「甘い物が食べたい、今すぐにだ」 大分復調したクロヴィスは、総督官邸の自身の私室で溜まりに溜まった書類の一つ一つに目を通しながら調印していくという気の遠くなるような作業の鬱憤を晴らすようにそんなことを言った。 しかし、これでも物を欲するようになっただけ自分でも大分マシだと思う。 よほど弱っていたのか胃が物を受け付けなくて、ただでさえ貧弱だと自覚している身体が更に細くなってしまった――と眉を寄せる。 あとから主治医にの処方した薬の詳細をそれとなく聞いてみると「比較的体力のない人向けの病後の衰弱回復及び健胃を目的としたもの」らしく、やはり自分はにさえ貧弱だと思われているのか、と居たたまれない気分になったものだ。 しかし、やはりの薬は効いたのだろう。徐々に食事を取るようになって起き上がって仕事をこなせる程になった。明日には総督府に復帰する予定だ。 運ばれてきた茶菓子に手を伸ばし、少し休憩を取っていると、相変わらずの禿げ上がった頭を湛えてバトレーが訪ねてきた。 「殿下……、ここまでのご快復、嬉しゅうございます」 「なにを大げさな……。軍部のほう、変わりはないか?」 「ハッ、問題ありません」 そうか、と呟いてクロヴィスは紅茶に口を付けた。 病中、を官邸に連れてきたのは他ならぬバトレーだという。改めて礼を言うのは気恥ずかしいが、その点はクロヴィスはありがたく思っていた。 しかし次にバトレーは言いづらそうにこんなことを言った。 「あの、まことに申し上げにくいのですが……殿下」 「なんだ?」 「その……殿のことなのですが、恐れながら私も殿下の病状回復に彼女が尽力してくれたことは感謝しております。ですが……」 「だからなんだ? またを私の側に呼べなどと下らんことを言うのではないだろうな?」 「い、いえ――! その……殿自身も言っていたことなのですが、殿下のことを思えばこそ、もう、彼女と関わりを持たない方がよろしいのではないか、と」 またいつもの話が始まった、と軽く聞いていたクロヴィスは「も言っていた」という言葉に引っかかって、カタ、と音を立ててカップをソーサーへと戻した。 「が……もう私には会いたくないと、そう言っていたというのか?」 「い、いえ決してそんな風には――ッ」 おそらく、余程情けない顔をバトレーの前で晒してしまったのだろう。言葉に詰まって引きつったような表情を浮かべたバトレーは「下がれ」と命じる前に自ら失礼すると自身の前を去っていった。 しかし、今の言伝はどういう意味だったのだろうか? 今更、が自分に会いたくないなどと言い出すとは。先日この官邸に来たときに、何か不快な思いでもしたのだろうか? いや、いい加減、これほど甘えた自分に愛想を尽かしたのかもしれない。 いや――最初から、は自分との接触を避けていたではないか。無理に繋ぎ止めていたのは自分の方だ。 互いに、どれほど打ち解けても、打ち解ければ打ち解けるほどに立場の違いが重くのし掛かってくるのは分かっていたことだ。 いちイレヴンでしかない彼女に、皇子であり総督である自分と関わっていくことは苦痛を伴うことなのかもしれない。 それでも――。 『これからも、私の友人でいてくれるかい?』 以前、恐る恐るそう聞いたら笑って頷いてくれた。 あの時の彼女に、きっと嘘はないだろう。 唇を強く結んでクロヴィスは携帯電話を取り出し、ジッと画面を見つめたまま手を震わせた。 回復したら礼の電話を入れようと思っていたところだ。そう考えてクロヴィスはハッとした。 そうだ――、連絡をするのはいつも自分からだった。からこちらへかけてきた事は一度だってない。だから、自分さえ連絡を絶ってしまえばとの縁は切れてしまうだろう。 バトレーもそれが分かって、「もうに連絡するな」と暗に言ったのだ。 も、それを望んでいるとは思えないが――自分が連絡を絶てば、きっとそれに従い、今後一切のこちらとの接触を断つのだろう。 そうだ。簡単なことだ。自分さえを忘れてしまえば、臣たちも「イレヴンに狂った皇子」などと陰口を叩くこともなくなるだろう。 がいなくとも、立派に総督を勤めあげるという意志に変わりはない。 そう、いつかは、いつかは心のどこかで止めなくてはと、諦めなくてはと分かっていたことのはずだ。彼女と自分は永遠に交わることのない定めなのだと。そんなことは最初から分かり切っていたことではないか。 ――分かっていた。 だが――、どうすればいいと言うのだろう。今更、を忘れて何もなかったように過ごせというのか? 無理だ。分かっていて、それでも押し止められずに彼女を求めていたというのに。 「皇子であることを、これほど疎ましく思う日が来るとは……想像すらできなかったよ。……」 ブリタニア人に生まれていれば、きっとこんな感情を抱くことは一生なかっただろう。皇子である彼を敬愛して、ただ皇子という事実だけを見て、遠くから忠誠を誓うだけ。 