Overture






「おーっす、サエ!」
「朝っぱらから凄いねサエ」
ちょうど第二グラウンド側の裏門をくぐった所で佐伯の周りに人がいなくなったのを機に黒羽と木更津は朝の挨拶をかけた。
「おはよ、お揃いで」
「すぐそこで会ったんだ」
寒さなど感じさせないほど晴れやかに笑う黒羽に、木更津は面白そうに佐伯の持っていた紙袋を覗き込む。
「5、6、7……へぇ、登校時だけでこれだと放課後までにどうなるか楽しみだな」
クスクスといつもの調子で佐伯を見上げる。

今日は二月十四日。バレンタインデー。
女生徒に絶大な人気を誇る佐伯は、毎年この日は朝からチョコレートを渡しに来る女の子が絶えずいつも紙袋に入りきれない程の数をもらっている。

「もらったチョコをちょこっと食べる……プッ」

後方からよく知った声が聞こえて黒羽は反射的に回し蹴りを入れた。
「どわっ!?」
「朝っぱらからつまんねーんだよダビデ!」
なおもクスクスと笑いながら木更津は天根の方を向いた。
「ダビもさっきチョコ貰ってたよね?」
バネと会う前に見たよと言うとダジャレを発する時以外はあまり喋らず無表情な天根に代わって佐伯が「へぇ」と声を漏らす。
とはいえ、佐伯には及ばないにしろ天根もテニス部ではそれに次ぐ女性人気を誇っていた為皆さほど驚かない。
もっとも、あのダジャレさえなければ良いのにという声も多いのだが。
「ダビデは甘いモン好きだから嬉しいだろ?」
歩きながら顔だけを天根の方を向けた黒羽に天根が「まーね」というような表情をしてみせる。

「さ、佐伯先輩……あの、これ受け取ってください」

そんな会話をしている最中にも、後輩と思しき女の子が数人真っ赤な顔をしながら声を掛けてきた。
みんなして可愛くラッピングされたチョコレートを佐伯に手渡す。
「ありがとう」
ふわっと柔らかい笑みを浮かべて佐伯が受け取れば、後輩達は嬉しそうにその場を立ち去った。
「凄いねサエ」
先程と同じような台詞を口にして木更津が笑う。
「バレンタインねぇ……」
これから益々増えていくだろう佐伯の右手に下げられた紙袋を黒羽はマジマジと見つめた。
「バネはさんから貰わないの?」
「え? あ……いや」
いつもの調子で流されると思って軽く言ってみた佐伯だったが、いささか口ごもった黒羽が意外で校舎へ向かう足をピタッと止めた。
つられて他のみんなも足を止める。
さん……どうかしたの?」
「な、何でもねぇよ」
聞き返されて黒羽がガシガシと頭を掻くと、面白そうに木更津も口を挟む。
「何、ケンカ?」
「そんなんじゃねーよ」
あまり突っ込まれたくない連中に捕まったと黒羽は内心舌を打った。
あいにく始業まではまだ時間があり、突然振り切ってこの場を離れる理由もない。
観念したようにハァと一つため息をつく。
「あいつ、今日わざわざ千葉まで来るつったんだぜ? 遅くなるってのに、どうしてもとかって」
そんな黒羽の言動に木更津と佐伯は思わず一瞬顔を見合わせた。
「バネ……それノロケ?」
冷静に突っ込む木更津を横に佐伯は声を立てて笑い始めた。
「な、何だよ」
黒羽は笑われている理由がイマイチ分からず、しかめっ面をする。
「いや……ゴメン」
目尻に溜まる涙を指でぬぐいながら、佐伯はまだ収まらない笑いを必死に堪えた。
「女の子ってイベント好きだからね、当日に渡したかったんじゃない?」
「……そういうモンなのか?」
「まぁそれもあるだろうけど、バネに会いたいんじゃないの?」
何とかいつもの爽やかな顔に戻した佐伯が黒羽を見上げる。
「もうすぐさん、フランスに行くんだろ?」
ああ、と噛みしめるように黒羽が呟いたものの、会話を遮るように一寸離れた位置から甲高い声が聞こえた。

