「及川君、バレー部って今日の放課後に練習試合やるんだって?」 「うん。俺は怪我しちゃって出られないけどね」 「えー、残念。観に行こうと思ったのにー」 週明け、火曜日。 バレー部が練習試合を行うことは珍しいことではなく、むしろ週末は毎週のように組まれているが、平日に行うことは珍しい。 ゆえに及川の勇姿を観ようと噂を聞きつけた女生徒が朝から騒いでいたものの、及川は生憎と静養中である。 は窓際で女生徒に囲まれる及川をちらりと見て、ふ、と息を吐いた。本人は通常練習に参加できず、フラストレーションが溜まっているという。 気持ちはにも分かった。絵を描くなといわれて3日も経てばおそらく平常心ではいられなくなるだろう。及川にしても思い切りバレーができないという状態は苦痛のはずだ。 と、昼休みになって来月に迫ったフランス語のレベル認定試験の対策のために教材を広げていると、しばらくして机にスッと何かが置かれては顔を上げた。 すれば牛乳パンを抱えた及川が前の席に座っており、目を瞬かせる。置かれたものは焼きそばパンだ。ここで昼食をとる気なのだろう。 「ちゃんも何か食べればいいのに。牛乳パンあげよっか?」 「いい。ありがとう」 「なにしてんの? ってフランス語……? ていうかこの時期って試験の時期だよね!? いつやんの?」 「5月の第三日曜日と6月の第一日曜日。今度は会場は仙台だけど……」 「あー……、うん、6月、ね」 及川は一瞬苦い顔をしたものの、すぐにいつも通りの表情に戻して焼きそばパンの袋をあけた。 もそれに付き合い、手を止めて持参していたコーヒー入りのタンブラーを取りだして一息ついた。 「及川くん、足は平気? 今日ってまた病院行くんだよね?」 「うん。授業が終わったらすぐ行く。また学校戻ってくるけど、試合は終わっちゃってるかもね」 「そっか……。私も部活がなかったら観に行きたかったんだけど……」 何気なく呟くと、及川は不意に焼きそばパンを頬張っていた手を止めた。 「なんで?」 「え……」 「俺の試合なんかちっっとも観に来ないのに、飛雄が来るなら観に来たいとか思っちゃうワケ?」 「え……ッ」 は面食らって持ち上げていたタンブラーを、コト、と机に置いた。一言も「影山が観たい」とは言っていないというのに。というか影山の事などいっさい頭になかった自分と、相も変わらず頭の中には常に影山飛雄という存在が居着いているらしき及川の明確な差を感じては肩を竦めた。 「でも及川くんがいないってことは、ウチはセッター不在ってこと?」 「二年のサブを入れるんじゃないかな。けど飛雄相手だとキビシイだろうし、今日は岩ちゃんがコートキャプテンだし、みんな俺がいなくて心細いだろうね」 ハァ、とため息をついた及川を見て、は口を噤んだ。及川は自分が不在で影山と会えないかもしれない事を残念に思っているのでは? と感じたが、それを口にしたところで否定されるのがオチであるし、何よりいまは及川の足が無事に治っていることのほうが重要だ。 そのまま放課後のホームルームが終われば、病院へ行くという及川を送り出しては部活に向かった。 この時期の文化部は運動部に負けず劣らず、高文連への出品で美術部も自己作品の制作に取りかかる時期であり部員は熱心に活動している。 は既にこの手の中高生の部活動向けデッサン部門で作品を出せば最優秀を獲ってしまう自身の実力をある程度は客観的に理解しており、どのコンペに臨むかは自分で選ぶようにしていた。が、部活は部活として週三回の部活動の時間は請われればデッサン指導や修正にも力を注いでいた。 ゆえに活動時間を多く取りたいは部活が終わったあと、更には部活のない月曜・金曜も美術室に籠もっているわけであるが――今日ばかりは少し事情が違った。 「お疲れさまー!」 「お疲れさまです」 19時となって部活は解散となり、も携帯に目をやる。 ――もう通常練習に戻っていいって。ブイ! そんなメールが及川から入ってきたのは2時間前。及川が烏野高校との練習試合に間に合ったかは分からない。 もしかして出たのだろうか……と思うとさすがに気になった。それに、病み上がりでいつも通りの居残り練習をやるつもりでいるとしたら。