――半年前、東京にまで出向いて受けたフランス語のレベル認定試験に落ちた。

 ほんの数点の不足だったため、次は確実に受かるだろうという自信はにはある程度はあった。
 が、気を抜けないことには変わりなく――。

 偶然、クラスの女生徒が男子バレー部のインターハイ予選の日程について話していたのが聞こえた。
 初日が6月2日、最終日が6月4日。最終日は月曜であるため、土日に応援に行こうかと彼女たちは相談していたのだ。
 6月3日には試験の第二パートが控えている。だからだろうか。及川は一言も予選の日程について言わなかった。と、は自宅自室の机でカレンダーを見つつ唇を結んでいた。
 ノートパソコンを開いて、検索したい文字を打ち込む。宮城県高体連のホームページに行けば日程及び対戦トーナメント表がチェックできるのだ。
 青葉城西はAブロックのシード。そして白鳥沢はトーナメント反対側Cブロックのシードだ。彼らは当たるとしても決勝である。だが――。
「あ、烏野……Aブロック……!」
 影山のいる烏野高校もAブロックに入っており、もしも烏野が勝ち上がってくれば青葉城西とは二日目に行われる3回戦で当たる事がトーナメントからは読みとれた。
 とはいえ、だ。どう考えを巡らせたところで、その日は試験実施日。自分が観に行ってもどうにかなるものでもないし、そもそもが試験。及川は一度も自分の試合を優先してくれと要求してきた事はないし――でも、と焦燥のような申し訳なさのようなものがの脳裏を駆けめぐった。
 白鳥沢とのことはあまり心配していない。何だかんだ及川は牛島との対戦には慣れており、そもそもポジションが違う。
 だが、影山はセッター。及川の直属の後輩で、彼は及川を慕っており、そして及川が最も欲する「バレーの女神に愛された手」を持つ「天才」でもある。
 自身はバレーをしている影山は一度も見たことないが――、やはり気がかりだ、とスケジュール表を見てグッと拳を握りしめた。


「おーい岩泉、これ見た?」
「なんだ……?」

 インターハイ予選を明後日に控えた木曜の早朝。
 朝練のために部室で用意をしていた岩泉はあとから来た花巻に声をかけられ、振り返った。すると花巻の手には雑誌が握られており、差し出されて手に取った岩泉の顔が一気に歪む。
「さっきコンビニ寄ったついでに雑誌パラ見してたら見つけちゃったんだよね」
 花巻の声を耳に入れながらも岩泉はとっさに反応することが叶わなかった。
 手に取った雑誌のページには、「高校バレー界話題のイケメン選手を激写」などという見出しで満面の笑みでダブルピースをした及川の写真が飾られており、うっかり舌打ちを漏らしてしまった。
「ウゼェ……なんだこれ」
「さあ。ま、街で声かけられてとかデショたぶん」
 背景に映っているケヤキ並木は定禅寺通のソレだ。おそらく花巻の言うとおりの経緯なのだろう、と雑誌をその辺りの椅子の上にでも置こうと岩泉が腕をおろしたその時。
「おっはよー!」
 部室の扉が開いたと同時にまさに渦中の人間の声が響き、岩泉の眉はほぼ自動的に釣り上がった。
「朝っぱらからウゼェ声出すなクソ及川!」
「え、なにイキナリ? 酷くない?」
 今日ばかりは及川のクレームに正当性があると分かりつつも岩泉は苛立ちのままに雑誌を及川の方に放り投げた。すればきっちりとキャッチした及川が「なに」と首を捻りつつもページに目線を落として、ああ、と笑った。
「これちょっと前に定禅寺通りで撮られたんだよね。けどさ、この俺、真剣にイケてない? カメラマンがつい撮りたくなっちゃう気持ちもわかるよね? あ、岩ちゃんにはそんな経験ないか。ゴメンゴメン」
 そうして自分の背後にまとわりつくようにしていつものように軽口を叩き始め、今度こそ本気で眉間に皺を寄せ青筋を立てた岩泉は「うるせぇ!」とがなりつけた。
「さっさと着がえろ、グズ及川!!」
「ヒドっ! 嫉妬は見苦しいぞ岩ちゃん!」
「するかボゲェ!」
 そのまま部室に置かれた花巻の雑誌は部員に回し読みされる事となったが、取りあえずは切り替えて体育館に向かう。
 アップを取りながらの話題は当然のように目前に迫ったインターハイ予選だ。
「3回戦……、あれデショ、たぶん伊達工か烏野でしょ。どっち上がってくると思うよ?」
 柔軟をしながら花巻が言えば、それぞれがそれぞれの思いを口にした。
「伊達工じゃねえか? 烏野は県民大会で伊達工にストレート負けしてるだろ」
「うーん、烏野なんじゃない? ていうか俺がそうじゃないと困るんだけど」
 及川の意見を聞いた岩泉はジッと及川を睨み、ああ、と花巻は目線だけで及川を見やった。
「及川の後輩がいるんだっけか、烏野。あの神業トス使う黒髪の……」
 言い分に岩泉はうっすらと眉を寄せた。――「お前らの後輩」ではなくピンポイントで「及川の後輩」と覚えられてしまうほど、花巻にとってセッターとしての影山が印象に残ったのか。それとも、影山があまりに及川に似ていたせいか。
 ちらりと及川を見れば、ムスッとふくれっ面をしているものの否定はしておらず。――岩泉は何も言わないでおいた。中学の時の後輩だろ、とか、元後輩じゃねえか、などと言葉遊びをするつもりはないが。少なくとも及川の中では未だ、確かに憎い敵であるはずの影山の存在はごく自然に「自分の後輩」なのだと再確認させられた気がして、チッ、と小さく舌を打った。


