「いらっしゃいませー!」

 レストランは適度に混んでいたものの待つことなく席に通された。
 及川がレストランに入った瞬間、彼を目に留めた女性客が目を奪われるのもいつもの事で、はもうなるべく気にしないよう努めることにした。思えば4年近く、出会った時からソレなのだから今さらでもある。ただ、いつもはなるべく人目のある時は及川の半径数メートル以内には近づかないようにするか、もしくは岩泉と三人で話すよう無意識的に努めており。こうも長く2人でいるのは初めてだな、と席についたがメニューに目を落とす及川をなんとなく眺めていると「なに?」と目線をあげられて「なんでもない」と自身もメニューに目をやる。
 は当然のようにオムライスを選んだが、及川も本当にオムライスが食べたかったのかとは違うソースのオムライスをウエイターに頼んでいた。その様子から、もしかすると及川も本当に洋食が好きなのかもしれないと思う。
 しばし雑談していると比較的早く二人の注文したオムライスが運ばれてきて、二人して「いただきます」と口を付けた。
「そういえばちゃんと美術室以外でご飯食べるの初めてだね」
 ふと及川がオムライスを見つめながらそんなことを言い、は頷いた。及川はごくたまに昼休みに弁当やパン持参で美術室に現れることがある。が、基本的には及川のみが何かを食べているそばでは絵を描いている事が多く、向き合って食事をするのは初めてだと言っていい。
「さっきさー……、俺、ちゃんの前で無理したことないって言ったけど。よく考えたらそうでもなかったかも」
「え……」
 思案顔で目を伏せた及川がそんな風に言ったものだから思わず手を止めてしまう。
「いっちばん最初の時だけは別。あの時だけはたぶん猫かぶってた」
「? 最初……」
「え、ヒドイ忘れたの!? ほらー、俺にドリンク持ってきてくれたじゃん。岩ちゃんと一緒にいきなり体育館来てさ」
 言われては、ああ、と3年ほど前の中学二年だった頃の出来事を薄ぼんやりと思い返した。そうだ、確か蒸し暑い夜で。蒸し風呂のような体育館でひたすらサーブを打つ及川を案じてスポーツドリンクを差し入れたのだった。
「思い出した。あの時、ちょっと不思議に思ったの。一度も話したことないのに、及川くん私のこと知ってたみたいだから」
「そりゃ知ってるよ。ちゃん有名人だったもん。美術部の天才ってサ」
 そうして少し瞳を濁らせた及川を見て、は悟った。――たぶん、その「天才」というワードのせいで彼は牛島に感じているような嫌悪感を自分に重ねていたのだろう。それを隠すための「猫かぶり」だった。きっとそんなところだ。
 よくよく思い返せば、あの日ばかりは及川の外向き用の笑みを自分にも向けられていた、気がする。
 ということは、いつも及川が浮かべている機械的な笑みというのは、やはり敢えて作っているのだろうか……と思うもさっぱり分からない。
 そもそも、理解した、と思えるほど自分は及川徹という人間を知らない。
 けれども目の前で美味しそうにオムライスに口を付ける彼の笑みはとても自然で、にはこうして及川と向き合っていることがにとっても自然なことのように思えた。
 ならば、相性が悪いと感じたことが間違いで、本当は良かったのかも。と、さすがにそれは今さらすぎるかな、と食べすすめてレストランを出る頃には20時近くとなってきた。
 今日の第一の目的はケヤキ並木のイルミネーションであるため、どちらともなくその方向に向かって歩き出す。
「混んでるかな」
「どうだろうね。たぶん、カップルでいっぱいなんじゃない?」
 ハハハ、と及川がポケットを手に突っ込みながら軽く笑って、う、とは首に巻いたマフラーに唇を埋めた。もしかしなくても自分たちも周りからそう見えるのでは、と今さらながらに気づくも、別に何も困ることもないし。とちらりと及川の横顔を見上げる。そういえば一度も考えた事はなかったが、及川に特定の恋人はいるのだろうか? いた場合はちょっと困るかもしれない。けれどもそんな噂は聞かないし、いるようにも思えないし、もしもいた場合はいくらなんでも自分を外出に誘わないのでは。と思い至ってはたと気づいた。
 そういえば、なぜ及川は自分を誘ったのだろう――。岩泉を誘ったら断られたから、などというありがちな理由かな。と少しばかり唸っているうちにイルミネーションのメインストリートであるケヤキ並木が見えてきた。遠目にもぼうっと周りが明るいのが分かる。
