8月24日。水曜日。
 仙台のおおよその学校は明日から新学期開始であり、今日は生徒にとっては悲惨な日でもある。が、青葉城西は全国標準の年間スケジュールを採用しており夏休みは8月末まで続く。その分、他の休みが短いことになるわけだが、及川にとっては単純に得した気分を味わえて嬉しい悲鳴だった。
 と、と約束している朝9時に間に合うように家を出た。ジャージ姿なのは午後から部活が入っているためである。
 美術部は夏の活動はしていないようで、それならば美術室で会おうということになっている。とはいえ「宿題を一緒にやろう」は口実のようなもので、実際はもうほぼ全て終わっているのだが……と考えつつ夏休みと言えど毎日のようにくぐっている正門をくぐって校舎にあがり、特別教室棟を目指した。

 トントン、と美術室のドアがノックされる。

 及川との待ち合わせ時間である9時前に美術室に来ていたは、ノック音にパッと顔を上げた。
 と同時に約一ヶ月ぶりに会う及川が開いたドアから顔を出して、反射的に座っていた椅子から立ち上がった。
「や。ちゃん、久しぶり」
「うん。久しぶり」
「はやいねー。そんなに俺に早く会いたかった?」
 ニ、と笑われピースサインを貰って、は相変わらずな様子に苦笑いを浮かべて「そうだ」と切り出す。
「昨日もメールしたけど……、岩泉くんも来るの?」
 すると、ピク、と及川の頬が撓った。ように見えた。が、彼は笑みは崩さず言った。
「なんで? 岩ちゃんに来て欲しいの?」
「来て欲しいっていうか……、岩泉くんはもう終わったのかなって思って」
「さあ、どうだろうね。けど、俺たちけっこう合宿の空き時間とかみんなで課題やったりしてたし、終わってんじゃない?」
「え、そうなの? じゃあ及川くんも終わってるの……?」
 昨日のメールでは及川は理数系に少し不安なところがあると言っていたのに。と純粋に疑問で言ってみれば、う、と及川は言葉を詰めて少しだけ唇を尖らせた。
「お、俺は……岩ちゃんと違って完璧に仕上げようと思ってね。分かんないトコとかいくつかあったし」
 言いながら背負っていたバッグを下ろす及川を見て、そっか、とも頷いた。
 以前、及川に「セッターには空間認識能力が必要」とハッパをかけたのが実になったのかどうかは定かではなかったが、及川は単純にバレーの糧になるならとそれまで嫌悪していたらしき理数系を得意分野に変えていた。
 むろん、一朝一夕で結果が出るものではないが、あれから一年は経っているし徐々に結果は出ている。と、は付箋の付けられたページを捲って及川のやり残している問題を見ながら感じた。
 この調子なら来年の三年のクラス編成で彼は国立・私立いずれにしても理系を選ぶのでは。と考えてハッとする。
 及川はいったいどこを受験するのだろう、とハタと気づいてうっかり及川の方を見やってしまい、めざとく気づいたらしき及川が懸命に走らせていたペンを止めて顔をあげた。
「なに?」
「え……!? あ、別に……」
「ナニー? 久々の及川さんに見とれちゃったー?」
 ケラケラと心底楽しそうに笑って軽口を叩く及川の手元の化学式が間違っていて、取りあえず違うことを指摘すると「話題の逸らし方が辛辣!」とショックを受けたような顔のあとにまたしっかり勉強に戻ってはしばらくその様子を見つめていた。
 及川は午後から部活だというし、今日で終わらなければ明日、明後日も……と考えていたが、この調子だと午前中に終わるかもしれない。
 などと考えつつ2時間近く経ち、キリの良いところまで終えたらしき及川はペンを置いて伸びをすると「ちょっと休憩」と宣言した。
「喉乾いちゃったねー」
「あ、コーヒーならあるよ」
 は鞄から持参していたダンプラーを二つ取りだして一つを及川に差し出した。
「ありがと。マイダンプラーとかさすがちゃん! 相変わらずコーヒー好きだね」