「黒羽ーー!」

黒羽を呼ぶ声。呼ばれるままに黒羽は声のした方を向く。
「これあげるー!」
シュッと空を切る音がして、黒羽は自分へと投げられた物をパシッと受け取った。
見るとチロルチョコが一つ自分の大きな手に収まっている。彼女はおそらく仲の良い友達全員に配っているのだろうと黒羽は笑みをこぼした。
「サンキュ!」
「どーいたしまして」
白い息を吐きながら笑うと、友人は元気よく校舎の方へと駆けて行った。
「……ういやバネも毎年地味にチョコ貰ってるよね」
「何だよ地味にって」
黒羽はもらったチョコレートをポケットに突っ込みながらさりげなく失礼な事を言った木更津に突っ込む。
「受け取っちゃって良いの?」
紙袋を装備した佐伯が幾分矛盾した疑問を投げ、当の黒羽は意味が分からないと言いたげに眉を顰める。
さん怒るんじゃない?」
悪戯っぽく笑う佐伯に、少し間を置いて黒羽は納得したように額を掻いた。
「アイツはそんな事気にしねぇと思うぞ」
言われた佐伯も瞬間の事を浮かべて思案する。
「……確かにね」
さんだって学校で別のヤツにあげてるかもしれないしな」
からかい気味に見上げてくる木更津に黒羽は再びため息をついた。
「俺も気にしてねぇよ」
「でも宍」
「宍戸とが仲良いのは知ってるっつーの!」
声を上げながら黒羽はまたか、と少々ウンザリした。
自分をからかう為にダシにされる宍戸に最近は同情にも似た感情を持っている。
実際宍戸本人にしてみればこんな千葉でいちいち名前を出されていたらたまらないだろう。
「気にな」
「らねーよ!」
声を荒げて鞄を背負い直す。
「誰と仲良いとか、んなこといちいち気にしてられっかよ」
鋭い目をして空を睨む。
それは黒羽の本心であり、決意でもある。
その言葉の意味を、敏感な佐伯と木更津は直ぐに察した。
先程とは打って変わり、佐伯が少し心配そうな声を出す。
「止めないで良かったの? さんの事」
「何でだ……?」
「だって今から行かせたらさん、ずっと戻って来ないかもよ? 俺だったら考え直してくれるように言うけどな」
「……あいつが留学して勉強したいって思ってる以上、俺が口出す事じゃねぇだろ」
「随分、冷めてるんだな」
「何でだ! 俺に遠慮して留学すんなって方がよっぽど冷たいじゃねーか」
思わず黒羽は佐伯を睨んだ。
「それにアイツは俺が止めた所で考えは絶対変えねぇよ、無駄に悩ませるだけだ」
視線がぶつかる。
真っ直ぐな黒羽の瞳に僅かに迷いを感じ取って佐伯は首をかしげた。
「言ってる割には納得してないみたいだけど? ホントは行かせたくないんじゃないの?」
覗き込むような佐伯の目線に黒羽はグッと喉を詰まらせた。
「そりゃ……」
脳裏にの笑顔が浮かぶ。
「納得してない訳じゃねぇけど――」
から留学の話を聞いた時は素直に凄いと思った。
しかし時間が経つにつれ、が遠くへ行ってしまうという実感が徐々に沸いてきた。
それに比例するようにを想う気持ちが強くなり、黒羽は思わずを引き止めたい衝動にかられる事もあった。
今ならが何故自分に留学の話を黙っていたか理解できる気がする。
だが、心からを応援する気持ちもまた本当だった。
「俺はここでを応援するって決めたんだ」
「でも、」
「そう決めても止めたくなる事だってあるさ。そんなに変な事か?」
黒羽は再び強い視線で佐伯の視線を返した。
「それに……アイツは必ず俺の所に帰ってくる。俺はそう信じてんだ」
白い息が見上げた空に溶けていく。
佐伯はその自信の根拠は何だと追求するのも忘れて押し黙った。
そんな佐伯につられるように皆してしばし黒羽を見つめ、再び佐伯がその空気を割るように口を開いた。
「それでも帰ってこなかったら……どうする?」
ピクッ、と黒羽の眉が僅かに反応する。
無言で唇を揺らして一度キュッと結ぶと、黒羽は佐伯たちの方を向いた。