 にとってこのケヤキ並木はスケッチスポットのひとつで、日中は割と頻繁に足を運んでベンチで絵を描くというのが休日のパターンのひとつでもある。が、夜にここを訪れることはほぼないと言っていい。
 遊歩道の両脇を彩るドレスアップしたケヤキの木々が作り出す光の中に足を踏み入れて、わぁ、とは感嘆の息を漏らした。
「綺麗だね……!」
 思わず及川を見上げれば、いつもは甘いココア色の瞳が電飾に照らされて琥珀色に光り、ふ、と同意するように細められてさすがにの胸が騒いだ。やっぱり本当に彼は整った顔をしている。綺麗だな……と思うもやや恥ずかしくて瞳をそらせば、及川が首を捻った気配が伝った。
「? どうかした?」
 及川の容姿なんて、過去に何度も褒めた気がするが。今日は鼓動のせいで妙に気恥ずかしくて、なんでもない、とだけ呟いた。寒いのに頬が熱い。
 たぶん、この独特な雰囲気のせいでもあるだろう。周りは本当にカップルだらけだし……とやや伏し目がちのまま歩いていると、あ、と及川が空いていたベンチの方を見て言った。ちょっと座ろう、と促され、頷いてベンチに歩み寄り腰を下ろす。吐いた息の白さが降り注いでくる光と合わさって、キラキラと星くずが降ってくるような感覚さえ覚えた。
 少し黙っていると、及川が「あのさ」とやや重たげに口を開いた。
ちゃんにさ、話したいと思ってたんだけど」
「うん……?」
「先週さ、新人戦の決勝で白鳥沢とやって……。ま、結果はいつも通りだったんだよね」
 すれば憎々しげながらも及川は肩を竦め、及川自らその話をするとは思っていなかったは少し驚いて目を見開いた。
「そ、そっか……。残念……だったね」
「ま、俺はピンサーだったし、エースも取ってやったけど。試合後うっかりウシワカ野郎と会ってうっかり話しちゃってさ」
「え……。及川くんって牛島くんと仲いいの?」
「いや良くないよ!? むしろ友達ですらないよ!?」
「え、でも」
「だって、あっちが話しかけてきたからさ。毎度毎度……」
 ブツブツ言いつつも及川は少しだけ逡巡するそぶりを見せた。その様子では何となく、ただ愚痴りたいだけ、ではなく何かを相談したいのだという気配を感じた。が、及川は「んー」と瞳を寄せてしばし黙りこくったあとに、小さく息を吐いて首を振った。
「いいや。また今度話そ。いまウシワカの顔とか思い出したくもないしね」
 そうしてドサっとベンチに背をもたれかけて腕を気怠げに後ろに回した及川を見て、なんとなく牛島と対峙した及川がどういう状態であったかをは察した。
 基本的にの知る限り、及川には及川の中の「喜怒哀楽」を刺激する人間が3人いる。牛島と、影山と。そしてたぶん、自分。岩泉にさえ滅多に向けないだろうその感情を引き出してしまうのは、彼の中で自分たちが「天才」というくくりの存在だから、なのかもしれない。
 おそらく及川は、牛島と話して極度にマイナス面に感情を振られたのだろう。はなんとなく既視感を覚えて、数年前の記憶を手繰り寄せた。
 ――あれは確か、ちょうど2年前の今ごろだった。ちょうど新人戦のあとのことだ。及川が北川第一の主将となって初めての大会で北川第一は白鳥沢に負けた。あの頃を境に、及川はいっさい笑みを見せることがなくなった。
 あの頃の事を思えば、いまの及川はこうしてちゃんと白鳥沢の名を口に出せているし、感情を表現できている。精神的には落ち着いているのだろうが、とちらりと及川を見上げるの瞳にふわりと柔らかいものが舞い降りて、あ、と目を見開く。
「雪……?」
 目線をあげればふわふわと無数の粒が漂う様子が映って、そういえば寒いかも、と、目を細めたと同時にハッと思い出した。
 ちょうど2年前、全く笑わなくなった及川を案じて思い切って放課後の体育館を訪ねようとした日のことだ。岩泉に会って、やんわりと彼は及川から自分を遠ざけようとした。きっと彼は気づいていたのだろう。自分もまた、及川の感情を刺激してしまう人間だということを。だからおそらく、幼なじみを守るために自分を警戒していた。
 そういえば、あの夜も雪が降ってきたんだっけ……とはなんとなく及川を見やった。
 及川徹に抱いた最初の感情は、間違いなくプラスのものだった。なんて練習熱心な人なのだろうと親近感さえ抱いた。その感情が消えないまま、ああきっとこの人とはお互いを傷つけ合うような極端に相性が悪いタイプなのだと少しばかり失望した。
 いまも、その気持ちが消えたわけではない。でも、たぶん、それを越えるレベルで相性も良かったのだと今は感じている。と2年前に及川に会うことなく体育館に背を向けた雪の日の光景を思い出していると、眼前の及川が挑発を含んだような目でニヤッと笑った。