「及川くん、カフェオレの方がいいかなと思って及川くんのはミルク入りで少しお砂糖も入ってるんだけど……大丈夫だった?」
「うん、ばっちり。ありがと」
 満面の笑みを零す及川を見ても、ふ、と笑うとそれぞれコーヒーに口を付ける。勉強から離れれば話題は夏休みの事で、相も変わらずバレーばかりしていたという及川はに何をしていたかを訊いてきて、も「んー」と天井を仰いだ。
「私も、絵ばかり描いてたんだけど……」
「ディズニーランドとか行ったりしなかったの?」
「んー……行ってないなー。変わったことなんて特に……、あ」
 前のめりで聞いてくる様子によほどディズニーが気になるのかと肩を竦めつつ、特に何もなかった夏休みを振り返ってはハッとした。
 そういえば、と氷帝学園での珍体験を思い出したのだ。
「あのね、東京に氷帝学園って私立高校があるんだけど……そこにちょっと行ってみたの」
「ヒョウテイ……」
「氷に帝国の帝って書くんだけど」
「ゲッ、すごい名前だね……氷の帝国とか……。でもなんで? 試合、とかはないよね……美術部だし……」
「前に話したと思うけど……ほら、及川くんの声にそっくりな男の子と会ったって。その子が氷帝学園に通ってて、一度来てみないかって誘われたの」
 言えば、及川の目が点になって数秒後、顔を顰められた。
「及川くん……?」
「あー、うん。覚えてる覚えてる。確か県民大会の最中に来たメールだ、うん」
「え……」
「なに、ちゃん。その俺の声にそっくりの男とやらと連絡取ってんの?」
「え……あ、うん、その……。上野の美術館で会って、私の絵を好きだって言ってくれてそれで」
「俺、ファンの女の子と連絡先とか交換しないけど?」
 え――とは目を見張った。眼前の及川はなぜかムッとした表情をしているが、言い分自体は及川らしいと何故かしっくり来た。
 基本的に及川は見た目よりずっと真面目だし、そもそもが練習の虫なのだし。と過ぎらせたところでハッと頭を本題に戻して首を振るう。
「ファンだからじゃなくて、その……。私ね、本当は氷帝学園に通うつもりだったの。それで、色々偶然が重なって意気投合したっていうか……」
 そもそもなぜその人物――鳳と親睦を深めた事に対して及川に弁解しなければならないのか少々理不尽さを覚えただったが、ピク、とその言葉に及川の頬がなお撓った。
「氷帝学園って……東京の学校じゃん。通うつもりだったって、そんなの無理って分かるよね」
「え……あ、でも――」
「東京の男と仲良くなれたことがそんなに嬉しかった? 楽しかったの?」
 元々自分は東京生まれだし。と続けようとしたら、遮るようにそんな事を言われては目を見張る。
 当の及川は眉をひそめて少しだけ視線を逸らしていた。
「俺は毎日バレーばっかだったのに……」
 ボソ、と吐き出すように言われてとしても困惑した。が、理不尽なことは変わらず、いったん息を吐いてから言い返してみる。
「氷帝学園にはホントに通う予定だったんだよ。ずいぶん進学するか迷ってたの……」
「だから、氷帝って学校は東京でしょ!? ここ仙台だよ? なに、ちゃんそんなに東京好きなの!?」
「そ……そりゃ好きだよ! 東京は私の生まれ故郷だもん!」
「――え!?」
 そこまで言えば及川は文字通り鳩が豆鉄砲を喰らったように目を見開いてぽかんとした表情を晒し、「え?」とも少し取り乱した。
「あ、あれ……言ってなかったっけ……?」
「聞いてない! なにちゃん東京の子だったの!?」
「東京の子、って言うか……仙台には小学校中学年の時に越してきたの。それまで生まれも育ちも東京だよ」
「それ100%東京の子だよね!?」
 そうして及川は、ハァ、と大きくため息をついて項垂れた。
「なんだ、都会っ子だったからベニーランド行ったことないんだ……。そりゃディズニーランド行き放題だもんね……」
