――9月の最終週。土曜日。
 早朝6時に仙台駅集合というスケジュールで今年度の修学旅行は始まった。

 これから新幹線で東京駅に向かい、そこから羽田の東京国際空港に移動して午後一番の便でロンドンに飛ぶこととなっている。
 復路は成田着の便であるが、東京−成田間の移動時間を考えれば往路だけでも羽田を使えるのは御の字だろう。
 修学旅行中は基本的に班行動となっており、パスポート忘れなどのハプニングもなく新幹線に1時間半ほど揺られて達は東京に着いた。
 東京の朝――、いつもであればそろそろ混み始める頃合いの東京駅であるが、さすがに休日だなとは駅構内を移動しつつ感じたが、大半の生徒は修学旅行というただでさえ昂揚状態の中、首都に着いて更にテンションが加速していた。
「あ、あれ東京タワーじゃない!?」
「マジで!? あれ? さっきも見なかった?」
 新幹線の中から、視界に映った普通の鉄塔を東京タワーだとはしゃいでいた生徒が浜松町からモノレールに乗ったとたんに眼前に現れた東京タワーを見て更にはしゃぎ、一斉に携帯カメラのシャッターを切る音がそこら中で響いた。
 としてもやはり東京に帰ってくるとホッとする。と、光る海面を見やって目を細める。
 9時には羽田に着いたが、なにせ200人を越える人数のチェックイン・出国審査を終えるのは想像以上に時間がかかり、結局は搭乗まであっという間に時間が来てたちのクラスは搭乗待ちの列に並んだ。
 もう少しで搭乗というところまで来ての携帯が震え、はハッとした。メールだ。開いてみる。

 ――これからしばらくメールできなくなるね。サビシイ!

 及川からだ………と、煌びやかなメール画面を確認するや否やパッと隠すように胸元に押しつけ、の視線は無意識にまだ待機している及川のクラスの方へ向かった。
 すると及川はずっとこちらの様子を伺っていたのかパチッと目が合い、その瞬間にウインクとピースサインでポーズを決めてくれてさすがには笑みを漏らした。
 スマートフォン同士であれば環境によってはLINE等を使えば通信費はかからないだろうが。ガラケーであるは海外では好きに使うわけにはいかない。
 緊急の時はむろん通話機能を使うが、旅行中は基本的に携帯が使えないことは及川にも伝えてあるし、仕方がないか。とはそのメールを最後に自動受信機能をオフにしてから携帯の電源を落とし、そのまま機上の人となった。
 ロンドンに着くのは16時を過ぎるだろう。ロンドンはまだサマータイム中であるが、日照時間も気温もこの時期ならばそう仙台と変わらない。――というのは父からの情報だ。
 イギリスは若い頃に父が長い間学んでいた場所でもある。楽しみだな、と薄く笑った。小さい頃から父にスパルタ的に教え込まれてきた英語が本国で通じるか試すチャンスでもある。それもまた楽しみである。
 裏腹にやはり長時間のフライトは若い身体であってもそれなりにダメージを与え――離陸直後は朝からのテンションを維持していた生徒たちもロンドンはヒースロー空港に着く頃にはぐったりとしていた。
 それでも空港に着けば、海外に来たという事実がまた生徒達の気力を回復させ、長い長い入国審査の時間も体感的には短く済んだ。
 ヒースローからは手配されていたバスでの移動となり、各クラス中型バスに乗って今日はホテルに移動して終わりだ。
 市内中心地が近づくとバス内から歓声があがり、ひっきりなしにシャッターを切る音が車内に響いた。
 は生徒一人一人に持たされている予定表に目を落とす。ホテルの住所を見るに大英博物館に近いらしい、などと考えているうちにバスが止まり、まずは男子生徒が降りるように指示された。修学旅行中、ホテルは男女別となっているのだ。
 そのまま男子生徒を降ろし終えると、バスは女子の止まるホテルに向けて走り出す。

