2学期になり、秋もだんだんと深まってきて――。
 はすこぶる上機嫌で美術室のキャンバスの前に座っていた。
 文化祭用の展示品、「仙台の春」「夏」に続き「秋」を作成中なのだ。今年度の風景ゆえに、冬が欠けてしまうのが惜しかったが、我ながら良い作品に仕上がりそうだと微笑む。
 いずれ「冬」も描いて、うまくいったらそれを来春のコンクールに出品しようと思う。
 青葉城西の文化祭と体育祭は隔年で開催されており、今年は文化祭の年だ。やはり高校、それも私立。中学の時より規模も大きく、2学期に入ってから文化部の活動も活発になってきて、も個人作品とは別に校門に飾るパネルなど部員達と協力して作業を進めた。
 自身のクラスの出し物も、あまり揉めずに視力や体力などを図る参加型の「測定コーナー」と決まり、オプションで腕相撲コーナーが設置されることも決まった。なぜなら一年では腕相撲最強と謳われる岩泉の存在のおかげだ。むろん、彼に勝てれば景品が与えられる。
 当の岩泉は午前中はバレー部の公開部内戦に出るらしく、当日はそこそこ忙しいらしい。
 バレー部は先日行われた春高予選の県代表決定戦で優勝を逃し、3年生が引退したことで2年中心体勢に移行したということだった。しかしながら1年である岩泉はようやくベンチメンバーに昇格、及川は最初からベンチメンバーであったがスタメン昇格はまだで、それ故にスターターで出られる文化祭の部内戦は楽しみということだった。
 それとは別にして、岩泉は文化祭に関して一つぼやいていた。
 というのも及川のクラスに関してである。及川のクラスの出し物は「執事喫茶」。なんでも女子は及川の正装見たさ、男子は及川で女性客を釣って大儲けという目論見で一致したらしく、ほぼ満場一致で決まったらしい。各クラスの出し物案内の最終決定版がプリントされ、クラスで配られて個人個人に行き渡った途端、「ビリッ」と紙の破れる音が隣の席から響き、が驚いて隣を見やったら頬を引きつらせた岩泉がいた。曰く、瞬間的にふざけた顔の及川が浮かんでつい力んでしまった、とのことだった。

 文化祭は11月3日。文化の日。一般公開で、青葉城西を受験候補にしている中学生もたくさんやってくる。

 当日――、登校する生徒達の足取りがどことなく軽い気がするのは気のせいではないだろう。
 及川もその一人だった。基本的にイベントごとは好きな方だ。
 もっともその日も朝練は通常通りで、いつも通り朝早く学校へ向かった及川はいつも通りの朝練をこなしてからいったん自身のクラスへ顔を出し、再び第3体育館に戻った。今日は文化祭開幕と同時に部内チームでのデモンストレーションマッチが入っているのだ。
 試合用のユニフォームを着た及川は、試合開始前にチームメンバーを見やっていつも通りの笑みを浮かべてみせた。
「よーし、やりますかー! それじゃあ先輩がた、マッキー、ふつつかなセッターではありますがひとつヨロシクおねがいしまーす!」
 チームはレギュラー・サブの混合チームだ。岩泉・松川とは離れてしまったが、一年は及川と花巻、あとは全て2年生である。
「おう!」
「客向けの公開試合とは言え、本気で行くぞ!」
 円陣を組んで、こちらのチームに入った副キャプテンを中心に声を掛け合った。そうしてコートに入ったその瞬間。

「キャーー!! 及川クーーーン!」
「及川せんぱーーい、がんばってくださーーーい!」

 黄色い声が飛んだが、試合中はさすがの及川といえどもギャラリーに応える事はしない。ただ、北川第一の女生徒も来ているのか、という事だけうっすら思った。