 そうしてそんなことを言うものだから、ベニーランドはいま関係ないのでは、などと突っ込むことすら忘れて目を瞬かせるしか術はない。
「お、及川くん……」
「そっか……ちゃんにとって東京に行くことは楽しい楽しい里帰りだったんだね……」
「里帰りもあるけど、基本的には勉強だよ。来年は受験だし、どっちみち東京に戻ることになるし」
「え!?」
 すれば及川は心底驚いたようにこちらに顔を向けて「え」とも驚いて瞠目した。
ちゃん、東京の大学受験するの?」
「うん。……及川くんは? 違うの……?」
 東京じゃなくとも関西でもその他でも、宮城から出る生徒も多いだろうと含ませると及川は急に意気消沈して唸った。
「……話をするのも腹立つんだけどさ……」
「え……?」
「ウシワカの野郎が全日本ジュニアの選抜合宿に呼ばれたって噂聞いたんだよね」
 ウシワカ、とは白鳥沢学園の牛島若利のことで及川が目下ライバル視しているバレー選手である。が、いまこの瞬間に牛島の話は関係あるのだろうか? と思いつつもは告げられた内容を素直に賞賛した。
「全日本……! やっぱり凄いんだね、牛島くんって」
「それはムカツクけど知ってるけど! その全日本ジュニアの現監督が東京の深沢にある体育大学の監督でさー……牛島に声かけてるって話で、さ」
「あ……そうなんだ。じゃあ牛島くんってバレー推薦で大学行くってことなのかな?」
「たぶんね。ま、そーだよね。アイツはアレでも全国屈指のアタッカーだしさ」
 ケッ、と吐き捨てるように及川が言って、は何気なく及川を見上げた。
「そっか。その深沢の大学って強いの?」
「強いよ、深体大は。いっつも大学一位二位争いにいるしOBは全日本メンバーなんてざらだし、バレーだけじゃなく他の競技もオリンピックメダリストごろごろだしね」
「そうなんだ。じゃあ及川くんも受けたら今度こそ牛島くんと同じチームだね……!」
「じゃなくて! だから! なんで、俺が、ウシワカ野郎と同じチームになんなきゃなんないのさ!」
 既視感のあるやりとりを済ませ、は眉を寄せる。いまいち及川が何を言いたいのか分からず黙していると、及川は少しだけ眉を寄せて口調に棘を含ませた。
「やっぱ天才はさ、いいよね。あっさり日本一のチームからお声がかかっちゃってさ。こっちなんてまだスタメン取れないってのにあっちは大学決定済み? ハッ、笑わせるよ、まったく」
 その言葉は自虐だったのか否か。相も変わらず牛島若利という人物はこうも及川の心を掻き乱してしまうのか。
「及川くんの第一志望がどこかは知らないけど……、もしもその大学に牛島くんが進学したら、及川くんは行かないの?」
「――行かないね」
「どうして?」
ちゃんさぁ、北一の時から俺がアイツをぶっ潰したいって言ってるの知ってるよね? 同じチームとか冗談じゃない」
 憎々しげに眉を寄せた及川に「じゃあ」とは続ける。
「白鳥沢に、牛島くんに勝ったら……そのあと及川くんはどうするの?」
 すれば、及川はまるで不意打ちを受けたように目を見開いた。
「――え?」
「? だから、白鳥沢に勝ったあと」
 すれば、及川はまるで想定外の質問だと言わんばかりに固まり、はますます首を傾げた。
「白鳥沢に勝ったら、次は全国大会なんだよね? やっぱり全国制覇……?」
 言葉を繋ぐように言えば及川は口元に手を当ててしばし考え込むような仕草をしてから呟いた。
「ウシワカ、ぶっ潰して……そのあと……。ああ、うん、全国だよね。勝って全国に行くんだって……確かにずっと思ってた。でも、そのあと……か」
 一人ごちるように呟いたあと、及川は乾いた声で小さく笑う。
「そっか、うん。そうだよネ。白鳥沢を倒したって、道は続いてるわけだ」
「う、うん。それに、一度勝てたって次も勝てるかは分からないんだし……一度白鳥沢に勝ったとしても、また試合ってするんだよね?」
