屋上に出ようと階段を登っていけば、この上ない開放感とパリ全貌を見渡せるこれ以上ないロケーションで2人は声を弾ませた。
 タワーそのものがエッフェル塔正面へ続く道に建っているため、真っ直ぐエッフェル塔を見下ろせ、2人で食い入るように見つめた。
 やはりこうして時間や光景を共有できることはこの上なく嬉しい……とは感じた。きっと及川もそう感じてくれていたのだろう。自然と寄り添い合って風に吹かれながら互いに笑みを零した。
 そのまま景色を一望していると、遠くにサクレクール寺院も見え「そういえば」と及川が口を開いた。
「昨日サクレクール寺院に行ったときも思ったけど、パリって似顔絵屋っぽい人がたくさんいるよね。さっきもセーヌ川沿いにたくさんいたし」
 うん、とは頷いた。
「画家を志してる人が世界中から集まる場所だもん」
 すると及川は肩を竦めて遠くを見やる。
「それで……よく戦う気になるよね」
 それは自身の事を指したのか、あえて曖昧な言い方をしたのか及川は「ふぅ」と肩で息をした。
「そろそろランチ行こっか。俺、お腹空いてきちゃった」
「え、さっきクロワッサン食べたのに? マカロンも」
「さっきって、もう一時間は経ってるし、そもそもあんなんじゃ足りないよ」
 腕時計に目を落とせば、既に午後二時近く、とっくに昼食時間ではある。としてはそこまで空腹は感じていなかったものの、及川の希望通りランチに向かうことにした。
 この界隈はピカソたちが頻繁に通っていたブラッスリーやカフェが軒を連ね、地元の人間や観光客で賑わっている。モンパルナスはガレットを出すクレープリーが多いことでも有名であったが、及川はきちんと食事がしたいようでは近くのブラッスリーかビストロを探そうとした。が、及川はというとガイドブックに出ているような有名店に行きたがり――それならば、とピカソたちが通っていた店の一つであるカフェレストランをチョイスした。
 そうして辿り着けば、店の前にはパリらしくオープンテラスで食事を楽しんでいる人で賑わっている。達はテラスはカフェタイムに楽しむ事にして店内に入った。どちらかというと高級な部類の老舗であるが、ジャケットとローファーという及川の服装は申し分なく、ギャルソンから「ムッシュ」と呼びかけられて上擦っている及川を見ては笑みを浮かべた。
 席に通され、メニューを渡されてまず及川が項垂れたような姿勢をみせた。
「……フランス語、わかんない……」
 それは切実な声で、は及川にどういった料理が食べたいか訊ねた。このカフェレストラン自体はシーフードが得意だということはガイドブックに書いてあって及川も知っているようだったが、及川はメインは肉料理にしたいらしくメニューを解説すると、彼は鴨のコンフィを選んだ。
「あ、あとさ。コレ……ちょっとモノは試しで食べてみたいんだけど」
 そうして及川がガイドブックのグルメページを開いて指さしながらこちらに向けた。そこにはエスカルゴの写真が載っており、ああ、とは笑う。
「エスカルゴ、美味しいよ」
「え!? これカタツムリだよねぇ!? 美味しいの!?」
 ゲテモノだよ、とおののく及川に「うーん」とは肩を竦めた。「俺が無理だったらちゃん食べてね」と念を押され、及川の前菜はエスカルゴに決まった。更に及川はせっかく魚料理の美味しい店に来ているのだからブイヤベースを頼むと言い始め――も少々おののく。
「た、食べられる……!?」
「味が無理とかじゃない限りヘーキだよ」
 あっけらかんと言い放った辺りはさすがに育ち盛りと言うべきか。自身はクロックムッシュだけに留め、ギャルソンを呼び止めて注文をした。
 そうして改めて店内を見渡せば、さすがに老舗らしい重厚感で、かつて文豪やピカソらの画家がここに座っていたかと思うとちょっとソワソワした。同じ場所に居るだけで絵が上手くなるわけではないと分かっていてもやはり嬉しい。
 そんな話をしていると、前菜のエスカルゴが運ばれてきて取り皿も2人分用意されていた。ギャルソンが丁寧に道具の使い方を説明してくれ、が及川に通訳をすれば、彼は、ぐ、と息を飲み込むような仕草を見せた。
「うっわ、ホントにカタツムリ……」
 エスカルゴは専用の、まるでたこ焼き器のような穴の空いた皿に一つずつ乗せられており、確かに食べたことのない人間にとってみれば奇妙に映るかもしれない。
 はフランス料理店で何度か食べたことがあり、バジルとニンニクの効いた味は素直に美味しいと感じていたが――と見守っていると、及川は意を決したように殻を押さえて身を刺し、パクッと口に放り込んだ。
「――あ、オイシイ!」
