Blue Gradation |
関空に異動してきて数度目の春を迎えようとしている。 年度末のこの時期――各部署は慌ただしくなるのが毎年のことだ。 「整備長、美保航空基地に異動だってさー」 「パイロットも確か異動内示出てたよな、噂じゃ新たに新人コパイが関空に来るらしいけど」 嶋本は救難士たちの雑談をぼんやりと耳に入れながら昼食を取っていた。 本日のメニューは、カレーだ。 カレンダーに視線を流しつつ異動内示のメモやらなにやらでいつもより賑わっている掲示板を遠くに眺める。羽田のトッキュー基地でも同じように今頃は異動の話題で盛り上がってるのだろうか、などと考える嶋本の脳裏に、とある初春の忘れられない出来事がふと甦ってきた。 あれはまだ羽田に籍を置いていた頃。 トッキューの隊長として二年目を迎えたばかりの春のことだった――。 当直の三隊はすこぶる平穏な時間に多少の暇を持てあましつつ昼食を取っていた。 「もうじき三月も終わりっすねー」 出前を頼んだカレーを頬張りつつ口を開いたのは副隊長の大口だ。 「なんかこう、週末にカレー食ってると巡視船に乗ってたころを思い出さない?」 昨年末に再編成されたばかりの嶋本率いる三隊は、隊長である嶋本自ら隊の雰囲気を和ませるために口を開かずとも、その名の通り口から生まれてきたような副隊長の大口が皆に話題を振ってくれるため嶋本は大抵は相づち役に徹していた。しかも比較的若いこの隊では大口は三番目に年長であり――、その大口がタメ口で話すということは自分に対する問いかけではないため嶋本はカレーを頬張ることに熱中していた。 そうですかのう、と隊員である大羽が大口の振った話に応える。 「ワシんとこはそんな海軍じみた事はやらんかったですけえ」 「なになに、もしかして未だに"打倒海自!"とかそういうノリ? 流行んないよー、今時そんなの」 大羽の答えをケラケラと笑い飛ばし、「そう言えばさ」と更に話を続ける大口は本当に喋ることが好きなのだろう。 「海自で思い出したんすけど、今日ってピューマ出向の日でしたっけ?」 ピク、と嶋本の手が反応した。今度は自分への問いかけだったらしい。 「そうや、下総基地に飛行訓練に行っとる。もう一機は五隊乗せて四管に展示訓練に出とるで」 「ゲッ、じゃあピューマ二機不在? 出動かかったらジェットレンジャーの出番っすか……」 「せやなぁ、呼ばれた場所と海難の規模によるな。必要やったら下総からピューマに戻ってもらえばええし」 「えー、ピューマ戻すくらいなら、下総の救難飛行隊に行ってもらったほうが早くないっすかね?」 あからさまに気怠げに唇を尖らせた大口に向かい、分かりやすく眉を吊り上げた嶋本は「アホかッ!」と唾を飛ばす勢いで叱咤する。 「なんやその腑抜けた意見はッ! お前はもう今後一切週末カレー禁止や! 食うな!」 「うわっ、嶋本隊長パワハラっすよ、酷いっす」 この大口独特の軽いノリは嶋本としては悩みの種でもあった。個人として付き合う分には何の問題もないのだが、トッキューの副隊長としてはいささか自覚が欠けている。 もっともそんな大口を副隊長に選んだのは自分自身であるし、彼を副隊長として、更には将来の隊長候補として立派に育て上げるのもまた隊長である自身の仕事なのだが――と思いつつ嶋本は涙目でカレー皿を確保する大口を見て小さな溜め息を零した。 そんな中、諫めるようにして割って入ったのは大羽だ。 「まあ、海自はワシらやお上の要請がないと出られませんけぇやっぱりトッキューが踏ん張らんと」 すると大口は「分かってるよ」とさらにブスッと唇を尖らせた。 「ギャグだよ、ギャグ!」 「んなタチの悪いギャグはいらんわ!」 大抵大羽はこうして隊長と副隊長がコントじみたやりとりを始める際には緩和剤の役目に徹してくれている。まだトッキュー二年目にして既に熟年のような雰囲気を醸し出す大羽はいささか哀れでもあるが、彼を選んだ自身の目には曇りはなかっただろうと嶋本は大口を突っぱねつつ口元を緩めた。 去年は自身も隊長としては新人で今にして思えば毎日いっぱいいっぱいの日々であったが、今年は二年目だ。