 もしかしてバレー部の後輩も来ているのだろうか。とも思った。が。北川第一は365日休みナシと言っても過言ではないド根性ばりばりの部だったことを思い出し、アイツらは今日も練習だよな、と思いつつ前衛のポジションにつく。ローテーションはバックオーダーのS3。青葉城西が高頻度で使うオーダーだ。と、及川はセンターに立ってネットの先をちらりと見やった。
 できればアナタから正セッター奪いたいんですよねぇ、とちらりとネット越しにいる正セッターを見やるも、ふ、と息を吐く。
 岩泉とチームが別れる事は珍しい。が、こっちは正レギュラーが多いし、自分さえうまくセットできれば有利だ。互いに見知った仲ゆえに長所も短所もバレている。
 だからこそ欺くのが楽しいんだけどさ、と及川はさっそく試合開始直後にブロック2枚を剥いでバックに高めのトスを上げてポイントを奪い、ニ、と笑った。
 我ながら、セッターはつくづくイイ性格をしていないと務まらないと思う。スパイカーではなくあえてセッターでありたいと願っているのはやはりこのポジションが好きだからだ。
 そうして拮抗した試合展開ながらも2セットを奪って勝敗が決し、及川は勝ちが決まった瞬間にパッと満面の笑みを浮かべた。すると、やや呆れたような声を副キャプテンが漏らしてくる。
「お前、勝った瞬間だけはほんと掛け値なしでいい笑顔浮かべるよなー」
「え!? 俺いつも真っ直ぐ満面の笑み浮かべてません?」
「いや、他はなんか悪巧み浮かべてるような笑みしか見たことねぇな」
「マッキーひどっ!」
 ギャラリーから拍手を貰いつつそんな会話をして、全員で整列してギャラリーに頭を下げた。
 さすがに今日は体育館シャワー室の使用許可が降りており、全員でサッと浴びてから部室に駆け込み、制服に着替える。
 花巻と松川のクラスは全員参加の舞台をやるらしく、拘束時間が短くて自由時間が多いらしい。2人は昼食を屋台で取ると張り切って先輩たちが出たあとすぐに部室を出ていき、残された及川は岩泉の方を見やった。
「岩ちゃん、ご飯食べないの?」
「いや、食う」
 及川は最初から屋台で食べる時間は取れないと弁当を持参しており、それは岩泉も同じだったのだろう。互いにその辺りに散らばっている椅子に腰掛けて弁当を広げた。少し早めの昼食となったが致し方ない。
「あーあ、せっかくの文化祭なのに岩ちゃんと部室でご飯なんてサビシイ。凹みそう」
「物理的に凹ましてやろうか、まず顔面な」
「今日はそれは困る!!」
 なんて。ちょっと静かな環境での食事が良かったから今日はこれでいいんだけど。と過ぎらせつつちらりと目線をあげた。
「岩ちゃんのクラスって全員でシフト回してんの?」
「まあ、だいたいそうだな。文化部のヤツもいるし、そこまできっちり分かれてねぇけど」
「ふーん」
 食べ進めつつ、少し間を置いて携帯を取りだして時間を表示させた。11時半。12時には準備して自分のクラスに入らなければならない。まだ時間はある……が。
「ごめん岩ちゃん、時間ないや。俺さきに行くね?」
「あ、おう」
「戸締まりヨロシクね」
 急いで食べ終え、バッグに弁当箱を詰め込んで背負うと及川は岩泉に手を振って部室を後にした。さすがに部室棟周りに人はいなかったが、校舎に近づけば見慣れない制服や私服の来客が一気に目に飛び込んできて、うわ、と及川は目を見開いた。中学の時とはやはり規模が違う。
 及川はその足を普通教室棟ではなく、美術室のある特別教室棟の外部入り口に向けた。――美術部の展示品は今年の目玉だとパンフレットにも大きく記載されていたし。まだ少し時間あるし。なんて、足先が美術室に向かう理由付けが勝手に頭に流れ込んできて自分で苦笑いを漏らしてしまう。
