翌日――パリ二日目。今日は全体でいわゆる「お決まりコース」を回ることになっている。
 まずはバスで凱旋門を通りシャンゼリゼを抜け、モンマルトルで下ろされサクレクール寺院を見物する。
 ノートルダム大聖堂を観てランチを取って、シテ島の探索に少々時間を取り、ルーブル美術館を足早に見学し……と、こなしていけばあっという間に日は暮れてくる。
 最後に行ったのはエッフェル塔で、それでも登る時間は取れず、生徒達はエッフェル塔に連なる公園で少し時間を取って思い思いに写真を撮った。
 とはいえ「パリ」という街は、地名だけでも人々を興奮させる作用があるのか、修学旅行を謳歌する生徒の一人である及川も一日中テンションを保ったまま班行動を楽しんだ。
 旅行の間中ずっとと行動を共にする花巻をどれほどズルイと羨んだところで詮無いことだ。明日の自由行動では一日中一緒。しかも二人っきりだし。と無意味に勝ち誇った顔でホテルに戻ってからの食事中も笑みを浮かべていたら苛立った様子の岩泉から「その顔苛つくヤメロ」と冷たく突っ込まれ、ヒドイってば、と突っ込み返しておいた。
 だって実際に酷いだろう。こっちは純粋に明日の自由行動を楽しみにしているだけだというのに。と口を尖らせつつ夕食を済ませる。グルメにはあまり煩くないが、料理の質はパリの方がロンドンより上だというのは取りあえず理解できた。

 翌日――。
 朝食を終えてホテルを出た及川たちはバスに揺られてルーブル美術館前広場を目指した。9時には目的地に着くという。
 それから各クラスの担任が解散宣言をしたら18時までは自由だ。逸る気持ちから及川はうっかり車内で鼻歌さえ口ずさんだ。
 40分近くバスに揺られて目的地で降り、広場まで移動して担任からの注意事項を聞けばついに自由行動開始だ。
 解散を宣言されるや否や、及川は青葉城西の生徒と各国からの観光客でごった返す周辺をキョロキョロ見やって「あ」と目を見開いた。
 ルーブル美術館のシンボルとも言えるピラミッドの横の噴水の縁に腰掛けて携帯をチェックしている人物――花巻が目に付いたのだ。
「マッキーなにしてんの?」
 取りあえず声をかけて駆け寄る。花巻のクラスはもうとっくに解散していたようだ。つまり、はもう「待ち合わせ場所」に向かったということだろう。
 ん? と花巻は一度顔を上げて、ニ、と笑った。
「今日のルートチェック」
「マッキーどこ行くつもりなのさ」
 何気なく聞いてみれば、あまり普段は表情の変わらない花巻の瞳が輝いた気がした。
「パリのスイーツショップ巡りに決まってるだろ」
「え……!?」
「シュークリーム、エクレアの名店はチェック済みだ。お前も来るか?」
「え……ッ、あ……いや、ちょっと今日は間に合ってるかな」
 やや視線を逸らしがちに答えれば、そうか、と花巻は相づちを打ちつつチェックが終わったのか立ち上がった。そうして歩き出した花巻に倣って及川も歩き出せば、後方から「よう」と声がかかる。振り返れば松川と岩泉がいて、ハハ、と及川は笑った。
 ――なんだ、いつものバレー部のメンツじゃん。遠巻きに多数からチェックされていた視線の空気がそんな風に変わった気配を及川は感じ取った。
 実は既に多数の女生徒から今日の予定を聞かれたり誘いを受けたりしていたが、その都度及川は誤魔化していたのだ。仮に見せかけでも、岩泉たちと回るというのはこれ以上ない理由だろう。
「松川、なんなら一緒に行くか?」
「スイーツハシゴはちょっと遠慮したいかなァ。岩泉どうするよ?」
「ノープランだ」
「さすが岩ちゃん、パリが似合わない男暫定ナンバー1なだけあるね!」
「ウルセー自分でも似合ってるとか思ってねーよクソ及川!」
 いつもの調子で話をしながら取りあえずは最寄りの地下鉄1番線駅に向かう。駅構内に降りればいきなり日本語で「スリにご注意下さい」等々のアナウンスが流れ始め、全員がビクッと背を撓らせた。