去年よりは余裕を持ってこの隊を良い隊にしていきたい、などと思っていた所で「さっきの話っすけど」とまたも口を開いたのはやはり大口だ。 「もうじき新人が入ってくる季節っすよね。俺、任官したての春はいきなり年上の後輩とかできちゃってビビリまくりだったんすけど隊長はそういうことなかったっすか?」 「俺か? あー、そやなぁ……確かに年上の部下はぎょーさんおったな」 大口の問いかけに嶋本は記憶を手繰るようにして眉間に皺を刻んだ。 大口があえて自分へと話をふったのは、他ならぬ三隊で海上保安大学校出であるのが大口と自分の二人のみだからだ。保大を出た者の大抵は研修を経て卒業した年の暮れに巡視船艇に配属され、新人ながらに主任を務めることとなる。当然、配属と同時に部下を持つことになるわけで――、いきなり年上の部下ができることなどザラだ。とは言え大部分の保安官は新人が主任としてやってくることに慣れており、おおよその場合上手い具合に接してくれる。しかしながら厄介なのは数ヶ月後の春にやってくる海上保安学校を卒業したばかりの新人だ。保校卒の年齢層は二十歳そこそこが多いとは言えばらつきがあり、中には二十代中盤を越えるものもいて、主任航海士の方が航海士補より年下という状況が生み出されるのもままあることだ。大口の場合がまさにそれで、新人時代に年上の後輩かつ部下が出来たのはやりにくい事だったのだろう。 もう十年近く前の話になるだろうか、自分は大口のようなことはなかったがそれなりに色々あったものだ――、と不意に嶋本は着任したばかりのころの千葉海上保安部での思い出を過ぎらせて渋い顔をした。 主任航海士時代のことはあまり思い出したくない。むしろ潜水士になる以前の自分そのものを思い出すのがどうにもいたたまれない、と皺を刻んだ先で眉毛をピクピクとヒクつかせていると急にけたたましい受信音が基地内に鳴り響いた。 ――海難通報だ。 みなが一斉に顔色を変えると、受話器を取って対応していた専門官の佐藤が三隊の方を向いた。 「三本オペから出動要請だ。天津漁港の防波堤にプレジャーボートが衝突したと銚子の本部に通報があったそうだ。怪我人は数名、海に転落した乗員の可能性もアリで現場には近場の巡視艇を向かわせている。要請内容は上空からの捜索支援と怪我人の救助! ――三隊出動準備カカレ!」 「はい!」 雑念は一気に晴れ、嶋本他三隊のメンツはトッキューらしい顔で返事をした。 嶋本は更にキツく眉を寄せる。先ほど話していたことだが、今日はピューマがいない。と言うことは小型ヘリであるベル206B・ジェットレンジャーで出なければならない。 防波堤付近の事故ならば既に消防にも通報が入り現場では救急車が待機していることだろう。怪我人の移送はそちらに任せればいい。 故に上空からの漂流者の捜索ならば小型のヘリで問題はなく――現状で出るしかないだろう。連れて行ける隊員の数はかなり絞られる事となり、嶋本は迷わずこう言った。 「――大羽、準備せえ! 他は留守番や!」 そう、全員で行けないのならば自分の他に誰を選ぶか――潜水担当の大羽を指名する他はない。 そして二人で事務室を飛び出て息つく間もなく用意を済ませ、エプロンへと走る。するとそこには既にジェットレンジャー――コールサイン"ハミングバード"の名を持つ羽田航空基地でもっとも小型のヘリが離陸スタンバイしていた。 「さっき連絡した通り今回は俺と大羽の二名や。よろしゅう頼むで!」 嶋本が声をかけたのは機長を務める青年だ。階級は一等海上保安士で配属からそう年数も経っていない若手でもある。 彼は少々緊張気味な面もちで返事をした。おそらく滅多にないジェットレンジャーでの海難出動ゆえに慎重になっているのだろう。 駆け足で嶋本たちがヘリに飛び乗ると、そこには大型ヘリであるスーパーピューマとは違う狭苦しい空間が広がっており嶋本も大羽も慣れない窮屈さに多少の戸惑いを見せつつ席に着いた。間を置かずして機長から離陸を宣言する旨が伝えられ、フワッ、と機体が地上から宙へと舞い上がる。 「これよりハミングバード・スリーは天津漁港へと向かう。