「そ、そうだけど。でも、その後どうするかなんて……分かんないよ。勝ったことなんて一度もないんだからサ」
 そうして及川は本当にその先のことを考えたことすらなかったのか、少々愕然とした様子で宙を仰いでいた。
 としては何か不味いことを言ってしまったか気がかりなのと、及川が先を見越して何も考えていないというのは俄に信じられず……けれども口を挟めずに黙してしまう。
 そうしてしばらく無言の時間が続いたあと、及川は思いだしたように口を開いた。
ちゃん、さ……中学の頃に言ってたよね」
「え……?」
「”バレーで世界に出る、とか一度も考えたことないの?”って」
「え……」
「もしかしたら小さい頃に一度くらいはあったかもしれない、いわゆる現実味のない空想の世界ってヤツでね。でも……中学にあがってそんなの所詮は幻想だって気づいてからは虚しい想像なんてしなくなったよ」
 は一瞬思案する。そういえばそのようなことを話したかもしれない。確か記憶が正しければ、英語を学ぶ意味が分からないとぼやいた及川にいずれ世界に出るのならば英語は必要だ等々話した流れだったような気がする。と思い起こしていると及川の眉間が険しさを増した。
「あの時、俺、思ったんだよね。天才ってすぐ突拍子もない事言えてイイヨネってさ。だって現状、ウシワカにすら勝てない俺が世界とかお笑いだからサ。君も、牛島も……飛雄も……! 真っ直ぐ自分に与えられた道を真っ直ぐ走っていけるから、そんなこと簡単に言えるんだって」
 ああ、また……とは思う。及川にとって、彼の中で「天才」という枠組みに入る人間は牛島と影山と、そして自分なのだろう。
 そしてそれを感じ取ったとき、自分は及川には嫌われている存在なのだと理解した。けれども、いまは違う。及川とはもう大丈夫。そう確信があったからこそはグッと拳を握った。
「及川くん、パブロ・ピカソって知ってる?」
「は……?」
 ピカソ? と突拍子もない発言だっただろう自分の言葉を受けて呟いた及川の瞳を、は真っ直ぐ見上げた。
「私、ピカソみたいな画力が欲しいって思ってるの」
「え……?」
「及川くんは私を天才だって言ってくれるけど……。私の絵はピカソが10代の頃に描いた”ル・ムーラン・ド・ラ・ギャレット”に遠く及ばない。私は……自分を天才だととても思えない。仮にそうでも、ピカソ以下なんだからあんまり嬉しくないよ」
「そ、そういう事じゃなくて! ピカソって俺でも知ってるくらいの有名人じゃん! さすがにちゃん図々しいよね!?」
「じゃあ妥協しなきゃダメなの?」
「う……ッ」
 不本意だ、と含ませて言ってみれば及川は言葉に詰まったように唇を噛み、グッと拳を握りしめてテーブルの上に置いた。
「俺は天才なんてだいっきらいなんだよ……!」
「それは前も聞いたけど……、私は嫌いじゃないって言ってくれたのに」
「そッ、そうだけど……!」
 カッと及川はバツの悪そうな顔を浮かべて視線を泳がせ、頭を抱えた。そうして少し頬を膨らませる。
「だいたいちゃんがさ、東京の男と遊んだりするから……!」
「え……」
 そこに戻るのか、と目を瞬かせると及川は尚さらバツの悪そうな顔を浮かべた。
「だって、腹立つじゃん! ウシワカ野郎が意気揚々と深体大に行こうとしてんのにちゃんまで東京とかさ……!」
「及川くんは行かないの……?」
「行けないじゃん! 仮に受かったってさ、俺なんて現状ウシワカ以下じゃん」
「でも……及川くんってセッターなんだよね? 牛島くんはスパイカーなんだし、仮に同じ大学でもポジションだって被ってないし」
「ウシワカ野郎と同じトコは行かないよ!?」
「でも……じゃあもし及川くんが大学ですごいセッターに成長して、牛島くんももっとすごいスパイカーになって、もしも2人とも全日本とかに選ばれたら……及川くんは牛島くんにトスあげないの?」