 部内試合でスタメンで出て、キャプテンのいるチームに勝ったよ! とか。正セッター負かした、ブイ! とか。及川さんのサーブめっちゃくちゃ決まったよ、見たかった? とかって言いたい。なんてそんな事、考えたらぜったい負けだ。はたぶん、そんなにバレーに興味を持ってないなんてとっくに気づいてるけど。それでも。公開型の試合でセッターとして出られるなんて滅多にないし、やっぱり自分でも想像以上に嬉しかったんだろうな。と今日は来客用に大量に用意してあるスリッパに履き替えて普段は使わない入り口から校舎にあがり、美術室のある三階へ行けばけっこうな賑わいで思わず目を見開いてしまった。
 混んでるな……と入り口からひょいと中を覗き込むと、視線が一気に自分に集まったのを感じた。色めき立つ、とでも言うのか。自分でも条件反射のように、ニコ、と笑みを浮かべれば小さな悲鳴があがったのも耳に届いた。
 はいるのだろうか。と視線を巡らせるが見あたらず、及川は美術部員らしき女生徒に声をかけてみた。
「すみませーん。ちゃんっていまいますか?」
 すると、よほどその問いが意外だったのか「え?」と数人の美術部員が互いに顔を見合わせ、及川は「あ、まずいかな」と悟った。
「彼女とは同じ中学出身で、いつも美術部の展示は賑わってたから気になって来てみたんですよネ」
 ――なんて全然知らないけど。彼女は有名人だったし、嘘でもないよな。とニコニコと対応すれば「なんだ」とみんなしてこちらを見上げてきた。
さんはいまいないけど、彼女の作品はあっちだよ」
「ていうか、及川君って絵に興味あったんだー……」
「運動部のひとが美術に興味持ってくれるなんて嬉しい!」
 口振りから、上級生かな? と及川は感じた。それとなく話を合わせつつ、及川はの作品が置いてあるという方向を見た。室内はいつも並べてある大きなテーブルが片づけられ、代わりに衝立のようなものを立てて絵画を中心に展示してある。
 何やらの作品の一角にはスーツ姿の年輩の男性や女性が陣取って熱心に見ているようで、及川は頭に疑問符を浮かべながら近づいた。
 こういう時、背が高いと便利だ。後ろからでも余裕で前が見える――、と及川はひょいとの作品群を見やった。
 付けられていたタイトルは、明らかに文化祭展示用に描いていたらしい「仙台の春」「夏」「秋」。生の油絵を見るのはほぼ初めての体験だ。絵心なんてありはしないし、美術の授業すら何を習ったか覚えていないレベルの及川であったが、それでも。そんな及川ですらも瞳にパッと飛び込んできた色に、筆遣いや質感に、いっそ戦慄した。ゾクッ、と肌が粟立つ。ああ、なんで。なんで「才能」というヤツはこうも分かりやすいのだろう? ほんの一瞬、初めて影山のトスを見た瞬間に感じた電流に触れたような感覚さえ思い出してゴクリと喉を鳴らした。
「”仙台”というよりは、ほぼ学内だけを題材にしているのが惜しいくらいの出来ですなあ」
「しかし相も変わらず、いっそ不自然なほどに彼女の絵には人間が一人も出てきませんね」
「人物をこれだけ排除してここまで描けるというのも、ある意味では恐ろしい腕ですね」
 の絵を見ているのは絵画関係者なのか、そんな話が聞こえてきた。口振りから、かなりの評価を得ている様子だ。
 ――美術の世界にも、大学スカウト的なものがあるのだろうか。などとついうっかり考えてしまい及川はグッと手を握った。
 だめだ。いまそれを考えるのはよそう。とそっとその場を去る。
「もう行っちゃうのー?」
「クラスの仕事が始まるんです。なにぶん12時からで」
「あ、じゃあすぐ行かないとだね。及川君のクラスって喫茶店だよね。後輩が騒いでたから知ってる」
「ハイ。先輩方もよければ来てくださいネ」