「でしょ?」
 飲み込んだ及川が意外そうに言って、はニコッと笑った。平気だと分かったらもう大丈夫なのか、及川はさっそく二つ目に手を伸ばしている。
「よくよく見ればサザエとそんなに変わんないしね。俺のガイドブック見て”こんなん食えるかボゲ”とか言ってた岩ちゃんぜったい損してるなぁ」
 この変わり様が及川らしくもあり、岩泉はそんなことを言ったのかと少しばかり岩泉の顔を浮かべているうちに及川は完食し、皿が下げられてしばらくすると2人分の新たな皿がサーブされた。ブイヤベース用だろう。魚とスープが別々にサーブされるスタイルらしく、テーブルにはまず大きな皿に入ったスープが置かれ、次いでギャルソンがギョッとするほど大きなプレートを持ってやってきた。
 どうやら取り分けてくれるらしく、予想以上の大きさのためか目を見開いている及川にその旨を伝えれば「こんなにいっぱいあるんだし、ちゃんも食べなよ」と言われはギャルソンに自分には少な目であとは及川に取り分けてくれるよう頼んだ。
 が、それでもまだまだ残っており――。
「うわ、おいっしい!」
 食べきれるのかな、と案じただったがどうやら杞憂だったらしい。とさっそく平らげてお代わりする及川を見てホッと胸を撫で下ろしつつ肩を竦めた。
 でもブイヤベースそのものは上品な味付けで美味しく、おおよその日本人の口には合うだろうと思わせるものだった。
 結局及川はブイヤベースもペロリと完食し、ようやくの頼んだクロックムッシュと、及川の三品目である鴨のコンフィが運ばれてきた。
「ボナペティ」
「メルシー」
 クロックムッシュはいまでは日本でもそう珍しいメニューではなくなったが、やはり本場で食べられるのは嬉しいとが舌鼓を打つ前で及川は器用にナイフとフォークを使って鴨肉を口に運んでいた。
 曰く、及川にとっては珍味に近い鴨肉は食べてみると意外なほど美味しかったらしく、この上なくクラシックなフランスらしい食事に及川自身とても満足しているようでも嬉しく感じた。
 これだけ背が高くて筋肉もあると、色んな料理がたくさん食べられてちょっと羨ましいかもしれない。と感じながら食事を済ませ、及川は食後のデザートを注文するか迷っていた様子だったが最終的にはまた別の場所でということになり、支払いを済ませて店を出た。
 美味しかったね、などと話しながらモンパルナス通りをもと来た西側に向かって歩きつつ、どこへ行こうか思案し合う。
「あー、でももう4時だね」
「ホントだ。18時に集合だからあと一時間くらいしかないね」
 言われても腕時計に目を落とせば既に4時5分で、集合場所まで戻ることを考えればあと1時間ほどしか自由に歩けないことを悟った。
 それならばこの界隈を歩きつつお茶でもしてから帰ろうということになり、適当に路地に入ってみる。
 高級マンションと思しき通りの地上階には雑貨やスイーツショップ、フラワーショップなどが建ち並んでいるのが見えた。
 金曜の夕方という時間帯がそうさせるのか、それとも日常なのか。フラワーショップにはスーツ姿のサラリーマンがじっくりと花を品定めしている様子が目立ち、及川は物珍しそうにキョロキョロと観察している。
「もしかして花束抱えてカノジョに会いに行くとかって感じかな? さすがヨーロッパってカンジだね」
「そうかも。でも素敵だね」
 手を繋いでその様子を横目に見つつ微笑み、チョコレートショップの前で立ち止まった及川にならってショーウィンドウを覗き込む。
 楽しい、と感じるのはいつもと違う風景に囲まれているせいか、それとも……とうっかりポンデザールでかわしたキスの感触を思い出して頬を染めていると、うっかり及川に伝ったのか「ちゃん」と小さく名前を呼ばれた。
 顔を上げると及川と間近で目があって、ドキッと心音が鳴り――反射的にキスされると分かって瞳を閉じた。
「ん……」
 ちょうど後ろに植えられていた木の幹に背を預け、ギュッとも及川の背を抱いた。頬が熱くて、ドキドキして心地いい。
 こんなに自分が及川を好きだなんて気が付かなかった……、としばらくして唇を離し、微笑み合う。
 へへ、とはにかんでそのまま及川の胸に顔を埋める。仙台ではこんなこと出来ないかな、と過ぎらせると少し寂しい気がして、ふ、と少し眉を寄せた。
「どこかその辺りでお茶してから戻ろっか」
「うん」
 戻ろっか、と呟いた及川の声が少しだけ寂しそうに聞こえたのは自分の思い違いだろうか? 少し歩いてオープンテラスのカフェを見つけて腰をおろし、はエスプレッソを頼んだ。
 及川はというと先ほどあれだけ食べたというのにケーキを頼み、は肩を竦める。
