Revive the sky - 空へ -





『あーあ……俺はもう、みんなとあの空には行けないのか……』


見上げた空が真っ青で――あまりに真っ青で、ひどく空虚なものに見えた。



突然、トッキュー除隊勧告を突きつけられたのはもう三年以上も前のことだ。
あまりに突然で、そして心のどこかで予測していた。研修の間、同期の仲間や教官に迷惑をかけたことも多く、「嫌だ」と抗うより先に「やっぱり」と脳が納得してしまった。
いや、抗っても無駄だと理解していたのだ。上の正式決定にどう抗おうが足掻こうが一度決まったことが覆らないということを理解できないほど子供でもなかったし、理性を感情で凌駕するにはいささか歳を重ねすぎていた。

そもそも、自分は一体なんのために生きてきたのだろう――と誰しも一度は思う哲学の罠にはまっても、星野基は胸を張ってこう答えることが出来た。
目標は真田甚だ、と。
少しばかり疑問と回答がイコールで結ばれていないという矛盾は気にもならなかった。哲学とは、そういうものだ。
真田甚、とは地元の先輩で、でも一度も会ったことはなくて。子供の頃から身近で聞かされていた数々の文武両道誉れ高い伝説に心酔し、憧れのような思いを一方的に抱いていたのかもしれない。
そんなヒーローを追って彼の進んだ海上保安大学校へと進学し、海上保安官となる道を選んだことに何の疑問も持たなかった。そして彼と同じ潜水士となり、彼の所属するトッキューへと転属になった。
そこで初めて、憧れという虚像の世界でしか存在していなかった真田甚という確かに現実に存在している人物と会ったのだ。
同じ空間に、すぐ手の届く場所に目標としていた人がいる。急にリアルになった世界に戸惑いを隠せなかった事がトッキュー除隊の引き金になったのか否かは今も分からない。
ただ、真田のいるトッキューに自分は要らないと言われて、今までまっすぐに目指していた道は突然に行き止まりとなってしまった。でも、絶望している間もなくすぐに真田本人に「救急救命士の資格を取れ」と促されてまた目の前に道は繋がれた。
そのことに――何の疑問も抱いてはいない。

あのとき見上げた空の空虚さも、呟いた言葉の意味も――すべて曖昧のまま、言われるままに救急救命士を志して三年。無事に国家試験をパスした星野は、トッキューに来る前にそうだったように今も横浜海上保安部の巡視船"おず"に乗っていた。

