シグナル・レッド





燃えさかる火のように鮮やかな朱――この色ならば、例えどれほど遠くとも雑踏に紛れようとも迷わず見つけられるのだろうか?
日々寒々と冷えゆく空気の中、一日一日着実に色を深めるその朱を見て――クロヴィス・ラ・ブリタニアは感嘆のため息を吐いた。が、ふと目線を執務机の書類へと移せば、途端に彼の表情はしかめっ面に変わる。

「しかしまぁ、何とかならないのかこの書類の山は」

ここはエリア11――旧日本の政庁は総督府、総督執務室である。
祖国ブリタニアからエリア11を治める役目を預かったクロヴィスがこの地へやってきて既に一年以上が経っているが、やることだけは山のように増えており、ここひと月ほどは休日も返上という有様だ。
「イレヴンの猿どもじゃあるまいに、私が過労死したらどう責任を取るつもりなのだ。ここの連中は」
口走った愚痴に自らハッとしてクロヴィスは口元を押さえ、いかんいかん、と首を振るった。
ブリタニアの国是は言うなれば弱肉強食であり、ブリタニア人と植民エリアの人間――ナンバーズを区別するのも国是である。しかしながら自分はこのエリア11を預かる身。区別は区別であって、侮蔑ではない――と解釈しても構わないだろう。その方が、より美しいはずだ、と考えてクロヴィスは先程まで眺めていた窓際に目をやった。
大きなガラス張りの窓の外に置いてあるのは一鉢の盆栽である。盆栽などというどこからどう見てもイレヴン文化のものが、どこもかしこも西洋風に作られているこの政庁に不似合いだからという理由で外に出しているわけではない。外気に晒さなければその盆栽に根付く葉が本来の美しさを見せてはくれないからだ。
しかしながら盆栽などというものがこの場にひどく不似合いなのも事実で――クロヴィスは少しだけ眉を歪めた。

『お誕生日おめでとうございます、クロヴィス兄さま』
『おめでとうクロヴィス、私と彼女からのプレゼントだ。――気に入ってくれたかな?』

先日の10月14日――22歳の誕生日に、同い年の異母妹とすぐ上の異母兄は何を思ったか紅葉というこのエリア11の植物を鉢植えにして贈ってきたのだ。
ここエリア11は四季の変化が素晴らしい。だからこそ政務に忙しく観賞していないだろう自分に贈ったのだと妹はそう理由を添えた。兄――シュナイゼルは、そのうちに直に見てくるといい、と笑って言っていた。
贈られた紅葉は確かに朱のグラデーションが素晴らしく、そのエキゾチックな美しさに目を奪われた。が、全てブリタニア仕様となっているこの政庁には不似合いもいいところだ。――それはあの二人とて分かっていただろう。にも関わらずわざわざちぐはぐなものをプレゼントしてきた理由。
それは他ならぬ、このエリア11の総督としてしっかり務めよ――というメッセージであったことをクロヴィスは感じていた。
自分は、政務など柄ではないと自覚している。趣味であり生き甲斐でもあった絵を描くことすら総督に就任してからはままならず心内に不満や鬱憤を溜めて情けないほどの郷愁にかられることもしょっちゅうだった。
だからこそあの二人は、あえてこんなプレゼントをしてきたのだ。妹や兄の目論み通りと思うと少々気に障るものもあったが、不思議と二人のくれた紅葉を見つめていると「このような美しいものの生えいずる場所を預かっているのだ」という責任意識が少しずつ沸き始め、同時に後ろ向きな郷愁は嘘のように収まった。
もらった紅葉の盆栽は、仕事に精を出せるようあえて執務室に置いた。調べてみると気温や湿度が調整された執務室内に置いておけば紅葉本来の美しさは見せてくれないらしく、仕方なしに外に出してみたものの日に日に鮮やかさを増すその葉にクロヴィスはすっかり魅了されていた。
どこにいても、どんな遠くからでも一目で分かるような朱――、シュナイゼルの言うとおり、直にそれを見てみたいという気持ちも沸々と胸に沸き起こり始めている。
しかし。
現実は執務に追われる日々である。総督であるという責任感と自由を求める心が胸の内で鬩ぎ合い、苛々を抑えきれるほどには大人にもなれずにクロヴィスは膨大な量の書類の半分ほどに目を通して一度大きく伸びをした。