 そうして美術部の上級生に手を振って美術室を出て、いったん下駄箱を経由して靴を仕舞ってから普通教室棟へと戻った。
 飾り付けの施された廊下を歩きつつ自身のクラスを見やると、ドアの前には量販店から仕入れてきた執事セットの服装に身を包んだクラスメイトが客引きのためか立っていた。及川のクラスの出し物は執事喫茶である。
「おう、及川。戻ったか。お前の衣装、準備室に置いてあるからな」
「オッケー。どう? 客入りは」
「そこそこだな。期待してっぞ、しっかり稼げよ」
「そんな期待されても困るんだけどなぁ。ま、頑張るよ」
 言って及川は廊下の一番奥にある準備室に向かった。1年の全てのクラスが物置やら着替えやらに使っている準備室であるが、及川が準備室のドアをノックして中に入ったときは誰もおらず、取りあえず自分のクラスのスペースに足を運ぶ。
 そうして「及川用」と書かれた衣装を手に取った。体格の問題上、自分に合うサイズを見つけるのは至難の業だったと零していたのは文化委員会のクラスメイトだ。
 まさか本物の執事が着ているような服は割り振られた予算では到底買えるはずもなく、何ともコスプレじみた衣装だが、これはこれで祭りっぽくていいか。と及川は鼻歌を歌いながら着がえた。
 白いシャツにパンツ、ベストを着込み、燕の尾状にテールの伸びた黒のジャケットを羽織る。そうしてネクタイを付けて、白の手袋を付けながら衣装チェック用の全身鏡の前に立って、思わずゴクリと喉を鳴らした。
「やばい……俺似合いすぎる……!」
 思わず真顔でそう言ってしまうほどの、執事衣装を違和感なく着こなした整った男が鏡の中にいたのだ。及川は鏡に映った自分相手に絶句し、数秒ほどまじまじと眺めてしまった。
 足下も、これまた予算内で買える程度のたたき売りされていただろう靴だが、要するに似合っていればいいのだ。うっかり携帯を取りだして自撮りしそうになったがさすがに寸での所で思い留まり、準備室を出る。
 廊下を歩いているとさっそく女の子が「わ」と小さな悲鳴をあげてくれて、ニコ、と及川は笑みを返しておいた。
 ドアの前にいたさっきのクラスメイトがちょうどいま客が引いていることを教えてくれ、それならば、と及川はいつもの調子でピースサインをしながら教室に足を踏み入れてみる。
「皆さんお待たせしましたー、俺です!」
 すれば先に仕事をしていた執事陣が振り返り、商品を用意してくれている女生徒陣も振り返って「わ」と声をあげた。
「及川君、似合うーー!」
「ほんと? ありがと」
「及川、やっぱイケメンか!」
「だよね、俺もそう思う」
 程良く笑みで嫌味にならない程度の軽いノリで対応していると、そのうちの一人が携帯を取りだした。
「写真撮ろうよ写真!」
 そうしてちょっとした撮影会を済ませてから男性陣の方へ行けば今日の状況を詳しく話してくれ、業務の最終確認をして仕事開始だ。
 まずは中ではなく外で客引きという名の宣伝業務を言い渡され、クラス名と喫茶店名の入ったプラカードを持たされて外へ出されてしまった。
 これが功を奏したか否かは分からない。が、いつも以上に女の子に囲まれてひっきりなしに声をかけられ、及川はいつも通りにこやかに対応した。
 一度、噂が広まればあとは芋蔓式で客が増え、及川が接客に入ったことでますます客足は伸び、休憩すら入れてもらえず酷使され続けた及川は午後3時を目前にしてさすがに抗議をした。が。
「あと2時間程度で終わりだ。頑張れ」
「酷すぎる!!」
 却下されたが粘ってどうにか休憩をもぎ取り、一息つく。さすがに着がえるわけにもいかず、その足で岩泉のクラスを目指した。

「やっほー! 岩ちゃん、いるー?」