いやそれよりも、影山と顔を合わせたあとの及川というのは知る限り精神的に不安定な事が多い。 大丈夫だろうか、と案ずる気持ちが脳裏を支配してしまいとても絵に集中できる状態ではないと判断したは、みんなが出たあとすぐに美術室を出るとそのまま第三体育館へ向かった。 「あ……」 すると、入り口階段のところに見知った影が座り込んでいるのが見えた。岩泉だ。 「岩泉くん……」 「よう」 「な、何してるの……」 こんなところで、と言うと岩泉は立ち上がって背後の体育館に目配せした。 「30分経ってもあのバカが切り上げなかったらブッ飛ばそうと思ってな」 その言い分に、及川はやはり部活後に残ったのだと悟っては苦笑いを漏らした。 そうしてふと懐かしく思い出した。及川になにか気がかりがあるときは、たいてい岩泉はこうして彼を見守っていた。北川第一の時からそれは変わらない。 「今日、影山くんの高校と練習試合だったんだよね? どうだったの?」 すると岩泉は間髪入れず、ブスッとした顔つきをした。 「負けた。1−2で」 「え……」 「影山、なんか凄くなってたわ」 「え……、及川くんは……」 「アイツは相手のマッチポイントの時にピンサーで入った。数点エースで稼いだし、レシーブも完璧に上げた。けど、ま……なんせマッチポイントだ。及川は後衛で、あれ以上に出来ることはなかったな」 そうして岩泉は今日の練習試合について少し零した。曰く、岩泉は今日の対戦相手であった烏野高校に影山が進学していたとは知らず、まず彼が現れたことに驚いたということだった。しかも影山の速めのトスに対応できるアタッカーが相手チームにおり、情報がゼロだった青葉城西は及川不在も相まって攪乱されたということだ。 「しっかし、なんで影山が烏野に行ったか分からねぇんだよな。アイツのトスに合わせられるアタッカーがいたってのは、いわゆる結果論ってヤツだしよ」 「影山くん、白鳥沢に行きたかったって聞いたけど……」 及川くんから、と続けると岩泉はの予想よりも遙かに驚いた様子で硬直して瞠目した。 「白鳥沢……」 「う、うん……。その……でも、その、強豪だし……自然なんじゃないかな」 は岩泉の反応に驚きつつ、控えめに言った。岩泉にしても打倒・白鳥沢を今なお掲げていることを自身知っており、その相手を「選手なら目指すべき強豪」と断言してしまうのは憚られたからだ。 けれどもどこか愕然とした色を瞳に浮かべる岩泉は明らかに様子がおかしく、さすがにも不審に思って岩泉の顔を覗き込む。 「岩泉くん……?」 「お前……北一の時も言ってたよな。俺と及川に、白鳥沢に進むのか、ってよ」 「え……? あ、そう……だったかも……?」 「お前には、それが自然に思えるのか? 及川は白鳥沢に進むべきだったと……そう思うのか?」 どこか責めるような、訴えかけるような声には眉を寄せた。影山の話をしていたというのにいつの間にか及川の話にすり替わっており、まったく要領を得ない。 「及川くんがどうすべきだったとかは分からないけど……。白鳥沢は県で一番の強豪で、全国でも名前が知られてるような学校だから……そりゃ、もっと上に行きたい選手は行くんじゃないかな。影山くんが白鳥沢に行きたいって思ったのは、私には自然の事だと思う。そりゃ、影山くんは――」 及川を追って行きたいとかつては言っていたけど。という言葉をは飲み込んだ。ここでそれを岩泉に訴えてもどうしようもないからだ。 だが岩泉はその部分は聞こえていなかったかのように考え込むような仕草を見せた。 「もっと、上……」 「岩泉くん? あの、ほんとにどうしたの? 及川くんがどうかした……?」 苦悶の表情を浮かべる岩泉の意図が全く読めず、案じて強めに訊いてみると岩泉はそこでハッとしたように目を見開いてこちらを見た。そして数秒後に、いや、と首を振るう。 「ワリぃ。なんでもねえ。お前があいつ連れて帰るってんなら俺は先帰るわ。じゃあな」 「え!? え、ちょっと待って、一緒に――」 「あと20分経っても切り上げなかったらタコ殴りして止めてくれ」 じゃあお先、と岩泉はそのままスタスタと中庭の方へ足を向けて行ってしまいはしばし呆然とその後ろ姿を見送った。 