『皇籍の返上だけはできません』

シュナイゼルは皇宮の執務室で、ふと先日に言われた言葉を思い返していた。
彼女は自分の一番大切なものは皇女の地位だと言ったのだ。しかし、あのように離宮に引き籠もっているというのに華やかなプリンセスという立場に執心しているようには思えないし、何不自由ない生活を手放したくないというのなら無用な心配だ。彼女の母は他の妃同様、有力な貴族の出。例え臣下に下ってもせいぜい「皇女様」が「お嬢様」に変わる程度で生活に支障はないだろう。
彼女が次期皇帝の座を狙っている──ともやはり思えない。彼女が皇帝になるにはそれこそ血で血を洗う凄惨な闘争を自ら仕掛け、勝ち取らねばならないのだ。今の彼女を見るに、それはあまりに無謀すぎる。
ならば、やはり原因は后妃である母親か──とシュナイゼルは思った。
父である皇帝の寵姫だったマリアンヌ后妃が嫁いできてから、寝たきり状態となってしまったの母。

『陛下……? まあ、来てくださいましたの……?』

先日、自分と在りし日の皇帝を見間違えた后妃──、彼女が身体脆弱を理由に「実家に下がってはどうか」と多方面から言われているのは知っている。しかし、頑なにこの皇宮に残り続けているのは何も后妃という地位だけにしがみついているわけではないのだろう。
いつかまた、父の愛情を取り戻す日を夢見ているにちがいない──と考えるシュナイゼルの青い瞳がふと暗く曇った。

父である皇帝、シャルル・ジ・ブリタニアの感心はいつもとある一家にしか向いていなかった。
最愛の后妃であったマリアンヌ・ヴィ・ブリタニアと、そしてその──、と暗い瞳の奥で追想したシュナイゼルはハッとして小さく首を振るう。

このことを考える際にいつも、ル家のこと──のことが過ぎるのは、数多の兄妹の中で唯一自身の心の底と思いを同じくしてくれるという思い込みからだろうか?
理解者が欲しいと願ったことなど一度もないというのに。
それに、に覚えた感情は理解などという崇高なものではない。穏やかな水面を乱暴に叩き乱したいという、破壊願望にも似た下劣な情だ。欲したものは奪う。それはブリタニアの国是であるし、弱きものが強きものに蹂躙されるというこの国のやり方はもよく理解しているだろう。
だからこそ彼女の母は皇女を生んだという強みを活かして后妃であり続け、彼女はそれを守るために自分の手を取った。それはこの国の仕組み通り、彼女が弱かった結果に他ならない。
そうだ、何も特別な感情などありはしない。
あの水面のような透明さを、ただ汚したいという、誰しも持っている欲望が沸いただけなのだ。それだけのこと──とシュナイゼルは薄く笑った。


離宮から出るのはいつ以来だろうか──、とは離宮のテラスから庭園を眺めていた。
病弱を理由にこの宮に押し込められていた幼少の頃は、外の世界に憧れてもいた。そっと抜け出して、すぐに警備のものに連れ戻されたことも2、3度はある。しかし、時と共に外の世界はただ恐ろしいものになってしまった。この身体では闘争の中に身を投じることもできず、母の病が進行した原因を知ってからは尚更──、とは自身の銀に近い金髪を夜風に踊らせた。
今日は金曜──約束の日だ。
気が晴れるわけもなく、ここ数日は食事もまともに喉を通らず目眩やふらつきはいつもより増えている。いっそ本当に倒れてしまえば兄は許してくれるだろうか──、と考えては目を伏せた。
逃げる、という選択肢は最初からなかった。どこにも逃げ場はない。例え父である皇帝に兄の要求を取り下げてくれとぶつけてもどうにかなるとは思えない。それこそ、時の人である宰相閣下の顔に泥を塗りかねないのだ。そんな真似、できるわけがない。兄が──シュナイゼルがどんな思惑であれ、今の自分はシュナイゼルの意志に背くことは許されないただの人形に過ぎないのだ。
ならばいっそ、感情も人形のように無になれれば楽だろうか──とは母の寝室の方へと一度振り返って哀しげに微笑むと、キュッと唇を結んで離宮の外へと出た。
この宮付きの警備の者たちを言いくるめるくらいはでも容易だが、夜分に皇宮を歩き回るのはそうもいかない。しかしそこは流石に宰相らしくシュナイゼルも承知済みで、あらかじめ人目に付かない皇族用のプライベートルートの中のもっとも人通りのないルートをは聞いていた。
うっすら夕闇に染まる外の世界は、星明かりのみに照らされている。
月は、まだ出ていない。
この時間に月が見えないということは、今宵の月は既に下弦へと欠けた月なのだろう。満月より浸蝕された下弦の──と思い浮かべたの背をゾクッ、と震えが走り、は濡れる瞳を擦りながら皇宮への道を歩いていた。
向かう先は宰相府。遠くで物音のするたび、は恐怖におののきながら近くの壁や柱へ身を隠し息を殺した。例え見咎められたとしても、みなが皇女である自分を容易く通してくれるだろうことは分かっている。しかし、このような夜も更けてきた時分に兄の部屋へ通う姿など、見られるわけにはいかない。
情けなさから消えてしまいそうだった。
この国の第三皇女として生まれ、これ以上は望むべくもない身分をこの身に受けているというのに、こんな人目を気にするような行動をしている自分が滑稽で仕方ない。
自分は何かシュナイゼルに恨まれるようなことでもしたのだろうか?