現着予定は14:00」 機長の声を耳に入れながら大羽はどこかぽかんとした表情を晒していた。 「なんや?」 「いや、静かじゃなあと思うて……」 ローター音とエンジン音の奏でる重奏は専用のヘッドフォンで遮ってさえ耳に進入してくるものだ。しかしながらジェットレンジャーはそれらがさほど気にならないほどに静かで、この機体に乗るのが初めての大羽にとっては物珍しいのだろう。 静かなのはいいんやけど、と東京湾を見下ろしつつ嶋本はインカムを押さえた。 「確認しとくで、細かいことは現場に着いてからやが……要救助者を複数吊り上げて定員オーバーになった場合、お前は洋上に捨てて行くからな。覚悟しときや」 「――はい!」 捨てていく、という嶋本の発言は冗談ではなく本気だ。大型ヘリであるピューマではほぼ起きないことではあるが、もしも隊員のせいで要救助者がヘリに乗れない場合、隊員たちはいつでも海に残していってもらって構わないという覚悟をもって仕事にあたっている。これは嶋本も同様であり、もしそうなれば自分もそうするつもりだ。 大羽もそれがよく分かっているからこそ、きつく表情を引き締めて返事をしたのだ。 やがて太平洋が見えてくる。今日は視界がよく晴れていて水平線の彼方までひときわ青く澄んでいた。嶋本にとっては懐かしい、生まれてからずっと身近にあった海でもある。そして、短い間だったが主任航海士として駆けた海でもある――と過ぎらせて嶋本はキュッと唇を結んだ。 今は、海難に集中するほうが先だ。 「ターゲット・イン・サイト。――三時の方向に巡視艇を確認」 機長の声がして嶋本が窓を覗き込むと、目的地である天津漁港の防波堤付近に停泊している海保の巡視艇が見えた。向こうもヘリの接近を確認したのか紺色の制服を着た保安官が防波堤で上空を見上げて何やら手を翳している。どうやら着陸誘導をしているようだ。 「――嶋本隊長、どうしますか?」 「従う。巡視艇にリペ降するほうが手間やろ」 「了解。ハミングバード・スリー、これよりファイナルアプローチに入る」 出発前の緊張気味の表情とは裏腹に機長の声は至って落ち着いている。従う、と言った手前こう思うのもおかしいが、いくら小型ヘリとはいえピンポイント着陸など可能なのだろうか? この若い機長に――などと嶋本が思っている最中にもジェットレンジャーは旋回しながら高度を下げていく。恐らく先ほどの保安官の誘導に従っているのだろう。減速しつつ見る見るうちにヘリと地上との距離が狭まり、コンクリートの傷まで目視できる距離まで近付いたと思ったところでストンと機体が地上に降りた感覚が嶋本の身体に伝った。ある程度の衝撃を覚悟していたというのに杞憂に終わり――嶋本は一瞬だけあっけに取られる。 ――若いっちゅーのに、ええ腕や。などと頼もしく思った刹那、キッと表情を引き締めてロックの解除されたドアに手をかけると先ほどの保安官らしき人物がこちらに駆けてくるのが見え、嶋本と大羽も地面へと飛び降りた。 「よく来てくれました! 自分は銚子海上保安部の――」 「特殊救難隊、第三隊隊長の――」 そうして挨拶をしようとした途端、嶋本も保安官も互いの顔を見て一瞬固まってしまう。その間、一秒にも満たなかったかもしれない。先に声をあげたのは保安官の方だ。 「し、嶋本主任――!?」 「おまっ……か!?」 呼応するように嶋本も声をあげた。 眼前にいたのは嶋本並の童顔を晒しているものの嶋本よりは大分頼りなげな印象を受ける青年。――かつて嶋本が千葉で主任航海士を務めていた際の部下でもあった。 「な、なんやお前……ここで何しとるん!?」 「千葉から銚子に異動したんですよ。主任こそ……あ、噂でトッキューに行ったとは聞いてましたけど、まさかここでお会いするとは……」 「って、今はそんなんどうでもええ! 状況はどうなっとるんや!?」 やりにくい。きっと互いにそんなことを過ぎらせただろう。しかし嶋本がせっつくと青年、はハッとしたように状況を説明した。 通報を受け、現場の一番近くにいた巡視艇は港から一キロ辺りの地点で航行不能となっているプレジャーボートを確認。