救命士となって最初の年が明け、星野が今もっとも気になっているのは春先の異動や昇進の具合だ。
次に昇格したら「潜水班長、やってみるか?」などとも言われており、実現すれば肩書きたるや"主任航海士兼潜水班長兼救急救命士"という名乗るのも一苦労なものとなる。想像するだけで「ひょっとして俺、忙殺される?」なんて僅かばかり青ざめもしたけれど、「何でも屋」「雑用係」「器用貧乏」等々比喩される海上保安官にあってはまあ普通のことだ。
けれどもせっかく取得した救命士の資格を海保の中でもっとも活かせる場といえば、やはり――と考えていた所で不意に声をかけられた星野はハッと顔をあげた。
「なにボーっとしとんじゃ! ほれ、もうちぃとで出来るぞ」
「星野ー、グラスどこだっけー?」
眼前ではホットプレートの上でまるで売り物のように立派な広島風お好み焼きが湯気をあげている。
今日は洋上勤務明けで久々の非番の前日という心躍る夜だった。明日は同じく非番と待機だというトッキュー研修時代の"ヒヨコ"同期である大羽廣隆と佐藤貴充を呑みに誘えば「久々に星野の部屋に集まろうぜ!」「ええのぅ、ワシがお好み焼き作ってやるけぇ!」などと盛り上がり、今に至っている。
ヒヨコ時代、星野の部屋は何故かたまり場となり毎日のように皆で夕食を作り合っては食べ、勉強し、共にがむしゃらに歩んでいたことは同期達にとっては忘れられない大切な思い出だろう。もちろん星野にとってもそうで、トッキュー除隊後も変わらない友情を持って接してくれる彼らと共にこのような時間を過ごすのことはもっとも楽しい時間の一つだった。
大羽がお好み焼きをある程度焼き上げた所で互いにビールをグラスに注ぎ合い、乾杯をする。
グラスに口を付ける直前、ふと思い立った星野は持ち前の柔和な笑みを浮かべて「そう言えば」とグラスを大羽の方にもう一度掲げた。
「ヒロの合格祝いってやってなかったよね。ついでっぽくなって悪いけど、おめでとう!」
すると、大羽は切れ長の瞳をきょとんとさせてから少し照れたように「おう」と生返事をした。――なにが「めでたい」のかと言うと、大羽は海保における「士官教育課程」「昇進試験」と言っても過言ではない海上保安大学校の特修科へ入るための試験に無事パスして四月から呉のキャンパスに通うことが数日前に決まったからである。
じゃけど、と大羽は照れ隠しか否か謙遜を口にする。
「誰でも受かるじゃろ、あれは」
「えー、でも安堂君はダメだったんでしょ?」
「安堂さんは一年課程じゃけのぉ、半年課程じゃとワシの他に隣の基地からも飛行科に一人行くらしいぞ」
現在のトッキューは、隊長格がかなりの年輩となり早急に次期指揮官としての人材を求めている状態にあった。しかし、指揮官昇格の資格を持つ保大出身の隊員がここ数年あまりに少なく――そうなれば現隊員を格上げさせるしか道はない。
そこで真っ先に白羽の矢が立ったのが大羽だったのだ。特に彼を直接指導した嶋本進次、彼をトッキューへと誘った南部智之、今の彼の直属の隊長である大口誠治郎が熱心に彼を推し、今年暮れの隊編成で副隊長になるべく特修科へと通うこととなった次第だ。
大羽の取得していた海技免状等の条件から半年課程で特修科を出ることが出来、年末の隊編成に間に合うというのも大羽が推された強い理由となった。逆に一年課程のつもりで試験を受けた大羽の先輩にあたる安堂龍は残念ながら不合格となり、来年またチャレンジするという。
「じゃけぇど、呉は地元に近いんはええんじゃが……今更学生っちゅーのはどうにもしっくり来んのぅ」
「あはは、いいじゃんたった半年なんだし。それに保大には兵悟もいるんだし、学生気分満喫してきなよ。俺も救命士の学校通ってた頃は若者に囲まれてて若返り気分味わっちゃったしさ」
保大の特修科に若者はおらんじゃろ、という突っ込みを受けながら星野はケラケラと笑った。
眼前の彼らとは既に歩む道が違えてしまっているものの、わだかまりなどないからこそこうして笑い合うことができる。だが――同期のトッキューぶりを直に知らない星野としては記憶の中にあるヒヨコ時代の彼らを浮かべて「来年の今頃は大羽は副隊長なのか」と考えてしまうと無性に取り残されたような気分になってしまうのもまた事実だった。
もしも自分がトッキューにいたら。保大の先輩にあたる大口がそうだったように、既に副隊長にはなっていたことだろう。隊長だってそう遠い未来の話ではなかったに違いない。
同期であり親友でもある大羽が着実にトッキューとしてキャリアを重ねつつあるのは心底喜んでいるものの、どこか寂しいと思う気持ちが抜けきれない。
とは言えそんな感情は胸の奥に厳重に鍵をして仕舞い込んで食事を進めていると、あーあ、とタカミツがお好み焼きを貪る箸を止めてグッと伸びをする仕草を見せた。
「次の隊編成で大羽と同じ隊になったら、お前に容儀点検されんのかよー。くそー、俺も来年試験受けよっかなー。でもそうしたらトッキュー辞めたあと全国転勤だしなぁ、地元帰りてーのに」
「なんじゃタカミツ、そがぁにススキノが恋しいんか?」
「おまっ! 軍曹みたいなこと言ってんじゃねーよ」
ほろ酔いで楽しげに笑う二人に星野も笑みを返していると、「そうじゃ」と大羽がふと真面目な表情をして星野の方へ視線を流してきた。
「星野はどうするんじゃ?」
「え……?」
「異動の希望、出さんのか? せっかく救命士の資格取ったんじゃし、"おず"は指定船じゃからええかもしれんが普通の船に移ったり内勤になってしもうたら宝の持ち腐れじゃろ?」
そうなのだ。消防庁ならいざ知らず、海保において救命士という資格を活かせる場はかなり限られることになる。まして、星野自身は幹部コースである保大の出身だ。洋上・陸上勤務を繰り返し、いずれは俗に言う「偉い人」となるため出世を重ねていく道がある程度用意されている。
だが、そこには「救命士」である必要性は全くない。せっかく取った資格だが、これを活かせる現場に居られるとしてもせいぜいあと十年という所だろう。つまり、今しかチャンスはないのだ。
「再度トッキュー希望て言えばええじゃろ。お前は救命士で隊長にもなれるんじゃし、貴重じゃぞ」
「んー……でもなぁ、それはさすがに……図々しいというか」
「なんだよー。ほら、年末に嶋本軍曹が関空のキッキューに異動になったみたいにさ、トッキューがダメならキッキューでもいいんじゃね?」
タカミツの何気ない呟きに星野の手がピクッと反応したが、受け流すようにして「そうだね」と微笑んだ。
海保において、救命士という資格をもっとも活かせるのはやはりレスキューである。
大羽やタカミツの言うとおり、再度自ら「トッキューに異動したい」と申請することも可能であるし、以前とは違う「救命士」というアドバンテージもある故にそう的外れな希望でもないと客観的には思う。
しかし――二の足を踏んでいるのは、今度ダメだったら本当に自分の全てを否定されてしまうような気がして。