 ひょっこりと現れた、何やら燕尾服のような服を着た男に岩泉及びのクラスは、ざわ、とどよめいた。
「及川君だ……!」
「やだあれ、喫茶店の衣装?」
「カッコイイ……!」
 クラスで各々の仕事をしていた女生徒が色めき立つのをは身長計の横で見ていた。
 のクラスの出し物は「測定コーナー」であるため、客がくればその都度測ってやるというシンプルなモノである。内容のせいか男性客の方が多く、賑わっているかといえば微妙である。
 岩泉に用事かな、とが見やった先で及川はさっそく女子に囲まれて携帯のカメラを向けられている。とはいえ中学時代からの見慣れた光景でもあるため、特に物珍しいものでもない。
 お願いします、と来客から声がかかり、の意識は測定の方に向いた。腕相撲コーナーのデスクでデンと構えて座っていた岩泉は及川が現れた瞬間は殺気だっていたが、こちらも来客で気がそれたようだ。
 そうして、2,3人測定して見送ると、ヌ、と文字通りに黒い影が現れた。
「俺も測ってもらっていいかなー?」
 コンマ単位遅れて、その声が及川だと認識したあとには本人を見上げた。ニコニコ笑っているその顔から、たぶんいま着ている服装について何らかの感想を求めているのだろうな。と察したが、コメントに困って「どうぞ」と促したらやはり「冷たい!」と返されてしまった。
ちゃんもさ、もっとこう。キャー及川くんカッコイイーみたいなのないの?」
「う、うん……。及川くん、背が高いから見栄えするし、似合ってると思うよ」
 取りあえずそう言えば及川はその返答では不満だったのか、むぅ、と唇を尖らせた。
「いつもと違う及川さんにドキっとしない?」
「え、と……。ここが晩餐会会場でちゃんとした正装だったらしたかも……」
「文化祭にそんなクオリティ求めないで!」
 この人の場合、遠巻きに見ているだけなら絵になるのかもしれないが。と、表情をいちいち大げさに変える及川を身長計に促して測定バーを頭のてっぺんにぴたりと付けた。デジタル表示ゆえに機械が勝手に測定してくれ、は表示された目盛りを読み上げる。
「181,2センチ」
「ゲッ、春から1センチしか伸びてない!」
「及川くん、中学の時にけっこう伸びてたもんね。でも十分高いのに」
「んー、せめて180台後半は欲しいんだけどね……」
 平均身長からすれば十分高い部類であるが、及川はバレー選手だから出来うる限り伸びて欲しいと思うのも当然かな。とややうなだれた様子の及川を見やっては少しだけドキリとした。考え込むように目を伏せた及川が白い手袋を着けた手を口元に当てたのだ。
 やはりこうして黙っていると相変わらず整った顔をしているな、と感じていると「ん?」と及川が目線をあげて目が合い、さすがにの心音はドキッ、と高く脈を打った。
「どしたの?」
「え? あ……えっと」
 やっぱり綺麗な目だな、などとこの場で言うのは憚られて少し目線をそらすと、及川はやや不審そうな顔をしつつも「そうだ」と思いついたように話を切り替えた。
「今日さ、バレー部は部内戦を公開でやったんだよね」
「うん。岩泉くんに聞いた。2人ともスターティングメンバーだったんだよね」
「そうそう。岩ちゃんとは違うチームだったんだけど、勝ったのはモチロン俺の――」
「おいこら、クソ及川! 後ろが詰まってんだろうがどけよグズ及川!」
 及川がピースサインを作ろうとしたらしきモーションを見せたところで横から怒声が飛んで、ビクッ、と彼は肩を揺らした。そうして彼は後ろを振り返ったが、特に順番待ちの客はおらず、怒声を飛ばした超本人の岩泉の方をムッとした目線で見やった。
「別に誰も待ってないじゃん!」
「うるせえ、用事が済んだらさっさとクラス帰れ!」