「日本人どんだけスられてんだよ!」
 岩泉が突っ込むも全員それなりに身を引き締め、まずは一日乗車券を買った。
 どうやら全員が同じ方向に向かうようで、改札を抜けて同じホームで電車を待ち、乗る。
 及川自身は二つ先のシャトレ駅で4番線に乗り換える必要があるのだが、他はどうなのか。一つの駅が過ぎ、及川は軽く3人に言ってみた。
「じゃ、俺次の駅で降りるから」
「俺も」
「俺もだ」
 すると松川と岩泉が同意して、及川は肩を竦めつつも笑った。花巻はそのまま乗っているようで取りあえずシャトレ駅に着いて花巻に手を振り3人は降車する。
「俺、4番線だけど2人は?」
「取りあえず郊外電車。適当に降りてブラブラするわ」
 どうやら松川と岩泉は共に行動するようで、及川は相づちを打ってから「じゃあね」といつものノリでピースとウインクをして別れた。
 たぶん岩泉辺りは自分が今日誰と一緒にいる予定かなんて気づいているだろうが。めんどくさいのか深入りされなかったのは残念なようなありがたいような。などと考えつつ4号線に乗ってサンジェルマン・デ・プレ駅を目指した。
 とどこで落ち合うかと修学旅行前に話していたとき、彼女が「じゃあ、サンジェルマン教会の前で」と指定したのだ。
 初めての土地でそう上手く待ち合わせできるのか不安がないと言えば嘘になるが、まあ大丈夫だろう、と思える程度にはちゃんと調べてきたし、ちょっとワクワクしている。
 それに、はやくに会って顔を見て話がしたい。これほど連絡手段を絶たれるのが辛いなどと想像もしていなかった。丸一日顔を見ていないだけで、既に何ヶ月も会えなかったような感覚にさえ陥っている。
 もちろんずっと以前からこんな気持ちは抱えていたが。彼女を好きだと気づいたせいだろうか? 会いたくて会いたくて仕方ない。と、逸る気持ちのままに及川はサンジェルマン・デ・プレ駅に着くと出口案内を見て教会側の階段を駆け上がる。すると出口の真横は既に教会の敷地のようで、目線をあげれば柵のやや先に教会の屋根が映った。目の前の道を右折すれば正面に出られそうだ、と小走りで通りにでる。
 案の定、道沿いには教会入り口があり、入り口正面の歩道側に大きなトートバッグを肩にかけた青葉城西の制服が目に入って及川はパッと笑った。
ちゃーん!」
 笑顔で手を振ると、気づいた制服の少女・がこちらを振り向き「あ」と唇を揺り動かして笑顔になったのが見えた。
「ごめん、待った!?」
「ううん、平気」
 そんなやりとりにさえ無性に感動して、及川は自分でもどこか感極まって自身の大きな両手での頬を覆った。
 え、とが目を見開いたがそのまま額と額をコツンと会わせて目を閉じる。
「あー……会いたかった」
 呟きながら及川は「ああ、やっぱり」と再度彼女を好きな自分を自覚した。認めてしまえば本当に楽ですごく簡単なことだった。触れただけでじんわり気持ちが暖かくなるのが何よりの証拠だ。
 などと微笑みつつ目を見開くと、眼前のは頬を染めており、目が合うと少し逸らされて自分から離れてしまった。
「なに、ヤだった?」
「そうじゃないけど……」
「ていうかちゃん、すごい荷物だね。なに持って……ってまさか絵の道具一式!?」
 の肩に下がっていた大きなトートバッグに目線を移せばは肩を竦めながら「うん」と呟いた。
 まさか今日一日スケッチしたいとか言い出すのかな、と考えていると、が行こう促して並んで歩き始める。この辺りはガイドブックによればパリでもっともパリらしく華やかな地域らしい。その証拠に、既に周りのカフェはどこも観光客でいっぱいだ。
 道なりに歩いていくと、道沿いにライトグリーンの可愛らしい建物が目について「あれ」と及川はショーウィンドウを覗き込んだ。するとそこには色とりどりの可愛らしいマカロンが可愛らしく飾ってあり、中には美味しそうなスイーツが並べられていて思わず窓に張り付くようにして見入ってしまった。
