「カノン」 宰相府を歩いていたカノン・マルディーニは後ろから柔らかい声に呼び止められて振り返った。するとドレス姿に書類のようなものを抱えたの姿が目に入り、あら、と漏らしつつ軽く礼をする。 「さま……、どうされたんです?」 「皇族の調印が必要とやらで、雑務を頼まれていたんです」 「まあ、殿下に?」 「ええ、兄としてのお願いですか? と訊きましたら、宰相としての頼みだと返されて……断れなくて。調印をするか否かの判断はこちらに委ねるとのことで、私などでいいのか不安でもありますが」 殿下らしい、と笑いながらカノンはの持っていた書類を受け取った。 「殿下は今、謁見中ですものね。本国を留守になさることも多いし、あなたがこうしてお元気でいられたら公でも傍に置いておかれたいのでしょう、信頼しているのだと思いますよ」 公でも、と引っかかる言い方をわざとしたカノンだったがは一瞬反応するのみで軽く受け流し、少しだけ肩を竦めて困ったような表情を作った。 「少し心外ですね。私も兄上に変わり者だと思われているのでしょうか?」 「変わり者は第一条件ではありませんわ、あくまで有能であれば変わり者でも受け入れてくださる……殿下の器の大きいところはそこです」 「あまり、意味が違うようには思えませんけども」 くすくす、と笑い合っていると、ふとはどこか遠い瞳をする。カノンが瞬きをすると、彼女はキュッと胸の前で手を握りしめ、唇を薄く開いた。 「カノン……、兄上は普段はどういう感じなのですか?」 「え……? あの、どう、とは?」 「あ……」 カノンが訊き返すと、はハッとしたように首を振るう。 「いえ、何でもないんです。ただ……その、公務での兄をあまり……存じませんもので」 視線を落とすが何を考えていたのかまではカノンには分からない。しかし彼は慰めるようにして優しく笑いかけた。 「ご存じの通り、殿下は素晴らしい宰相ですよ。でも、皇女殿下……」 「はい」 「殿下の方が私よりもシュナイゼル殿下の近くにいられると思うんです。支えてあげてください、公私ともに」 は否定も肯定もしなかった。ただ辛そうな顔を浮かべて肩を竦め、小さく首を振るってからそっと手渡した書類に手を添えた。 「兄上に渡してください。謁見が済めばまた本国を立たれるようなので……あなたもどうか気を付けて」 「──イエス、ユア・ハイネス」 かしこまって礼をすると、ふ、とはどこか儚い笑みを浮かべてカノンに背を向けた。 カノンもとは反対方向に歩き出す。そうしてゆっくりと歩きながら窓から外を見上げ、小さく呟いた。 「そう、殿下は……哀しいひと──」 その頃──シュナイゼルは謁見の間で皇帝シャルルの側近と話をしていた。 相も変わらず皇帝が玉座を空けていることでシュナイゼルの表情からはいつもの穏やかさが若干薄れている。 「それで? 陛下はどこに行かれているのかな」 「はっ、それが……全てシュナイゼル殿下にお任せする、と」 「困ったね、EUには国境付近に兄上の軍を駐屯させているというのに兄上は幼い天子様を置いて国を空けられない。私が行くにしても中華連邦の時のように陛下の意に添わない結果となりかねないからご意見は伺っておきたかったのに」 広い謁見の間、空いた玉座をひと睨みしてシュナイゼルは踵を返した。 「せめて争いは早期に終わらせたいものだよ。──陛下の直属部隊をお借りしたいと伝えておいて」 短く終わらせて、シュナイゼルは本国出立の準備に取りかかった。 シュナイゼルに任せる──、シャルルの常套文句だが、これは文字通り丸投げであって期待から自分に任せているわけではない。 自分はていのいい雑用係に過ぎない。愛情があるわけでもなく、たまたま優秀だったから宰相という実質政務のトップを預けているだけ。その優秀ささえ愛でてくれることはなく、ただの便利なアイテム程度にしか思われてはいないのだ。 どれほど物覚えがよくとも、学業をトップで修めてみせても、中華連邦という大国を自国のものにしてみせてさえシャルルにとってはどうでもいいこと。 