乗組員は三名で、防波堤に激突した際に操舵不能となり暴走したあげくに止まったという事だった。船内で倒れている男女二名を発見した保安官たちはすぐに巡視艇で漁港に戻り、つい今し方救急車に怪我人を乗せ、引き継いでもらったという。 ということは既に解決したのか? と嶋本が安堵したのも一瞬、は憔悴気味にこう続けた。 「乗組員の話によると船尾にいた男性一名が行方不明らしく、恐らくボートが暴走した際に海中に転落したのではないかと思われます」 「なんやとッ!?」 「今日の午前は今より時化てて波も高かったです。予想よりも遠くへ流されている可能性も……」 話を聞いて嶋本は思わず唇を噛みしめた。本庁への通報まで時間が経っていたせいか事件発生から既に数時間が過ぎてしまっている。本当に海へ転落したのならば一刻も早く見つけなければ――いや、すでに手遅れの可能性もある。 「――大羽!」 「はい!」 「お前はヘリで上空捜索。状況は無線で連絡しろ、俺が巡視艇から指示を出す。ええな?」 嶋本はおもむろに大羽に向かって言い放つと、機長にも漁港周辺を飛んで該人を探すよう指示を出した。そうして大羽がヘリへと飛び戻ったのを確認しつつ自身は巡視艇の方へと駆け出す。 「主任ッ!?」 「すぐ捜索開始や、モタモタすんな!」 そばに停泊していたCL型の中型巡視艇に飛び込んだ嶋本はまず船長を捜そうとした。が、労せず眼前に太い一本線をあしらった胸章を付けている中年の男性が見え、挨拶をする。 「特殊救難隊、第三隊隊長の嶋本です」 船長の階級は三等海上保安正、嶋本よりも下だ。外見年齢を見るにこの船長は叩き上げだろう。しかし年輩に対しての敬意は忘れない。 「状況はお聞きしました。ただいまより捜索指揮をお預かりします」 「よろしく頼みます」 「既にヘリには上空捜索に入ってもらってます。すぐにこの船にも出てもらいます……が。――おい、」 「は、はい!?」 船長に敬礼したところで嶋本はくるりと後ろを向くと、かつて部下であったの方を睨むようにして見据えた。 「午前中と今現在の潮の流れは頭に入っとるな?」 「……あ、……はい!」 「よし、現在位置から該人が流されたと仮定してデータから該人の推測位置と漂流航路を出せ。――出港や!」 やりにくいとは言え、かつてやっていた事であるため命令しやすいとは皮肉だろうか。 指示を受けてが操船室へ駆け込んだのを後目に嶋本は自身は船首へと出、他の乗員たちにもそれぞれ甲板で目視による捜索を行うよう指示を出した。 「ウチのをご存じなんですか?」 つい今の嶋本の態度を見れば当然感じただろう疑問を船長に寄せられて、嶋本は一瞬だけ表情を苦めた。 「昔、部下だったんですわ」 正直に言って、嶋本にとって千葉の保安部時代というのは封印したい過去のようなものだ。若かった、と言ってしまえばそれまでだが自分でも随分ふざけたアホガキであったと自覚している。 は――そんな自分が主任航海士となって初めての春に航海士補として任官してきた、まだ19歳の青年であった。どこかビビリ癖が抜けず、ただでさえ航海士補として出来損ないに近かったというのにおどおどしていた様子が倍率ドンでカンに触って随分と理不尽に厳しく接していた。そのせいか自分の顔を見ると怯えるほどになっていたのをよく覚えている。 本当に理不尽な上司であったことだろうと思う。加えて戯れに舵を面白おかしく切ってめちゃくちゃな操舵をしてみたりと主任航海士としても最悪で、今あんな人間が目の前にいたら間違いなく蹴り飛ばして怒鳴りつけていることだろう。 故郷の千葉が嫌いなわけではないが――ここはあまりに恥ずべき過去が眠りすぎている。 今の自分はトッキューの隊長として世間に貢献しているわけだから過去のことは水に流して欲しい、などと都合のいいことを思っているわけではないが……人知れず後悔もしたし、今の自分はあの頃よりはマシになれたと思っている。が、やはり過去は消えないものだ。 「くッ……!」 不意に波しぶきが頬を弾いて、嶋本はキツく眉を寄せた。吹き付ける潮風がやけに痛い。 