「――ッ!」

瞬間、むせ返るような息苦しさを覚えて衝動のままにクロヴィスは咳き込んだ。
ほらみろ、過労だ――などと恨み言を覚えつつも、激しく咳き込みながらピンとある考えを思い付いた。そうして悪戯っぽく口の端をあげながらにやりと笑う。



「殿下、殿下ー!」
「うるさい。今は殿下と呼ぶな」
「い、いえ……しかし。――我が君」
「気色が悪い。それも却下だ」
肩にかかる金髪をすべて帽子の中に収め、淡く色づいたサングラスをかけて肩で風を切って歩くクロヴィスは後ろを着いてきている自軍の将軍であるバトレーに叱咤を飛ばしていた。
ああ、と壮年らしい背を丸め、禿げ上がった頭に憔悴を浮かべてバトレーは大きな息を吐く。
「恐れながら……このような場所を出歩かれてあなた様のお身になにかあったら――」
「そのためにお前が着いてきたのだろう? 案ずるな、私の変装は完璧だ」
「いえしかし、ここはブリタニア人というだけであまり良い目では見られない場所ですぞ。それにお身体のほうもまだ」
「無粋だな、バトレー。お前を共としたことを後悔する前に少し静かにしたらどうだ?」
クロヴィスはバトレーの小言を淡々と切り返しながら、ふと周りの風景をぐるりと見渡した。
エリア11でも有数の古都らしいここ――カマクラゲットー。場所によってはひどいスラムを呈しているイレヴンの居住区であるゲットーの中でもカマクラは比較的綺麗なまま残っている場所でもある。
しかしカマクラは三方を山に囲まれた場所でもあり、出入りにも一苦労だ――と己の体力のなさはそれなりに自覚しているクロヴィスは息を切らせながら土を踏みしめてしばしその場に留まった。
――体調不良。
実際は軽く咳き込む程度でそれほど症状も出ていなかったが、これ幸いとばかりにクロヴィスは強制的に休日を取っていた。とは言え仮病ではなく少しは体調も悪いし、ここずっと働き通しだったのだからバチはあたらないと思う。それに何より、こうでも理由をつけなければ今年はもう見ることができないだろう。そう――盆栽ではない、野生の紅葉を、だ。
キョウト、ナラ等々無数の名所はあれど、政庁のあるトウキョウから比較的近くて今がちょうど見頃なのはここカマクラらしい。なにより日本だったころのこの国をよく感じられる場所だと聞いてクロヴィスはバトレー一人を連れ、お忍びでこの場へと足を運んだのだ。
もう12月になるこの国は、すでに肌寒い空気が凛としてクロヴィスの頬を撫でていった。その冷えた空気が気管支を通るたび、咽せかえりそうになるのを抑えきれないことがある。
「――ぐッ」
何度目になるか分からない衝動をクロヴィスはぐっと堪えた。実は少しではなく割と体調が悪いという事実をバトレーに悟られれば強制送還されてしまう。いくら皇子命令だと言っても無駄だろう。
そうなる前に早く見つけなくては。どこへ行けば見られるのだろうか? あの、空の果てからでも一度で見つけられるほどの朱を宿した葉は。
早く――と木々に覆われた道を見やるクロヴィスを、今度は抗えないほどの強い波が襲った。
「殿下――!?」
気がついた時、クロヴィスは枯れ葉で埋まる道へと突っ伏してしまっていた。バトレーの声が遠くでうるさく響いている。
しかしそれよりも息が詰まって胸が苦しい。呼吸さえもままならず、ああ、医者の言うことをきいてちゃんと薬を飲み大人しくしているべきだったのだろうか、と混濁する頭で思う。
まさかこんなことで死ぬわけはないだろうな?
「どうなさったんですか!?」
息苦しさの中、バトレーの声ではない、しっとりとした女の声がうっすら耳に入ってきた。うっすら瞼をあけると黒髪に黒い瞳というもっともイレヴンらしい特長を持った女性が見慣れない衣装に身を包み自分を見下ろしていてクロヴィスは苦しみも手伝いなお表情を歪めた。
オロオロしているバトレーに女性がなにかを指示しているのが聞こえてくるが、脳に入ってこない。
ぼんやりと理解したのは大丈夫かとしきりに声をかけてくるバトレーに肩を担がれ、その場に立たされて強制的に歩かされていることだった。