『あーあ……俺はもう、みんなとあの空には行けないのか……』

お前の居場所はここではないと、またあの空に拒絶されるような気がして――日々の忙しさを理由に転属希望は出せずにいた。


二月もあと数日に迫った朝。星野はいつも通り官舎の部屋を出て、白い息を空中に溶かしながら愛車であるマウンテンバイクにまたがって横浜の道を走った。
マフラーを多めに巻いて剥き出しになっている耳をどうにか保護して刺すような冷たさの空気に耐えていると、程なくして見慣れたみなとみらいの街並みが視界に迫ってくる。やがて防災基地が見えると星野はいつも通り颯爽とフェンスを抜け、メインストリートを駆けて最奥のフェンス前でサドルから降りた。そうしてフェンスドアを開けてマウンテンバイクと共にくぐり、ドアの近くに愛車を置いてふぅと息を吐く。
するとフェンス内の敷地でマラソンをしていたらしき保安官がこちらに気づいて走りながら声をかけてきた。
「星野さん! ちぃーっす!」
「おはよう。早いねー」
"おず"とは反対側の壁岸に停泊している巡視船の機関士補だ。挨拶しつつ星野は慣れた足取りで自身の船である"おず"へと向かい、タラップをひょいと渡っていつも通り乗船すると毎日のように見ている顔ぶれが次々に視界に現れる。
「あ、星野主任! おはようございまーす!」
「主任、おはよっす!」
"おず"は大型船に分類され、乗組員もそれなりに多い。ゆえに行き違う多くの部下から挨拶を受けつつ星野は自室である主任室へと足を運んで荷物を置き、制服へと着替えた。
今日の予定はなんだっただろう? 首席や次席航海士たちと次の洋上勤務についてのミーティングだっけか、などと考えつつ紺色の袖を通す。
明日は確か"おず"の救命士は消防の救急車に同乗させてもらっての実地研修が入っている。本当、忙しいよなぁなどと思いつつも制服を着るとピンと背筋が伸びる思いがして士官室を出る。そのまま狭い通路を慣れた足取りでサクサクと進み艦橋へ向かおうとしていると、出勤したばかりなのか船長である大木の姿が前方に見えて一旦立ち止まると敬礼をした。
「おはようございます!」
そして立ち止まったまま彼に進路を譲ろうとした星野だが、船長は柔らかい目線を一瞬こちらにくれたかと思えばちょうど数メートルほど先のOICルーム前の掲示板の所に立ち止まってなにやら掲示物を貼りだし、不可解に思って首を捻る。
なんだ? 辞令か? とわらわらと周りにいた保安官たちも集い始めて、にわかに掲示板前には小さな人だかりが出来上がった。当然星野も気になり、ひょいと覗き込むようにして掲示板を見やるとそこにはこう記されていた。


