うっすらと瞳を開けると、見たこともないような天井が映った。
まだ夢を見ているのだろうか――、覚醒しきれない頭に手をやると聞き慣れない声に呼びかけられる。
「おはよう、クロード。気分はどう?」
「……クロード?」
誰のことだ、それは――と無意識に返しそうになったクロヴィスは声のした方に目線をやった。すると和服に身を包んだイレヴンらしき女性がいて、あ、と上半身を起こす。
「……?」
「ふふ、寝ぼけてる? 気分でも悪い?」
ふわりと柔らかい声を聞きながらクロヴィスは瞬きをし、はは、と掠れた声で笑みを漏らした。そうだった――、と今の自分の状況を理解する。
寒くなかった? と首を傾げつつなお訊いてきたに頷いてクロヴィスは身を起こした。外気に晒されるとツンと寒さが身を過ぎったが、昨夜はが布団に忍ばせてくれた「湯たんぽ」というもので随分と温かかったものだ。
「良かった。じゃあ手洗いうがいが済んだらこの薬湯飲んでね。ここに置いておくから」
「うッ……またその不味い液体を飲めというのか」
「ここにいる以上あなたは私が診てるんだから、従ってもらいます」
クロヴィスは嫌そうな顔をしてみせたがは気にするそぶりもなく、ふふふ、と柔らかく笑うと踵を返して朝食の準備に行ってしまった。
ふぅ、と息を吐きつつもクロヴィスはどこか新鮮で不思議な感覚だった。
こうして皇子扱いされないことなど――おそらく生まれて初めてだ。皇子と平民、支配者と被支配者。今、この空間にだけはそんなものなど存在していないように思えて。気分がいいのか悪いのか確信は持てなかったが、ただ、不快でないことは確かだった。
「なんだこれは」
「お粥。昨夜の夕食よりは食べやすいと思うんだけど」
「ん……不味くはない。が、味が薄すぎて私には合わん」
出された朝食にしかめっ面をすると、もう聞き飽きた、とばかりには受け流していた。
隣のバトレーは文句を言わずに平らげている。皇子である自分の手前口出しできないのは分かっていたが、にしてみれば年輩のバトレーが食べているのだからちゃんと食べろということらしい。
このように口に合わない料理を食べさせられたこともあまり記憶にない。特に成長してからというもの、シェフに全て自分好みの味にするよう言い付けていたから尚更だ。
そんなことを考えつつ朝食もそこそこに、昨日が洗ってプレスしてくれていたシャツに身を通すとジャケットを羽織ってクロヴィスは出かける準備を済ませた。
「あ、ちょっと待って」
変装用の帽子を申し訳程度に被って玄関へ向かっていると、が引き留めて奥から何かを持ってきてクロヴィスの首にふわりとかけた。
「これでよし、と。外、けっこう寒そうだから」
マフラーだ。首にあたたかい感触を受けてクロヴィスはあっけに取られた。ふふ、と笑って行こうと先導するに数秒遅れ、頷いて外へと出る。
「ク、クロード様……せめてサングラスを」
おたおたと後ろから声をかけてくるバトレーを「無粋だな」と一蹴してクロヴィスは頬にあたる冷えた空気に唇を震わせた。
「あんな色のついたものを通してでは、風景が美しく見えないではないか」
「し、しかし……イレヴンと連れだっていては目立つでしょうし」
むぅ、とクロヴィスは唇を尖らせた。確かに、連れ立っていると目立ちはするだろう。しかし、ここがゲットーである以上むしろブリタニア人を連れているの方が悪目立ちをするのではないか、と考えていると和装のは小首をかしげて微笑んだ。
「大丈夫ですよ、カマクラはそう治安の悪いところでもないし……人通りの少ないところに連れて行きますから」
眼前のイレブンが何を考えているのかクロヴィスにはさっぱり解せなかった。そもそも、名前のみしか聞いていない。それすらも自分と同様に偽りなのかもしれない。
そもそも――歳はいくつだろうか?
見たところ年下のようにも見える。しかしイレヴンは総じて童顔傾向にあるのは知っているし、同じくらいなのかもしれない。いや、この落ち着き具合を見るに年上か?
