いつもと変わらない、週末の午後――。
 電話の音がリビングに響いて、キッチンにいたはリビングへと駆けると受話器を取った。

「ハロー? ――あ、お兄ちゃん! いま着いたの?」

 受話器越しに聞こえた声は久々に聞く紳一のもので、一通り用件が済むと、は受話器を下ろして、ふぅ、と息を吐いた。すると間髪入れず再び電話が鳴って、言い忘れかな、と思い再び受話器を取り上げる。
「お兄ちゃん? なにか――あ!」
 電話を終えて、は上着を羽織ると家の外へ出た。とたん、少しばかり肌寒い風が頬を撫でていく。既に陽が落ちかけて夕暮れも近い。少しずつ日が短くなってきたのを実感する。
 小さなバスケットゴールの置いてある庭を横切って、道路を抜ければすぐに砂浜が見えてきて、見知ったツンツン頭も見えてきて、はその背に向かって声をかけた。
「彰くーん!」
 すると、ピク、とその背中が反応して、相も変わらず大きな背中は人好きのする笑みと共にこちらを振り返る。
ちゃん……。なに、もう牧さん着いた?」
「ううん、お兄ちゃんいま空港に着いたって。すぐ会議があるからこっちに着くのは夜って言ってた」
「ははは、土曜だってのに大変だな、さすが牧さん。付き合わされるこっち側から文句でねーといいけど」
「あ、それと流川くんからも電話があったよ。来週、こっちに遠征でくるから週末に寄るって」
 とたん「ゲッ」と仙道の顔が強ばる。
「オレは来週末は釣りに行く予定入れてんだけど……」
「桜木くんも一緒に来るって。久々に勝負できるのを楽しみにしてるとかって言ってたよ」
 の声を受けて、仙道は以前よりは短くなった短髪のツンツン頭をガシガシと掻いた。
「んー……、オレは勝ち逃げしときたいんだけどな」
「食事にも期待してます、だって……。ウチのエンゲル係数あげてるの絶対に桜木くんよね。にしても、流川くん、何度言っても未だに私のこと”コーチ”って呼ぶんだけど……」
 そんな話をしていると、二人の足下で弾んだような小さな声があがった。
「さくらぎ……! さくらぎくる……!!」
 その声に仙道は満面の笑みを浮かべ、足下からヒョイと声の主である二歳ほどの小さな男の子を抱き上げて自身も声を弾ませた。
「そーだぞ、桜木が来るんだぞ」
「さくらぎ……!!!」
 その様子を見て、は肩を竦ませた。――完全に仙道の桜木好きが遺伝している。との思いからだ。

 仙道が陵南でインターハイ優勝を飾り全国MVPに選ばれたあの夏から、既に10年以上の月日が流れていた。
 その後、陵南を卒業した仙道は、同じく海南卒業と同時に両親の転勤先であるカナダはトロントに移住を決めたと共にトロントに渡り、二人で同じ大学へと通うこととなった。
 は早期に学力で入学を許可されていたが、仙道自身は入学基準に達していない英語力のための補習授業を入学前に受けることと、何より「全国一のバスケット選手」という肩書きが効いて何とか入学できる運びとなり、「MVP獲っといて良かったと心底思った」、というのはのちの仙道談だ。
 自身のバスケの能力で大学に何とか引っかかったような部分もあったため、仙道はバスケ部には正式所属しなかったものの、度々助っ人として駆り出される羽目になり――そうなればやはり仙道らしく、大学内でのカレッジ対抗戦などでめざましい活躍を見せた。
 そのプレイスタイルはカナダ人にとってはマジック・ジョンソンを彷彿とさせるものだったらしく、もっぱら「マジック・アキラ」などと呼ばれ、ついには「マジック」と略され、終いには仙道と面識のない学生に「ジョンソン!」などと呼ばれる場面もあり、けれども仙道としては「天才・仙道彰」という肩書きのない環境は想像以上に過ごしやすかったらしく、伸び伸びとした学生生活を送っていた。
 にしてもそれは同様であり、自身より大きく体格もいい女子に混じってバスケットをやることも少なくなく、それは二人にとっては何もかもが目新しい真っ新な再スタートであった。
 なにより、仙道がと共にトロントへ移住した最大の利点は、図らずも日本中が納得したことだ。
 インターハイ後、仙道には数多くの大学からのスカウトがあり、仙道自身は全て断ったもののマスコミから世間も含めてあまり納得してはくれず……「国外に出る」「北米に行く」というキーワードは騒ぎの収束に繋がる結果となったのだ。
 そうして雑音の多かった日本を離れ、二人して勉強にバスケにと充実したキャンパスライフを送り、は最終的に博士まで進んだが仙道はMBA取得後にこの地で就職をし、と籍を入れ、そのまま大学のそばに住んで既に数年の月日が流れている。