操船室から彼は、は自分の背中をどう見ているのだろう? かつても見ていた自分の背を。 覗き込んだ海面は深い青で、比較的港から近いここはゴミのような浮遊物がよく漂っており幾度となく嶋本の目を過ぎっていった。 該人は恐らく救命胴衣を着けてはいない。ということは自力で泳ぐか、浮遊物に捕まり漂流するかしか生き長らえる術はない。このゴミの多い海域であることが吉と出ればいいが――と嶋本は周囲に目を凝らし続けた。 このまま長丁場になれば強制的に海保は捜索作業を打ち切らねばならなくなる。出動前の大口ではないが、それこそ自衛隊の出番だ。しかも、彼らを出すか否かはもっと上の人間か県知事の判断に委ねることとなる。今回のようなケースで自衛隊まで動かす可能性は――無きに等しいだろう。 ならばやはり、自分たちが見つけられるか否かに該人の生存権がかかっている。 トッキューの隊長としても、かつての主任航海士としても今日はぜったいに成功して戻らなければ、と自身にプレッシャーをかけていると、ジ、と無線が雑音を拾った。 「ハミングバード・スリーより嶋本隊長。天津漁港、離陸地点より一時の方向7キロ地点にて要救助者らしき浮遊者を視認」 ジェットレンジャーの機長の声だ。見つけたのだろう。寒気のような緊張が一気に嶋本の背を走り抜けた。 「状況は!?」 「該人はビーチボールらしきものに捕まって漂流中です。疲弊している様子ですが意識はある模様」 機長の声を聞きつつ、直ぐさま嶋本は操船室に駆け込んだ。巡視艇と要救助者の位置を把握するためだ。 「、こっからヘリまでの距離分かるか!?」 言いながら自身でレーダーを見ていると、双眼鏡を覗き込んでいたはこう言った。 「設計航路上にヘリを視認しました。目算で2マイル先です」 思わず嶋本は息を呑む。――潮の流れから要救助者の位置を予測しろと指示したのは嶋本自身であるが、こうもピタリと当てるとは。やはりも何も出来なかった新人のころとは違うということだろう。 よし、と頷くと嶋本は再び無線に向かって機長へと呼びかける。 「機長、大羽をローアンドスローで降ろさせる。ジェットレンジャーは上空待機!」 「了解」 「大羽、聞いとったか? 要救助者を確保ののち、お前らはこっちが拾う。以上や」 更には大羽にも指示を出し、嶋本は操舵席の後ろから前方を見据えた。 ローアンドスローとは、ヘリを低空低速飛行させて海面へ直接隊員が飛び込むやり方だ。いくら小型ヘリとは言え、ヘリの巻き起こすダウンウォッシュは波をうねらせ要救助者に負担をかける。疲弊してやっとのことで浮遊物に捕まっている要救助者に直上からのダウンウォッシュを浴びせるということは海へ落ちろと言っているに等しいものだ。ならば少し距離を置いて大羽に泳いで行かせた方がよほど建設的だと嶋本は判断したのだ。 巡視艇から要救助者までの距離は約三キロ。大羽が要救助者を確保した頃には現場に着くだろう。巡視艇が独特のサイレンを吹鳴し始め、嶋本は煽られるようににも指示を出した。 「、消防に連絡せえ。漁港に救急車で待機してもらうんや!」 「は、はい!」 相も変わらず、彼は嶋本を苦手としているらしい。緊張気味に頬を引きつらせるを目の端に映しつつ嶋本は船首甲板へと戻った。 ブワッ、と強い風が吹き抜ける。受ける向かい風が先ほどよりも痛くないのは要救助者発見の報を聞いたからだろうか? 「見えたぞ、11時の方向だ!」 双眼鏡を手にした甲板要員の声を耳に入れていると、程なくしてジ、とイヤホンが大羽の声を拾った。 「要救助者、確保! 意識レベル1!」 「――ようやった。巡視艇は見えるか?」 「見えとります!」 大羽の声が弾んでいる。要救助者の状態は思った以上に良いようだ。 嶋本は周辺の保安官たちに引き上げ準備をするよう指示を出し、そうこうしている内にトッキュー独特である黄色のウエットスーツが裸眼で確認できる程になり――、初めて嶋本は表情を緩めた。 「……主任……?」 するとどこか間の抜けた声が嶋本の耳に届き、振り返るとぽかんとした表情を晒すがいて嶋本は持ち前の上がり眉を捻る。 「なんや?」 