「マリアンヌマリアンヌ、またマリアンヌか……」 このような日でさえまだマリアンヌとの追想の日々にふけって現実逃避をしているであろうシャルルを侮蔑するようにシュナイゼルは呟いた。 それでも、例え便利な道具として見られていても自分を宰相に取り立ててくれているからには能力だけは認められているのだと思いたい。 他に人材がいなかったといえばそれまでになるが──と思いめぐらせて、シュナイゼルの表情が曇った。 黒髪の、マリアンヌによく似た意志の強そうな瞳を宿した弟の姿が脳裏を過ぎったのだ。 マリアンヌの長子、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。幼いながらにどこか突出した才能を感じさせる弟だった。 生きていれば今頃は18歳になるだろうか? もし、生きていれば自分ではなくシャルルの愛息である彼が──と考えてシュナイゼルは人知れず唇を噛みしめた。 『やはり……父上の心内にあるのは、今もマリアンヌ様ただお一人なんだろうね』 『──例え話です。……たった一人の寵姫に溺れる皇帝など愚帝と呼ばれる、と』 ふ、との姿を過ぎらせてシュナイゼルは眉を寄せた。 この思いを、真に理解してくれる誰かがいるのなら、それはやはりなのだろう。しかし、それでも彼女にも分かるまい。皇子として生まれ、才能にも恵まれ人に抜きんでようと密かに努力を続け──皇子と生まれたからには玉座を夢見る。 だというのに能力のみを良いように使われ、決して父親に愛されることはない。 「……ルルーシュ……!」 死んだ弟の影を振り払うように低く唸って、シュナイゼルはグッと拳を握りしめた。 過去、世界の覇権を握ろうと試みた国は数多ある。そして過去、その野望を為した国は一つもない。 侵略戦争ばかり続けてその先には一体ブリタニアは何を求めようとしているのだろう──とはライブラ離宮の書庫で端末を弄りながらEU軍と激突するシュナイゼル率いる自軍のニュースを目に留め、ため息を吐いていた。 その一方でモニターにあるマニュアルを出して読み進める。ブリタニアの誇る人型兵器だ。 「ナイトメアフレーム……、確かにユーフェミアにも操作できるくらい易しそう。だけど」 果たしてこれを自分などが操作する日が来るのだろうか──といつかコーネリアに言われた言葉を思い出して、の顔が曇った。 あのバラ園で交わしたキス──、コーネリアに見咎められたかもしれない、というのも恐ろしかったがそれ以上に自分を恐れた。一瞬でも心地良いと感じてしまった自分を。 既に癒えて傷跡も残っていない人差し指を見るたび、全身に甘くて苦い痺れが走る。あの血──互いに分け合った兄と妹だというのに。 どこか哀しげで、いつも優しいシュナイゼル。その裏に酷く冷酷なものを持っていると知るのは自分だけなのかもしれないが、でも、あの優しさも否定はできない。 強すぎるほどの愛を、彼がくれているのも──否定、できない。 「兄上……」 程なくして自室に戻り、はいつものようにベッドサイドの棚に入れてある薬を口にした。そして喉に通す屈辱──、この瞬間だけはシュナイゼルへの憎しみは間違いなく自分の中に存在していると強烈に教えられる。 眉を歪めて、は唇に手をあてた。 あのキスを心地よく思ったのはきっと午後の緩やかな日差しのせいだ。あたたかくて眩しくて、目眩を起こしそうになっただけなのだと懸命に自分に言い聞かせる。 初めてキスされた時、嘘だと思った。まるで恋人のように手を絡められて、キスされて、愛していると言われた。それから優しくされて、彼のことが分からなくなった。 母の愛した父に似た人。冷徹さの裏に優しさも持った人。どこか冷めているようで、何かに激しく執着している人。 人形のように無になれればいいと願った思いは虚しく、心はどれほど望んでも殺せはしない。シュナイゼルが兄でさえなければ──、そうしたら、と思ったこともある。 それでも、やはり彼を許す気には到底なれない。 