まるで夢の中のような出来事だった夏の大会が終わり、新学期――。
 部活を引退して抜け殻のようになっていた宍戸を横に、次の文化祭は自分たちの出番だな、などと考えるのにも慣れた頃。
 まさか、こんな事になるとは、とは聞こえてくる教師の声を耳に入れながらポツンと空いた前の席を眺めた。
 ――U-17、つまり高校生以下の選手による日本代表を決める合宿にテニス部の元レギュラー陣が呼ばれたのは新学期から一月ほど経ってからのことだ。
 現役の二年生はともかくも、三年生をこの時期に? と疑問は残ったものの、エスカレーター式の私立に通う彼らは、補習などの別課題を提出するという義務を果たすという制約を背負って意気揚々とU-17合宿に乗り込んでいった。
「宍戸と芥川がいないと教室は平和だなぁ!」
 そんなことを言いつつ、内心、小林教師が寂しそうにしているとの噂がもっぱら流れていたが、にしてもそれは同じであった。
 宍戸がいない、というのもむろん「いつもの日常」の1ピースが欠けているようで違和感が募っていたものの、それ以上に――と昼休みに美術室に向かう廊下の途中で上の階を見上げ、は小さくため息を零した。
「鳳くん……」
 会いたければ、会おうと思えばすぐ会える距離にいた彼が、今は遠い。
 新学期に入って、互いに忙しくすれ違っているうちにロクに顔を合わせる機会もないまま鳳は合宿に参加してしまい――もはやほんの数ヶ月前の出来事さえ幻だったかに思えてしまう。
 夏の大会で、ほんの少しだけ、鳳と気持ちが通じ合った気がした。――と感じてしまったのは、ただのうぬぼれだったのだろうか、と瞳を伏せてから、ハッとしてフルフルと首を振るう。
 いけない。鳳だって合宿所で頑張っているはず。それに、いずれは自分も進路を考えなければならない身で――。
 これが宍戸であれば、連絡先も知っているし、業務連絡をする必要もあり、こうも「寂しさ」のようなものは募らないだろうに。学年が違う、部活も違う、一見、なんの関わりもない彼となれば途端に遠い人のようになってしまう。本当に、まるで微笑み合って語り合っていたことが夢の中の出来事だったようだ。
 だけど、会いたいな、と浮かんだ鳳の笑顔を振り切るようには美術室へと急いだ。
……!」
 そうして予鈴を待って教室に戻ろうとしていると、渡り廊下でふいに担任の小林教官に呼び止められては足を止めた。
「はい……」
「さいきん、宍戸から連絡は来ているか?」
 質問にキョトンとしつつ口ごもると、ハァ、と小林は大きなため息を漏らす。
「あのバカは相も変わらず、テニス部の課題提出率堂々の最下位を更新し続けているわけだが……」
 ちなみに次点は向日、その次は芥川らしく、にしても何度か聞いた話ではあるが幼稚舎時代からの問題児三人衆だとか何とか零す小林への返答に困っていると、小林はヤレヤレと首を振るった。
「スマンとは思うが、一つ頼まれてくれないか? 宍戸に――」
 そして続ける担任の話に、はなおさらキョトンとしつつ目を見張った。
 

 一方のU-17に参加した氷帝の面々は、戸惑いながらも外界から隔離された「合宿所」で集団生活を送ることにどうにか慣れていっていた。
 合宿所自体は都心から離れた山奥にひっそりと建っているものの、設備はいずれも最新式のもので出来る限り不便のないよう努めてあり、ストレスはあまりない。むしろ、その豪華さに戸惑うものさえいたほどだ。
 そんなある日の夜――、宍戸が風呂上がりに涼を取りつつ談話室で鳳と話をしていると、不意にポケットの携帯電話が震えた。反射的に取り出し、画面を見ると、見知ったクラスメイトの名前が表示されていて宍戸は無意識に息を呑んだ。おそらく、目の前に鳳がいたために無意識に「構えて」しまったのだろう。加えて――、この合宿に参加してからの「彼女」からの連絡は、決まって「勉強」に関することでもあるため、気も重い。