 ――6月2日、土曜日。高校総体男子バレー宮城県予選初日。

 は自宅の自室でフランスの時事問題等について自分の意見をまとめ、喋る練習をひたすら繰り返していた。
 明日は口頭表現試験の実施日。一つのトピックについて面接官と10分ほどディスカッションしなければならない。むろん内容よりもいかに喋れるかに重点が置かれているため、喋れれば良いのだが。と、は一つ息を吐いた。
 前回、一番点数が良かったのが口頭表現。これに関してはあまり心配していない。
 ――コーヒーでも入れようかな、と立ち上がったと同時に携帯が鳴って、は携帯を手に取りつつ一階のキッチンに向かった。
 愛用のマグカップをエスプレッソマシーンにセットして、携帯を開く。

 ――緒戦突破! 学校に戻ってこれから軽く練習デス。

 及川からだ。煌びやかな文面を見てホッと胸を撫で下ろしつつ、出来上がったコーヒーを持って何気なくリビングのテレビを付けてニュースにチャンネルを合わせると、パッとスポーツニュースが飛び込んできた。

「――2セット、25−6と全く流れを渡すことなく大差で圧倒。王者の貫禄を見せ付けました」

 画面に映ったのは「白鳥沢」の文字。ちょうど今日のバレーボール男子宮城県予選のニュースのようだ。
 牛島だ、と牛島若利を画面内に確認すると共には息を呑んだ。緒戦とは言え圧倒的なスコアである。

「そして、続いての注目はAブロック……」

 そこでドキッとの心音が跳ねる。青葉城西のいるブロックだ、と注視している間にも画面はも足を運んだ事のある仙台体育館に切り替わり、次いで――。

「注目はやはり、青葉城西高校主将の及川徹君ですね。華やかなルックスで女の子のファンも多く――」

 う、とはコーヒーを吹きそうになるのを必死で堪えた。
 不意打ちのようにカメラは及川をアップで捉え、キャスターはいかに及川が実力と人気を兼ね備えているかを説明しながら、背景ではそれを裏付けるかのように女の子の黄色い声が飛んでいる。
 ――花巻だったかが言っていた気がする。こうして主将になってメディア露出が増えた及川には比例するように女性ファンが増えているのだ、と。
 やや複雑な心境になっていると、キャスターはさらに続けた。