何かあったのだろうか、と不審に思いつつ体育館に入れば、聞き慣れた規則的な打撃音とバレーボールシューズが床を擦る音が聞こえてきた。 ――ピンチサーバーとはいえ、及川は試合に出て影山相手に負けた。おそらくいつもの比ではないほどに気が立っているはずだ。 さすがに邪魔したくないな、とはコートへの扉は開かずに踵を返して体育館入り口の壁にもたれ掛かると、ふぅ、と息を吐いた。 岩泉に言われた通り、20分待ってこの打撃音が止まなければ止めに入ろう。そう考えつつ打撃音だけが聞こえる空間に佇んでいると、ふと北川第一の頃に戻ったような錯覚さえ覚えてしまった。 そういえば、以前こんなことがあった。こうやって体育館の入り口に、影山が座っていた。中では及川が壁打ちをしていて、彼は入れずにいたのだ。あの時、彼はどんな思いでボールの音を聞いていたのだろう……とそのまま物思いにふけっているといつの間にかボールの音が止んでいた。 ハッとして聞こえてきた靴音に振り返ると、「のわッ!?」と小さな悲鳴が聞こえて、後ずさるようなポーズで固まる及川がいた。 「ナ、ナニしてんのちゃん」 「及川くん……」 「ていうか……あー、なんだコレすっごいデジャブってか懐かしいね。来てるなら声かけてって散々言ってたころのアレだねこれ」 そして畳みかけるように言われたものだから、さすがに気恥ずかしくなっては頬を染めつつ目線を泳がせた。 「その……、試合のあとだし……声かけない方がいいかなって思って」 すると、及川はキョトンとしたあとに軽く笑って片手を腰にあてた。 「へえ、試合のこと知ってるんだ?」 「岩泉くんに会ったの……、それで」 「なんだ。でも俺、最後の最後にピンサーで入っただけだし、ショックだったのは負けちゃった岩ちゃんなんじゃない?」 「そうなのかな……そうだったのかも。でも岩泉くん、影山くんのこと凄くなってたって言ってた」 話しながら外へ出れば、既に日は落ちている。そのまま自然と二人して部室棟へと足を向けた。 「確かに、想像よりも良いチームだったよ烏野は。なんか飛雄、活き活きしてたしね」 「え……」 「ま、空回ってた北一の頃よりは飛雄にとってスパイカーに恵まれてるんじゃない? けどま、今日見てて確信したよ。サーブもスパイクもブロックも、まだまだだってね」 は自然と足を止めた。――トスは? とは聞けずに口籠もると、察したのか及川は、ふ、と笑った。 「俺はトスは飛雄には敵わないからね。あんな”天才の手”、俺は持ってないんだし」 「及川く――」 「けど、それだけじゃ勝てないってこと……この及川さんがインハイ予選でたっぷり教えてあげるつもりなんだよネ。あー楽しみ!」 じゃあ着がえてくるね、と及川は笑顔のまま部室棟へ行ってしまい、はその背を見送って少しだけ眉を寄せた。 影山が活き活きしていた、と言ったときの及川は、心から嬉しそうで、そして寂しそうな色を確かに瞳に浮かべた。 『手、見して』 『へえ……”天才”の手ってこうなってんだ。ふーん……』 ふとは自分の右手に目線を落とした。出会った頃に及川に言われた言葉が過ぎった。 一方で、と及川が学校を出る頃には家に帰り着いていた岩泉はひたすら今日の試合での出来事を思い返していた。 ――なんで影山が烏野にいるんだ。 それが放課後いきなり現れた元後輩を見たときの率直な感想だった。 青葉城西の推薦は蹴ったというのは周知の事実だったし、個人的に影山に恨みはないものの金田一達との確執に加えて及川のことを思えばむしろ推薦を蹴ってくれたのはありがたくあった。 及川が一度「飛雄、推薦蹴って白鳥沢に行くってさ」と曖昧な言い方をしていたが、そうなったらなったで及川の宿敵2人が一カ所に集って都合がいい程度でそれ以上は何も考えていなかった。及川も特に言及しなかったからだ。 だというのに――。 『今日、影山くんの高校と練習試合だったんだよね?』 『影山くん、白鳥沢に行きたかったって聞いたけど……』 は及川にそれを聞いたと言った。つまり、及川は何もかも全てを知っていて自分に黙っていたということだ。