――二月一日、三等海上保安正・星野基、関西空港海上保安航空基地、機動救難班に異動を命ず。


え――、と星野は頭が真っ白になる感覚をリアルに覚えた。
周りからは一斉にどよめきの声やら拍手やらが巻き起こるも、確かに目の前にあるはずの文字の意味がすんなりと頭に入ってこない。
「二月からの二ヶ月間は防基で他の航空基地の新人救難士と共に研修をこなすということで、実際に関空勤務になるのはまだ少し先の話だが……。もともとレスキュー志望だった君にはまたとない話だな、おめでとう!」
船長から優しく肩を叩かれ、星野はビクッと身体を撓らせて震える唇を懸命に動かす。
「あ、あの……、なぜ自分にこのような話が……? 一度はトッキューを辞しているのに」
すると船長は頷くような仕草を見せてゆるく笑った。
「関空キッキュー班に着任したばかりの嶋本班長から強い要請があったそうだよ。救命士の資格を取った優秀な教え子が三管にいるから是非欲しい、とね」
「し、嶋本さんが……ですか……!?」
嶋本、とはトッキュー研修生時代の教官であり、トッキューの隊長を経て去年の暮れに関空のキッキュー班班長となった嶋本進次のことだ。星野にとっては未だ教官時代の「鬼軍曹」の記憶が鮮明に脳裏に焼き付いている恐ろしい存在でもある。
そう言えば――と星野は年末の三管全体での送り出し会で彼の直属の部下であった大羽を始め別れを惜しむ涙目の隊員たちを「お前らの間抜け面とおさらばできてせいせいするわ!」等々相変わらずの物言いで一蹴しながらも寂しそうにしていた嶋本のことを思い浮かべた。
一応は世話になった身であるし、声をかけて挨拶すれば彼は「お前、救命士の資格とってこれからどうするんや?」などと酔い腫らしの目で訊いてきた。戸惑いつつ「あはは、どうしようかな」などと笑ってかわせば「なんやハッキリせんヤツやな」と短く説教をされてしまった事はよく覚えている。
ひょっとして、あの時から彼は密かに関空に自分を呼び寄せようと考えてくれていたんだろうか? と思案していると船長が名残惜しむようにこう言った。
「"おず"としては優秀な人間を失うのは痛手だが……。今度こそ頑張るんだぞ!」
それは純粋な祝福の言葉であり、他意はなかったに違いない。
だが、「今度こそ」という言葉が居たたまれない古傷をえぐり出すようで星野はゆがみそうになった表情を懸命に叱咤して「はい!」と力強く返事をした。
――実感など全然沸かなかった。
トッキューを辞めさせられて、救命士になれといわれて、そのまま本当に救命士になってしまった。
そして今度は救難士? そこに真田はいない。忙しさにかまけて、いつの間にか「俺は一体なんのために生きてきたのだろう」などと哲学している暇さえなかった。今、その疑問を自身にぶつけたらどんな答えが出るのだろう、と考えるのはタブーな気がして星野は辞令は辞令として受け止め、急くように引継業務を済ませて異動の準備を整えた。
とは言え、救難士として関空に行く前の二ヶ月は防災基地にてトッキュー時代と同様に研修である。
と言うことは、防災基地の扉を再び「研修生」として通るということだ。
三年前は同期のみんなと一緒に嶋本にさらわれるようにしてくぐった門。トッキューを辞めてからも何度も通った防災基地だというのに気持ちがどこか浮ついて高揚するのは何故だろう?
研修初日にロッカールームへと足を進めた星野は、三年前に自ら名前を剥がしたロッカーに再び「星野」のネームプレートを入れた。
すると、ふ、と時間が遡ったような錯覚を覚えて、思わずあの頃は必ず周りにいた同期達の姿を探してしまった自分に苦笑いをして荒天シミュレーション設計のA水槽へと向かう。
研修生はA水槽に集合という指示が出ていたが、恐らくやることはトッキュー新人時代と変わらないのだろうからそう不安もない。
そして――。
「これからお前達をたった二ヶ月で救難士として各航空基地に送り出さなきゃならん。俺がとっても可哀想だ!!」
HAHAHA、と相変わらずな笑いを漏らすのはトッキューの第一隊隊長の黒岩で。救難士研修を任されたらしき彼の強面におののく新人達の横で星野は懐かしさに笑いそうになる自分をどうにか叱咤していた。
「ん、星野、なにがそんなにおかしいんだ?」
「い、いえ――!」
「他のクソヒヨコと違ってお前はトサカくらいは生えてんだから楽勝気分か?」
ここで愛想笑いでも浮かべようものなら「その胸くそ悪い笑みを消せ」だのと言われるのだろうな、と考えることさえ懐かしくて。
でも――泳力訓練はかつてクリア出来たとは言え、ブランクもあるし筋力もあの頃よりは落ちている。