「うっわ……超美味しそう……!」
 まさにスイーツの本場らしい光景だ。これは花巻でなくともスイーツのハシゴなどと言い出すのも分かるというものだ。
「ほんとだ。可愛い……!」
「ここってもしかしなくても有名なお店!?」
「え……と。……”ラデュレ”。あ、うん、そうだね。名前だけだけど知ってる」
「やっぱり!? ねえちゃん時間まだ大丈夫!? 大丈夫なら俺ちょっと何か買っていい!?」
 うっかり勢いで言ってしまい、は瞬きをしたあとに自身の腕時計に目を落としてから「うん」と頷いた。やった、と及川はパッと笑っていそいそと入り口の方に回ってドアに手をかける。
「ボンジュール!」
「ボンジュー」
 取りあえず挨拶は基本ってガイドブックにも書いてあったし。照れずに笑顔で挨拶できるのは自分の長所。などとノリノリで中に入れば予想よりも遙かにファンシーでどこかエキゾチックな世界が広がっており、も「わあ」と声を弾ませていた。
 が、及川としてはファンシーさはそこまで興味を引くわけでなく。色とりどりのスイーツを物色しつつ、んー、とマカロンの方を見やる。
「このお店ってマカロンが有名だったりする?」
「うん、そうみたい」
「そっか」
 じゃあマカロンにしようと思いつつ、ハッとどう買えばいいのか分からないことに気づいて顔面蒼白での方を振り返った。
「何個からじゃないと買えないとか決まりあるのかな!?」
「え、さあ……」
 困惑するの反応は当然だろう。及川はおもむろにレジの女性の方を向いた。そうしていつも通りの、対女性用の笑みを浮かべる。
「すみませんお姉さん。いくつから購入できますか?」
 このくらいなら英語だってできる。向こうが英語できなかったら詰んだけど。などと過ぎらせていると、女性は笑顔で応えてくれた。
「いくつでも大丈夫ですよ」
 どうやら1つでも大丈夫のようだ。しかし一つだけ購入するというのもチョット気が引けるし。せっかくだし。も一緒に食べるなら3個ずつくらいかな、と及川は6個注文した。
「どのお味になさいますか?」
「え!? えっと……。ちゃん、なにか食べたい味ある?」
 隣でスイーツケースを覗き込んでいたに質問を投げ渡せば、「え!?」と瞬きをされ首を振られた。
「え……わ、私は別に……」
「えー、せっかくなんだし一緒に食べようよ。じゃあもう俺が選んじゃうよ?」
 言いつつフランス語と英語で説明してあるらしき文字を見やる。ラズベリー、レモン、バニラと15種類近くあるようだ。はコーヒー味が好きそうだけが色的に地味だし、派手な物の方が見栄えが良いし。と色々考えつつ6個注文すれば、店員の女性は詰める箱の色は何色が良いか聞いてきた。
「えー……と。じゃあグリーンでお願いしまーす」
 すれば女性だったら手放しで喜びそうな綺麗な箱に詰めてくれ、更に同じ色の紙バッグに入れてくれた。
「メルシーボクー!」
 そして支払いを済ませ、笑みで挨拶をしてから及川は満足げに外へと出た。
「可愛いお店だったね」
「ね」
 今ごろ花巻はこんなファンシーな店で一人スイーツを頬張っているのか。花巻には悪いが、ちょっとシュールかな。とマカロンの入った紙袋を見やる。
「ちょっと味見だけするつもりだったんだけど……」
 たいそうな箱に詰められ、何だか味見するのが申し訳ないような気分になりつつ、あとで公園にベンチにでも座って食べようかなと考えながら「マッキーにあとで写真送ろっと」と呟けば、そうだ、とが歩きながら思い出したようにこちらを見上げてきた。
「及川くん、一昨日はホームズ博物館にいたんだよね? 帽子とマント、すっごく似合っててびっくりしちゃった」
 及川にとっては不意打ちで、目を見開いた先で一昨日にその写真を花巻にLINEで送ったことを思い出して頷く。