「そういえば……、流川くん・桜木くんを大ちゃんが日本に呼び戻したいって言ってたの、覚えてる?」
「ああ……、来年のアテネだろ? 諸星さん、真面目に金メダル狙ってんじゃねえか?」
「大ちゃんの夢は相変わらず大きすぎて……。でも大ちゃん、たぶん次のオリンピックが終わったら現役引退すると思う。愛知に帰るんじゃないかな」
「ああ……。てかオレ、田岡先生に国際電話で泣きつかれたことあるぜ。諸星さんを自分の後継になってくれるよう説得してくれって」
「あ……私も聞いた。大ちゃんも現役引退後のお誘いがいっぱいあるみたいだけど、でも大ちゃん教員免許持ってるし大学より高校で教えたいみたいで、色々迷ってたみたいよ。たぶん母校・愛和の監督になると思うんだけど……田岡監督のお誘いも魅力みたい。もし陵南に行けば、お兄ちゃんにいつでも会えるし、って」

 話しながら、は眼前のオンタリオ湖に視線を投げた。既に薄紫に色づいた空間に、ス、と目を細める。
 諸星は――自分と紳一の3人の中で生涯をバスケに捧げると決めた唯一の人間であり、その言葉通り、今や全日本のキャプテンにまで上り詰め、「愛知の星」ならぬ「日本の星」である。
 いや、もしかしたら日本に留まらないのかもしれない。
 学生時代、日本で開催されたユニバーシアードで日本代表のキャプテンとしてチームを率いた諸星は、決勝でアメリカさえ下して自身の「ユニバーシードで優勝、世界一」を有言実行してしまい、日本にバスケブームを巻き起こした。
 のちにナショナルチーム入りした彼は、かつての戦友たち――、森重やアメリカに渡った沢北も含めた山王のメンバー、流川などを率いてアジア大会でも優勝を果たし、世界選手権の出場権も得て世界へと繰り出し。「アジアの星・諸星大」などという見出しでメディアを騒がせることもそう少なくはなかった。
 そんな彼も一度目のオリンピックでは満足いく結果を出せず、来年に迫った二度目のオリンピックに向け意気込んでいる状態だ。

「来年、アテネに見に行こうね。3人で」
「そうだな……。つーか、桜木たちは出るつもりなのか?」
「たぶん、オリンピックのために一時帰国するんじゃないかな……。大ちゃんとしてもベストメンバーで臨みたいだろうし。って言っても色々しがらみもあるだろうけどね、沖田くんの国籍問題とか……」
「桜木といや、桜木の高校時代の先輩で柔道の金メダリストいたよな」
「ああ、青田さん! 次のアテネで3連覇かかってるんだっけ……凄いよね」
「つーか、普通の公立でオリンピック選手がごろごろ出てきてメダリストまでいるっつーのがなんつーか……湘北ってやっぱ特殊だよな」

 二人でどことなく懐かしい気分にも浸りつつ、互いに顔を見合わせて小さく笑い合う。
 あの後――、達の世代で幾人かが本場でのバスケットを夢見て渡米を果たしたが、その行く道は様々であった。
 早期に渡米していた沢北は、渡米直後は振るわなかったものの、徐々に実力を伸ばし、ポジションは2番での起用が多くなってスウィングマンとして大学卒業後は独立・マイナーリーグを転々とし、いまはNBA傘下の組織で更に上を目指して切磋琢磨している。
 マイケルに至っては、これはおそらく「日本人」として見れば特殊な例だろう。UCLAやらノースカロライナからの直々の誘いがあり、強豪大で順風満々な選手生活を送ったあとに、今は、スターターではないものの、立派なNBAプレイヤーとして活躍している。
 流川も湘北卒業後に渡米したものの、その性格ゆえかアメリカになじめず、逆に流川を追ってアメリカに渡った桜木は持ち前の性格が幸いしたのか英語さえすぐにマスターしてすっかりアメリカに馴染んでしまった。
 もっとも流川も今ではだいぶんアメリカナイズされ、どうにか他人とのコミュニケーションもスムーズに取れるまでに成長したが――、二人とも、厳しい環境でバスケだけでは生活できず、副業を持ちながら今もバスケに励んでいる。
 どういう因果か同じチームに所属している流川と桜木がトロントに来た際には、仙道家を訪れるというのが一種の習慣となっていた。