「そこへ寝かせてください」

ちょうど坂を下りたあたりが家だから運ぶようにと言われ、バトレーはオロオロしつつも敷いてある布団にクロヴィスを横たえるよう指示する女性にくってかかった。
「でん……いや、この方をこのような床に寝かせろと言うのか!?」
「そんなことより患者の安静が第一です。……ほら、早く」
女性はそんなバトレーの言い分に弁明する気はないのか、クロヴィスの身体を自ら強引に横たえさせてそっと額に手を触れた。
「熱……若干ありそうね。急にこんな症状が?」
「い、いや昨日から少し体調不良で……と言っても医者も大したことないと言っていたのだが」
「医者? お薬の処方は?」
「それが、飲まれていないようでまだ……」
「そうですか。では、この人……持病やアレルギーなどはお持ちか分かります?」
淡々と問われて、バトレーはぶんぶんと首を振るった。
「そのようなことあるわけない! 至って健康なお身体であらせられるし、ちゃんと定期的に調べてもいる!」
女性は一瞬目を見開いたが、すぐに頷くと「分かりました」と言ってクロヴィスの首筋に手を滑らせた。
「……ッ、なに……を」
「脈を診てるの。ごめんなさいね」
荒い息で抗議するクロヴィスをやんわりとかわして、女性はクロヴィスの着ていたシャツの胸元をはだけさせるとそっと胸元に耳を寄せ、次いで腹部に手を滑らせた。そうして一度頷いてから立ち上がると二人に待っているよう言って一旦部屋を後にした。
ハァ、とバトレーは息を吐いた。
この部屋――いやこの家、どこかツンと鼻を刺激する嗅ぎ慣れない匂いが広がっている。けれども、不思議と不快感はない。ぐるりと見渡せば木で作られた調度品に畳みばりの光景で異国に迷い込んだ気さえしてくる。いくらこのエリアを支配していようとも、普段は決して触れないものであるから見慣れてはいないのだ。
クロヴィスもそう思っているのかうっすら瞳をあけてぼんやりと天井を眺めていて、バトレーが案ずるような目線を送っていると女性が何やら飲み物を手に部屋へと戻ってきてバトレーはギョッとする。
「な、なんだそれは」
「薬湯です」
「なッ……まさかそれをこの方に飲ませるつもりか!?」
けろりと言い放った女性に対してバトレーは先程同様にくってかかった。得体の知れないものをクロヴィスの身体に入れるわけにはいかないからだ。
「ちゃんとした薬です。私は生薬医で――」
「いかん! それで何かあったら私は――」
「では、あなたが毒味なさいます?」
言い合いを良しとしなかったのか、女性はズイと持っていたバトレーの前に薬湯の入った器を差し出した。う、と一瞬バトレーが口籠もったのを見て女性は再び自分の方へ器を引き戻す。そうして器を口につけ、コクリと少し口に含んで喉を鳴らした。
あ、と息を漏らしたバトレーの方へ目線をやり、女性は薄く微笑む。
「今は苦しそうな彼を少しでも楽にしてやることが先決でしょう? そう案じずとも、この人になにかあれば私の命を差し出しても構いませんから」
よほど自信があるのだろうか。しかし言葉の内容とは裏腹にしっとりとした優しげな口調で言うと女性はクロヴィスの寝る布団の横へ腰を下ろし大丈夫かと問いかけながら彼の上半身をそっと起こした。
「な、にを……」
「お薬。だるさと咳が少しは楽になるだろうから」
荒い呼吸混じりのクロヴィスに彼女が薬湯を差し出せばクロヴィスは露骨に眉を歪めた。
「なんだこのニオイは……ッ、こんなもの――」
「大丈夫、ちょっと苦いかもしれないけど」
「わ、たしを、誰だと思ッ――く!」
ゴホッ、と咳き込んで言葉を紡げなかったクロヴィスは結局は今は少しでも楽になる方を選んだのか渋々と、しかし奪うようにして薬湯の入った器を自分の方へと引き寄せた。そしてゴクリと一度決意したように生唾を飲み込むと覚悟を決めたのか一気に器に口をつけた。
しかし。
「――苦ッ、の、飲めるかこんなもの!」
「これでも大分甘くしたんだけど………」
「病が治る前に私の舌がおかしくなッ――!」
尚も咳き込んで言葉を紡ぐことの出来なかったクロヴィスの背中をさすってやりながら「ワガママね、あなた」と呆れたように女性が呟いたのを見てバトレーは「無礼であろう!」と声を荒げそうになったのをグッと堪えつつ見ていた。
やはりクロヴィスは咳き込む苦痛から解放されたかったのか歯を食いしばりつつ薬湯を一気飲みし、顔を歪めて口元を拭うと再び布団へと突っ伏した。
「少し、眠って? 大分疲れてるみたいだから」
本当に眠気を誘発するように優しく語りかけ、女性が掛け布団をかけてやればクロヴィスは促されるようにして瞼を閉じた。
ふ、と息を吐いて女性はバトレーへと向き直る。
「観光……ですか? ブリタニアの方がゲットーへ来られるなんて」
「あ、いや……まあ」
「今、お茶をお持ちします。私は仕事があるのでお相手できませんが……どうぞごゆるりと」
バトレーが口籠もると彼女はそれ以上追求せず、部屋続きになっているクロヴィスの眠る場所の襖を半分ほど閉めてから緑茶をバトレーに出し、部屋を後にした。バトレーはいつの間にか緊張していた身体から力を抜いて眠るクロヴィスへと情けない声をあげる。
「殿下ぁ……」
そうして深いため息を吐きながら考えた。
今のうちに政庁へ連絡して迎えを来させるべきか――、と。が、そんなことをした暁には目覚めたクロヴィスに恨まれるに決まっている。
しかしながら、先程のあの彼女の様子だとクロヴィスの正体に気づいているとは思えず――そのことだけはバトレーは安堵していた。ブリタニア人ばかりの住む租界ならまだしも、イレヴンの居住区によりにもよって総督であり帝国の第三皇子でもあるクロヴィスがほぼ無防備な状態で乗り込んでいると知れたら命の危険にもなりかねないからだ。だが、それはどうやら杞憂のようだ。
しばらくするとクロヴィスの寝息は穏やかになり、バトレーはホッと息を吐いた。
こうして床に寝る皇子を見やるのも不敬な気がするが、瞼を閉じるクロヴィスの表情はとても穏やかで――やはり最近は忙しすぎたのではないだろうか、と不憫に思う。少しは考えて仕事をさせるよう執務室詰めの連中に文句を言ってやろう、などと思いつつバトレーの瞼もゆっくりと降りてくる。