ちょっと不安だな、と思うも身体ごなしの波高二メートル・流速三ノット程度は身体が覚えていたのかそれなりに泳げ、踊り狂って流されるのみの他の研修生からは羨望の眼差しで見つめられる羽目となってしまった。
「いやー、星野さんほんと凄いっすね!」
「あはは、まあ一度やらされた過去があるってだけですけどね」
研修も数日が過ぎるとそれなりに皆とも仲良くなり、星野よりも大分マッチョな色黒の男性に力強く誉められて星野は持ち前のはにかんだ表情を浮かべた。
「"星野くんはカッコ良くて頭良くて何でも出来てお兄ちゃんみたいな存在です!"って兵悟がよくメールで言ってたんですけど、俺も実際そう思いますよ!」
「ええっ!? 兵悟そんなこと言ってたんだ? 恥ずかしいなぁ」
眼前の彼は、佐世保時代の兵悟の先輩で名は櫻井佳弘。福岡航空基地のキッキューに配属になるという。お互いに神林兵悟と親しいという共通点があり、彼の話題を絡めつつA水槽の脇で休息を取りながらウエットスーツを脱いでいると研修生の一人が「あ」と緊張気味の声をあげた。
見ると、一般の潜水士のものではない特徴的な黄色のウエットスーツを着込んだ集団が数人プールサイドを歩いてきていた。
「トッキューだ……!」
誰かが憧れにも似た声をあげ、星野は座っていたベンチから腰をあげた。するとトッキューのうちの一人が強面の表情を笑みに変えて星野に向かい手を掲げる。
「星野ー! 聞いたぞ、関空キッキューに異動内示出たんじゃってな!」
良かったのぉ、とまるで自分のことのように破顔して祝いの言葉をくれたのは親友でもある大羽だ。
「うん、なんか……嶋本さんが呼んでくれたみたいでさ」
「その話も羽田で持ちきりじゃったぞ。軍曹は口は悪いんじゃがあれで部下思いじゃからのぅ、お前のこと気にかけとったんじゃろーて」
すっかり嶋本隊を経験して嶋本という人間を恐怖の対象から尊敬すべき隊長に格上げしたらしき大羽の言葉を聞いて、へへ、と星野は曖昧にはにかんだ。
すると、そーそー、と大羽とは別の声が二人の間に割ってはいる。
「お前さー、保大の時から優秀だったし、俺けっこうビビってたんだよねー。トッキューでまで後輩になったらヤだな、みたいな」
「大口先輩……っ!」
大羽の隊の隊長である大口だ。星野にとっては保大時代の先輩にあたり、当時のクセで星野はつい必要以上に背筋を伸ばして身体を緊張させた。
「だから嶋本さんも今度こそコキ使ってやろうって思ってんじゃない? あの人、基本使える人間しか取らないし。ほら俺とか、大羽とかさ」
な? と大口の大きな目で目配せされた大羽は露骨に「えッ!?」とたじろぐ。
「何だよ大羽ー、もっと自信持ちなよ! 俺、来年の副隊長はお前って決めてんだからさ!」
「……大口隊長、ちぃと気が早いんじゃないですかの……」
「えー何、不満? いっとくけど南部隊長が大羽取りたがっても俺負けないよ?」
そして目の前で喋り倒す大口の相変わらずな自信満々マシンガントークぶりを目の当たりにして苦笑いを浮かべていると、副隊長が二人を呼んで「いっけね」と二人は慌ててプールサイドを駆けだしていった。
「じゃあな星野、訓練しっかりなー!」
「うん、そっちもねー!」
送り出して、ふぅ、と息を吐いてから振り返ると星野の眼前には兵悟ばりに目をキラキラさせた研修生たちがいて、ビクッと身体を撓らせる。
「さすが星野さんっす!」
「トッキューさんとお知り合いとは益々ハンパねぇっす!」
「い、いや……ただのトッキュー同期だし……。あ、まあ俺は脱落しちゃったけど」
いつからか、自虐を笑みで誤魔化すのが酷く上手くなっていた。
トッキューを辞した事は、受け止めて受け入れて自分の中で納得している事だし、後ろ向きな感情は既にない。ないはずだ。こうしてまた自分だけが研修生に戻って、同じ空間で同期達が立派なトッキューとして居ても普通に笑っていられるのだから。
彼らがトッキューとして励んでいた数年、自分とて遊んでいたわけではない。――そうだろう? と星野は一人帰宅途中の道すがら不意に立ち止まって後ろを振り返ってみた。
アスファルトのそこは夜の海に消えゆく航跡よりも痕跡を残すことすら不可能で、一体どこを歩いて来たんだっけ? と惑いそうになった自分に滑稽なほど狼狽えてしまう。
この道をかつて同期達と走っていた頃の自分は、どこへ向かおうとしていたんだっただろう?
そもそもまだ中高生だった頃、同級生達が進路に悩んでいた時に既に海上保安官になると決めていたのは、何故だったんだろうか。
レスキューに向いていないと判断され除隊処分となったのに、またその道へ飛び込もうとしている理由は?
見上げた空は暗くて、ふ、と自嘲気味に息を漏らすと星野は再び前を向いて歩き始めた。