おそらく今日の烏野との試合さえ、及川が望んだのだろう。そう考えればただの中堅の公立高校で付き合いもない烏野と急に練習試合が組まれた事の合点がいくからだ。 そう、及川は知っていたのだ。影山が烏野に進学したことを。――はっきりと思い知った。及川の中には未だに影山へ向かう揺らぎが燻っていることを、だ。才能への嫉妬と、羨望と、そして慕われている事へのくすぐったさと、影山へ向かう抗えきれない先輩としての情。その全てを、彼は何一つまだ忘れていないのだと思い知った。 ――トス回しで飛雄に勝てるヤツ、県内にはいないんじゃない? 及川は事あるごとに、自分は彼にトスではぜったいに勝てないと言い切っていた。腹立たしかった。及川は、及川徹という選手は自分にとっては最高のセッターだというのに、その彼が「勝てない」などと平然と言う事を腹立たしく感じるのは当然の事だろう。 だが同時に、岩泉は自らの中で矛盾も覚えていた。 なぜなら、自分は本気で及川を叱咤することなどできないからだ。 生まれる前から与えられた才能という意味では及川は「天才」とは言えないということは分かっている。どれほど体格に恵まれセンスに恵まれていても、越えられない才能という壁が存在していることは痛いほど理解しているつもりだ。 無理に、「天才」と同じステージに立つ必要はない。もし次に及川が暴走したら――今度は本当に彼は壊れてしまうかもしれない。それだけはぜったいに避けたい。 ――及川はお前らのような天才とはちげえんだよ。と極限まで眉を寄せた脳裏に、もう何度過ぎらせては無理やり忘れようとしたか分からない牛島の言葉が蘇った。 『もしも及川が白鳥沢に来ていれば少なくとも奴は全国ベスト4の正セッターだったことは確かだ。それがどういう意味だか分かるか?』 『及川は……白鳥沢を選ばなかった事でハンデを背負った』 『俺が忠告したいのは一つだけ。これから進む道は誤るなと、そう及川に伝えて欲しい』 ――及川は、何一つ自分に言わなかった。 白鳥沢から推薦が来ていたことなど、一言も自分に言わなかった。当然のように二人で青葉城西に進むことを決めた。その裏で、彼が白鳥沢に誘われていたなど自分は知るよしもなかった。 むろん言う必要などなかったのかもしれない。及川にとっても宿敵である白鳥沢を倒すのは悲願だったはずで、その敵陣に乗り込むような真似はどう考えてもあり得ないからだ。 と考える胸に少しばかり疑問が走る。本当にそうだったのだろうか、と。 一瞬でも考えはしなかったのだろうか。白鳥沢に行けば、もっと上のステージに行ける、と。 『牛島くんはいまは敵同士だったかもしれないけど、同じチームになったら頼もしい選手だったりするんじゃないかな……』 ああ言ったの言葉は確かに事実で、及川は白鳥沢に行っても正レギュラーを勝ち取れる実力を兼ね備えていて。 そしておそらく、もしも及川が白鳥沢に進んでいれば彼は白鳥沢のメンバーとして既に全国トップの舞台を踏んでいただろう。その先にはきっと、約束された未来が開けていたはずだ。 『及川は……白鳥沢を選ばなかった事でハンデを背負った』 くそッ――、と岩泉は壁に拳を叩き付けた。 まだそうと決まったわけではない。まだ違う……と岩泉は頭を掻きむしって思考を逃がそうと努めた。 「くっそ……!」 時々、及川が本当は何を考えているのか分からなくなる時がある。3年次のクラス分けもそうだ。 及川は国立理系のクラスを選んだ。それは単純に、と同じクラスになりたいから彼女に合わせたのだと理解していた。 けれども、それだけなのだろうか? 実は既に彼は将来を見越しているのではないか? だとしたら、何を考えているのか。それとも全ては考えすぎで、及川は現状に満足していていつも通り。目標は打倒・白鳥沢で、自分たちは何も変わらずいつも通り。 ああ、きっとそうだ。考えすぎているのだ。自分たちは何も間違っていない。だから次こそ白鳥沢に勝たなければ――と過ぎらせる口の中に鉄の錆びたような味が滲んで、ハッと岩泉は我に返った。 血が滲むほど唇を噛みしめていたのだと気づいて、チッ、と舌打ちをすると口元を拭って思い切り顔をしかめた。 |