「俺も我ながら似合ってると思った。さすが俺だよね!」
 何でも似合っちゃう、とピースしてみせれば、ふふ、とは小さく笑った。
「博物館、どうだった? 私たちも行ったんだけど、時間がなくて中に入れなかったの」
「んー、良かったよ。俺はあらすじ程度しか知らないけど楽しかったし。ちゃん、ホームズ好きなの?」
「うん。コナン・ドイルは数年前にお父さんに読まされて……。難しいけど面白いよ」
「あ、そうそう。俺ね、ちょっと思ったんだけど」
「ん?」
「俺、けっこう英語向いてるかもしれないって思ってるんだよね」
 軽く言えばには予想外の事だったようで目が見開かれるのが映った。それもそうだろう。過去には及川自身がに「英語なんてなんのために勉強するのだ」と突っかかった事があるのだから。
「フランス語もだけどさ、アルファベットだけじゃん。俺さ……あんまり漢字が得意じゃなくて、けっこうアルファベット目で追うのって楽だって気づいたんだよね」
「へえ……すごいね」
「まあ漢字苦手なのはどうかと思うけどね。我ながら」
 さすがに苦く笑いつつ、今さらながらにどこに行くのか訊いてみると、ちょうど道を挟んで斜め前に見えてきた建物をさして「あそこ」とは言った。何やら立派な門の大きな建物だ。
「え、と……美術館?」
「エコール・デ・ボザール・パリっていう、パリの国立美術学校」
「ふーん……、って、え!? 学校!?」
 なんでまたそんなところに。と言うとは少し言いづらそうにしながらも、その「美術学校」を目の前にして酷く興奮しているのが手に取るように分かる程に頬を染めた。
「私、小さい頃から、ここで絵の勉強をするのが夢だったの」
「――は!?」
「ルノワールやモネも若い頃ここで勉強したんだよ」
 ――誰だそれは。あ、印象・日の出の人か。と脳をフル回転させて思い出している間にもは隅の方の入り口から中へ入り、掲示板のようなものをチェックして構内図を確認していた。
「勝手に入っちゃって平気なの!?」
「あ、その……。今日は人と会う約束してて……」
「へ……?」
「ダメ元で、教わりたいなっていう教授にメールしてみたの。いずれここで勉強してみたい、って私の絵も添付して。そしたら興味持ってもらえたみたいで幸いにも今日はアトリエにいる予定だからどうぞって言ってもらえて」
 はにかみながら言うの言葉に及川は絶句した。理解するのに時間を要したと言い換えてもいい。――が何となく仙台に留まらずに外に外に出たがっているのは感じていたが。実際、東京の大学を受験するというのも聞いてはいたが。
 これほど具体的にパリに留学するつもりになっていたとは聞いてない。と、整理できない頭でトボトボとの横を着いていく。
 噴水の爽やかな前庭を通ってメインビルディングと思しき建物に足を踏み入れれば、メインホールのような開けた空間が広がっていて「わあ」と声を弾ませたに負けず劣らず及川も見入った。
 これが「学校」とはにわかに信じられない。アトリエはその先だというに着いてメインホールを抜ければ、歴史の教科書の写真に出てくるような中世ヨーロッパの城の回廊そっくりの回廊が現れて、修学旅行が始まって数日は経っているのに改めて日本との違いを強烈に感じた。この建物が観光地ではなく現在も使われている「学校」という事実のせいかもしれない。
 はそれらしき部屋をぐるぐる見つつネームプレートを確認して、そして見つけたのか「あ」と呟いてから深呼吸をしてドアをノックした。さすがに緊張しているのだろう。
「ボンジュー」
 扉を開けて中に入れば、だだっ広い空間にまるで美術準備室のように辺りに絵の具や画材道具が置いてあり、いくつかのデスクでは学生と思しき西洋人が2人ほど作業に勤しんでいた。
 教授と思しき年輩の紳士がこちらに気づき、がぺこりと頭を下げたのが見えた。