「その時は、俺がを追いかけていく」

あまりに真剣な面もちに再び辺りが凍り付く。
それを確かめる間もなく黒羽はクルリと皆に背を向けた。
「じゃ、俺先行くぞ」
校舎へと走る黒羽の耳元は僅かに赤い。

佐伯と木更津は言葉を無くしたように徐々に遠ざかる黒羽の背を呆然と見つめた。

「すげーなバネさん」

ボソッと漏らした天根の声に、あっけに取られていた佐伯と木更津が意識を取り戻す。
「ダビ?」
「だって俺、あんなに言い切れる程の相手に出会ってねーもん」
しみじみと天根が呟いて、思わず無言で顔を見合わせる。

「おーっす! 何やってんのこんなとこで!」
「うわっ!?」

突然後ろから能天気な声と共に肩を叩かれ佐伯と木更津はビクリと肩を震わせた。
少し首を捻れば、目の端に髪の色と同じ位明るい顔をした少年が映った。
「サト……」
「あれ? あれバネじゃん。あいつ今日日直じゃないのに何であんな急いでんだろ」
小さくなった黒羽の背を見つけて、今登校して来たばかりの首藤が不思議そうに首を傾げてから佐伯の紙袋へと視線を移す。
「おー、サエすげー大漁じゃん! やるぅ」
その陽気な声に佐伯と木更津は水を差されたような、ホッとしたような面持ちで肩の力を抜いた。
いつものように爽やかな表情に戻した佐伯が何かを思い出したように口元を綻ばせる。
「ま、見守っていくってのも一興だね」
「え? え ? 何?」
状況が読めない首藤を横に木更津もそうだね、とクスクスと笑う。


(バネさんとさん……千葉の田舎でいい仲になる……プッ。……言うタイミング逃した)