「そして明日、この青葉城西に挑むのがベスト8確実と思われた伊達工業をまさかのストレートで下し、勝ち上がってきた古豪・烏野高校です」

 その声に、更にの心音が跳ねた。
 烏野と当たるのか……と思わず及川の姿が脳裏に過ぎったにシンクロするように画面は及川の笑顔を捉えた。どうやら及川は試合後にインタビューに呼ばれたらしく、烏野の印象を聞かれている。――影山の学校だけにハラハラしていると、及川はいつも通りのよそ行きの笑顔を更に余所余所しくさせ、完璧な笑顔で言い放った。

「良いチームですよね。全力であたって……砕けて欲しいですネ」

 その及川の声を最後にニュース画面はスタジオのキャスターに戻り、キャスターは明日の彼らの奮闘を祈りつつ次の天気予報へとニュースは移った。
 10秒ほど呆然と画面を見やり、は息を吐いた。そのままソファに腰をおろし、持ってきていた携帯を開いて取りあえず返信を打ってみる。

 ――お疲れさま。いまちょうど試合結果のニュース観た。及川くんテレビに映ってたよ。

 すると及川はまだ学校に向かうバス内にいるのか、間髪入れず返事が届いた。

 ――そうそう、さっき会場前でインタビュー受けちゃった。イェイ! 及川さんカッコ良かった??

 どんな早業を使えばこんなにすぐ返事を打ててかつデコレーションまで出来るのだろう、といっそ感心しつつも返事を打つ。

 ――うん。明日、頑張ってね。
 ――ちゃんも試験ガンバ!

 少し間を置いての及川からの返事は意外にも全く影山の事については触れられておらず、はその短い文面に及川の明日へかける意気込みと共に試合を観に行けない自分への配慮さえ感じ取って、ギュ、と携帯を握りしめてしまった。

ちゃんはいつになったら及川さんのセットアップが見られるんだろうね』
『俺はトスは飛雄には敵わないからね。あんな”天才の手”、俺は持ってないんだし』
『けど、それだけじゃ勝てないってこと……この及川さんがインハイ予選でたっぷり教えてあげるつもりなんだよネ。あー楽しみ!』

 むろん、及川がどんな気持ちで試合に臨むとしても、及川は及川のベストを尽くすだろう。その試合を自分が観ているか否かに関わらず、だ。
 けれども――、と、ふとの脳裏に北川第一時代の記憶が過ぎった。毎日のように昼休みに外で練習をしていた影山と少しだけ交わした会話。
 零れたボールを拾って届けて、そしたら茂みに猫を見つけて――すぐに逃げられた猫を見送って彼はどこか寂しそうに言った。

『俺、嫌われてるんです』
『え……』
『いっつも、逃げられてかわされる……。ぜんぜんわけわかんねえ』

 あの時は、彼がなぜ辛そうに眉を寄せたのか理解できなかったが……とは眉を寄せた。
 あれはおそらく、及川のことを言っていたのだ。及川を追って、追って、そして彼はついに違う進路を選んだ。
 そして及川は――追ってこなかった彼に失望して、安堵して、そして。

『なんで天才ってああなんだろう。こっちの気持ちなんてお構いなし……!』
『飛雄になんか、負けてやんない……! 及川さんのところに来ればよかった、ってあとで後悔すればいいんだよ飛雄なんか』

 は及川を案じる気持ちから眉を寄せた。
 おそらく及川は、岩泉にすらあのような感情を見せたことはないだろう。まだ付き合う以前から、影山のことになると及川は必ず出口の見えない感情を自分に零してきた。いや、自分に見せた部分さえきっとほんの一部でしかないはずだ。
「……」
 はテーブルに置いていたマグカップの取っ手をギュッと握りしめた。青葉城西の男子バレー部の色。否が応でも及川を思い起こさせる。
 考えても仕方がない。――そう思って部屋へ戻り、思考を振り切って勉強の続きを開始する。
 夕飯をとり、また一通り復習して風呂に入り、ベッドに入って思考が勉強から解放されればいやでもまた及川の事が浮かんでくる。
 もう寝ているだろうか。考えながらそっと瞳を閉じた。――明日、自分の試験は午後からだ。そんなことを浮かべながらそのまま眠りに落ちた。



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