「Enchantee! Je m'appelle――」
 そうしては、おそらくフランス語で自分の名前を告げて男性と握手を交わした。
 が英語が得意なことも普段からフランス語を勉強していた事も知っている及川としては、がフランス語を喋っていること自体は驚かなかったが、及川自身がフランス語が分からないために話している内容は分からない。
 男性と2,3言葉を交わすと男性はアトリエの外にを促したようで、も「外で話そうって」と短く告げてくれ及川も従って外へ出た。
 先ほどの大きな前庭以外にもいくつも開けた庭があるらしく、四方を建物に囲まれた小さな庭に学生用なのか小さな椅子とテーブルが見え、座るように促されても及川も腰を下ろした。
 及川としては黙って見ているしかなく、が「用事がある」と一人で出かけようとしていた理由が痛いほど分かる程度には場違い感を感じていると、は自身のトートバッグからスケッチブックや本を取りだして教授に渡した。
 そうして何やら熱心に、おそらく自分の作品について解説している。会話の内容など想像でしかないが、きっと自己アピールなのだろう。
 先ほどはモネやルノワールも通っていた学校だと言った。及川自身ですら知っている美術史の巨匠たちだ。この学校は誰もが入れるわけではなく、相当な難関なのだろうという予想はおそらく外れてはいないだろう。
 「天才」の彼女ですら難しいのだろうか……と視線を教授の方へ送ると、及川の目には熱心にのスケッチや作品の写真を見やって語っている彼はの絵を好意的に捉えているように見えた。
 が――、それからどれほど経っただろうか。教授がふとに何か言葉をかけ、の身体が一瞬硬直したのが伝った。見やると、僅かに複雑そうな顔で「ウィ」と頷いた様子が目に映り、首を傾げているとその瞬間から使用言語がフランス語から英語に代わり、ああ、と及川は納得した。
 おそらくのフランス語が複雑な会話をするには稚拙だったのか英語は使えるのかと聞かれたのだろう。屈辱だったんだろうな、とテーブルの下でキュッと拳を握りしめたを見て思うも、会話は流暢すぎてサッパリ聞き取れない。断片的に、おそらく留学の話をしているのだろうという事はTokyoやUniversityというフレーズから悟った。
 及川自身は自分でもお喋りな方だと自覚しているし。ロンドンに着いた瞬間から思ったが、「話ができない」「通じない」というのはけっこう辛い。それに、別に世界に出たいなんて大それた事を考えているわけではないが。もしも言葉が通じたら。自分のバレーだってもっと広がりが持てるのでは、と疼く心とは裏腹に「なにバカなこと考えてんの」と抑えつける自分もいた。いまのメンバーと、岩泉と白鳥沢に勝つって最大の目標があるのに何を考えているのだ、と。
 けれども――、とぐるぐると考えていると、が礼を言った声が聞こえてハッと及川は意識を戻す。
 すればも教授も席を立ち、慌てて及川も席を立つと教授がこちらを見て話しかけていた。
「君はずいぶんと体格がいいけど……なにかスポーツをやっているのかな?」
「え!? …………――、あ、えーと、バレーボールやってマス!」
 取りあえず何かスポーツをやっているのかと聞かれたと理解して答えれば、なるほど、と納得したように教授は頷きながらの方を向いた。
「彼をモデルにすれば有意義なデッサン練習が出来そうだね。見たところ、筋肉量も申し分ないようだ」
「そ……、そう、ですね」
「君もここに来れば嫌になるほど人体のみを描かされる事になると思うけどね」
 しかし続けて話している内容は半分程度しか理解できず首を捻っていると、教授とは握手を交わして、及川も流れにならって握手を交わした。
「じゃあ、次に会うときはフランス語で話ができることを楽しみにしているよ」
「――は、はい!」