キッキュー研修はトッキュー研修よりは期間も短く内容も易しく、防災基地での基礎訓練を終えるとそれぞれ配属の決まっている航空基地に散り正式に救難士として活動する事となる。
二ヶ月の研修を終えた研修生たちは修了証を受け取り、横浜から巣立っていく。
もともと競技会ではいつもトップクラスの成績を落ち着いて収められていたように、星野は一度も躓くことなく最後まで他の研修生より優秀なまま研修課程を終えた。

横浜は星野にとっては勤務地であると同時に生まれ育ってきた故郷でもある。横浜を出たのはそれこそ保大に通っていた時だけであり、初の県外転勤に母親はひどく心配げだったが笑って「行って来る」と伝えた。
この街で生まれて、そしてずっと追い続けてきたものはなんだっけ――、と空を見上げて星野は少しばかり眉を歪めた。
関空に行けば、空の見え方も違っているのだろうか?
今度こそ――、と胸のうちに自分でも分からないわだかまりを抱えたまま、星野は三十年近く住んだ街を後にした。
海保の関空基地は、その名の通り関西国際空港の一角に位置している。
今回、関空に配属になる新人救難士は星野のみであったが他の基地からの異動組は数人おり異動および着任式を行うため基地長室へ足を運ぶと、そこには懐かしい顔が相変わらず食えなさそうな表情を浮かべて立っていた。
基地長への挨拶が済むと、その人物はツカツカと星野の前に歩みよってニと口の端をあげる。
「久しぶりやなー星野。知っての通り、班長の嶋本や。よろしうな!」
「は、はいっ!」
星野のみでなく他の救難士も彼――この関空キッキュー班をまとめる嶋本に向かって緊張気味に返事をした。すると頷いた嶋本は手に持っていた出動服、自身の着ているものと同じものを星野に向かって差し出した。
「……ま、トッキューとは少しデザイン違うんやけど、今度こそお前のオレンジやで」
「あ……」
「救命士として頼りにしとるで? ヒヨコ時代とは違うことをしっかり見せてくれや……!」
開口一番、嶋本にそんな風に言われるとは思っていなかった星野は大きく瞳を見開いた。
受け取ったオレンジの袖には「救急救命士」と記されたワッペンが縫いつけてあり――無意識のうちに星野はぶるりと身を震わせた。
オレンジ――、かつてこれを求めてがむしゃらに駆けていた頃の自分は、オレンジと共に在る真田を求めていた。
真田がいればきっとそれで良かった。オレンジである必要はなかった。
だというのに、手に持ったこのオレンジはずっしりと重い。