「い、いえ……」 「ボケッとせんと、お前も引き上げ準備せえ!」 「は、はいッ!」 こちらに向かって手を振る大羽の姿が見える。自然、乗員たちの士気があがっているのが嶋本にも伝った。 海上保安官の仕事としては生きた人間を助けるよりも遺体を揚収する回数のほうが格段に多い。ゆえにやはり救助できるということは嬉しいことなのだろう。 嶋本は操船室に手で誘導合図を送りつつ、大羽たちが引き上げられるのを黙って見ていた。やがてずぶ濡れのウエットスーツ姿で大羽がデッキに足を着き、ワッと周りから歓声があがる。 要救助者を降ろして大羽はふーっと息を吐き、嶋本は要救助者の男性の方へ歩み寄った。震えているものの目はしっかりとしている。随分若い。見たところ学生のように見える。 「大丈夫ですか?」 かがんで声をかけると、青年は真っ青な唇を震わせて絞り出すような声で呟いた。 「す、すみません……俺……とんだご迷惑を……」 助かったという安堵感が喉元を過ぎ、罪悪感が込み上げてきたのだろう。嶋本は安心させるように持ち前の明るい笑みを、ニ、と浮かべてみせた。 「よう頑張りました! もう安心したってください!」 レスキューマンとしてこういう瞬間に立ち会うたび、礼を言うのはむしろこちらの方だと嶋本は感じていた。ひょっとすると彼を生きている状態で見つけ出すことは叶わなかった可能性もあるのだ。だからこそ、自分たちが見つけるまで必死に生き延びてくれたことに感謝したい。 保安官たちの持ってきたタオルにくるまれて何度も頭をさげる青年を乗せ、巡視艇は再び天津漁港を目指した。 程なくして漁港に着くと、既に待機していた救急車に引き継いでもらい青年は病院へと運ばれていく。それを見送って嶋本は陸に降り、同じく船を降りてきた大羽の肩を労うようにして叩いた。 「お疲れさん、一人でようやったな!」 「そんな、子供じゃないですけぇ……。じゃけど、初めてのヘリで隊員はワシだけってのはちぃとばかし緊張しました」 苦笑いを浮かべる大羽を笑い飛ばしていると、船長たちも降りてきて二人に向かい頭をさげた。そうして互いに無事救助が成功したことを喜び合う。 「嶋本主任……!」 一通り挨拶も終えたところで羽田に戻るべく防波堤に着陸していたジェットレンジャーの方へ向かっていた嶋本をの声が呼び止めた。 「あ、あの……」 「なんや?」 「そ、その……。主任は、本当に主任なんですか?」 「――は!?」 なんのこっちゃ、と突拍子もない問いにいつもの調子でツッコミを入れると、はやはりタジタジで少々嶋本から目線を外した。 「昔の主任は……その、たまに千葉なまりも出てましたけど標準語でしたし」 「潜水士になって神戸に異動になったんはお前も知っとるやろ? 移ってもーただけや」 「そ、それに……主任だった頃より、大きく見えて……」 「成長期はとっくに終わっとるで? トッキュー入って筋肉増した分とちゃう?」 「そ、そんな物理的な話じゃないっす! 今日は俺、主任のことスゲーって思いました。……い、いえ、主任だったころも尊敬してたんですけど……その……」 口籠もるを見て、嶋本も口をへの字に曲げた。後者は明らかに嘘だろう。少なくとも嶋本自身、自分が尊敬されるような主任航海士であったとは思っていない。むしろ、あんなアホな上司を持ったを人ごとであったのならば同情しただろう。 自嘲気味に嶋本は息を吐いた。 「せやなぁ、俺は……航海士としては何もお前に教えられへんかったしなぁ」 「そ、そんなことは――」 「ええて、俺もあの頃は……今より未熟やったし。せやけど今日、お前の出した航路があまりにピタリすぎてビビったで? なんやいっちょまえに航海士っぽくなりおってからに」 申し訳なさで眉を下げつつ嶋本が誉めるようにして笑うと、は黒目がちな瞳を大きく見開いた。そしてブンブンと首を振るう。 「しゅ、主任の指示が的確だったからっす! 本当に今日は、トッキューが来てくれて助かりました!」 「そう言うても……俺なんもしてへんし。要救助者見つけたんは機長で、確保したのも大羽やしな」 目線を大羽に送ると大羽は肩を竦め、は「そんなことないです!」