 しかし無視するわけにもいかず、一呼吸置いた後に宍戸は受信ボタンを押した。
「もしもし……」
「あ、宍戸くん? 久しぶり。いま大丈夫?」
「おう。……どうした?」
 普段通り学校に通っていれば毎日耳にしているクラスメイト――、の声だ。宍戸は少しばかりぎこちない声を出してちらりと鳳を見やったものの、相手がだと気付いていない彼は宍戸に気を遣ったのだろう。視線を逸らして会話の邪魔をしないように努めていた。
 そんなことは露知らずだろう彼女から、気遣うような声が聞こえてくる。
「自主勉強、ちゃんと出来てる? 宿題、ちゃんと送ってこいって小林先生が言ってたよ」
「んだよウルセーな。お前は俺の母親か?」
 学校に通えない以上、何らかの形でソレを補わなければならないのは当然の義務で。空き時間を利用しての学習と学習成果の提出を義務づけられている宍戸は、例によって「サボり気味」な自分に対して痛い指摘を受けてついトゲのある言い返しをした。
 そんなこと言ったって……、とが声を小さくする。おそらく彼女は担任の小林に「宍戸にこう言っておけ」などと言われていたのだろう。そしておそらく、あまり他人に関心を示さない彼女がわざわざこういう風に言ってきたということは――「最後通告」が近いということだ。下手したら小林担任が合宿所に乗り込んできて、メンバーの前で説教ののちに強制送還ということも十分にあり得る。
 ――と想像して宍戸はうっすら青くなった。
「で、なんだ? お前、小林に何言われたんだよ?」
「えーっと……。けっこうプリント類が溜まってるのと、まとめたノートとかいっぱいあって……、そっちに送ろうと思ったんだけど……」
「けど?」
「できれば……、ちょっと授業内容を教える意味で、宍戸くんと芥川くんの勉強をみてやってくれないかって、頼まれたんだけど……」
「ハァ!?」
 跡部くんとか忍足くん、氷帝のみんながいるんだから心配ないのにね。とのフォローをは続けたが宍戸は目を剥いた。
 その声にギョッとしたらしき鳳が振り返るも、宍戸は携帯に向かってがなり付ける。
「なんで貴重な休みを、お前との勉強に費やさなきゃなんねーんだよ!? だいたい、なんだって小林はお前にんなこと頼むんだ!? ヤツが来りゃいいじゃねーか! って一昨日きやがれだけどよ!!」
「そ、そう、だよね。……うん。私もその方がいいと思う。じゃあ、あとでまとめてそっちに送るね」
 八つ当たりと批判されてもやむなし。と冷静に判断できるような余力は宍戸にはなかった。が。カッと頭に血の昇ってそのまま電話を切ろうとしていた宍戸をハッとさせたのは鳳の声だ。
先輩ですか……?」
「――は!?」
先輩、ですよね……。違います?」
 おそらく、の声が漏れたか話の内容から連想されたか。――別に隠していたわけではないが、宍戸の心臓は一瞬イヤな音を立ててごくりと勝手に喉が鳴った。無意識に首を縦に振るう。
 すると鳳はいつもの調子で少し首を傾げて、少し笑うとこう言った。
「やっぱり。宍戸さん……、少し俺に代わってもらえませんか?」
「あ……、まあ、いいけどよ」
 相変わらず、鳳との関係がどうなっているのかさっぱり分からない。と話がしたいのなら、自らかければいいのではないか? と感じるも、いいと言った以上は代わるしかない。
……」
「え……?」
「今、長太郎と一緒にいるんだけどよ。ちょっと、代わるぞ?」
「え……!?」
 驚いたようなの声を少しだけ遠くに聞きながら宍戸はズイと携帯を鳳に差し出した。すると鳳の顔にパッと日が差し、会釈をして受け取った彼は耳元に携帯を当てた。
「先輩? お久しぶりです、鳳です」
 露骨に宍戸は口をへの字に曲げた。よく女子をさして「男の前と女の前で態度が違う」などと批判する声があるが、ソレとコレはどこが違うのか――というほどあからさまに鳳の声は甘さが増したのだ。