「――ッ!」
「中学の時も言ったけど、もし牛島くんと同じチームだったら及川くんももっと強くなれるんじゃないかな。牛島くんだけじゃなくて……もっと強い選手っていっぱいいると思うけど……そういうチームでセッターやりたくないの?」
「そ……そういうチームは元から強いじゃん! バレーは6人で強い方が強いんだから、俺がどんなスパイカーだって最大限能力引き出して、そんなバケモノチームなんか絶対凹ましてやるの」
「だ、だったらやっぱり……もっと強い選手ばっかりのチームでセッターすれば、もっともっと強くなるって事なんじゃ」
「青城だって強いチームだよ!」
「う、うん、でも……。部活引退しちゃったらいまのメンバーとはきっとバラバラになっちゃうし……。及川くんがどこに進みたいかは分からないけど、私だったらたぶん、たぶんきっともっともっと強いチームでセッターしたくなるんじゃないかな、って思っただけ」
「そんな、飛雄じゃあるまいし、俺は――」
「やりたくない?」
「やりたいよ! けど――ッ」
「けど……?」
「――ああ、もう!」
 もどかしい、と言いたげに及川はガタッと立ち上がった。反射的には及川を見上げる。
「及川くん……?」
 及川はどこか言葉を探しているような顔つきで視線を揺らした。開きかけた唇をキュッと結び、また開きかけて結んでから視線を流して、もさすがに気になって立ち上がった。
「ど、どうしたの……?」
 すると、ゴク、と及川が喉を鳴らしてから気まずそうに視線をなお揺らしてはますます首を捻る。
 そうして僅かに間を置いて、あのさ、と及川は小さく言った。
「ちょっとだけ……抱きしめてもいい?」
「え――!?」
 言われた言葉はあまりに突拍子がなく、としては目を見開くしかない。思わず一歩後ずさってしまった。
「え、なんで……」
「だって、そうしたいんだもん!」
「そ、そうしたい、って……」
「外国だと挨拶じゃんそのくらい!」
「こ、ここ日本だよ……!?」
ちゃん世界に出たいって言ってたのに」
「そ、それとこれ、関係ない……!」
「じゃあイヤ……!?」
 キュ、と真っ直ぐ見据えられて、う、とは頬が熱を持つのを感じた。――相変わらずなんて綺麗な瞳なんだろう、なんて浮かんでくる頭がいっそ憎らしい。
 たぶん、イヤじゃないな。と悟って、ゴク、と小さく喉が鳴った。声に出していたかは分からない、が、及川は自嘲気味に言った。
「ヤだったらゴメンね」
 そうして、フワッ、と視界が及川の着ていたシャツの青城ブルーで覆われたかと思うとキュッと及川の腕で包まれた感覚が走って、は瞠目するしか術がない。
 背の高い及川に抱きしめられると、すっかりすっぽり胸の中で……Tシャツ越しに及川の鍛えられた肌の感触が伝って、つ、と息を詰めた。
 急に抱きしめたいなんて、どういうつもりだと驚いたというのに。及川の体温はひどく心地よくて、こうされているのが自然の事のようで無意識のうちにもキュッと及川のシャツの裾を握りしめた。
 それが及川に伝ったかどうかは分からない。が、及川は小さく笑みを漏らしてから頷いたような気配が伝った。
「あー……うん。やっぱり。なんかしっくりきちゃった」
「え……?」
「俺、やっぱりちゃんのこと好きだなーって」
「え――!?」
 そうしてやけにあっさりとさも当然のように言われては硬直した。対する及川は納得したように頷きながらなお笑っている。
 好きって……そういう意味の「好き」なのだろうか? やや混乱する心情とは裏腹に、本当に及川の体温が心地良い。触れられているのがとても自然のことに思えるなんて、としばし及川の含み笑いをぼんやり聞いていると、及川は少し身体を離してんなことを聞いてきた。

ちゃんは? 俺のこと好き?」

 及川はようやく自分の抱えていた感情の答えが出た気がして、思ったままをに聞いた。
