『知らない』ということを、完全に見過ごしていた……。 秋――新学期が始まれば進路のことも現実味を帯びてくる。 陵南は特に進学校というわけではなかったが、仙道に関しては片手では足りないほどの数の大学から誘いが来ていた。むろん、バスケ推薦だ。 引退を決意してさえ田岡をはじめ他の教師陣もなかなか諦めきれないのか説得される日々である。とはいえ、そんなわずらわしい事よりも恋人であると人並みらしい高校生活を楽しみたい方が優先で、仙道は普段通り「のらりくらり」かわして日々を送っていた。 「いっぱい釣れたね」 「これ魚住さんとこに卸したら案外良い商売になったりしてな」 「うーん……」 新学期が始まってすぐの土曜は午後、仙道は釣りに付き合ってくれたと共に湘南の海岸沿いを歩いていた。 釣りは好きだが外れることも多い仙道としてはなかなかの大漁で、の叔母であり紳一の母への良い手土産になりそうだ、と思う。今日は牧家で夕食を一緒にとる約束をしていた。 「おかえりなさい、。いらっしゃい仙道君」 「ただいま」 「どうも。お邪魔します」 幾度となくくぐったことのあるの家の門をくぐれば、いつものように紳一の母は笑顔で出迎えてくれ釣りの成果を差し出したら喜んでくれた。 仙道にとっての釣りは待っている時間も含め釣るまでがメインゆえに成果ゼロの日も多く、釣れてもリリースすることも多かった。なによりバスケが主軸の生活で釣った魚の処理まで気を回す時間もなかったからだ。しかしバスケ部を引退したいま、今までは気を回せなかったものにも回せる時間の余裕が生まれた。 夏休みの後半、ほぼずっと毎日と過ごした。仙道の部屋で過ごすことも多く、二人を一番悩ませたのは食事の支度だった。は一度仙道に大量の差し入れを持ってきてくれたことがあり、「一度習っただけだから忘れちゃった」などと言いつつも仙道が特に気に入っていたものをリクエストすれば作ってくれはしたが……今後の生活を思うと自分もできるに越したことはない、と仙道はまざまざと実感した。 どうせなら釣った魚を捌ければ便利だろうな、とこぼした際にが「叔母さんに習ったら」と言ったのがきっかけで今日は魚持参で紳一の母に魚の捌き方を習うこととなったのだ。彼女は二つ返事で喜んで受けてくれ、仙道はその好意に甘えることにした。 「、せっかくなんだしあなたも一緒に覚えたらどう?」 うきうきしている様子の紳一の母でありの叔母は、キッチンの端から顔を出してそわそわしているらしきに声をかけた。そしてちらりと仙道を見上げる。 「ごめんなさいね、仙道君。お料理くらいがしてあげればいいのに」 「え……!? いや、オレはもう十分してもらいましたし。今度はオレがちゃんに美味いモン食わせてやりたいです」 の叔母は少女趣味で非常に保守的だとは聞いていたが。これだとと話が噛み合わないだろうな、などと感じつつ仙道が言うと彼女は「まあ」と瞳を輝かせた。 「優しいのね……! 大君もとっても優しくていつも手伝ってくれてたけど、ったら本当にいい人を見つけたのね」 仙道が苦笑いを浮かべる横で「叔母さんッ!」と叱咤するようなの声が飛んだ。 ――夏休みの終わりに彼女にはと交際している事を告げた。すれば彼女は得心がいったように「差し入れは大君宛てじゃなくて仙道君にだったのね」などと言い、その後に続く彼女の話を聞きながら改めて牧家内で占めている諸星の地位の高さを思い知った。 「娘と一緒に料理をするのが夢だったんだけど……男の子もいいものね。紳一はこういうことはさっぱりだから嬉しいわ」 うふふ、と可愛らしい様子を崩さない彼女はさすがに紳一の母。牧さんもあれでオフコートだと割と抜けてるしな、と仙道は教わりつつ話の聞き役にも徹していた。言葉の端々から、多少のズレは感じつつも、をとても大事にしているのが伝ってくる。 の母親は彼女とは性格が正反対らしく、将来を思うと義理の母親が二人に兄が……と連想しそうになって仙道は慌てて止めた。 