「はい、はい。ええ、元気ですよ。……大丈夫です。でも俺、先輩に会えなくて寂しいです」
 ピキ、と宍戸は腕を組んで額に青筋を立てた。なんなんだろう? 目の前の後輩のこの緩みきった顔は。それによくも人前でそんな台詞を吐けたものだ――と、しかめっ面をする頬に少しだけ赤みが差す。
 しかし鳳はそんな宍戸を気にするそぶりもなく、宍戸や部活仲間には絶対に見せないだろう表情で携帯に向かっている。
「合宿は厳しいですけど、こちらは山の中ですから……最近、紅葉が見事で練習していてとても楽しいです。……はい、あはは、そうですね、スケッチするならピッタリだと思います」
 ここは空気を読んで退散するべきだろうか――と宍戸が思い始めた時、鳳がとんでもないことを言い放った。
「そうだ先輩、今度の週末、こっちに遊びに来ませんか? 俺たちも土日は休みなんです」 
 ――ハァ!? と言いそうになった口を宍戸は慌てて押さえた。眼前の鳳は、こちらの存在など気にも留めていない様子だ。
「わざわざ来ていただくのは気が引けるんですけど……。景色も綺麗ですし、俺も久々に先輩とスケッチしたいし。それに……俺、会いたいんです、先輩」
 後輩が目の前でクラスメイトを口説いている。――という場面に直面するのはなにもこれが初めてではない、が、でも。居心地が悪いこと、この上ない。
 だというのに――。
「え、宍戸さん……?」
 露骨に、鳳の声が少し固くなった。――何を言ったんだのヤツ。などと心の中で悪態を吐くも、一瞬、鳳はこちらに目線を送ってきてまたフイとそらした。
「あ……なんだ。分かりました、だったら宍戸さんへの荷物は俺が責任を持って預かりますから。……はい。じゃあ、日曜日、10時に駅前で大丈夫ですか?」
 察するに先ほどの補習用の教材の引き渡しの件か、と二人の会話内容を予想していると鳳は「宍戸に代わるか?」とに言いつつこちらに視線を送ってきたため宍戸は小さく首を横に振るった。
 そうして会話を終えた鳳は礼と共に携帯を宍戸に差し出し、宍戸も受け取ってポケットに仕舞う。
 気まずい――、とガシガシと頭を掻いていると先に鳳の方が口を開いた。
「学校の、宍戸さんとジロー先輩へのプリントやノートのまとめを先輩がお持ちだそうですね」
「あ? ああ……そうらしいな」
「俺、預かっておきますから。あとでお渡ししますね」
 さらりとごく自然に言われて、宍戸は返事に窮した。――暗に自分とは会う必要がない。と言われたようなもので、実際、先ほどの自分は「郵便扱いで送ってくれればいい」とに言い放ったのだから肯定以外の返事はないのだが。けれども、少々腑に落ちない気もした。
 別に鳳とのことを邪魔しようという気は毛頭無い。が。
「いや、そういうわけにもいかねぇだろ。あいつが来るってんなら、俺も聞きてーこともあるし」
「え……?」
 思わず宍戸はそう言い返したが、鳳にとっては予想外の反応だったのだろう。大きく目を見開いて、数回瞬きを繰り返している。そうして少しだけ彼は眉を寄せた。
「宍戸さんも……、彼女に会いたいんですか?」
「――ハァ!?」
「だって、そうですよね? 別に、宍戸さんがそうしたいなら構いませんけど……、先輩は俺に会いに来るのに、着いてきてどうしようって言うんです?」
「バッ、べ、別に俺は……ッ」
 分かっていたことだというのに、また地雷を踏んでしまった。と宍戸は後悔しつつもうろたえた。
 に会いたい、と臆面もなく言える鳳と比べて自分は――と一瞬考える。ここ数年、ほぼ毎日とは顔を合わせていたというのに、これほど長く会わない日が続いたのは初めてだ。だから、「会いたいか?」と問われれば、そうかもしれない。気になっては、いる。
 けれども、だからと言って、それは鳳の地雷を踏んでまでごり押ししたいものでもなく。
 と葛藤していると、いつの間に来ていたのだろう?