『今度こそ頑張るんだぞ!』

ふいに頭を大木船長の声が過ぎっていった。
今度こそ――、そうだ、これは背水の陣なのだ。
生まれつき身体能力にはそれなりに恵まれていたのか、子供の頃から不得意なスポーツというものはなかった。海保に入ってからもそうで、競技会の成績は常にトップだったし、潜水研修だって教官に模範的だと誉められるほどで、トッキュー行きが決まったときも「お前ならできる」「星野なら当然だな」等々過剰なほど期待されていたように思う。
事実、トッキューの膝元である三管区を代表してトッキュー入りするというのは他管区の比ではないほど羨望の眼差しと期待を受けてしまう。だからこそ除隊になって"おず"へ戻ったときは、表面上はみな以前と変わらず接してくれたものの影で色々と叩かれていたことは星野とて知っていた。
所詮はブルペンエースだのプラクティスチャンピオンだの、三管の恥とまで言う人間もいたのも知っていたが、事実その通りなのだから反論の余地さえなかった。
いや、真田に「救命士の資格を取れ」と言われてそっちに夢中で外野の声など気に留めている余裕がなかっただけなのかもしれない。
なぜなら今は、手に取ったオレンジが重い。大木船長に言われた言葉も、押しつぶされそうなほどに重い。
「星野! なんやお前、ヒヨコん時のほうがまだマシなツラしとったで!?」
「――は、はいッ!」
しかし、感じた重みの意味を理解する隙など与えられず着任初日からさっそく訓練は開始された。
救難士と言っても出動がなければ通常業務と訓練の繰り返しで、トッキュー教官時代から変わらない嶋本の叱咤を受けながらしごかれているとやはりトッキュー研修時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥ってしまう。
真田のいるトッキューに行けることになって、それなりに自信を湛えてトッキューに乗り込んだら力量不足をまざまざと見せつけられて。そして同じようにプライドをずたずたにされた同期達と励まし合いながら日々の訓練に耐えていたあの頃。
失ってしまったのは体力もなんだな、と二ヶ月の防災基地での訓練とは比較にならないほど嶋本に追いつめられ、他の救難士は「鬼班長!」などと文句を言いながらも付いていっている事に焦りも覚えながらも極限まで身体を酷使した星野の自虐の溜め息は日々増えていっていた。
関空へ来て何度目になるだろう? ある五月晴れの日――、気温は異常なほどの高さを叩き出し、ましてや滑走路に程近い関空基地はより一層の熱気に包まれており筋力トレーニングから休む間もなく長時間の走り込みをやらされた星野は「終了!」の声を聞くや否や急くようにして水場へと飛び込んだ。
えずいた息苦しさに何度も咳き込み、冷たい水を煽るようにして顔面に注いでから地面へと突っ伏す。そうして力なく口元を拭っていると、見知った足音が近づいてきて星野はビクッ、と身体を震わせた。
「大丈夫か?」
様子を見に来たのだろう嶋本だ。彼は相変わらず眉間に皺を寄せたままポカリスエットを差し出してくれ、星野は受け取りつつ「すみません」と小さく呟いた。
救命士だというのに、毎日のように自分が救助を要する立場になっている有り様だ。救命士として頼りにしてるで――、などと言っていた嶋本にしてみたら期待外れも良いところだろう。
そうだ、かつて自分にトッキュー除隊を言い渡した彼が再び自分を呼んでくれたのは救命士というアドバンテージがあるからに他ならないだろうに。
また失望させたらまた除隊を言い渡されるのか? と考えて星野の顔から血の気が引いた。
何故だろう? 自分でも怯えるほどに再びの除隊勧告が怖い。何故……そうなったらどの面さげて横浜に帰れるんだという恐怖だろうか? そうだな、そうなったらいっそ海保を辞めて――などと過ぎった考えに唇を噛みしめてペットボトルの腹を強く握り込んでいると急に嶋本がドカッと隣に腰を下ろした。
「俺はなぁ……、見込みないヤツ呼び寄せるほどお人好しとちゃうで?」
まるで自分の不安を読んでいるかのような嶋本の声に驚いて顔をあげると、彼は腕組みをしたまま遠く空を睨むようにして見上げていた。
「ヒヨコん時、お前を除隊させたのは俺自身がアカンと判断したからや。今回かてそうや、いける思たから呼んだんや」
「嶋本さん……」
「なんや? 体力くらい訓練すれば誰でもつくんや、シケたツラすんな」
自分は今、いったいどんな表情を晒していたのだろう? 嶋本は励ますような叱咤の声を笑みで引き上げた唇から吐きだし、常と変わらない強気な顔でこちらを見据えている。
そうだ、この人の厳しさの裏にはいつだって教官としての思いやりが見えていた気がする――とヒヨコ時代をだぶらせていると、遠くから独特の羽音が近づいてきて星野は誘われるように視線を上向けた。すると哨戒に出ていたのか、訓練飛行だったのか、関空基地の所属ヘリであるベル212がこちらに向かって高度を下げて戻ってきている様が映り――しばしその様子をぼんやり眺めていると急に隣の嶋本が立ち上がった気配が伝う。
「ええ音やな……、なあ星野」
「はい……?」
「今度こそお前をあの空へ連れてったる、絶対や! せやからちゃんと付いてくるんやぞ、ええな!?」
見上げた嶋本の肩越しに真っ青な空が映り――星野はこれ以上ないほど瞼を持ち上げた。
その言葉を残して嶋本はくるりと背を向け、視界にはどこまでも遠い青。太陽に眩しく反射したベル212の白い胴体が痛くて思わず目をすぼめる。