だから――これで良かったのだと思う。 「クロヴィス……」 病気がちな彼は、最後に会った時の風邪から復調して以降ますます公務に励んでいるという情報は否が応でもメディアを通じて入ってくる。 身分違い、など遠くの国のおとぎ話か、大昔の逸話の中の話だと思っていた。完全な外の世界から傍観するゆえに、人はしばし日常を忘れてストーリーを楽しむことができるのだろう。 けれども、現実は物語のようにはいかない。貧しい村娘が王子様に見初められて、など物語の世界でしかあり得ないのだ。 実際は、どうしようもない壁の前に、どうにもならないのだと諦念して受け入れるしかできることはない。 分かっていたのに、とはカマクラの自宅でクロヴィスにもらった携帯電話をそっと握りしめていた。 ブリタニア人のように彼に忠誠を誓うことは出来ないけれど、彼が総督として励んでいる姿をここからそっと見守っているだけなら許されるのだろうか。いつかは彼が本国に戻って、その国のお姫さまと呼ばれるような女性を妃に迎えても。 きっと大丈夫だ。分かっていたことなのだから。初めから分かっていたことだと笑って受け入れられる。この想いも思い出も、全て胸にしまって人知れず見守り続けるだけなら、誰も咎めない――とは人知れず携帯を握りしめた腕を震わせた。 クロヴィスのエリア11統治に劇的な変化というものは見られなかったが、それでもクロヴィスなりに現状の向上を図ろうと試みて数年――僅かだが着実に変わっていることもあった。 その一つが、やはり労働だ。 クロヴィスが積極的にエリアの復興に力を入れれば必然的に雇用の数が増える。その理由が完全にイレヴン寄りであれば反発も招くものの、「私が視察に赴く場所を汚れたままにしておくつもりか?」と言われたのでは表だって文句も言えない。元より美しいもの好きのクロヴィスのため、ブリタニアの企業は渋々労働源としてイレヴンを雇い、その結果生活水準の向上したイレヴンが資金を市場に還元するという景気の必然的循環により全ての事柄に置いて一段階の向上が見られたのだ。 労働環境が改善した――という理由で、生活苦を理由にテロ活動を働いていたものの大半は足を洗い、普通の生活に戻った。 これは一部のブリタニア人にとっては青天の霹靂だった。 エリア11におけるテロ活動の内部というのは実に複雑化している。 旧日本がブリタニアとの戦争に敗れ、ブリタニアの属領となった時――かつてこの国で富を豊富に抱きかかえていた者の多くは地下へと潜って力を蓄えていた。 そんな彼らに目を付けたのが、一攫千金を夢見て遠くブリタニア本国から出稼ぎにやってきたブリタニア人たちだ。彼らの大半は落ちぶれた貴族や、かつての名家という肩書きを持つ者達だった。 ブリタニアの優れた兵器を高額でイレヴンに横流しし、テロ活動の支援を秘密裏に行う。いずれ本当にテロリストがブリタニアを破ろうが、どちらとも繋がりを持つことで自身たちの身の安全だけは守りつつギリギリの商売に励んでいた彼らにとって、ここ数年のクロヴィスの施政はまさに予想外のことだ。 テロリストの絶対数が減れば、自然と兵器の需要も減る。リスクを上回る旨みがなければ、わざわざブリタニアに背くような真似をして武器商人を気取る理由もない。 それどころか、下手にエリア11の治安が向上してかつての日本人の裕福層が表に出てきてしまっては自分たちの身が危険に晒されてしまう。 ――そういった焦燥が次第に高まり、それはついにある事件へと繋がっていった。 かつて日本の首都だったトウキョウ。その中でももっとも栄えていたシンジュクは今や廃墟を晒すゲットーと化している。 しかし今でも人口密集地帯に変わりはなく……、大半のブリタニアの武器はここシンジュクへと流されるのが常だった。 ならばいっそのことシンジュクごと無にしてしまえばいい、と考えた者たちは時間をかけてシンジュクに大量のテロリストが潜んでいることを軍部に流し続けた。そんな彼らの中には名家も多く軍部にも繋がりが深い、あるいは軍の士官であったりするという下地があった故に、その情報を元にシンジュクに攻め込むというマッチポンプを公然と行ったのだ。 テロリストを一掃せよ。――ある軍の高官からの命令が下って現場は揺れた。 「クロヴィス殿下のご命令は!?」 「テロリストを目前にして、殿下のご判断を待つ暇などないッ――!」 元々、臣下の掌握には長けていないクロヴィスの施政だ。命令系統の維持が完全にはできておらず、上からの指示とあっては末端の兵士たちは従う他はない。 下された具体的な命令は、シンジュク・ゲットーの破壊。 元よりクロヴィスの膝元である政庁に程近いシンジュクを危険視する声は軍内部でも多く、ようやくのテロリスト一掃との指示に歓喜こそすれ疑問の声はそうはあがらなかった。 が、突然のブリタニア軍の襲来に混乱を極めたのはゲットーの住民たちである。 