NEO UNIVERSE
不安がある。 雪のように少しずつ僕の心に降り積もり、いつしか僕を押しつぶしてしまいそう。 真っ暗な闇。僕を取り囲む闇。 そんなものには慣れていたつもりだったのに。 一度光を知ってしまった心は、もう闇には耐えられない。 闇は・・・怖い――。 二杯目のコーヒーがカップに注がれる。 砂糖もミルクも入れずにそのカップに口をつけ、読んでいる本のページをめくる。 さっきから読書はあまり進んでいない。 読んだ内容も、ちっとも頭に入ってこない。 理由はわかってる。彼女がまだこないから。 今だ空いたままの目の前の席が、ぽつんと空虚に浮かんでる。 彼女が遅れてくるのはいつものこと。 あまり細かいことにはこだわらないおおらかな彼女は、時間にもわりとルーズで。 よくそれで運動部のマネージャーなんかやってられるなと、同じマネージャーをこなす僕には不思議でしょうがないけど、公私の区別はつけているようで、特に問題はないらしい。 でも今日はやけに遅すぎるような気がする。 チラチラと時計を見る回数が増えていく。 時計の針は約束の時間をゆうに20分はオーバーしていて。 いつもなら10分程度の遅刻しかしないはずなのに。 どうしたんだろう。何か事故にでも巻き込まれたんだろうか。 そわそわとする気持ちを落ち着かせるため、もう一度コーヒーを胃に流し込む。 僕らしくない。どうしてこんなにイライラしてるんだろう。 たかが20分じゃないか。いつもより10分遅れているだけだ。 電車が遅れたとか、バスに乗り遅れたとか、きっとその程度のことだろう。 「・・・」 唇から零れた名前に動揺したかのように手が震える。ソーサーに戻すカップがカチャンと音を立てたその時。 カラン・・・と喫茶店のドアにつけられた鐘が大きく鳴った。 弾かれたようにそちらを振り向く僕の視界に、息を切らせて慌てたように走り込んでくる女の子の姿が映った。 その瞬間、僕の胸が大きく波打つ。 「ごめんねはじめ」 乱れた息を整えながら、僕の目の前の席に腰を下ろすと、まずは開口一番にこれを口にする。 いつもはそんなこと決して言わないから、今日の遅刻がさすがに申し訳ないとは思ってるんだろう。 「遅いですよ」 本当は彼女が来てくれただけでも安堵しているけど、敢えて僕は文句を言ってみる。 こう言っておかないと、彼女はまた何度でも遅刻を繰り返すだろうから。 「だからごめんって。お願い許してよ。ここのコーヒー代は持つから」 「コーヒー代だけですか?僕としてはむしろそれ以上を期待しますね」 「それ以上・・・?」 「んふっ。自分で考えてごらんなさい」 ん〜・・・っと首をかしげて数秒考え込むと、はあ、わかった!と言って手をぽんと打ち鳴らした。 「今日の夕ご飯作れってことでしょ?わかった、まかせてよ。はじめの好きなもの何でも作ってあげるから」 ずるっと数センチ椅子からずり落ちる。冗談なのか?それとも天然か?僕が期待することといったら、そんなおままごとみたいなことな訳ないだろうに。 そんな僕の気も知らずに、もうそれだと決めつけている彼女は、すでに今夜の夕食のメニューをあれこれ話し出している。 訂正するのも馬鹿らしいと考えた僕は、気を取りなおして彼女の顔を見つめると、いつもと違うところに気がついた。 「・・・リップを変えましたか?」 「え?ああ、気がついた?」 にっこりと嬉しそうにが笑う。 いつもは透明なリップやグロスしか使わない彼女なのに、今日の唇はやけに紅い。 華やかな薔薇色の唇は、いつもより彼女を大人っぽく、そして艶っぽく見せる。僕としても悪くはないな、と思わせるほどに。 だけど、の次の言葉で、僕の感想は180度転換した。 「これね、不二先輩がくれたリップなの。『にはこういう色が似合うよ』って」 「不二くんが・・・?」 僕の声が不自然に翳ったのにも気づかないように、はにこやかに話し続ける。 「そう。別に私の誕生日でもないのにね。でもねー、結構これ評判よかったんだよ。みんな『可愛い』って言ってくれたし」 「・・・・・・・そう」 「菊丸先輩なんか、『色っぽいにゃ〜。