 え、とまごつくが腕の中にいたが、たぶん自分と同じ気持ちだという妙な確信があった。
 は自分に抱きしめられるのがイヤ、もしくはイヤだった場合はとっくに確実に拒否している。そうしないということは、もきっとしっくり来ているのだろうと思う。
 ああ、分かってしまえば簡単なことだった、と得心がいった。むしろなぜ気づかなかったのか不思議なほどだ。心の底からあったかい、と笑みを浮かべるもいい加減まごつくに焦れて少し頬を膨らませてみる。
「好きじゃない男に抱きしめられたままで平気なの?」
「そ……! それは、その……。別にイヤじゃないっていうか」
「それって俺が好きだからだよね?」
「そ……! そう、なのかな」
「ていうか、ちゃん昔から俺のこと絶対好きだったよね? ずっと練習見てたのちゃんじゃん」
「そ、それは別に好きだからとかじゃなくて……!」
「及川さんの目が素敵ー、ってあんなにキラキラした目で言ってくれたのに」
「そ、それは本当に綺麗だったから……!」
 やや頬を染めて反論するに及川は、へへ、と笑った。――カッコイイと褒めてくれる女の子はたくさんいたが。

『及川くんの目ってココアみたいだね』
『ちょっと赤みがかってて、すっごく綺麗な色だな……ってずっと思ってたの』

 ああ言う言われ方をしたのは初めてだっけ。といつかに貰った言葉を浮かべていると、が少し俯きがちに唇を動かした。
「あの、ね……。私ね、前も言ったけど……及川くんには嫌われてるってずっと思ってたの」
「うん。でも、それは違うって言ったよね」
「うん。でも……ずっと及川くんとは相性が悪いのかなって思ってたから、そうじゃないんだって思って嬉しかった。ほんとはすっごく相性が良かったのかも……って思って」
「うん。俺もそう思う。天才はやっぱりキライだけど……」
 でも。たぶん、だから惹かれる。――と脳裏に浮かんだ別の影をいまは意識の外に追いやって少し屈んでからコツンとの額と自分のそれを合わせると、の身体がぴくっと撓ったあとに小さな微笑みが漏れてきた。
「うん。やっぱり……私もしっくりくるかも」
 その言葉に及川は目を見開いたあとにパッと笑みを浮かべた。
「だよね……!? 俺のこと好きだよね?」
「――うん」
「うへへ、もうとっくに知ってたけどね!」
 ワッと舞い上がりそうになった気持ちを最大限に笑みで表して及川は歯を見せて笑った。だってそうだろう。むしろ舞い上がるなという方が無理だ。
「じゃあさちゃん、来週の月曜ヒマ? 俺、完全オフなんだよね」
「うん……?」
「ベニーランド行こ! 一度も行ったことないって言ってたよね?」
 そうして浮いた気持ちのまま言ってみれば、は及川から身体を離しつつキョトンとした顔を浮かべた。
「行ったことはないけど……」
 どうして? と、さも心外とばかりに、なぜ一緒に出かけないといけないんだと言いたげなに「アレ?」と及川はにわかに焦る。
「どうして、って……デートだよ、デート!」
「え――ッ!?」
 デート!? と、更に心底驚いたような顔をするに及川はなお焦って言った。
「そんなに驚く!? 遊園地でデートとか超定番じゃないの!?」
「え、でも……デートってカップルがするものなんじゃないかな」
「ハァ!? ちゃんいま俺のこと好きだって言ったよね!? 俺、ちゃんのカレシってことだよね!?」
 すればはハッとしたような表情と共になおさら驚いたような顔をした。
「お、及川くんを好きだとは言ったけど……付き合うとは言ってない……」
「ハァ――ッ!?」
 なぜそう言うことになるんだ。これが天才の思考回路ってヤツか。と及川は追いつかない突っ込みを脳内で繰り広げつつに正面から向き直った。
「付き合う……って、両思いの2人の自然な関係性なんじゃないの?」
「そ、そうかな……」