「女子と別とかまじねーわ……」
「ツマンネー」

 ゾロゾロと指定されたホテルに入りながらぼやく周囲の声を耳に入れつつ、及川も「確かに」などと内心思っていた。
 けれども。気が楽と言えば楽かな、とチェックインを終えて取りあえず荷物を部屋に仕舞う。ツインという都合上、及川のルームメイトは違う班の男子だ。
 適当に会話をしつつ携帯を見やる。wifiが飛んでおり無料でインターネットを使えるようで、すぐに接続すれば自動的にデジタル時計が時刻補正されて「お」と目を見開いた。
「って、ええ!? もう7時過ぎてんじゃん!!」
 予想以上に入国審査や移動で手間取っていたのだと知って驚いてるとルームメイトが制服のジャケットをクローゼットにかけながら言った。
「各自、荷物置いたらダイニングで夕食って予定だったよな」
「そだね。出よっか。鍵一つしかないけどどうする?」
「俺持っとくわ、たぶんお前より早く戻る気ぃするし」
「そう? じゃあヨロシク」
 そうして揃って廊下に出て何となく一緒に会場に向かう。
 予定表には今日の夕食はホテルでバイキングだと記してあった。着けば、取りあえず腹を空かせた男子高校生の胃袋は満たせそうな料理が並んでおり、各自自由に夕食を取るようにとのことで及川は流れに従って適当に皿に料理を盛るとキョロキョロと辺りを見渡した。
 普段なら痛いほどの視線を周りから集めている場面であるが、さすがに今日は男子のみのせいか一つも感じない。存分にぐるりと辺りを見渡して、探していた人影を見つけると及川はその人物が座るテーブルに近づいていって声をかけた。
「マッキー、隣いい?」
 すると話しかけた人物――花巻と花巻の前に座っていた松川が及川の方を向いた。
「なんだ及川一人かよ。岩泉は?」
「さあ? そのうち来るんじゃない」
 まるでこういう時はバレー部で集うのがお決まりのような空気であり、及川はそのまま花巻の隣に腰を下ろした。が――及川があえて花巻を捜していたのには理由がある。
「イギリス料理はまずいって聞いてたけど、食えないほどじゃねーな」
「いやいやこれイギリス料理じゃないでしょ明らかに。フライドポテトとか一応フランス料理じゃん」
 フライドポテトやサラダを口にしながらそんな話をする花巻と松川の声を耳に入れつつ、及川はちらりと花巻をみあげる。
「マッキー、あのさ」
「ん……?」
「一生のお願いがあるんだけど……!」
 言えば、ピタ、とナイフとフォークを器用に使っていた花巻の手が止まった。
「は……?」
 一生の? と怪訝そうな顔をする花巻に及川は手を合わせてみた。
「明日のミュージカルの席、俺と交換して!」
 花巻としては予想外の言葉だったのか、切れ長の目が大きく見開かれた。
 ――ロンドンでの旅程は大英博物館・バーミンガム宮殿等々メジャーな観光スポットが組まれていたが、見ていく順番は混雑を避けるためかクラス単位で違う。それが唯一重なるのが明日の夜に組み込まれている観劇だった。
 ホテルも違う、クラスも違う以上、及川にとってはイギリスでの顔を見る機会はほぼその時間だけと行ってもいい。逆にと同じ班だという花巻はほぼ全ての時間彼女と一緒。――さすがにちょっと羨ましい、とは口には出さないでおいた。
「なんで? 俺の席がロイヤル・サークルだから?」
「え……」
「まァ我ながらラッキーシートだと思うけど。お前の席だって悪くないだろ」
 じゃなくて。だってマッキーの席ってちゃんの隣じゃん! と軽く流され思わず突っ込みそうになり、けれどもまだ誰にもと交際している事を話していない事実を思い出してグッと言葉に詰まっていると聞き慣れた声が割って入ってきた。
「何騒いでるかしらねえけど、めんどくせーこと言ってんじゃねえぞクソ及川」
「岩ちゃん聞いてなかったのにその言いぐさ酷くない!?」
 岩泉だ。と条件反射のように反応すれば話の流れが途切れて、テーブルに岩泉が腰を下ろしたことで更に話題が変わって及川は口を曲げてから、ハァ、と肩で息をした。
「マッキー、明後日の午後の班行動どうすんの?」
「え、いや……別に普通じゃん? 班のメンツで名所回ってメシ食う的な」
「ふーん……」
 なんて。花巻の班の予定を聞いたところで自分たちは自分たちでもう決まっているから意味のないことであるが。
 そのまま雑談しつつ夕食を終え、部屋に戻った及川は室内で出来る限りの筋トレを始めた。修学旅行に来てまで筋トレか、と突っ込んでルームメイトが先にバスルームに行ったおかげで室内は少し広い。
 一週間、ボールに触れられないというのは地味にキツイ。身体がなまりそうだし、何より一週間もバレーを出来ないことが、である。来月には春高予選が控えているし出来る限りのことはしておきたい。と思いつつ、ふ、と笑う。
 今ごろたぶんも確実にホテルの部屋でスケッチブックを広げているだろうな、とその場面をうっかり想像してしまったためだ。
 の場合はスケッチブックさえ持っていればいつでもどこでも絵が描けるとはいえ。スケジュール通りの班行動な以上はスケッチに時間など割けるはずもないし。フラストレーションを溜める様子が手に取るように分かる、と喉を笑みで鳴らした。