イレヴンとはいえ女性に歳を訊くのは――と眉間に皺をよせて無意識にを目で追っていると、視線に気づいたのかが、ふ、と笑みを向けてきてクロヴィスはパッと視線をそらした。
エリア11に来て、本国にいたころよりは大分見慣れたつもりだが――、本当にイレヴンはブリタニア人と形態が違っている。
自分も男にしては華奢なほうだと自覚しているが、イレヴンは骨格からして華奢さのレベルが違う。あの黒い髪も、黒い目も、凹凸の少ない顔も、どれほど色が白かろうが決して白にはなれない肌の色も。
醜い、とまでは思わないが――美しいとも思えない。
租界に比べて乱雑なゲットーの風景。五年前の戦争の爪痕が残る街。租界とゲットーの境界線を――ずっと見て見ぬふりをしてきたのかもしれない。いくらナンバーズの住処であろうとも、復興がままならないのは、総督たる自分の責任でもあるというのに。
「クロード……?」
無意識に目線をさげていたクロヴィスは声をかけられてハッとした。
「気分でも悪い? 疲れた……?」
「あ、……いや」
案ずるような目で見上げてきたに首を振るって、ぼんやりと周りを見渡す。サワサワと木々が揺れ、砂砂利で囲まれた世界だ。人通りも少ないが、ここは都心部のゲットーと違い荒廃もなく、目に映る光景にクロヴィスはいささか安堵する。すると、ふふ、と隣から笑い声が漏れてきた。
「あそこのね、突き当たりを曲がったら……きっとお目当てのものがあるわよ」
言われてクロヴィスの頬がぴくりと反応した。今歩いている緩やかな坂の、その頂上に下り坂と上り坂の分岐点らしきものがあるのはクロヴィスの目にも見え、思わずゴクリと喉を鳴らす。
誕生日以来ずっと見つめてきた紅葉の朱――燃えるような、一瞬で世界さえ染め上げてしまうようなあの色。
心拍数があがってきたのが自分でも分かる。じんわりと手も汗ばんできた。巻かれたマフラーに暑苦しさを覚えるほどに昂揚した自身を抑えつつ、クロヴィスは緊張の面もちで一歩一歩歩みを進めていった。
分岐点に来たところでギュッと瞳を閉じ、上り坂のほうへ身体を向けてからクロヴィスはゆっくりと瞳をあけた。

瞬間――クロヴィスの緑がかった青の瞳は全て焼け付くような朱に攫われてしまった。

サワサワ、と揺れる葉音が耳を満たした。
トンネルのように道を彩る一面の紅葉。風に乗って葉が踊り、まるで自分を歓迎するかのようにゆらゆらと降ってくる。
「……はは……」
無意識に口から漏れたのは、感嘆の笑みだった。
美しい。こんな美しいものが世界にあったのか――と素直に思い、そっと降ってきた赤い葉を手に取ってみる。けれども――なぜかクロヴィスは違和感を覚えた。
一面の紅葉の中に佇む自分。それがひどく場違いな気がして――、胸がつかえたような感覚に陥ってしまう。
「どう、気に入った?」
後ろからクロヴィスの様子を眺めていたは柔らかい声とともにその場に立ちつくしていたクロヴィスを追い越して、ふわりと風に髪を踊らせた。
和服の裾が僅かに揺れ、薄く微笑むは舞い降りてきた葉を受け止めようと少しばかりクロヴィスの方へ振り返る。その襟からのぞくうなじに踊る朱がかかり――、クロヴィスは自分でも無意識のうちに声をあげていた。
「――ストップ!」
「え……?」
「ダメだ、動くな! バトレー!」
「ク、クロ――」
「待て待て動くな。――ステイ!」
眼前には困惑するがいたが、かまっている余裕はなかった。
これだけ強い言葉を吐けば取りあえず様子を見ようと思ったのか、はその場に留まってくれた。
バトレーが慌てて持ってきたスケッチブックと鉛筆を受け取って、クロヴィスはその尖端をに合わせて片目を絞る。そうして数秒睨むように強い視線を送ると、バッとスケッチブックを開いて鉛筆を走らせた。
先ほど自分に走った違和感。それの正体がよく分かった。
この風景が最も似合うのは――、やはりイレヴンであり、イレヴンの衣装だったのだ。
美しい、と素直に思った。
朱色の葉も、のあの髪の色も、肌の色も――この空間そのものが例えようもなく美しいと感じた。