「……ん……?」

次にバトレーの意識が戻ったのは、急に眩しい光が瞼の外から瞳に入り込んできた時だった。
「お目覚めですか?」
いつの間にかテーブルに突っ伏して眠っていたらしい。顔をあげると、先ほどの女性が顔を覗き込むように黒い前髪を垂らして薄く微笑んでいた。
「ん? 私は……」
「お眠りだったようですね。彼の方はどうでしょうか」
そっと彼女は襖へ手をかけ、開いてからクロヴィスの眠る布団の横へと腰を落とした。
「ん……?」
光が刺激したのか、クロヴィスの口から小さな声が漏れた。そうしてゆっくりと瞳を開けたクロヴィスへも彼女は微笑みかける。
「お目覚め? 気分はどう?」
「なッ――!?」
パチ、と完全に目を開いたクロヴィスは眼前に広がっていた光景によほど驚いたのかガバッと上半身を起こしておののき声を荒げた。
「な、なんだここは……誰だ、お前!」
「お前、って……」
女性は少々眉を歪めたものの、すぐに表情を和らげるとすっと手を伸ばして反対の手で袖裾を押さえながらクロヴィスの額に触れた。
「良かった、もう熱は――」
「何をするッ!」
しかし、その手をクロヴィスはいささか乱暴に払いのけて眉を吊り上げ女性を睨み付けた。
「無礼であろう! 私はクロ――ッ!」
クロヴィス・ラ・ブリタニアである――と続けたかったのだろうか? オロオロしていたバトレーが制止の声をあげる前にクロヴィス自身がハッとしたのかそこで口をつぐんだので事なきを得た。
しかし、二の句を繋げなければ怪しいことこの上ない。再び眉を捻った女性へ向かいクロヴィスは唇を懸命に揺り動かしつつこう言った。
「ク、クロード男爵であるぞ」
お見事です殿下、とバトレーは内心で安堵の息を吐いた。女性の方は一度瞬きをしたあと、ふ、と笑う。
「そう、ブリタニアの貴族なの。どうりでワガママなわけね」
嫌味っぽくではなく、本当に優しげに柔らかく言った彼女にクロヴィスはとっさに言葉を返せない。
「それで、気分はどう? 大分、咳も収まったみたいだけど」
「あ……ああ。悪くはない」
「よかった。……待ってて、薬湯を持ってくるから。それを飲んだらお食事にしましょう」
途端、クロヴィスの表情が苦いものに変わる。徐々に寝る前の記憶が戻ってあの薬の苦みも思い出したのだろう。
そんなクロヴィスに、ふふ、と笑いかけて女性は立ち上がった。それを目で追って、あ、とクロヴィスが息を漏らす。
「おま……いや、君の名は?」
女性は足を止め、振り返って柔らかく笑った。