基本の三枚おろしを習って数匹捌いていくうちになかなか手馴れてきて、大げさなほどに紳一の母が褒めてくれた。そうして保存法も習ったところで彼女はを呼んだ。そろそろ夕刻。夕食の準備のためだろう。 今日はとにかく日常で使える料理を習うということで、仙道は言われるままに煮付けやホイル焼きという比較的簡単らしき料理を作っていった。合間のメモも欠かさない。その間にもは副菜作りを指示されており終始にこにこしている叔母のもとで料理ができあがっていく。 そうして出来上がった品々を食卓に並べてちょうど夕食の準備を済ませたところで出かけていたらしき紳一が帰宅した。 「ただいま。……仙道、来てたのか」 「お邪魔してます」 相変わらず自分を見るなりやや目線を鋭くした紳一に仙道は何食わぬ顔で笑って挨拶をした。 「お帰りなさい、紳一。今日のお夕飯は仙道君が作ってくれたのよ」 「は……!?」 「いや、まあ……一部だけですけど」 目を丸める紳一を見やりつつ食卓を囲む。我ながらそこそこよくできたんじゃないか。などと思っていると「美味しい」と箸をつけたが絶賛してくれた。の叔母も頷く。 「本当にはじめてなんて思えないわ。私は大君が義理の息子になってくれればうれしいなんて思ってたんだけど……仙道君だときっとは幸せね」 「ちょ、母さん! はまだ高校生だぞ!」 たぶん彼女はこういう人なんだろうな、と感じていた仙道はさして何も感じずに対面のを見やると苦く笑っており、この手の発言は日常茶飯事と悟って仙道も苦く笑った。 紳一が「まだ早い」と否定したい気は分からないでもないが、自分はハナからそのつもりだしな、と箸をつける。 食後のコーヒーは部屋で飲もうと誘ってくれたに従い、仙道は背中に紳一の視線を感じつつもリビングをあとにして二階のの部屋へと向かった。 「ごめんね、お兄ちゃんインターハイのあとからずっとああで……」 「いや、気にしてねえよ」 さすがに紳一の視線が鋭かったことはも気づいたらしく仙道は肩を竦めるしかない。のことを抜きにしても、自分とて紳一率いる海南や神率いる海南に負けた直後は彼らとどう顔を合わせればいいか分からなかったのだから紳一の心情も推して知るべしである。 そうだ、とが話題を変えた。 「今週、さっそく3年生は進路調査があったけど……陵南は?」 ああ、と仙道も頷く。 「ウチも似たようなもんだな」 「仙道くん……いろんな大学から推薦来てるよね?」 ん、と仙道は持っていたコーヒーカップをローテーブルに置いた。 「けどオレはもう引退したし……関係ねえけどな」 言えば「うん」ともそれ以上は追及しなかった。だが自身の進路に対しては……付き合い始めたばかりのころにチラリとしか聞いていない。それとなくに促すと、は少し目線を流した。 「私、以前も言ったけど……両親のところに戻るつもりなの」 「ああ、北米って言ってたっけ?」 「うん。カナダの……トロント」 「……そっか……」 付き合い始めたころにその話を聞いた仙道は「オレを置いていくのか」と返した。すればは「仙道くんが私についてくるのは?」と答えて、「それもいいかもな」と単純に思ったものだ。本気だったが、現実味を伴わない返事でもあった。 は、もしも自分が東京に残って譲れないやりたいことがあると言えばここに留まることも再考してくれるかもしれない。しかしそんな目標は目下ない。むしろ、図らずもバスケットの本場へと渡ることも面白いと考えている自分がいる。 問題はがどう感じるかだが――と仙道はをまっすぐ見やった。 「そんじゃオレもそうする。前もそう言ったしな」 「そ、そりゃあの時は私についてきたらいいのにって言ったけど……そんなに簡単じゃないと思う」 「そうか?」 「だって……」 「ちゃんも色んなとこ行ったりきたりしてるだろ」 はは、と笑うとはグッと言葉に詰まった。仙道は思う。「一緒に東京の大学にいこう」などというノリとはわけが違う。