きっと今でなければ描けない。この感情とこのインスピレーション。何かに焼き付けておきたくて、夢中で描くことに没頭した。
そうして勢いで描き上げ、ふぅ、と息をつき、パッと顔を上げる。
……!」
「……なに?」
「君の家に、画材はあるかい?」
もはや昂揚した気分のまま、口調すらも素の自分に無意識に戻ってしまっていた。
は困惑気味のまま、ようやく身体の緊張を解いて思案するように目線を泳がせる。
「ん……絵の具とかクレヨンなら、あったかも」
「十分だ! 貸してくれないか?」
「え……?」
「早く、戻るぞ!」
「え……!?」
言うが早いか、落ちていた紅葉を数枚拝借してクロヴィスは元来た道を小走りで戻った。
「ちょ、ちょっとクロード!」
後ろから解せないと言いたげなの声が追いかけてきたが、胸の昂揚を抑えることができない。
結局、絵のことになると見境のない自分を十二分に自覚しながら――再びの家へ戻ってクロヴィスは縁側に腰を下ろした。
寒いから中で、とは気遣ってくれたが、家の中だと求める色が表現できそうにない。
借りた水彩絵の具を思うままに混ぜ、拾ってきた葉と比べながら懸命に求める朱の色を作り出していく。
「んー……微妙だな。もう少し鮮やかにできないものか」
無意識にぶつぶつ呟く独り言すら止めることができず、おそらく隣で呆れているだろうに構うことすらできなかった。
燃えるような――遠目からでも一瞬で釘付けになってしまうほどの朱。その中に佇む和装の女性。
道具が不揃いなのが何とももどかしいが、今、この瞬間にしか描けない気がして黙々と描き進める。
そうしてどれほど時間が経っただろう――、最後の一筆をスッと滑らせ、クロヴィスは頬にかかる汗をグイッと拭った。
「できた……できたぞ!」
おそらく、自分がどれほど屈託のない笑みを晒していたかクロヴィスには分からなかっただろう。
一瞬の間を置いて、くすくす、と隣から笑い声が漏れてきてクロヴィスはきょとんとする。
「ん……?」
「絵の具、ついちゃってる」
の方を向くと、は懐から手ぬぐいを取り出してそっとクロヴィスの頬に触れ、絵の具のついていたらしき部分を拭った。
間近での穏やかな黒い瞳と目が合って、クロヴィスはなおキョトンとする。
きめの細かい肌だな――などとぼんやり思っていると、ふ、との瞳が優しい笑みで染まった。
「真剣に……好きなのね、絵。驚いた」
どこか深く、噛みしめるような口調だったが――クロヴィスはそれには気づかず、つられるように笑う。
「好き、というのもあるが……唯一取り柄と言えるものだな。私にとって絵というものは」
「そんな……。でもどうして、紅葉だけでなく私も描いてくれたの?」
「美しいと思ったからだ」
流れるように答えると、一瞬が息を詰めたのが伝った。
「……え……?」
「残念だが、私よりも君の方があの空間に似合っていた。それは悔しくもあるが……美しいのは、いいことだ」
思った通りを話すと、困惑気味だったの表情がどこか納得したように緩められる。
「そう……。そんな風に、考えるのね。あなたは」
「ん……?」
目を伏せたの意図が解せずクロヴィスが首を捻ると、は何でもないとすぐに首を振るった。
「さ、そろそろお薬の時間ね。クロード」
切り返したに今度はクロヴィスの方がおののく。またあの不味い液体を飲まなければならないのか――との想像から苦み走った表情を晒すクロヴィスには軽く笑い、薬湯を用意してから再び縁側に腰を下ろしつつ植えられている植物の方に目をやった。
「あそこに実を付けてる葉の細い植物があるでしょう?」
「ああ」
「ジャノヒゲって言うんだけど……今、あなたが飲んだ薬湯の中にはあの根が煎じてあるの」
「なに……!?」
「他にも、ほら、あの葉の丸い……カンゾウとか。あの辺りの植物、いろいろ」
あっけにとられつつもクロヴィスは、説明の声色に乗せられるようにして指された植物の方へ近付いていく。最初に言われた植物の前で腰を下ろして丸い実に触れていると後ろから更には付け加えた。