、さん……?」
 不意に割って入った声に宍戸と鳳は揃ってハッとして声のした方を向いた。
 すると、穏やかそうな面立ちの少年が立っていて宍戸は少しばかり目を見開く。
「幸村……?」
 その少年は、立海大付属中学のテニス部をまとめる部長である幸村精市であった。――中学テニス界最強の人物、と謳われるほどの実力者でもある。
さんって……、氷帝の? もしかして、さんのこと、かい?」
 その彼から不意にの名前を出されて、宍戸は二の句を継げず固まった。見ると、鳳も不意打ちを受けたように固まっている。
 あ、やっぱり。と幸村は持ち前の穏やかな笑みを浮かべた。
「彼女が氷帝に通っているのは知ってたけど……。君たちと仲がいいんだ?」
「あ……いや、まあ。ただのクラスメイトだけどよ」
「幸村さん……、先輩をご存じなんですか?」
 二人して疑問をぶつけると、幸村は緩く腕を組んで「うーん」と思案気味の息を漏らした。
「鳳君なら分かると思うけど……、彼女は美術をかじってる人間の間では有名だしね。俺も昔から彼女の顔と名前は知ってたよ」
 あ、と鳳が反応した。宍戸にしても、幸村の趣味が「絵画」であることは鳳から聞いて知っていたことだ。意外な共通点ゆえに「あの幸村さんと親しく話ができる」と鳳自身が喜んでいたためだ。なるほど道理なわけだが、幸村の反応は「それだけ」ではない気がしていると、幸村の口元はどこか懐かしそうに緩められた。
「けど……、俺は一度、彼女に会ったことがあるんだ。彼女はもう、俺のことなんて忘れてしまっているかもしれないけど……」
 意外な発言に目を見開いた宍戸と鳳を横に、幸村はさらりと語ってきかせた。
 数年前、とある展覧会で偶然にと顔を合わせたこと。彼女の作品に長年好意を持っていた幸村は思いきって話しかけてみたこと。その際に幸村はから一枚のスケッチを譲り受け――これは宍戸も鳳も知っていることであるが、幸村はかつてテニスはおろか生死の境をさまよう大病に伏していたことがある。その際に、何度もにもらった絵を見て勇気づけられ、助けられたという話をされ――二人は押し黙る他ない。
 彼女に自身の名前も告げることが出来なかったことを後悔している、と幸村は前置きして鳳の方を向いた。
「君たちの話を盗み聞きしていたわけじゃないけど……、ごめん。俺、もう一度、彼女に会ってお礼が言いたいんだ。便乗するようで気が引けるんだけど、次の週末、俺も一緒に行っていいかい?」
 つ、と宍戸は息を呑んでちらりと鳳を見やった。
 ――鳳の元来の性格を誰よりも知っている自負がある宍戸にしてみれば、こんな話を聞かされて「断る」という選択肢が彼にないだろうことは分かり切ったことであり。案の定、鳳は複雑そうながらも「分かりました」と返事をしていた。
 そうして幸村と別れ、談話室を出て廊下を歩きつつ「面倒なことになった」と気だるげに伸びをする。すると、しばし無言だった鳳が「あの……」と声をかけてきた。
「先ほどの話なんですけど……、やっぱり、宍戸さんも来てもらえませんか?」
「あ……?」
「俺と幸村さんと先輩じゃ……、ちょっと……」
 申し訳なさと困惑気味な感情が入り交じったような複雑な表情を浮かべている。
「それに先輩だって、戸惑うと思いますし……」
 続けられて宍戸は「確かに」と相づちを打った。と鳳の関係は知らないながらも、過去に一度顔を合わせたことがあるとはいえ急に鳳が幸村を連れて現れたら相当に困惑するはずだ。ならば、まだ気心の知れた自分もいたほうがマシというものだろう。
 かったりぃな、と宍戸はあからさまに眉間に皺を刻み込む。
「ったく、んな面倒なことになるんならよ、いっそをこの合宿所に呼べばいいんじゃねぇか? 岳人たちも揃って補習でもすりゃ一石二鳥だろ」
 宍戸としては、何気なく言った言葉であったがピタリと鳳が歩みを止めた。不審に思って振り返ると、なにやら不満げに口をへの字に曲げている。
「長太郎?」
「いくら友人関係とは言っても……、宍戸さんだって先輩のこと、大切なんですよね?」
「は……!?」
「みなさんのことを悪く言うわけではありませんが……、こんな、百人以上、男しかいないような場所に先輩を来させようだなんて、本気で言ってるんですか!?」
 詰め寄られて宍戸は思わず頬を引きつらせる。勢いで反論しようとして思い留まり、考えた。――確かにこの施設は、ほぼ男のみで構成されている。多感な時期の中高生が有に100人前後、外界から隔離された環境でストイックに共同生活を送っているのだ。
 その事実を考えた結果――、宍戸にしても自身の言った言葉を後悔して額に汗を浮かべた。
「そ、……そうだな……」
 ともかく、決まった以上は日曜は鳳と幸村に着いていくしかないだろう。
 しかしながら、自分以外の三人は「共通の趣味」という繋がりがあるわけで。もしも三人揃ってスケッチブックなどを広げ始めた日にはついていける気がしない。
 それに――、聞かない、触れない、気にしないつもりとはいえ、と鳳の関係はいったいどうなっているんだろう? という疑問もある。
 いや、聞かずとも鳳を見ていればに対する想いなど知れているわけであるが――と考えて宍戸は無意識に深いため息を吐いていた。



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