『あーあ……俺はもう、みんなとあの空には行けないのか……』

トッキュー除隊を告げられたあの日、自分の全てを否定されたような気がして何もかもが空虚に映った。
自分の断たれた道へまっすぐ飛び上がっていける同期達が眩しくて、人知れず涙も流した。
レスキューに向いてない、と判断されたことが哀しかった。
だから、「救命士の資格を取れ」と言われて即答したのだ。
真田に言われたからではない。自ら望んだことだった。
そうだ――、レスキューバカの同期に囲まれて、共に笑い、共に競い、共に歩んで、いつの間にかレスキューそのものを志していたのだ。
きっと最初は真田甚という人物への憧憬をトッキューという夢にすり替えてしまっていた。
レスキューしたくてここへ来た、と胸を張って言えなかった事で除隊になった時も「辞めたくない」と必死に抗えなかった。
真田は――そのことに気づかせようとしてくれたのかもしれない。
嶋本も、そういう気持ちを強くもって欲しかったのかもしれない。
例えレスキューに向いてなくても、その先に助けを求めている人に手をさしのべたくて救命士の資格を取ったのだ。だから――と強い視線で空を仰ぐ星野の髪をヘリからのダウンウォッシュが揺らしていく。
白い機体の先に映る青は、あの日に失った空へと繋がっているような気がして強く思った。
今ならハッキリと言える。――レスキューするためにここへ来た、と。

「飛ぶんだ、俺は……。今度こそ――!」










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