それとも、自分を廃嫡しようというのは国の意志で、シュナイゼルは助けてくれただけなのか?
極度の緊張で過呼吸気味の胸を押さえ、答えのでない問いをグルグルと繰り返して迷路のような皇宮を進み続けたは、自身の浮かべていたルート通り、目的の部屋の前へと辿り着いた。
ノックは三回。
返事を待たずに開けて良いと言われている。
だが、このドアに手をかければもう後戻りはできないのだ。上下する胸で震える手を懸命に押そうとするが力が入らない。けれども弱さを押し殺して無理やりに押し開ける。
「やあ、。よく来たね」
シュナイゼルは部屋の奥のソファでガウンを羽織り分厚い本に目を落としていたが、目線をあげての姿を目に留めると本を閉じ、ソファに置いて立ち上がった。瞬間、半歩後ずさったの目に、シュナイゼルの部屋の光景などは一切見えてはいない。今すぐに踵を返したい気持ちを抑えて立っているのがやっとの状態だ。対してシュナイゼルは優美な笑みと常と変わらぬ穏やかな口調を崩さない。
「どうやら道には迷わなかったようだね」
「あ……、はい」
が小さく頷くとシュナイゼルは感心したように「物覚えがいいね」と軽く声をたてて笑った。そんなシュナイゼルの真意が分からず、は緊張したままに唇を開く。
「兄上……私は、いったい何を──」
「チェスの相手を頼むために呼び出したように見えるかい?」
しかしシュナイゼルに言葉を遮られたの身体は傍目にも分かるほどにびくりと撓った。ふ、とシュナイゼルは笑みを深くしたがシュナイゼルの言葉に絶望に近いものを感じ取ったは動くことさえ叶わず近付いてくるシュナイゼルをただただ怯えたように見ているしかできない。
「さ、おいで」
がハッとした時にはシュナイゼルの手が腰に回さされており、強引に引き寄せられる形で部屋の奥へと歩かされる形となった。長身のシュナイゼルに力ずくで誘導されて抗う術はにはない。いや、例え抗えたとしても皇籍剥奪という銃口を突きつけられているにとってシュナイゼルを振り切るという選択肢はないのだ。せいぜい目を瞑って今の現実から逃避するくらいしか出来ることはない。
キィ、とドアを押す音が響いてから数秒後にはシュナイゼルの手から解放され恐る恐る瞳を開いた。シュナイゼルが自身をどこに連れて行こうとしていたのかある程度の予測ができていたは眼前に広がっていた光景を確認して一瞬の驚愕を瞳に浮かべたあと、諦め混じりの涙を目尻に浮かべた。
「ここに人を……女性を入れたのは君が初めてだよ、
シュナイゼルの声色はあくまで穏やかで優しい。ここがシュナイゼルのベッドルームでなければ、にもまだ彼を兄と慕う心が残っていただろう。しかし今のにはそのような感情は微塵も沸いてこなかった。
「あ、兄上……どうして──」
もはや何をするのか? とはは訊かなかった。なぜ、という疑問だけをぶつけたが最後まで言葉を紡ぐことは叶わず立ち眩みのような浮遊感の次には自身の背に柔らかな感触を受けていた。
「理由がそんなに必要かな?」
反転したの視界を覆ったシュナイゼルの表情は、この薄暗いベッドルームに紛れてさえ歪んでいるように感じられた。
皇女と生まれたとて、何も童話の中の姫のようにいつか現れる王子を待ち望んでいたわけではない。いつかは有力な貴族のもとに政略という名の望まない輿入れをせねばならない身だということもは重々理解していた。ロマンチシズムな戯曲のように情熱的な恋愛の果て愛する者と結ばれたいなど生まれてこの方一度も思ったことはない。しかし──、こんな形で実の兄に──、と見下ろされる視線に耐えかねて顔を横に倒した瞬間、シュナイゼルの両手が自身の肩にかかった。
目を見開く暇もなくそのままドレスのショルダー部分を降ろされ、首筋にシュナイゼルの唇が触れた刹那──の背には得も知れぬ嫌悪感がぞくりと走った。
「いや……ッ!」