チューしたくなっちゃう』って言ってホントにキスしようとするから、ついビンタしちゃったんだけど」 「キス・・・菊丸くんが・・・」 次々に出てくる青学の男たちの名前・・・。僕の知らないの日常生活がそこにはある。 「はじめはどう?これ似合う?」 僕の心の中などまるで眼中にないかのように、は能天気に聞いてくる。 「・・・・・・・・・・僕の好みじゃないですね。そんなの貴方には似合わない。さっさと取っちゃって下さい」 「え?」 僕にそんな言葉を言われるとは思っていなかったんだろう。の瞳が驚いたように丸くなる。 「出ましょう」 「え、ちょっと待ってよ。私まだ紅茶飲み切ってない・・・」 「だったらさっさと飲んでしまいなさい」 僕の声に冷たい棘が含まれてくる。僕の変化にはやっと気づいたみたいで戸惑ったような顔をしているけれど、とりあえずは僕の言う通りにカップに残っていた紅茶を黙って飲み干す。 「行きますよ」 がカップをソーサーに戻すのと同時に、僕は伝票を持って席を立つ。 「あ、それ私が・・・」 「いいです」 が伝票に手を伸ばしたのを短い言葉と共に受け流すと、お金を払って、僕はさっさと店を出る。 「待ってよはじめ」 「・・・・・・・・・・・」 僕の名前を呼びながら、は必死に僕の後を追いかける。 それでも僕は歩く速度を緩めない。 「もうっ!一体何なの?急に怒り出しちゃって・・・!」 一向に足を止めない僕に、さすがのも怒り出したようだ。ぐいっと僕の服の裾を掴んで無理矢理僕を立ち止まらせる。 「何を怒っているの?さっきからずっと呼んでるのにちっとも止まってくれないし」 「僕に合わせて歩けばいいでしょう」 僕の論理も無茶苦茶だ。男の足の速さに普通の女の子であるがついていけるわけがないと知っているのに。 だけど今の僕は何故かいつもの冷静さが欠けていた。わかっているのに感情が、身体が言うことをきかない。 「はじめに合わせるなんてできるわけないじゃない!何よはじめの馬鹿!青学のみんなはちゃんと私に合わせて歩いてくれるよ」 「!」 その叫びが、僕に残っていた最後の理性を破壊した――。 「ちょっ・・・何するのよはじめ!」 「うるさいですよ」 の腕を掴んで引っ張り込んできた場所は、近くにあった小さな公園。 もう日も沈みかけた公園には人影もなく、寂しいほどの静寂に包み込まれていた。 その静けさの中、の短い悲鳴が響く。 「痛っ!」 僕に突き飛ばされて、茂みの中へ倒れる。転んだ拍子に手をすりむいたらしく、傷を見て少し涙目になってる。 でも僕はそんなの様子にかまうことなく、彼女の上に覆い被さる。 「んんっ・・・」 唇に噛み付くようなキス。息苦しさと痛さにの眉が歪み、僕を押しのけようと両手でドンドンと僕の胸を叩く。 暴れる彼女を力技で押さえつけ、睨み付ける。 「そんなに・・・そんなに青学の男たちがいいですか?男たちに囲まれた生活がそんなに楽しい・・・?」 「はじめ・・・?」 止まらない。もう誰にも止められない。 流れ出したマグマは貴方を、そして僕をも焼き尽くす。 すべてが完全な無となって消え去るまで。 「不二くんが・・・菊丸くんがそんなに好きですか?この僕よりも・・・?」 闇が迫る。闇に飲み込まれる。 「僕をこんなに貴方に夢中にさせておいて、僕を一人では生きられない人間にしておいて、今更僕を捨てるの・・・?そんなこと許さない・・・!」 意識が、弾けた。 血に飢えた獣のように彼女に襲いかかる。白い肌に噛み付き、その柔らかな肉を蹂躙しようと手に力を込める。 僕の手がのブラウスを引き千切って中に侵入した瞬間、彼女の身体がびくりと大きく跳ねた。 パアーーーーン・・・! 鋭く響くその音を、僕はどこか遠い意識の彼方で聞いたような気がした。 でも、次第に広がる頬の痛みに、それがが僕の頬を叩いた音だと理解する。 「・・・・・・・・・・・・・」 押さえつける僕の腕の力が弱まった隙に、はすかさず僕の身体の下から逃れ、乱れた服と息を整えながら怒りと戸惑いが入り混じった瞳で僕を睨み付ける。 完全な拒絶。 僕を、完全な闇が包む。 