に追随する形を取ることは少なからずにとって負担でもあるのだろう。 とはいえ、「負担」と思われているとしたら心外だな……と仙道はスッと手を伸ばしての頬に触れた。 「オレはもう……離れる気はねえよ」 つ、とが息を詰めた。インターハイが終わったらずっと一緒にいよう。そう約束したことを思い出したのだろう。 そっとを抱き寄せて思う。もたもたしている時間はない。が、ある程度は楽観視している。ほどではないとしても自分の家もそこまで金銭的に不安があるとは思えないし、それにあっさり「そう」「行って来い」と言いそうな両親だ。が……とにかくきちんと調べて説得しねえと、と強く思いつつに具体的な場所やなんかを聞いていく。 そして真面目に進路について話し合ったあとにそろそろ帰ろうとリビングに顔を出して挨拶をすると、あろうことか紳一が廊下まで出てきた。 「お兄ちゃん?」 「ちょっとそこまで送ってってやる」 「え……!?」 仙道との声が重なったが二人とも反論はできず、仙道はに見送られながら紳一と揃って家を出た。 なんだかな……と首に手をやりながらちらりと紳一を見やる。 紳一にしてみれば自分はライバル校の主将で海南の全国制覇を阻んだ敵でもある。加えて妹同然のの恋人。気に入らずとも仕方ない。しかし試合結果はバスケである以上どうしようもないことであるし、との交際も何一つ自分たちの気持ちに後ろめたいことなどないのだ。そこを引く気は一歩もなくしばし無言でいると、先に紳一の方が口を開いた。 「お前……大学はどうするんだ? 推薦の話、来てんだろ?」 「え……? ああ」 そのことですか、と仙道は肩を竦めた。ここ数週間でいやというほど聞いた質問でもある。 「オレにとっての最後の試合はインターハイだと決めてましたから」 「……お前まで引退すんのか……」 すれば紳一はやれやれと言いたげに息を吐いた。仙道は首をひねる。「お前まで」とは高校でバスケをやめた紳一本人のことだろうか? それとも神か? 考えつつ歩いているとふと紳一が歩みを止めた。 「は……カナダに行くと言っている」 「……はい」 知ってます、と仙道も倣って足を止めた。 「だからオレ、一緒に行こうと思ってます。ていうか……前からそのつもりだったし」 「随分と簡単に言うな」 「簡単なつもりはないんですがね」 仙道はただでさえ下がり気味の眉をさらに下げて肩を竦めた。どれだけ真剣であっても真剣みが伝わらない、というのは時に厄介な自身の特性である。 ハァ、と紳一は一つ深い溜息を吐いた。 「お前はなんか誤解してるかもしれんが……オレはお前たちのことに口出す権利は何一つねえからな。仮にオレがお前を気に食わんでもだ」 仙道は「はぁ」と目を寄せる。誤解しているのは未だに自分たちが真面目に交際していると認めていないらしき紳一の方なのでは、と過ったが口には出さずにおいた。どう弁明したところでこればかりは時間が必要だからだ。 「だが仙道、これだけは言っておく。お前はお前が考えてるよりものことを分かっちゃいない。そこは諸星にも遠く及ばない」 「は……?」 「お前もカナダに行くってんならオレに止める権利はねえが……。ハンパな気持ちであいつに近づいてくれるな」 「牧さ――」 紳一は仙道をひと睨みしてから背を向け、仙道は絶句したのちに「なんなんだ、いったい」と呟いた。 諸星よりを理解していない? 諸星とは幼馴染で兄妹同然の間柄だ。そりゃ知らないことも多いに決まっている。が、自分は諸星の知らないも知っているし――。 『仙道……、お前、のことまだ良く分かってねえな』 ふいにいつか諸星に言われた言葉が浮かんで仙道は眉を寄せた。「なんなんだ、いったい」ともう一度呟いて息を吐く。よそう。自分とはうまくいっているし、そもそも紳一は自分たちの交際をよく思っていないのだからきつく言いたいのは自然の理だ。それより近々実家に戻って進路相談しないと……と気持ちを切り替えて夜道を歩いて行った。 |