「俺はいま貴重な貴重な休憩時間なんですぅ! だいたい岩ちゃんはなにやってんのさ」
 言いながら及川は岩泉の方へ行き、岩泉は腕相撲で自分に勝てたら景品プレゼントだということと、まだ一度も負けてない旨を説明していた。
「花巻も10回ほど挑戦したが、全戦全敗してったぞ」
「ふーん……。ま、しょうがないよね。岩ちゃんのパワーってゴリラ並――いたっ!」
「そろそろ相手不足でつまんねーんだわ。おめー相手しろや」
「へ? 本気? 俺、正直パワーで岩ちゃんに負けてると思ったことないんだけど?」
「あ"? じゃあゴリラはおめーじゃねえか」
 及川限定らしいとはいえ。なぜ岩泉は及川相手だとああも簡単に手が出て言葉も荒れるのだろう。と、にとってはある意味慣れたやりとりを繰り広げている2人を見ていると、及川もその気になったのかジャケットを脱いでネクタイを緩め、遠巻きに見ていた女生徒が小さく悲鳴をあげたのが聞こえた。
 にしても、シャツとベストの方が何となく及川に似合っているな。と感じていると及川は右手のシャツの袖を捲り上げて岩泉に向かい合い、手を覆っていた白の手袋を脱いでから席について右手同士を掴み合わせた。
「レディ――」
「ゴー!」
 互いに合図を言い合った途端、2人の表情はすさまじく力んで青筋が立っている。
 クラスの男子達はクラスメイトのよしみゆえか岩泉に声援を飛ばし、女生徒はいままで連戦連勝を誇っている岩泉に拮抗した力を見せている及川が意外だったのか「及川君……」「すごい……」と呆然としていた。
「――っシ!」
 しばらくの攻防のあと、及川の掌を机の上につけて競り勝った岩泉が拳を握りしめ、及川は一瞬だけ心底悔しそうな顔を浮かべたあと、何ごともなかったようにヘラッと笑った。
「あいたー。やっぱ強いな、岩ちゃん。……はいもう一回」
「あ? 俺の勝ちで終了だろ」
「いいじゃん、マッキーとは10回もやったんでしょ」
 それに俺、お客だしね。と笑って手を差し出した及川に岩泉もムスッとしながら応じる。
 そして二度目は及川は作戦を変更したのか、途中で一瞬だけ力を抜き、一気に叩き潰すという強攻策に出た。功を奏したようで、ドッ、という大きな音と共に岩泉の右手が机に叩き付けられてギャラリーがワッと沸いた。
「いえーい、俺の勝ちー!」
「及川君すごーーい!」
「岩泉に勝ったヤツ、初めて見た……!」
 女子が手を叩いて、男子も度肝を抜かれたような表情を晒し、及川はピースサインを浮かべて颯爽と立ち去ろうとした。が。
「一勝一敗だろうが、フザけんな!」
 そんな及川を岩泉が止め、再チャレンジを申し込んでいる。いつもならこういう場面、及川は上手く逃げてしまうのだが今日は珍しく岩泉に応じて再々勝負を始めた。
 そうして腕相撲を続ける2人を手持ち無沙汰で何となく見ていると、クラスメイトの一人が近づいてきた。
さんゴメン、ちょっと遅れちゃった。交代するよ」
「あ……うん。ありがとう」
 そう言えば、と時計を見やると3時を回っている。持ち場は3時までの予定で、3時半には美術部に行くと部員には伝えてあった。
「にしても、岩泉君と及川君、すごいね……。及川君って力あるんだねー」
「そうみたいだね」
 としては及川のパワーなしには成し得ないジャンプサーブを長年見ていたせいか、及川のパワーが通常以上なのは驚くことではない。むしろ体格で劣っている岩泉が及川と同等のパワーがあることの方が凄いような気がしたが。
 凄い、と言われるのはやはり端正な顔のせいなのだろうか。と、何戦やったか分からない2人を横目にみつつ、教室をあとにした。



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