「・・・・・・・・・・貴方に出会わなければよかった」 苦しい思いが唇から零れ落ちる。 貴方は風のように、鳥のように優しく自由な気性で。 風を纏って羽ばたく光の翼に憧れて、貴方を手に入れた。 貴方はいつでも僕を光で包み、幸せな気持ちにしてくれたけど。 僕と貴方を隔てる壁を思うたびに、僕は不安に襲われた。 何故貴方は青学の生徒なんだろう。何故テニス部のマネージャーなんだろう。 それが僕たちを出会わせたきっかけだったとしても、僕らをより隔てる大きな壁にしかなりえない。 僕はいつでも貴方の側にいたいのに。 どこかに閉じ込めて、僕だけしか見えないようにしてしまいたいのに。 貴方はそれでも、自由を求めて飛び立ってしまう。 僕を置いて、一人輝く空へと。 どうして僕だけを見てくれないの? 僕はもう貴方しか見えないのに。 貴方に出会わなければ、僕は一人で生きていけたはずなんだ。 闇の中で、たった一人で生きていくとしても、それでも僕は平気だった。 慣れきってしまった孤独など、僕にとっては恐ろしいものなどではなかったのに。 貴方に出会って、僕は変わってしまった。 闇を、孤独を恐れ、不確かな光を求めて彷徨う、誰よりも弱い人間に成り下がった。 「貴方に出会わなければ・・・僕は誰よりも強く、誇り高く生きていけたんだ。それなのに・・・僕はもう・・・」 「はじめの馬鹿っ!」 に背中を向け、うつむく僕に、の大声が浴びせられた。 「馬鹿馬鹿っ!何でそんなこと言うの?私は・・・私ははじめに会えてよかったって思ってるのに!」 驚く僕の目の前に立って、僕の瞳をまっすぐに見つめる。恐れも迷いもない視線で。 「私ははじめに会えてよかった。それがたとえ・・・悲劇の始まりであっても」 どうして?どうしてそう言えるの? どうして傷つくのがわかっていても、会えてよかったと言えるの? 呆然とする僕にそっと口付けて、は眩しい笑顔を浮かべる。 「私は一人じゃないし、はじめも一人じゃないでしょ。そりゃ確かに私たちは学校も違うし、いつも一緒にはいれないけど、それでも私ははじめが好きだもん。はじめが好きな今の自分が幸せだと思えるもん」 好き・・・?僕のことが好き? 僕を好きでいてくれることを、幸せだと感じてくれるの・・・? 怯えた子供のように震える僕を、母親のような温かさで包み込んで抱きしめる。 「はじめと一緒なら、どこへだって飛んでいけるよ。だからずっと一緒にいようよ。ずっとそばにい・・・」 それ以上の言葉は出てこなかった。僕が彼女の唇を無我夢中で塞いでしまったから・・・。 僕の心から、貴方を失ってしまうかもしれないという不安は消えることはないだろう。 今でも貴方を僕しか知らない秘密の場所に閉じ込めて、僕だけしか見えない、僕だけしか触れられないようにしてしまいたい衝動はある。 それでも僕は、自由に空を舞う貴方を愛している。 煌く光の翼を背に、僕の目の前を不安定な未来へと走っていく貴方を愛している。 その光は、僕の心の闇を一層濃くしてしまうのだろうけれど。 それでも彼女と歩む不確かな未来への道標となって、僕を導いてくれるだろう。 人を愛することは、いつでも絶望と背中合わせ。 それでも・・・信じていたい。いつまでも貴方を。この思いを。 綺麗な花のように笑って。 星のように輝いて。 傾きかけた天秤の上へ。 築き上げていく天よりも高く。 この手を放さないで。 今、空のようにひとつに結ばれよう。 貴方と、いつまでも――。 Fin |
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ありがとうございましたv
「Moonlight Dancin’」のまっくいーん様に70000ヒットを踏んだときに
書いて頂きました。
リクエストは「観月の意外な一面、弱いところなど…」なんて生意気にも
注文を付けさせてもらったのですが、もう、見事に!これでもかってくらい
素晴らしい物を書いて頂きました(感涙)
私、もう一生まっくさんに足を向けて眠れません!
ホントにありがとうございましたvv