 それぞれ――かつて「仙道のライバル」と称された選手たちがバスケに励んでいる様子を見るにつけ、あっさりとバスケをやめた仙道を「これでよかったのか」とが思うことも一度や二度ではなかった。

 事実、仙道の実力が劣っていたわけでは決してなく――。
 大学時代にポイント・フォワードとして「和製マジック」などと呼ばれていた仙道に、ここトロントに出来たばかりのNBAチーム「トロント・ラプターズ」から誘いもあったが、仙道はそれも断っていた。
 曰く「NBAから誘いが来たということだけで満足」らしいが……。とはいえ、相も変わらず休日には泊まりがけで釣りに出かけることも少なくなく、選手生活はやはり無理だろうか、とは肩を落とした。
「彰くん……」
「ん……?」
「ナショナルチーム……、ポイントガードが心許ない、って大ちゃんが前に言ってたけど……。彰くんがその気なら、今からだったらオリンピックに間に合うんじゃないかな」
 が仙道を見上げると、仙道はきょとんとして「んー」と頬を掻いた。
「オリンピック、ね……。ま、出たくない、って言ったらウソになるけどさ。そのためにちゃんやコイツと離れて高3の時みたいな生活しろって? ムリだな」
 ははは、と笑って息子の頭を撫で、それに、と仙道は湖の方を見やった。
「オリンピックともなりゃ、背負ってるモンの重さがハンパねえはずだ。オレみたいなのがちょろっと参加して、終わったらハイ帰ります、なんて軽いもんじゃねーだろ」
 言われても、うん、と相づちを打った。すると仙道はなおニコッと笑う。
「客席で見ようぜ。愛知の星の、最後のプレイだ。もしかしたらマジでメダル取っちまうかもしんねーしな」
「大ちゃんだけにね……」
「けど、もしオリンピックメダリストになったとしても、諸星さんの最終目標ってインターハイ優勝……なんだよな」
「うん。たぶん、愛和時代に出来なかったことを、愛和の監督としてやりたいんじゃないかな。なんだかんだ、あれだけの選手になっても、愛知を日本一に、を実行したいみたいだしね」
 言いながら、は仙道に抱き抱えられている自身の息子を見やって小さく息を吐いた。
「そのうち、”お前らのガキを愛和に入れろ!”ってぜったい言い出すと思ってるんだけど……」
 とたん、一瞬だけ目を見開いた仙道は弾かれたように笑い出した。
「あっはっは! うんうん、オレとちゃんのハイブリッドだもんな、そりゃ才能あるかもな! ついでに牧さんの遺伝子も入ってるし、オレ達以上の選手になれそうだ」
 言いながらキョトンとしている息子をワシワシとなで回す仙道を見ては苦笑いを漏らした。二人の教育方針としては、息子を是が非でもバスケット選手に、とは思ってはいないのだが……まあ、将来どうなるかは誰にも分からないことであるし、いま考える必要もないか、と対岸に目線をやりつつ揃ってゆっくりと砂浜を歩いていく。
 ――未来のことは分からない。
 本当にその通りだと思う。まさか、仙道と出会った頃は――こうして一生を共にするパートナーに彼がなるとは思ってもいなかったのだから。
 仙道に出会っていなかったら、自分は今も過去との決着を付けられずにバスケットや諸星に対するわだかまりを抱えたままだったのだろうか? と秋の気配を覗かせる湖面を見ていると、隣で仙道が懐かしそうに目を細めた。
「なんか……、思い出すよな」
「え……?」
「猪苗代の夕暮れ。ほら、高校の時、国体で行っただろ?」
 仙道を見上げて、うん、と相づちを打つと、仙道も口元を緩めてから再び湖の方に目線を送った。
「準決勝で、神奈川が愛知に勝った日のことも覚えてるか?」
 言われて、は思わず息を詰める。――脳裏にすぐさま、諸星が仙道に敗れて予想外に混乱してしまい、我を忘れて体育館でバスケをしていた自身を仙道が落ち着かせるように抱きしめてくれたことが浮かんだからだ。
 仙道の方はなにを思い出していたのだろうか? 目線はいまだ、湖の方だ。その瞳に映っていたのは目の前のオンタリオ湖ではなく、福島の猪苗代湖だったのかもしれない。
「オレはあの国体に参加できて、”大ちゃん”と出会えて、本当に良かったと思ってんだ。つーか、あの国体がなかったらちゃんオレのこと好きになってくれてなかったかもしれねえしな」
 な? とごく自然にこちらに笑みを向けてきた仙道を見ては、ぐ、と息を詰まらせた。
 ――たぶん、その前からずっと好きだった。とは言えず、フイ、と目線をそらす。
「ど、どうかな」
「え、あの時、オレに惚れてくれたんじゃねえの?」
「わ、わかんない、忘れちゃった!」
 そうかわして二、三歩前を行くと、後ろで「チェッ」と呟いた後、仙道が薄く笑った気配が伝った。
 そして、3人でゆっくり歩きながら家への道を戻っていく。
 色づいてきた木々を見て、仙道と息子は楽しそうにはしゃいでいた。
「ほーら、これは流川だぞー、流川!」
「かえで! かえで!」
「そうそう、カエデ!!」
「かえで! いっぱい!」
「流川がいっぱい!!」
 楓の木の下で声を弾ませる二人を見つつ、来週流川に会ったら同じ事を言うのだろうな、と思いながらは肩を竦ませた。
 無意識に口元を緩ませてしまったのは――きっと、幸せだ、と感じていたからだろう。