「なぜ、ブリタニア軍が――ッ」 ただ道ばたを歩いていただけの男は、その一言を残して降り注いだ弾丸によりただの肉塊と化し――周囲は一瞬にして悲鳴と爆音と、飛び散る鮮血で染まる惨状の場と化した。 歩兵は執拗にマンションの一室一室を回っては住人を残さず射殺し、侵攻の足を進めていく。 事実、シンジュクにはテロリストも潜んでいたのだろう。しかし、それ以上の住民が犠牲となってもまだブリタニアは蹂躙の刃を止めることはなかった。ナンバーズは所詮はブリタニアの奴隷。人以下の存在である。そんなものを虐殺するのに、ためらう者などいなかったというのが現状だ。 「殿下……ッ!」 そのシンジュクの異変がクロヴィスへと伝わったのは、実にシンジュクへの攻撃が開始されて二時間ほど経ってのことだった。 いつものように執務室で書類の山に囲まれ、うんざりした表情を晒すクロヴィスは慌てた様子のバトレーに素っ気ない態度を返す。 「なんだ、バトレー。血相を変えて」 荒い息を整えて、バトレーは憔悴気味のまま声をあげた。 「た、たった今、第三駐屯部隊より連絡が……! シ、シンジュクに潜むテロリストを一掃するという命令を一部の将官が下したらしく、シンジュクは……壊滅状態に……!」 「なッ……!」 バトレーの報告をなあなあに聞いていたクロヴィスも、あまりに予想外の話に瞳を丸めて椅子から飛び上がった。 「だ、誰がそんな命令を下した!? バトレー、貴様……!」 「わ、私ではありません。しかし、その……」 「ええい何でもよい、今すぐ止めさせろッ――いやいい、私が行く!」 衝動のままに駆け出したクロヴィスはコンダクトフロアへと飛び込むと、現状把握もままならないままにシンジュクにいるという全ての部隊に向かって直々の命令を下した。 「エリア11総督にして第三皇子クロヴィス・ラ・ブリタニアの名の下に命じる。全軍、直ちに攻撃を停止せよ! 負傷者はブリタニア人、イレヴンに関わらず救助せよ、これ以上の戦闘は許可しない――!」 動悸で胸を上下させ、一頻り叫び終えてフーっと息を吐いたクロヴィスはバトレーを睨み付ける。 「シンジュクは、一体シンジュクの様子はどうなっているのだ!?」 「いえ、そ、それが……」 「現地の光学映像をこちらに回せ!」 どことなく躊躇う様子のバトレーを一蹴して、クロヴィスは重ねてそう命じた。明らかに動揺したバトレーは数秒ほど沈黙したあと、観念したように臣下の礼をとって自身の部下に光学映像を出させるよう伝える。 そしてコンダクトフロアのモニターに現地のリアルタイム映像が流され――クロヴィスはおよそ臣の前では晒したことのない惚けた表情を浮かべた。 「な、なんだ……これは……ッ」 自軍のナイトメアフレームが巨人のように立ち並び、建造物の類は破壊の限りを尽くされており、何よりもまざまざと辺りに散らばる住人の死骸らしき山と、まだ真っ赤に残る血痕がその場に起こった惨状を酷薄なまでに映し出していた。 複数のモニターから時折子供の泣き声や、怪我人の呻き声が聞こえてくる。 頭が真っ白になって、真っ赤に染まっていく感覚が衝撃波のようにクロヴィスを襲った。 現場の、前線の様子などこれまで見たこともなかったクロヴィスはそのあまりの様子に震え、ついには嘔吐を催してその場に吐瀉物を撒き散らしてしまった。 「殿下ッ――」 激しく咽せ帰りながらクロヴィスはバトレーの声を遠くに聞く。 全身の血の気が引く思いだった。いやでも身体が震えて――現状の把握さえ脳が追いついていなかった。 何だったというのだろう。今の映像は。 現実のことなのだろうか――、あんな凄惨な光景、本当に現実のものなのか? まして、自身の管轄であるこのエリア11で起こったことなのだろうか? 『17の時に、両親を亡くしたの。あの、ブリタニアとの戦争で』 ふいにいつかが語っていた言葉が脳裏にフラッシュバックして、クロヴィスは目を見開いた。 『同じね。あの戦争で私たち、大切なものを失ったんだから』 『それは……本心なのかい? 君は、ブリタニアを恨んではいないのか?』 そう問うたら、分からないし、恨み続けるのは辛いことだと穏やかに笑っていた――、だけではない、このエリア11の全てのイレヴンにとってはあの凄惨な光景はすでに当然のものだったのだろうか。 だとしたら、未だにテロが沈静化しない理由も分かるというものだ。 なんという罪深いことなのだろう。あの惨状を目の当たりにして、ブリタニアを、総督たる自分を恨まないなど果たしてできるというのだろうか? どうすればいいのだろう――どうすれば。 臣たちが被害状況の報告をあげてくる。各部署とメディアへの発表内容の草稿もあげてくる。しかし、そのどれもクロヴィスの耳にはしっかりとした形となって入ることはなかった。 いっそ、みっともない姿を晒してでもこのエリアに向かって詫びたい――とそんな気持ちに駆られた。 |