「あなたの咳を止めたのは、主にその植物ね。夏にはスズランみたいな可愛い花が咲くのよ」
クロヴィスは瞬きをした。思ってもみなかったことだ、このような植物が薬になるなどと。スズランのような小さな花――さぞかし愛らしいだろうと想像すると、感じた薬の苦みが嘘のように思えてきた。これほど愛らしい物ならば、口に入れても苦痛ではないように思えたのだ。
「そう、なのか。凄いな……は、こんな可愛らしいもので病気を治せてしまうのか」
「私が作ったわけじゃなくて、昔からあるものよ。今は中華連邦となってる国で生まれた思想と共に育ってきた理論だけど……、それとはちょっと違ってて、思想を抜きにして本当に効くものを組み合わせて処方するのが私たち生薬医ね」
「中華連邦……」
「可愛い花が元だと思えば、薬飲む気になった?」
「ああ……
ふいに出た中華連邦という言葉で、クロヴィスは忘れかけていた自分の立場を脳に過ぎらせた。中華連邦は、世界三大大国の一つでもある。はやくこのエリア11を安定させて足場をしっかりとさせねばいつ攻め込まれるも限らない。
「ん……?」
「き、君は……その、どう思う? このエリア11の、総督のことを」
自分がイレブンにどう思われているのか、ふと気になってクロヴィスはしどろもどろながらも尋ねてみた。今更、自分がクロヴィスだと知られてはいないと分かっていながらもどうしても視線が伏しがちになってしまう。
「総督……ああ、ブリタニアの第三皇子さま」
は何気なく言っただけだろうに、ドクッ、と心臓が跳ねるのがクロヴィスは自分でも分かった。
「ん……なんか、たまにテレビで観るけど、変な人だな、って」
「なッ……!?」
変な人だと!? と声を荒げそうになるのをクロヴィスはグッと堪えた。するとは申し訳なさそうに苦笑いをする。
「ごめんなさい、不敬よね……。クロードにとっては、皇室の方だし」
「な、なぜ……そう思ったんだい?」
ふ、と息を吐いて落ち着いてからクロヴィスはの元へ戻り縁側に腰を下ろした。んー、と唇に手を当てるはどこか遠い目をして言う。
「あの方、いつも派手なパフォーマンスで……それが彼のやり方だって分かってるけど、全く本心が見えなかったから。どんな気持ちでこの日本を治めてるんだろうって」
ピク、とクロヴィスの頬が撓る。少し痛い言葉だ。メディアの前では自分は常に「美しく気高く、力強い帝国の第三皇子」を演じてきた。虚像であることも分かってはいる。分かってはいるが――と無意識に表情が沈んでくると、カタ、とそばに置いていたスケッチブックをが手に取る音がした。
「本当に綺麗な色ね……この朱。こんな色が作れるなんて……」
その後にはどんな言葉を続けたかったのだろう? クロヴィスは気持ち身体を乗り出したが、はそこで言葉を打ち切ってしまった。切り込んでも何故か誤魔化される気がして、クロヴィスはそれ以上突っ込まずそっと自身が描いた絵に手を添えた。
スケッチブックで水彩画――、多少紙がへこみボコボコになってしまっている。
今のエリア11も、きっとこんな感じだ。美しく平定できず、ぼこぼこなまま。――懸命に務めてはきたつもりだが、結果は出せていない。
「まだまだ、だな。私は……」
苦笑いのようなものを浮かべていると、ふ、とどこか慰めるようにが笑みを向けてくれた。
穏やかで、彼女の笑みも声も人を落ち着ける作用でもあるのだろうか? 互いに違いすぎる生まれや環境が、本当に些末なことに思えてきてしまう。つられるようにしてクロヴィスもふ、と笑みを漏らし、ついには声をたてて笑っていた。
肌寒い風が縁側をそっと吹き抜けていき、そろそろ陽も傾きかけてくる時間だということを無意識に告げた。
「ク、クロード様……」
ぼんやりと庭の様々な植物を眺めていると、背後から申し訳なさそうなバトレーの声が聞こえてきた。
「なんだ、バトレー」
「差し出がましいようですが、そろそろお戻りになりませんと……」