「なぁにそんなに見つめちゃって。そんなに及川さんカッコイイ?」
「ちっ、ちが……ッ!? か、考え事、してたの」
 うっかりカッとなって言い返すと、ぷ、と及川は吹き出してケラケラ笑った。黙っていればずいぶんと大人びた表情をする彼は、笑うと一気に幼くなる。
 どっちの顔が素なのだろう。と、はバツの悪い顔を浮かべつつもスッと両手で四角のフレームを作って、その中に及川を閉じこめてみる。
 やっぱり分からない……と、む、と唇を尖らせる先に雪がふわふわと降りてきて、光を受けてキラキラと光る。枠越しに切り取った絵のようにその光景が流れ、ピン、との脳裏になにかが降りたような錯覚が伝った。そのままその手をスライドさせ及川をフレームアウトさせ、枠越しに光景を捉える。
「? ちゃん……?」
 何してんの。という及川の声を聞きながらフレーム越しの世界を見つめた。光で染まる木々にふわふわと雪が降りてくる――。
ちゃ――」
「見えた……!」
 は立ち上がって手を上空に滑らせた。視界を雪が覆って、自分でもよく分からないほど鮮明に視界に広がる風景がスッと胸に染みこんでくる感覚を覚えた。
「え……?」
「”冬”……!」
「は……?」
「ね、及川くん、そろそろ帰らない? 私、いま絵が描きたい」
 逸るように言えば、及川は極限まで目を大きく見開いてから肩を竦めた。
「なんかよく分かんないけど。ほんと絵バカだねぇ」
 きっとそれは承諾だったのだろう。及川も立ち上がって、は先に歩き出した。この場からなら歩いた方が家に近い。
「じゃあ及川くん、今日はありがとう。またね」
「え、ちょっと――、駅反対だよ?」
「歩いて帰る」
 振り返って急くように言うと、及川は今度こそ呆れたようなため息を吐いてに並んだ。
「及川くん……?」
「送ってくに決まってんじゃん」
「え……、い、いいよ、大丈夫」
「やーだね」
 そんなやりとりのあと、ちゃんちってどのみち通り道じゃん、と返され。それもそうか、と並んで光の道を歩いていく。
 頭の中は先ほど見えた光景ですっかり埋まっていたが、それでも。もしかしたら隣に及川がいたから見えたのかも……と過ぎらせながらも自然と足取りが早くなって、及川はなお苦笑いを漏らした。
「まったく。この及川さんと一緒にいて早く帰りたいとか信じられないよね」
 おまけに道すがらずっとそんな愚痴めいたことをブツブツ漏らしていて、多少は申し訳なく思っただったが返す言葉に詰まっていると足早に歩いたおかげか比較的はやく自宅が見えてきた。
 門の前まで来て、が及川に挨拶しようと声をかける前に及川の方が先に口を開いた。
ちゃんはさ、携帯あんま使わないって言ったけど。俺、めちゃくちゃメール送る方だから」
「え……?」
「岩ちゃんで慣れてるって言っても返信ないと凹むし、けど慣れてるからたぶんヘーキ」
「え……」
 ややまくし立てるように言われて、何の話か分からずは首を捻る。瞬時にかみ砕いてみるも、たぶん及川のいつものやや面倒くさい言い回しなのだろう。が、勢いに押されたは「うん」と頷いた。すれば及川は口元を緩めてくしゃりと笑い、つられるようにしても口元を緩めた。
「あの……。今日はありがとう。楽しかった」
「俺も」
 うへへ、と及川が笑っても笑みを返して「じゃあまたね」と手を振る。及川も手を振り返してくれたものの「あ」とピタリとその手を止めた。
「プレゼントはちゃんと使ってね」
 そして念を押すように言われ、は若干目を見開きつつも頷く。そうして門の中へ入って一度振り返ると、及川は笑って「じゃーね」とに背を向けた。
 ヒュ、と風が吹き抜け、思わず震えた身体を抱きしめて「寒っ」とは呟いた。――キラキラ、と光っていた光景が脳裏に蘇ってくる。
 なんだか本当にサーカスみたいな目まぐるしい夜だったな。と、一瞬だけダンスフロアで踊っていた及川が蘇れば、一瞬で頬に熱が戻ってくる。

 ――この世には二通りの人間しかいない。

 まさにスポットライトを浴びていたような及川の姿が過ぎり、はふるふると首を振るうと急いで家の中へと入った。
 身体を昂揚が駆けていくのが分かった。理由は分からない、が、いままでで一番良い絵が描けるような、そんな予感がした。




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