生暖かい舌先が自身の肌を滑る感触に戦慄し、ここへ来るまでの覚悟などあっさり崩れ去ったは本能からシュナイゼルを拒絶した。しかしシュナイゼルは意に介した様子はない。自身の下でこれほど華奢ながいくらもがこうが大した意味はないと理解しているからだろう。
「あにうえッ──!」
が、がシュナイゼルの肩口を掴んで抗議した時、シュナイゼルはゆるりと顔をあげて酷く冷めた目でを見下ろした。
「君の今の行動は契約違反じゃないのかな?」
「あ……で、でも、私……」
「困ったね、手荒な真似はしたくなかったというのに」
口調はあくまで柔らかいシュナイゼルが心中で何を思ったかとうていには理解できるはずもなかった。いや、次にシュナイゼルのとった行動は理解などという生やさしいものではなく、は悲鳴をあげようとしたものの悲鳴さえままならずに引きつったような声にならない声が喉から漏れ出た。
あろうことかシュナイゼルはサイドに置いてあった布での両手首を頭の上で縛り上げたのだ。あらかじめが暴れたらこうするべく用意していたものだろう。
「つッ──、なにを、兄さま……!」
縛られた痛みに顔を歪めながらも愕然としてシュナイゼルを見上げるだが、自身の抗議がいかに無意味かをより深く理解するだけに終わることとなった。
「ここでどれだけ声をあげても外に漏れはしないだろうけど、万に一つも誰かが駆け込んで来たら困るのは君の方じゃないのかな?」
さもを気遣っているような口調ではあったがシュナイゼルとしてはこの先いつまでも抗議や悲鳴を叫ばれては鬱陶しかったのだろう。もう一つの布で猿ぐつわのごとくの口を覆って縛り、声の自由さえ奪ってしまったのだ。当然は首を振り抵抗を試みたが、両手を縛られた状態ではみっともなく身体を揺り動かすだけに終始し、まるで意味を為さない。
「ん、ん──ッ!」
かすかにの口の端から漏れる声はもはや言葉を形取れず、絶望の色さえ浮かべたの瞳に映ったのはどこか不敵に笑うシュナイゼルの姿だけだった。
お兄さま──、とは心内で強く兄を呼んだ。これ以上視覚にシュナイゼルの姿を留めたくなく瞳を閉じると、胸元にさらりとした細い髪の感触が触れた。シュナイゼルの髪だろう。再び行為を開始したシュナイゼルの感覚にぞわっとの肌が粟立つ。意味はないと分かってはいても縛られた手首をもがき動かして、唇からは言葉にならない間抜けな声を漏れさせながらは思った。助けて──、と訴えているというのに、助けて欲しい白馬の王子など自分の頭にはぼんやりとさえ浮かんでこない、と。ここでこんな辱めを甘んじて受けているのは、母のためだ。母のため。母が愛する父の傍にいられるためだ──と考えるの脳裏に、いま眼前にいるシュナイゼルではない、いつもどこか憂うような表情を浮かべていたシュナイゼルの姿が過ぎった。母がよく、シュナイゼルは父の若い頃に面差しがよく似ていると言っていた。映像でシュナイゼルの姿をみるたび母の愛した父とはこういう人だったのだろうか──と思ったものだ、となぜかそんなことを過ぎらせた自分にはひどく絶望した。瞳を閉じて目の前の現実から逃避してさえシュナイゼルに支配されているようで、逃げ場がどこにも見つからない。
「あっ、ぅ……」
太股を滑っていたシュナイゼルの指が付け根にさしかかり、ビクッとの身体が悲鳴をあげた。反射的に瞳を開くと、シュナイゼルは唇から赤い舌をかすかに覗かせて自身の人差し指をぺろりと舐めあげていた。それにどんな意味があったかはにはすぐ理解できなかったが、その生々しい妖艶さに恐怖にも似た戦慄が走ったことは事実だ。
既に着ていたドレスは剥がされ、手と口の自由を奪われているの秘所にシュナイゼルはいま湿らせた人差し指を性急にあてがった。彼のそんな行動を予想だにしていなかったは愕然と瞳孔を開いたがシュナイゼルは冷笑さえ浮かべており、の目尻には無意識のうちに涙が滲んで顔を横倒しにして歯を食いしばる替わりにあてがわれた布を思い切り噛んだ。