『私、行かなきゃいけないところがあるから……一緒には回れないと思う』

 あれってどこの事なんだろうか。
 の用事にどのくらいの時間がかかるのかは分からないが、それが済めば普通にデートできるかな。と、あとでもう一度パリ情報をチェックしておこう。などと考えつつ筋トレを済ませてシャワーを浴び、及川はそのままベッドに入って瞳を閉じた。

 翌日――。
 本格的な観光が始まり、及川も予定通り迎えに来たバスに乗ってホテルを出た。
 今日は朝からビッグベン、ロンドンアイ、ウェストミンスター寺院、バッキンガム宮殿の衛兵交代を見たあとにランチ、その後は主要ランドマークを駆け抜けて大英博物館を見学したのち早めの夕食をホテルで取ることになっている。
 基本的にバス移動であるため、楽と言えば楽、面白みがないといえば面白みがなかったが、それでも及川を含めておおよその生徒が海外は初めてで、及川も班のメンバーと共に記念撮影に精を出してはしゃいだ。

 むろん、それはも同じで――。

 特にテムズ川からの景観はの心を強く打ち、うずうずと「描きたい」欲求が身体のそ底から沸き上がってきたが時間が取れるはずもなく。得意としているカメラのシャッターを通常の何倍も切り、日本とは違う美しさの景観にため息を吐いた。
「ロンドン・アイ乗りたーーい!!」
「料金17ポンドって高っ!! ていうか時間ねーし!」
 周りも箸が転がっても面白いといった様子で、時差ボケなどどこ吹く風ですこぶるテンションが高い。
 バスから見る街の様子も、とても緑が多く公園が多いといった印象で、春や夏に来ればきっと素敵なブリティッシュガーデンが観られるのだろうなと目を細めた。
 そうして今日の夜は観劇の予定が入っている。
 日本の、それも地方都市ではそうそう本場の芸術に触れる機会はなく、この機会に――という学校の計らいで修学旅行先がロンドンだった場合は毎回組み込まれているハーマジェスティーズシアターでのオペラ座の怪人の観劇だ。
 も楽しみにしていたイベントの一つである。19:30の開演に間に合うようにホテルを出れば、陽はかなり落ちかけており、ピカデリーサーカス周辺のネオンは華やかさと共にどこか東京を思い起こさせては薄く笑った。
 バスを降り、重厚な建築物にゾロゾロと入っていく制服を着たティーンズの集団という図は周囲から視線を集めたが、制服……特に男子はジャケットである青葉城西の制服は基本的にどこへ行っても場違いではなく便利である。
 青葉城西の生徒達のチケットはほぼ全て一階席であるストールズであったが、たちのクラスはロイヤル・サークルと呼ばれる二階席に割り振られた班が多く、たちの班はその最前列で「一階が良かった!」という生徒と「ラッキー」という生徒に分かれていた。
 花巻はラッキーと思う側だったようで、の隣に腰を下ろした花巻は身を乗り出すようにしてステージを見下ろしながら、淡々としつつもニと笑った。
「この劇場、二階がせり出してるから前方で観るならこの席が一番いいって情報だったんだよね。あのダイアナ妃も観劇の時は必ずロイヤル・サークルに座ってたって話だしね」
「へえ……そうなの?」
「まあネット情報だけど」
 そうして花巻は淡々と言いつつ、お、と小さく瞬きをして下の座席の中央あたりを見た。つられても視線の先を追うと――自分の班の女の子と雑談しているらしき及川が映り、そしてまるでこちらの視線に気づいたように及川が振り返っては少々ギョッとした。
 あ、と及川も目を見開いた直後、満面の笑みでこちらに向かって手を振り――ザワッと周囲の青葉城西の生徒がどよめいた。
「なんだよアイツ……」
 がどよめきに目を瞬かせる横で花巻は呆れたような声と共に適当に及川に向けて手を振り替えし、周囲からは「なんだ」「花巻じゃん」などという声が雑踏の中から聞こえた。しかし。
「なんだよ、次はガン飛ばしかよ」
 及川はというと花巻が手を振り替えしたあとは、ジトッと花巻を睨むように見据えており、そのうちに隣の生徒に声をかけられたようでまた前を向いた。