 そうして最後に教授が笑いながらにかけた言葉は及川にも理解でき、が感極まったように返事をして頭を下げている様子を見つつ及川もぺこりと頭を下げた。
 そうしては、ふぅ、と一息吐いて、そして笑みでこちらを見上げてきた。
「付き合ってくれてありがとう」
 は一仕事終えた安堵感からか満足からかホッとしたような表情をし、完全に「隙」を晒したその表情に、う、と胸がざわついてしまう。
「お、俺がついてきたいって言ったんだしね!」
 うっかり不覚にも照れて視線を泳がせると、が首を傾げた気配が伝った。そのままは改めてぐるりと校舎に視線を巡らせている。もしかしたらそう遠くない未来にここに通っているだろう自分を想像しているのかもしれない、と及川は少し眉を寄せた。
 にはの人生設計が明確にあって、その中には自分は少しも存在していない。なんて知ってはいたが。東京と仙台ならともかく、仙台とパリなんて遠すぎて想像すら出来ないし現実味すらない。
 ――天才、っていつもこうだよな、とふと無意識のうちに過ぎらせてしまった。

『及川……』
『及川さん……』

 こっちのことを鬱陶しいくらい気にかけるのに、その実、本当はこっちの事なんてお構いなしに突き進んでいく。
 こちらを苛立たせたいだけ苛立たせる存在。――だってそうなのに。
 ちゃん、と小さく声をかけて及川はの手を引くとグッと強くの身体を抱きしめた。
 え……、と驚いたようなの声を聞きながら目を閉じる。
 ホント、厄介。――俺から離れないでずっとそばにいてよ。なんて言って、絵じゃなく自分を選ぶを想像したら、それはもうじゃなくて、きっと自分はそんな彼女を好きにはなれないのに。
「お、及川くん……」
「俺、ぜーったい別れないから」
「え……」
ちゃんがどこ行っても絶対別れない」
 口を尖らせて拗ねたように言うと、ピク、との身体が撓ったのが伝った。彼女がどんな表情を腕の中でしていたかは分からない。が、少し間を置いて無言で抱きしめ返してくれて、及川は小さく笑った。
 この先、自分たちがどう進むのかなんてまだ分からないが。ともかく今はそんな見えもしない事を考えても意味がない、と改めて過ぎらせて、及川は少しから身体を離して顔を覗き込んだ。
「そういえばさ、さっきあの先生なに言ってたの? 俺をモデルに云々って言ってたのは分かったけど」
 聞いてみれば、瞬きをしたの目元がうっすら染まったように見えた。
「えっと……。及川くんの身体、筋肉が綺麗についてて体格もいいからデッサンのモデルには最適だって……」
「え、俺のカラダ!?」
 そこまで言われていたとは知らず、思わずおどけて自分の身体を自分で抱きしめるとはやや恥ずかしそうにしながらも頷いた。その反応に及川も少しどもって瞬きをする。
「ま、まあ及川さんの肉体美にほれぼれする気持ちは分かるけどさ」
「及川くん、着やせするのにね……。ブレザー越しでも分かるなんて、びっくりしちゃった」
「そこはさすが教授なんじゃない? じゃあ教授のアドバイス通り、及川さんいつでもモデルになっちゃうから遠慮なく言ってね」
 明るく笑みで言い下すと、は「う」と言葉に詰まった。――教授とが「どういう」モデルについて語っていたかは知らないが、この反応と筋肉という単語からもしかしてヌードモデルとかの話だったのだろうか。さすがフランス。と思うも取りあえず深く追及しないでおこう、と切り替える。
ちゃん、次の用事ってある? それとも終わり?」
「終わりだけど、どこか行きたいところある?」
 が笑みで答え、パッと及川も笑った。頷いてパッとの手を引く。
「取りあえず、ポンデザールいこ! ここから近いよね」
 そういえば手を繋いで歩くのは初めてかもしれない。ようやくデートっぽくなってきた、と及川は上機嫌で鼻歌を歌った。 



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