「んっ! んぅ……」
必死に何も考えないよう努めてみても、感覚がそれを許さない。今は痛みよりも恐怖が勝り、内部に侵入したシュナイゼルの長い指の感触だけがリアルに感じられて圧迫感から息が詰まる。
「にぃ……さま……」
言葉にならない声でシュナイゼルに抗いながら、今このようなことをしている相手が兄だということをは改めて感じた。いずれはどこかへ嫁ぐ身としてある程度の教育は受けてきた身だからこそ、このあとに自分に起こるだろうことがある程度は想像できる。それが正しければこのままだと自分の身体は兄のものとなるのだろう。──そんな恐ろしいことを、眼前の兄はどう感じているのだろう? 妹である自分に──、と考えるだったが、一方で兄とはどのような人物か分かりかねている自分にも気づいていた。兄とは名ばかりで、身近に接したことなどなかったし、兄という事実があるだけで見知らぬ男性に等しい。いや、事実見知らぬ男だ。自分の知っているシュナイゼルは帝国の宰相で兄弟の中で誰よりも抜きんでた才能に溢れ、物憂げで、父に似て──と瞳を閉じても浮かぶ虚像のシュナイゼルにの瞳からは大粒の涙が溢れ始めた。
外から見えていたシュナイゼルの姿は全て偽りだったのだろうか? 今、自分を冷たく犯そうとしているシュナイゼルの姿こそ本物なのか? 分からない、もう何も考えずシュナイゼルが満足し終えるまで待てばいい──と内部を翻弄する兄の指にも慣れてきたころ、ふいに体内から異物感が消え、替わりに指よりも大きなものが入り口にあてがわれて流石には青ざめた。
自分の覚悟がいかに脆いものか実感するのは今日何度目になるだろう。それの正体が兄自身だと悟っては身をよじった。防衛本能からだろうか、力の限り足を閉じようと試みるがシュナイゼルの身体に阻まれて上手くいかない。拘束された痛みをもろともせず激しく振り下ろしてもがくが、シュナイゼルまで届かない。
「そんなに暴れて力んでも、より辛いのは君の方だよ?」
しかし逆らわれたのがいささか不快だったのか、シュナイゼルは突き放すような一言を告げたのちおもむろにの腰を掴んだ。
「んんッ、んーッ!」
やめて、いや、いや──! 口の端から漏れる音は拒絶の言葉さえ紡がせてはくれなかったが、それでもは出来うる限り抗った。しかし身体の自由を奪われた上でシュナイゼルの力に抗えるはずもなく、彼の言葉通り想像以上の痛みが脳を焼けるほどに覆った。
「ッ──!?」
ピン、と両足が緊張して張りつめる。まるで労りなど感じられない、否、わざと酷くしているのかと思えるほど非情にシュナイゼルは力任せにの中に押し入ったのだ。もはや痛いなどという温い感覚はの中に生まれなかった。息が詰まり、得体の知れない何かに圧迫されているようで呼吸が上手くできない。歯を食いしばることさえ叶わず、開いた唇からはだらしなく唾液が布へと染みだしている。
喉が引きつって苦しくて、これ以上ないほど瞠目した先には酷く表情を歪めているシュナイゼルがいた。
「さすがに、キツいな。……だが」
情欲と征服欲に支配されたような顔。シュナイゼルに、自分の兄にそんな表情で見下ろされていることに耐えきれずは懸命に瞳を閉じた。
「これで君は、私の──」
シュナイゼルの呟きなどには届いていなかった。律動を開始したシュナイゼルが打ち付けてくる痛みに耐えかねて手首を揺するも、縛られた箇所が余計に食い込んで意味を為さない。
「んッ、ん、ん、ん──!」
得も言われぬ感覚に何かに縋りたい衝動にかられるが、力を逃がしてやる場所さえない。枕を握りしめることも、シーツを掴んで耐えることもできずにシュナイゼルの好きなように翻弄されるしかない自分がは情けなくて仕方がなかった。