「そんなにアイツこの席に座りたかったんかね」
「え……?」
「ああ、及川のヤツがさ、ロイヤル・サークルの方が良かったらしくて俺に席譲ってくれとか言ってきたんだよね昨日」
 え、とが目を見開いた直後、花巻とは反対側の席にいた女子がざわついた。
「え、花巻なんで替わらなかったの!?」
「今からでも替わんなよ!」
 すると花巻とは違う男子生徒が横やりを入れる。
「お前らが替わってやればいいじゃん。及川も花巻と一緒の方がいいだろ」
「それじゃ意味ないし!!」
 そんな話を耳に入れつつ、としては、たぶん自分と一緒に観たいと思ってくれたんだろうな、と感じたものの。おそらく花巻の言い分を聞くに、自分と付き合っているとは言ってはいないようだと少々ホッとしつつ気持ちを切り替える。
「でも、本当に良い席だよね。私、すっごく楽しみにしてたの」
「ああ、さん英語得意だもんね。全部理解できる自信アリ?」
「どうかな……、たぶん大丈夫だと思うけど」
「俺は理解出来なきゃソンじゃんって思って映画版レンタルして観ちゃったよ。字幕付きのヤツ」
 淡々と言い下す花巻は、ちゃんと事前学習をしていたようで。本当に多趣味な人だな、と雑談をしているうちに開演時間となっては舞台に集中した。
 予想よりも遙かに台詞が聞き取りやすく、何よりも生のオーケストラ、照明、歌の迫力が圧倒的であっという間に一幕目が終了し、ふ、とは感嘆の息を吐いた。
「凄かったね……!」
「うん。やっぱり生は違うよね」
 昂揚したまま隣の花巻とそんな事を話し合う。幕間ともなればジッとしていられないのが人の性か、みな思い思いに席を立ち花巻もめざとく何か見つけたのか「お」と瞬きをしてから席を立った。
「俺、アイス買ってくるわ。さんも食う?」
「え、ううん大丈夫。ありがとう」
 幕間にアイスを売りに来るのはここの名物でもあるらしい。花巻はアイスを買いに行って、ふぅ、とは息を吐いて眼下を見下ろした。オーケストラの演奏者たちはそれぞれ調子を確かめているのか不規則な音が聞こえてきて耳を傾けているだけでも楽しい。
 素敵だな、と微笑んでいると隣の席に誰かが腰を下ろした気配が伝っては「え」と瞬きをした。
「花巻くん、ずいぶん早かっ――」
 もう戻ったのか、と驚いて横を見やると――そこにいたのは花巻ではなく鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌でニコニコしている及川で、は一瞬固まった。
「やっほ、ちゃん」
 ついでにピースサインまでくれて、は少し肩を竦める。
「及川くん……」
「ほんっとイイ席だよね、ココ。オーケストラ見えるじゃん」
「うん。舞台全体が見えてすっごく素敵」
「俺さー正直、ミュージカル楽しめるか全然自信なかったけどけっこう夢中で観ちゃった」
 うん、とそのまま及川と雑談を続けていると今度こそ本当に花巻が戻っていて「何やってんの」という声に及川は席を立った。
「ちょっと眺めを確認してただけじゃーん」
「お前、マジでこの席に座りたかったのな」
「マッキーいいもん食べてんね」
「やらねーぞ」
 微妙に噛み合わない会話をしながら笑い合う2人はやはり仲は良いのだろう。自分もコーヒーでも飲みに行こうかな。混んでるだろうか。と考えつつは薄く笑った。やっぱり少しでも及川と非日常の空間を共有できたことは嬉しい。と感じていると第二幕が近づいてきて「じゃーね」と及川はその場を離れた。
 やっぱり、ちょっと寂しいかも。と、及川が自分のクラスの自分の席に戻ったのを二階席から見つつ、第二幕が幕を開けてはそっちに意識を集中させた。
 オペラ座の怪人自体が知名度も高くある程度のストーリーは一般に認知されていたせいか、語学の得手不得手に限らず生徒達はみなそれぞれ楽しんだようで、修学旅行二日目の夜は無事に終わりを告げた。



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