振り返るとバトレーは背を丸め、言いにくそうな表情ながらもしっかりと拳を握りしめていて、あ、とクロヴィスは息を漏らす。そうだ――いつまでもここにいられるわけではないのだ。
「そう、だな」
頷いて視線を戻すと、一瞬と目が合う。刹那――クロヴィスは流れる時間が止まったかのような錯覚に陥った。
ふわ、との黒髪が風に靡き――彼女の表情からも先ほどまでの穏やかな笑みが消えていた。互いに何かもどかしさのようなものを抱えていたのが確かに伝った気がした。けれどもそれさえも錯覚のように、はすぐにまた笑みを浮かべた。
「そうね……きっと心配してるわね、租界では」
言って彼女は腰をあげ、促すように歩き出す。クロヴィスは少しだけ眉を寄せたものの、その後をついて導かれるままに玄関へと向かった。
玄関までクロヴィス達を送ったは案じるような目線でクロヴィスを見上げた。
「身体、まだ本調子じゃないと思うから……無理はしないでね」
クロヴィスが頷くと、バトレーの方がに向かって礼を言う。
「世話になりましたな、殿」
「とんでもないです、お役に立てたのなら……幸いでした」
ふふ、と笑っては改めて二人に笑みを向けた。
「じゃあバトレーさん、クロード。お元気で」
うむ、と頷きバトレーはに背を向けて歩き始めた。が、クロヴィスはその場で固まってしまったように動けない。
「……クロード?」
ありがとうと伝えて去ることは簡単なことだ。しかし、その別れを自分の意志が拒否して、もどかしさの中でクロヴィスは懸命に唇を動かしてを見つめた。
「また、会いに来てもいいかい? 助けられた礼すらも、私はまだ――」
「お礼されるようなことなんて、してないから」
「だが……! そうだ、君の庭の植物の話も……また聞きたい」
「本当? 嬉しい。でも企業秘密って答えておこうかな」
……! 私は――」
はぐらかされるようにかわされ続け、一歩に歩み寄って声をあげそうになった所でクロヴィスはハッとした。急にの表情が険しくなったかと思えば、悲しげに眉が下げられたからだ。そうしてゆるりと彼女の唇が動いていく。
「お戯れは……もう、おやめください」
「……え……?」
「私の数々の無礼も……どうぞお許し下さい。クロヴィス総督殿下」
頭が真っ白になる――という表現はこんな時に使うのだろうか。頭を割られたようなショックがクロヴィスの脳を打ち付けた。
「知、って……いた……のか」
声が震える。は持ち前の穏やかな笑みを浮かべることなく黒い瞳を伏せていて、クロヴィスはきつく眉を寄せた。
こうもあっさりと人と人の間には壁がそびえてしまうのかと絶望するほどに、一瞬にして目の前の彼女が遠い人のように思えた。
ブリタニア人とイレヴン。支配する者とされる者。――そんな壁など、先ほどまではないと思っていたのはただの幻想だったと言うのだろうか?
「殿下……」
「そんな呼び方……! 確かにクロードと名乗ったのは偽りだ。だが、私はクロヴィスだよ。ただの、クロヴィスだ」
自分でも何が言いたいのかサッパリ分からなかった。ただ必死に、との間に感じた優しい時間を否定すまいと訴えかけた。けれども――、彼女は頷いてはくれない。
少し離れた場所からバトレーが早く来るよう催促してくる。
ギリ、とクロヴィスは歯を食いしばった。どうしてもこのまま去る気にはなれなかったクロヴィスはおもむろに自身のポケットに手を入れて忍ばせていた携帯電話を取り出し、ピピピ、と操作をしてへと差し出した。
「これは私のプライベート用の携帯だ。今、全てのメモリを消去した」
「え……?」
「また、私の話し相手になって欲しい」
そうして強引にの手を取って携帯を握らせると、拒否の言葉を聞く前に踵を返して走り出す。
「殿下――!?」
背中に驚きと困惑を含んだの声が突き刺さったが、帽子を押さえてひたすら走り、もう声も届かないだろうところまで走ってからクロヴィスは息を整えた。











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