「――

ゆるくまとめられた彼女の黒髪を目で追ってから、クロヴィスはハァと肩を落とした。
どれくらいの時間を眠っていたのだろうか? 確か、カマクラゲットーを歩いていたはずなのだ。そうしている内に咳き込んで意識が朦朧としてきて彼女――に助けられた。
まさかイレヴンに救助されることになるなどとは、と複雑さも感じつつクロヴィスはの持ってきた薬湯を手にして再び眉間に深い皺を刻んだ。
先ほどの薬とは少々違うものらしいが、苦くて不味いことには変わりないだろう。しかし、効いたのも事実であり意を決して飲み干すと余程不味そうな顔を晒していたのか彼女はくすくすと笑った。
イレヴンは未だにブリタニアを深く憎み、ブリタニア人と見ただけで悪態をつく者も珍しくはないらしいが彼女はどうやらそうではないらしい。しかし、男爵だと名乗ったというのにへつらってくれる気もないようだ。
統治する者とされる者。ナンバーズは従わせなければならない。――それはブリタニアの国是ではあるが、この場でそれを言い出すのは無粋だろう。
「お腹、すいたでしょう? あと20分もしたらご飯炊きあがるから」
「なぜだ?」
「え……?」
「なぜ、見ず知らずの……それもブリタニア人の私にそこまでする?」
器をに返し、ふと疑問を口にすると彼女は意外そうに目を見開いてから薄く笑った。
「目の前で人が倒れてた。それがたまたまあなただっただけで……理由なんて、ないわ」
確か和服と言ったか――イレヴンの伝統衣装に身を包んだ彼女は裾が乱れないように丁寧に立ち上がると夕食の準備に取りかかった。どうやら外はもう既に夜の帳が降りてしまっているらしい。
「殿下……」
「だから、それは止めろと言ったであろう。今の私は……クロード男爵なのだからな」
情けない声で呟いたバトレーに叱咤して、クロヴィスは寝乱れた髪をそっとひと撫でした。
そうこうしているうちに食事に呼ばれ、食卓に並べられた数々の料理を見てクロヴィスは頬を引きつらせた。
「なんだ、これは」
しかも、背の低いテーブルに並べられているということはこの場へ座って食せということだろうか?
「まさか、この私に床に座って食事をしろとでも言う気か?」
「あいにくと家は昔からちゃぶ台派なの。異文化コミュニケーションだとでも思って、諦めて」
の方は少しもクロヴィスに合わせるという気はないらしい。クッションのようなものを並べて早く座るよう促す。
「ほら、座ってクロード。バトレーさんも」
もちろん「男爵」という敬称を付けてくれる気もないらしい。軽くコメカミがヒクついたクロヴィスだが向こうから見れば自分は救助された身、文句も言えやしない。もっとも、当初の目的は少しでもエリア11のことを知ろうと思っていたのだから彼女の言うとおり異文化コミュニケーションだと思えばこの状況も少しは受け入れられるかもしれないと納得してクロヴィスは芝生に腰を下ろす要領でその場に座った。
「食べにくかったら、お箸じゃなくてフォークを使ってね」
イレヴンはナイフやフォークを使わず、二本の棒を使って食事をする習慣があるとはクロヴィスもうすぼんやりと知っていた。しかし当然ブリタニア人であるクロヴィスやバトレーが使えるはずもなく。もそれは気遣ったのか食卓には箸と一緒にフォークも並べられていた。
むぅ、とクロヴィスは唇を尖らせる。