皇女として生まれ、これ以上ない高貴な身分を与えられているというのになぜこのような辱めを受けねばならないのか。いっそこのまま消えてしまいたいと願っても内部を行き来するシュナイゼルの存在がいやでも現実を忘れさせてくれない。せめてシュナイゼルの下で髪を振り乱してのたうち回る今の自分が彼にどんな風に映っているのか、どのように見られているのかだけでも確認したくなくては必死で瞳を瞑り続けた。耳にシュナイゼルの息があがってきているのが届くが、その音さえ掻き消すように強く首を振る。拭う術もない涙がみっともなく頬に流れ続け、口周りの布は唾液でぐっしょり濡れてしまっていたが、気にする余裕さえないほど必死に瞳を閉じたまま抵抗し続けた。
シュナイゼルに揺さぶられる感覚が速まり、自分の中で彼の質量が増したのを感じ取ってはより一層ギュッと瞳を瞑った。
今更、驚くことはない。何をされるかなどよりも、襲う倒錯感に耐えきれずに閉じた瞳から更なる涙を流しながら、誰ともなく許しを請うた。
しばらくしてシュナイゼルの動きがとまり、ふ、と上から息を漏らす音が聞こえたかと思うとを圧迫するような重みが襲い、頬にくすぐったいような髪の感触がかかって恐る恐る瞳をあげるとぐったりしたように覆い被さっているシュナイゼルがいた。
「っ、は……」
息を整えているシュナイゼルを間近で感じても放心状態が抜けず、とっさに感情がついてこなくて何の感傷も沸かなかっただが、次に顔を上げたシュナイゼルが発した言葉でこれ以上ないほど意識を現実に引き戻された。
「……一人で、戻れるかい? 
少し掠れたようなシュナイゼルの声。まだこちらは息も整っていない状態だというのに、しかもまだ繋がった状態で暗に帰れと言われるとはは想像もしていなかった。開いた瞳孔の端から屈辱の涙が滲むも、シュナイゼルは気にも留めないというように優雅にの口を拘束していた布を解いた。同時にから自身を引き抜き、自由になったの唇からは鼻にかかったような声が漏れる。
「ぁ、ん……っ」
シュナイゼルは含み笑いを漏らしながらの両手を拘束していた布も解いて言った。
「それとも、誰か人を呼ぼうか」
「……ッ、一人で、帰れます」
自由になった手では涙を拭い、まだ残る痛みに耐えながら上半身を起こすとベッドに散乱していた自身の服を拾い集めて手早く身に纏う。
「──
一刻も早くこの場から立ち去りたくてベッドから降りようとすると後ろからシュナイゼルに呼び止められ、はびくっと身体を撓らせた。
「……はい」
「次の金曜も待っているよ」
シュナイゼルはいつも通りの穏やかな口調で笑っていて、愕然と振り返ったは直後に襲った絶望感で震えながらその場に数秒立ちつくしたものの、キュッと瞳を食いしばると返事をせずに再びシュナイゼルに背を向けた。
寝室を出て広いシュナイゼルの私室を抜け、恐る恐る宰相府の廊下を抜けて外へと出る。
「っ……」
足を引きずるようにして歩いていたは、息を乱しながら皇宮の柱にもたれ掛かった。警備の者に見つからないか、今は気にかけるのも煩わしかった。こんなぐちゃぐちゃのドレスで、髪も乱して、こんな第三皇女の姿を見たら臣達はなんと思うだろう? まさか兄の手にかかったなどとは想像もすまい──と涙を拭いながら身体を引っ張って再び外へと歩き出す。
シュナイゼルの部屋へ向かう時には昇っていなかった月が東の空に輝いていて、はむせ返るように咳き込んでその場にへたり込んだ。
あまり体力のない身だというのに無理がたたったのだろう。自身の身体を抱きしめるの腕は震えていた。
ゆるりと夜風が過ぎ、ツンと鼻に薫り高い匂いが届いては小さく息を漏らした。
「あ……」
見ると行きがけには気づかなかった見事なバラ。月明かりに照らされて白く浮かび上がっているバラの花が瞳に映っては思わず口元を押さえた。