 ルーブル美術館にどうやって戻ろうか、と及川に携帯で地図を表示してもらってすぐ近くに駅があることを確認した。この場所からなら30分以内でルーブルに戻れそうだとホッと息を吐く。
 及川も携帯を仕舞って、運ばれてきたケーキに満足そうに口を付けた。
「もう明日帰国だと思うと何だかあっという間だったよネ。帰ったらさっそくバレーしないとカンが鈍っちゃった気がする」
「ほんと、あっという間だったね。ロンドンもパリも素敵だったな……」
「ずっとちゃんと一緒にいられたらもっと良かったんだけどね! マッキーずるいよホント」
 そうして口を尖らせた様子を見て、やっぱり花巻に送ったメッセージの意味はそういう意味だったのかと悟りは嬉しく思いつつ頬を染めた。
「私も……、及川くんとずっと一緒だったら嬉しかったんだけど。でも、今日はホントにすっごく楽しかった」
「じゃあ仙台に戻ってももっと俺とデートしてよね?」
 すればそう突っ込まれ、返事に窮すれば及川は頬を膨らませた。――及川は月曜の放課後しかオフがないし、自分は出来れば部活に出たいし、となかなか噛み合わない事情はあるが。もう少し一緒にいられるように努力しよう、と思い直して頷くと、及川は、くしゃ、と破顔しても口元を綻ばせた。
 5時も15分を過ぎたあたりでそろそろ戻ろうとカフェを出て、最寄りのメトロ12番線に乗り、コンコルド駅で1番線に乗り換えるべく移動していると不意にの目に青葉城西の制服が映って反射的にパッと身構えた。及川と一緒の所を他の生徒に見られるのは――と構えたところで、一瞬の間の後に及川と口を揃えて「あ」と呟く。
「岩ちゃん!」
「岩泉くん」
 その後ろ姿は紛れもない岩泉一で、岩泉も反射的にその声で誰に呼ばれたのか悟ったようで心底嫌そうな顔で振り返った。
「やっほー岩ちゃん! 一人で寂しくなにやってんの? てかその顔酷くない?」
「ウルセーよ寂しいは余計だ、酷くもねぇ」
「松つんは?」
「昼飯食ったあとから別行動だ」
 そのまま当然のように並んで1番線を目指し、は内心ホッと胸を撫で下ろしていた。及川と2人で集合場所に戻るのは、やはり少し躊躇っていたからだ。岩泉も一緒ならば、いつもとさして変わらない。
 駅について地上へと出て、ルーブル美術館前の広場に向かっているとさすがに他の生徒達の姿も見えてきた。
 モンパルナスでは一人も見なかったというのに……、何だか2人きりの時間は終わりだと告げられているようでちょっとだけ寂しく感じていると、伝わったのか及川が軽く言ってきた。
「手、繋いじゃう?」
 すれば岩泉が眉を釣り上げ及川を睨み、「岩ちゃん嫉妬やめて!」と切り返した及川のせいで一悶着始まってしまい、は肩を竦めた。
 その先で、集合場所の目印でもあるルーブル美術館のピラミッドが見えてきた。17時55分。既に大部分の生徒は集まっていて、その集団の中から「あ」と明るい声があがった。
「及川クーン! こっちこっちー!」
 その瞬間、及川はいつも通りのよそ行きの笑みをパッと浮かべて、声のした方向に手を振った。
「やっほー! いま行くー!」
 及川の班の女生徒なのか、及川は軽く答えたあとにたちの方を振り返る。
「ゴメン、じゃあ行くね」
「うん」
 が頷くと及川も頷いて背を向け、呼ばれた方向へと小走りで駆けていった。
 残されたと岩泉は何となく並んで歩きながら自分たちのクラスを探す。そのままキョロキョロしていると、集団より頭一つ抜けた色素の薄い髪が目に入って、あ、とは呟いた。花巻だ。
「じゃあ岩泉くん、私のクラスあっちみたいだから」
「おう」
 岩泉に手を振って花巻達の方に歩いていけば、やけに班のメンバーは盛り上がっており何ごとかと話に加わる。見れば、花巻が今日食べたスイーツ一覧の写真をみなが食い入るように見ていた。
「パリ、最高だったわ」
 明らかに食べすぎだと突っ込まれながらも満足げに淡々と言い下した花巻を見て、ふ、とも笑った。
 いろいろあったが、やっぱり最高だったかな、と思う。
 エコール・デ・ボザールに入れたし、師事したい教授にも会えた。それに――と自分の唇にそっと手を触れてみた。
 自分の夢が叶うということは、自分は5年後、10年後もここに居るということ。ここに居るということは、及川とは離れるという事だとしても。

『ファーストキスがパリの橋の上とか超リリカルじゃーん』

 この思い出と共に居られるなら、それでいい……とスッと秋の空を見上げた。



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