笑う佐伯と木更津に絡む首藤の後ろ姿を見つめながら、天根は一人そんな事を考えていた。




「おはよう宍戸くん」
「おう」
「あー寒かった」
宍戸が窓の外から教室へと目線を戻すと、巻いていたマフラーを外しているの姿が映った。
余程寒かったのだろう、急に暖房のきいた教室に入った所為か頬が赤く紅潮している。
「あ、ねえさっき校庭で鳳くんに会ったよ」
無意識に宍戸がその横顔を追っていると、椅子に腰を下ろしながらがいつものように話しかけてきた。
「もうね、凄かった……」
「何だ?」
「ん、ほら今日バレンタインじゃない? ひっきりなしに女の子に囲まれて……鳳くんってモテるのね」
頬杖をついたまま宍戸がああと頷く。
「アイツ、今日が誕生日だしな。去年も大量に荷物抱えて部活に来てたぞ」
「え、そうなの? どおりで大きな包みもいくつかあった訳だ……おめでとうくらい言いたかったな」
自分を見つけて挨拶してくれた後輩の笑顔を思い出し、その柔らかい表情には自然口元を緩めた。
「でも鳳くんが人気あるの分かるな。良い子だよね」
「……まーな」
流石の宍戸もそれは直ぐに認める。
「背は高いし、スポーツは出来るし、性格も良いし……それにピアノも上手いしね」
「長太郎のピアノ聴いたことあんのか?」
「うん、時々音楽室のグランドピアノで弾いてるから。偶に特別教室棟で顔合わせてたから鳳くんの事は大分前から知ってたけどまさかピアノが得意だったなんてね」
ふわっとが笑う。
春に美術館で会って以降、は鳳とは割と喋る仲になっていた。
趣味も合い、何より宍戸を尊敬している鳳とはよく気が合ったのだ。
「人気と言えば跡部くんも凄そうだよね……彼の教室の方、なんか人だかり出来てたよ」
光景を思い出してが笑顔を一瞬引きつらせる。
宍戸も毎年あり得ない程のチョコレートを部室に持ち込んできていた跡部を思い出して苦笑した。
「まあ、アイツはな……つーか毎年この時期になると暫く部室から甘ったるいニオイが消えねぇんだよな」
そんな宍戸に相づちを打ちつつ、は、「そうだ」と机に置いていた鞄を手に取った。
「ハイ、これ」
包装紙に包まれた四角い箱を取り出して宍戸に渡す。
「これ……」
「? チョコだけど…」
そんなのは見れば分かるといつもの調子で口から出そうになった言葉を宍戸はグッと飲み込んだ。
「……ありがとよ」
取りあえず受け取る。
「でも良いのかよ? 黒羽は」
複雑な顔をしてみせる宍戸には一瞬キョトンとし、すぐにふっと笑みを浮かべた。
「うん、黒羽くんにもちゃんと用意してるよ。誕生日にプレゼント渡せなかったから、大分遅れちゃったけど一緒にね」
「あ、っそ」
「男の子って何あげたら喜ぶのか全然分からなかったんだけど……」
「ヘッ、人の誕生日にミントガム一個よこしやがったヤツがよく言うぜ」
つまらなそうに頬杖を付きながら宍戸が吐き捨てる。
申し訳なさそうには宍戸を見上げた。
「好きでしょ? ミントガム」
「 まー、そうだけどよ」
「あの頃、お祝いできる余裕なくて……黒羽くんにも、結局電話でおめでとうって言うのがやっとで」
少し目線を落とすに宍戸は眉を寄せて頭を捻った。
どうも話がかみ合っていない。
「いや、何で黒羽の誕生日とミントガムが関係あるんだ?」
「っあ!」
しまったとが口元を押さえる。
?」
「あ〜……えっと」
ごまかすべきか話すべきか一瞬思案する。
しかし別に隠すような事でもない。
「同じだから」
「は?」
「同じなの、黒羽くんと宍戸くんの誕生日」
「――ハァ!?」
宍戸はがその事を知った時と全く同じような反応をしてみせた。
「俺が? 黒羽と?」
「……うん、凄い偶然だよね」
案の定驚いている宍戸を見ても肩を竦める。
「私も知ったときはビックリしたよ……こんな事もあるんだなぁって」
「へぇ」
指を組んで目を伏せたを見つめながら宍戸は先程のかみ合わなかった会話の意味を大体理解した。
誕生日の頃と言えば、が留学のゴタゴタを抱え込んでいた時期だ。
本人はそんなそぶりを見せていないつもりだったのかもしれないが、宍戸にはどう見ても無理をしているのは分かっていた。
その原因である男を放置して自分の誕生日を盛大に祝ってはやれなかったという事だろう。
(ってか俺の誕生日って事は忘れてたんじゃねーのか実は)
今思い返せば、いつぞや「もうすぐ誕生日だ」と呟いて慌てていたのも黒羽の事を指していたのだろう。
そう考えると宍戸の胸中を複雑な気持ちが過ぎる。
「ま、いーけどな別に」
ふっと息を吐くと宍戸はからもらったチョコレートをしまおうと鞄を広げた。
宍戸の動作を見つめながらが意外そうに目を瞬かせる。
「何だよ?」
「え、あ……宍戸くん、あんまりチョコ貰ってないみたいだから」
引退したとは言え、天下のテニス部レギュラーは学内では人気が高い。
宍戸も元もと割とモテる方で、特に髪を切ってからこっち随分と親しみやすくなり声をかけてくる女子も増えた。
とは言え、自慢の艶やかな髪も余裕を浮かべた傷一つない顔もなくなってしまった為に幻滅したという層もいたのだが。
「俺は長太郎と違って愛想振りまくのは苦手なんだよ」
目線を逸らして呟いた宍戸のその言葉を分かりやすく意訳すると「知りもしない人間からチョコなんか受け取れねぇ」という事なのだろうと、は思わず苦笑いを漏らした。
確かに鳳のように人懐こい笑みを浮かべて女子に囲まれる宍戸というのも想像に難しく、それはそれで宍戸らしいとも思う。
「あ、今年のはね、ミントチョコも入ってるんだよ」
「……何でもミントにすりゃ良いってもんじゃねぇだろ」
好きかなと思って、と繋げるに呆れたような声を返しつつも、宍戸は僅かに口の端を上げた。

宍戸から窓の方へ視線を移すと、は改めてバレンタインか、とぼんやり外を眺めた。

『お前、一生俺に会えねぇと思ってる?』

留学の話をした時に言われた黒羽の言葉を浮かべる。
(ひょっとしたらもう一生、この日ここにいないかもしれない)
誇張しているわけではない、とその後大げさだと呆れ返られた事も思い出して、は瞳を閉じた。
そんな確証の持てない事まで黒羽に話したわけではない。
いや、日本にいる時間が限られている以上あまりその話を黒羽の前でしたくはなかった。
なるべく笑顔でいようと、そう決めていたからだ。
しかし、このまま黙っておくというわけにもいかない。

?」

ハッとしては閉じていた瞳を開いた。
「どうした……?」
怪訝そうに眉間に皺を寄せる宍戸の顔が映る。
遮られた思考を押しやるようには一寸間を置くと、なんでもない、と笑った。











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