思い出したのだ、先程寝室に漂っていた鉄の錆びたような匂い。あの匂いは自身の赤く染まる──と考えて、えずきながら月明かりに照らされた手首を見れば、拘束されていた証がうっすら色づいていてはかぶりをふった。
なぜこんなことを。なぜ──、と全力でシュナイゼルへの疑問を訴えながらも、もうシュナイゼルから逃げられない絶望に身を委ねはしばしその場に留まって地を濡らし続けた。

空に浮かぶ下弦の月──、その光景をシュナイゼルも自室のベランダから眺めていた。
今頃、この月明かりの元では泣いているのだろうか? あの銀と見まごうような見事なプラチナブロンドを揺らして、と考えるシュナイゼルの脳裏に先程自分に組み敷かれて腕の中で跳ねていたの姿が蘇った。穏やかな水面が乱れるように揺れていたあの髪。思い出すだけで倒錯した快感がぞくりと背を走る。
女を、あれほど乱暴に抱いたのは初めてのことだ。帝国の第二皇子であり宰相であるという仮面をつけている普段の自分は、そのイメージを壊すようなことはしない。特定の女性を作ることは避けていたし、兄であるオデュッセウスが呆れる程度に不特定多数を相手に優しく紳士な宰相閣下を演じてきた。だが、その気遣いを一切排除して奪うように彼女を抱いたのは、きっとそうせずにはいられなかったからだ。
こんな思いを抱くようになったのはもう昔──、十年以上は前になるだろうか。あの夜も今夜のように下弦の月が輝く夜だった、とシュナイゼルは追想の映像を夜空に重ねる。
皇宮内での勉学に飽きたらず学校に通い始めてからというもの、第二皇子は優秀だと周りにもてはやされ、自分でもそれに喜びと誇りを感じていた。しかし父である皇帝は自分がどんな好成績の報告をしても一切興味を示さず、生まれたばかりの第十一皇子につきっきり。あの夜もそうだ、自身の話に耳もかさずに最近第十一皇子が言葉数増えてきたとそればかりで、今にして思えば子供じみているが不満から眠れずに庭園を散策していると、泉のほとりに佇んでいる一人の少女を見かけた。
周囲を彩る白いバラが月明かりに照らされて美しく、風に乗ってバラの匂いを纏う妖精のようにさえ思えた。夜の水面のように揺れるプラチナ・ブロンド──見惚れると同時にそれを汚したいという形容できない想いを抱えていると近付いてきたのは足音。

『姫さま……! こんな時分に出歩かれて。弱いお身体でいられるのに』
『ごめんなさい、昼は太陽が眩しくて。でも、外に出てみたかったの』

自分を捜しにきたのかと勘違いしたが、足音の主は少女を抱き上げて去っていってしまった。
姫さま──と呼ばれていた少女。あの髪の色、儚げな雰囲気。二番目の異母妹である・ル・ブリタニアであることはそれで理解したが、少なくともしばし見とれていた間、少女に対する気持ちに妹という意識はなかった。
そのままそっと彼女がいた場所へ歩み寄り、バラを一輪手折って、口付けた。そうして泉にバラを浮かべてできた波紋を見つめながら想いを馳せた──今度は妹としてのに。第十一皇子の母であるマリアンヌが嫁いできてから病の床に伏し、離宮へと隔離されてしまったの母と
君も、私と同じだろう? 父に顧みられず、あの第十一皇子親子のせいでないがしろにされている。そうだろう? いや、きっと同じだろう、と。
「そうだろう……? 
追想を終えながら、シュナイゼルはそっと呟いた。
いつか、こんな日が来るような気はしていた。クロヴィスの描いたの成長した姿を見て決意したのはおそらくただのきっかけだ。勝手なシンパシーの押しつけだったのかもしれない。が、それでも彼女を手に入れたかった。
そう、これはブリタニアの国是だ。
無理やりに奪って彼女に自分を刻みつけるにはこの方法しかなかったのだ──とシュナイゼルは情事に乱れた髪を掻き上げながら薄く笑った。










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