「そうだよ! なんか映画で見た覚えあるんだけど、お付き合いしてくださいーとかってのは日本だけで世界のスタンダードは両思いなら自然と付き合ってる感じなんでしょ!?」
「そ、そうなの……!?」
「ああもう、どっちだっていいし言葉が必要なら言うよ。付き合お?」
 何だかやけっぱちになってきた。と、あまりの展開に自分で呆れつつ言えば、予想外にもは返答に詰まった。困惑しているようにさえ見えて、え、と及川は顔面から血の気が引くのを感じた。
「な、なんでそこで悩むのさ……!?」
「だ、だって……付き合うって言っても、来年は受験だし」
「受験いま関係ある!?」
「だって、私、東京に戻るもん……」
「俺だって東京行くかもしれないし!」
「でも、私……私、すぐまた違うところに行く……かもしれない、し」
 困惑気味のを見て、むー、と及川は口を尖らせた。
 分かってはいたが、にはたぶん明確な将来設計というのがあって、そこにたぶん自分は存在していなくて。だから、いずれ別れる相手と付き合うなんて無意味なことはしたくない、という事なのかもしれない。
 けれども――と拳を握りしめる。
「そんな先のことなんて知らないしまだ分かんないじゃん! それはそれで、その時考えればいいんじゃないの?」
 つ、とが息を詰めたのが伝った。
「ぜっったいないと思うけど、ちゃんが東京行っちゃうより先に別れちゃうかもしれないし。ぜったいないと思うけど。……だからそんな先のこと心配するより、いま俺と一緒にいてよ」
 真っ直ぐ見つめたの瞳が少し揺らいで、そして頬が震えたのが及川の目に映った。
 逡巡するように何度か瞬きを繰り返したあと、小さく「うん」と頷いたを見て、ホッと胸を撫で下ろすと同時にパッと笑う。
「じゃあ月曜はベニーランドで決まりでイイよね?」
「ベ、ベニーランドはちょっと……」
「なんでさ? もうほとんどの学校は休み終わってるからぜったい空いてるって」
 とはいえ。だからこそ逆に青葉城西の生徒で溢れている可能性もあるが。と思いついて及川は肩を竦めた。
「動物園でもいいけど、月曜休園日なんだよね確か。って、都会っ子からしたらベニーランドとかイヤ? ディズニーじゃないとダメ!?」
「そ、そんなことないよ! その……」
 口籠もるを見て及川は息を吐いた。――が北川第一の頃から自分と「2人きり」というシチュエーションをあまり好んでいなかったのは知っている。何かと岩泉の存在を気にしていたのが何よりの証拠だ。ほんの少し、0.0001%くらいははもしかして岩泉が好きなのではと思わないこともなかったが。現にそのせいで今日の勉強会に岩泉も来るのかと問われて苛立っていたわけだが。そうではないと分かったいまは理由は一つだ。
 自分はおそらく相当に女の子にモテるということを自覚している。モテているのかアイドル扱いなのか自分でも定かではないが、それでも自分のそばにいたら無意味に目立ってしまうのは避けられず、はそんな状況になるのを避けていたのだろう。
 けれども。自分の隣にいることで悪目立ちするのはイヤ、なんて。こっちだって好きで目立ってるわけじゃないし。いや目立つのは好きだけど、そう言う問題じゃなくて。自分でもどうしようもないのだから慣れてくれなきゃ困る、と及川はため息をひとつ吐いた。
「ま、どこでもいいけど。俺はちゃんとデートがしたいんだし」
「う、うん」
「取りあえずさ、ご飯食べに行こ。お腹空いたしさ」
「え……、でも、課題……」
「ソレはもういいの」
 もうに会う理由作りなんてしなくていいし。と思う。
 課題が終わっても終わらなくても、こうしてこれからいつでも彼女に会える、と及川は屈託のない笑みをに向けながらそっと彼女の手を引いた。



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