見慣れない器に入った見慣れない料理。どうやって手を付ければいいかもサッパリ分からない。いただきます、と手を合わせてから茶碗を手に取ったは当然ながら箸を使っていて参考にすらならない。
分からないままに、クロヴィスは小鉢に入っていた茶色くて丸い物体を丁寧にフォークで刺すと思い切って口の中へと放り込んだ。
独特のぬめりと、どこか喉に詰まるような感触を覚えて思わずしかめっ面をする。
「なんなんだ、これは」
「里芋の煮付け。身体にいいのよ」
「私の口には合わん」
「ほんと、ワガママね。病気の身体に和食は良いんだから……特にこのカマクラの野菜はね」
手を翻すとは片眉を寄せて呆れたように笑った。そこでクロヴィスはハッとした。カマクラに来た一番の目的はまだ果たし終えていないのだ。
「一つ、尋ねたいことがあるのだが」
「ん……?」
「紅葉というものは、一体どこに生えているのだ?」
え、と箸を止めたにクロヴィスは若干目線を下に流した。
「いや、カマクラの紅葉は今が見頃だと聞き及び……この地へ赴いたのだが、見つける前に倒れてしまいまだ見ていないのだ」
「……紅葉?」
カタ、と箸を置いてはクロヴィスを見据える。
「それは、色々あるけど……外はもう真っ暗だし、あなた租界から来たんでしょう? 残念だけど日を改めないと」
「そ、そんな暇はない!」
ここで政庁に戻ればまた執務室に磔だ、と思い巡らせて思わずクロヴィスは声をあげた。あ、と直後に自省して握った拳から力を抜く。
「その……休日もそう取れず、今日は無理やり出向いてきたようなものだ。ここで帰ってしまえば次はいつになるか」
零してもどうにもなるまいに、無念さを口から漏らせばは唸るようにして思案しつつ、じゃあ、と少しだけ首を傾けた。
「明日ならいいの?」
「……は?」
「明日ならとっておきの場所へ連れていってあげる。患者を泊めるスペースくらいあるし……、あなたが今日中に租界に戻らなくてもいいなら、だけど」
「ちょ……! 何を!」
クロヴィスより先にバトレーが声をあげ、クロヴィスは一瞬ぽかんと惚けていた。
「ク、クロード様をイレヴンの家に泊めるなど、そんなこと――」
「黙れ、バトレー」
響くバトレーの大声が耳に触り、若干眉を寄せて一蹴するとクロヴィスはキュッと唇を結んだ。目の前のの考えが読めない。イレヴンは総じてお人好し傾向にあるとは聞いていたが、本当に親切心のみで言っているのだろうか? それとも単に病人の自分の身体を案じているだけなのか。
どちらにせよここで戻れば今年中に紅葉を見ることは叶うまい。ならば、今の優先は何よりもそれだ。
「では、そうさせていただくとしよう」
言うと、ふふ、とは柔らかい笑みを零した。
「そのかわり、食事を全部食べられたら……ね」
有無を言わせない後付けの交換条件。なッ、とクロヴィスは一瞬息を詰まらせたが渋々承諾した。

無事に夕食も済み、父の浴衣があるから、とはクロヴィスとバトレーにそれぞれ浴衣を貸し与えた。
バトレーを風呂に入れ、クロヴィスは風邪っぴきゆえに身体を拭くだけですぐに寝るよう指示するとは「おやすみなさい」と客人用に寝室を後にした。
ハァ、とクロヴィスはため息をつく。
随分とおかしなことになってしまった、と思いつつもこうして政務から解放された夜は久々で――考える間もなく眠りの中へと落ちていった。










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