もういっそこの出兵で戦死してくれたら──そしたら、みなと一緒に兄の死を悲しむ妹くらいは演じられるのだろうか? 浮かんだ考えにふるふると首を震って、はそっと眉を寄せた。 エル・アラメイン──歴史上何度も激戦地となった悲劇の地ではあるが、この時代においても例に漏れずかの地は今、EU軍とブリタニア軍のぶつかり合う最前線となっていた。 「戦いは全て陛下ご自慢の直属部隊に任せるとしよう」 「それでよろしいので?」 「彼らは戦いのプロなんだ、私よりも前線の戦い方は熟知している。ここは信頼しようじゃないか。それに……戦術ばかりを披露するのは無能な指揮官だと私は思うけどね」 「では、有能な指揮官とは……?」 アヴァロンのブリッジで専用の椅子に座り、シュナイゼルは語りかけてくるカノンに意味深な笑みを向けた。 この場の制空権を奪うのは戦術ではない。ナイトメアパイロットの力量だ。そしてそれを裏方で支えるのは充実した物資。つまり重要なのは補給線だ。既に中華連邦・中東と手に入れたブリタニアにとってここエル・アラメインは最高の条件で戦える場所でもあった。 いかに充実した物資を絶やさず、かつ迅速に前線に送り届けるかが勝敗の鍵を握る──、シュナイゼルはブリタニア切っての精鋭部隊に有り余る程の物量差で畳みかけ、一気に戦局を好転させた。 「やれやれ、あとは地中海からギリシャ州の国境付近に3個師団を配置させて様子をみようか」 エル・アラメインを突破して地中海への制海権を得、シュナイゼルはアヴァロンのブリッジで小さなため息を吐いていた。ため息の理由は一つ。取りあえずの報告を本国にあげ、シャルルの指示を仰ごうとしたら「任せると言ったはずだ」と一蹴されてしまったからである。 「みんなが命がけで苦しんでいるというのに……困ったね、陛下にも」 あくまで心底不満に思っていることは隠し、軽口に乗せてからシュナイゼルはブリッジの席を立った。その後ろをついてきたカノンがシュナイゼルに声をかける。 「殿下、少しよろしいですか?」 「ん……?」 「戦闘に区切りがついてからお話しようと思っていたことです。クロヴィス殿下の暗殺についての──」 ピク、とシュナイゼルの眉が反応し、そのまま無言でシュナイゼルはカノンを私室へと招き入れた。 クロヴィスの死──、皇族に暗殺はつきものだ。まして何かと諍いの耐えないエリアを統率する総督は常に身の危険が付きまとう。 それでも、シュナイゼルには引っかかるものがあった。 エリア11──、クロヴィスの死んだ地は、かつてルルーシュとナナリーが死んだ場所でもある。むろん、ただの偶然なのだろうが、それでもシュナイゼルはクロヴィスの死について独自に調査させていたのだ。 「それで?」 「残念ながらクロヴィス殿下の暗殺犯を突き止めるには至らなかったのですが。イレヴン──旧日本人とブリタニア人、あのエリア11に住む全ての人間を洗っていて気になる名前が弾き出されたとの報告があがってきたんです」 「やけにもったいぶるね、結論は?」 ソファの肘置きに手を置いて優雅に頬杖をつくシュナイゼルの表情は次のカノンの言葉に凍った。 「ルルーシュ・ランペルージ、及びナナリー・ランペルージ……と」 ただの偶然かもしれませんが、と続けるカノンの言葉は既に脳には入らず、シュナイゼルは瞬時に真っ白となってしまった頭の隅で何とか考えを巡らせる。 ランペルージ──、それは、マリアンヌの旧姓でもある。とすると、ただの偶然で片づけるのは無理があるだろう。 エリア11には没落した貴族が複数出向していた。すれば、戦争の混乱に紛れ密かにルルーシュ達を助け、表向きは死亡として扱ったと考えても合点はいく。 いやしかし──と考えてシュナイゼルは目線を鋭くした。 「カノン」 「はっ……」 「帰国を急ぐとしよう。それから……少し、一人にしてくれ」 カノンに目を合わせず言った言葉に、カノンが眉を寄せたとも知らずシュナイゼルは手で顎を支えて思考の海に沈んだ。 「イエス──ユア・ハイネス」 どこか哀しそうなカノンの声も、今はシュナイゼルの耳に届くことはなかった。 |