 ――もしも願い事が一つ叶うなら。
 ――どうか私を、男の子にしてください。

 そう心から願っていた頃を、は懐かしく思い返していた。
 どうしようもない。――と、心に蓋をしたままだった頃の自分は、どこへも進めなかった。
 不完全だと思っていた自分を、そのまま認めて受け入れることが出来たのは、他でもない、仙道と出会えたおかげだ。と、仙道を見上げて微笑む。
 自分も、そして諸星も、抱えていた消えない晩夏の思い出を、仙道に出会えたことで解き放てたのだと思う。
 諸星は、何より諸星自身のために、バスケに生涯を捧げることを選んだ。
 そして自分は、諸星に勝てるような誰にも負けない選手になるという夢と羨望を仙道の中に見て、そばで追い続けるうちに、バスケット選手としての彼を求める自分と、仙道彰本人を想う自分を、ちゃんと分けて一つにした。
 仙道ものちに言っていた。彼も、もしも自分との出会いが欠けていたら、きっと日本一にまではなれなかっただろう、と。
 あの頃は日々に夢中で、こうして過去を振り返ることなど出来なかったが……。二人、それぞれ苦しい夏を乗り越えてここに辿り着いた。
 この未来に――「もしも」はいらない。と、微笑んでいると、隣で弾んだ声があがった。見ると二人はオンタリオ湖の方を振り返っており、も視線の先を追う。
 紫がかってきた空の先で、対岸の灯りが煌めいていて、もその美しさに頬を緩めた。
 少女だった頃の思い出は、既にあの煌めきのように胸の奥に仕舞った記憶のかけらだ。
 遠いあの日に感じた悲しみも、苦しみも、決して足枷などではなかった。だって、自分はいま、ここにたどり着けたのだから。

 陽が落ち、また明日がやってくる。自分たちは決して、この歩みを止めはしない。

 そしてまた10年後、20年後の今日に、いまを懐かしく思い出すこともあるのだろう。
 目を細めていると、右手で息子を抱えた仙道が左手で肩を抱いてきて、も仙道の身体に自身の身体を預けた。

 ――次に生まれ変わったら。
 ――自分はもしかしたら、やはり男として生を受けることを望むかもしれない。

 だけど、牧は……いまの自分で良かった。
 そっと瞳を閉じれば、瞼の裏に、あの晩夏の日の光景が過ぎった。茜色の空間で、世界の全てに拒絶されたと悟った、忘れられない景色だ。
 既に過去のものとなったその風景の中の昔の自分に、そっと語りかけてみる。

 ――大丈夫。あなたは、ちゃんと乗り越えられるから。

 彼女はまだ知らない。
 同じ日に神奈川に越してきて、出会うことになる少年のことを。
 そして、そこから始まる、それぞれの夏の話を――。

 エースの中のエースと呼ばれた自分と、それを目指した彼の物語。
 誰かが、雑誌の見出しに付けていたフレーズを思い出す。――エース・オブ・エース、と。


 天才と呼ばれながら、道半ばでバスケットをやめた少女は、天才と呼ばれる少年に出会った。
 彼らは想いを通わせ、少年は日本一の選手となる。自分と、そして彼女の才能の証明のために。
 そこで幕を閉じる、ハッピーエンドの物語だったのだ。


 と、そんな記事もあったっけ……、などと思い返しながら、は薄く笑った。
「ん? どうした?」
 すると、いつも通り仙道が柔らかい声で眉尻を下げ、なんでもない、となお頬を緩める。

 物語は、まだ続いている。
 ごくごくありふれた、けれども幸せで賑やかな色で彩られた物語。決して誰も、結末を知らない。

 ――明日は、どんな日が待っているのだろう?

 しばし二人は笑いあって、夕暮れの湖面に煌めく街の灯りを眺めていた――。



―― THE END ――


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