と拳を握りしめた。 「ずっと冷静にみんなに指示を出してくれて、黙って見守ってくれて……要救助者を笑顔で励まして安心させたのは主任じゃないっすか! 嶋本主任は自分で何でもバンバンやって、バンバンやれる人だったから……他人に任せてくれたことが本当に、その……今も俺のこと誉めてくれてスゲー嬉しかったです!」 あんなに怖かった主任が、とか、今まですみません、などと言いながらは頭をさげ――嶋本はグッと息を詰まらせた。 かつてにとっては恐怖であっただろう主任航海士だった自分。そこから動かなかった自身のイメージが、少しはの中で変わったということなのだろうか? 今日の、トッキューの隊長である自分を見て、少しは彼の中で良い先輩になれたのだろうか? 自分でこう思うのは傲慢なのかもしれないが、主任航海士だった頃よりは格段に仕事とも人とも真摯に向き合っているつもりだ。 そういった部分を他人に認めて欲しいとまでは思わないが――少しでも感じてくれたのなら、嬉しいのはむしろ自分の方だ――などと僅かばかり感傷的になっていると、潮騒を割るようにして太い汽笛の音が響いた。 巡視艇からだ。彼らにはまだ航行不能となったプレジャーボートを曳航してくるという仕事が残っている。早くに戻れという合図だろう。 ハッとしたように顔をあげたは一瞬の間を置いてから嶋本に向かい、晴れやかな顔で敬礼をした。 「今日はありがとうございました、嶋本主任! ――いえ、隊長」 そこにはかつてのように嶋本を畏れていたの姿はなく――、深い青の良く似合う紛れもない保安官の姿があって、嶋本も笑って頷いて敬礼を返す。 そうして互いに背を向けては巡視艇へ、嶋本はジェットレンジャーへ向かう最中、大羽がこんな事を言った。 「主任時代から軍曹じゃったのなら今とそう変わらんに……勘違いしとりますね、あの航海士」 その軽口に頭をはたいてやると、大げさに後頭部を押さえながら「じゃけぇど」と大羽は呟いた。 「隊長のことは、ワシも凄い人じゃと思うとりますけぇ」 ローター音に掻き消されて聞き取れなかったものの、どこか照れくさそうにしていた大羽の表情から嶋本はだいたいの意味を汲み取った。 ふ、と瞳を伏せて口の端をあげつつ自身も照れくささを胸の中で押し殺す。 浮上を開始したジェットレンジャーの窓からふと巡視艇の方を見やると――そこには先ほどまでは掲げられていなかった二枚の旗が揺らめいていて嶋本は僅かに目を見開いた。 紅白のチェック柄と、青い枠で囲まれた二枚の旗。旗流信号"UW"。――ご安航を祈る、という意味だ。巡視艇からの感謝の意と無事の帰還を祈ってのメッセージだろう。 航海士ならその意味が分からないものなどおらず――、同じく外を見ていた大羽の表情も緩んでいる。 ヘリの中という都合上、返信することは叶わないが嶋本はグッと親指を立てて彼らからは見えずとも返答の意とした。 その瞳に、傾いた太陽が太平洋の海原に作り出していたオレンジと青のグラデーションが眩しく映る。雄大な眼下の光景に無意識に目を細めたのは嶋本だけではなかっただろう。 「ほな、帰るで」 自分でも驚くほどに穏やかな声で嶋本が呟くと、まるで合図のようにジェットレンジャーは羽田に向かうために空中で緩くカーブを描いた。 「――アイ・サー!」 操縦席からそんな海軍じみた返答が来て、すかさず突っ込みを入れた嶋本の声により機内は笑い声に包まれつつ羽田を目指す。 青とオレンジ――まるで自身の昔と今を象徴しているようで、ヘリが九十九里浜に背を向けたあともこの日の光景はいつまでも嶋本の脳裏に焼き付いて離れなかった――。 「班長、お疲れさまでーす」 「お先失礼しまーす」 部下のそんな声に返事をしながら、今日も無事一日を終えた嶋本はいつも通り関空基地を出て自宅へと車を走らせた。 幸い、今年の関空キッキュー班は一人の異動も出ずに去年と同じメンバーのままだ。よそに比べて慌ただしさが減る分、この時期になると今日のように「今頃あいつ何してんのやろ」とふいに思い出すことがある。 もっとも、いちいち部下の動向が気になっているのは自分のみで部下たちはこちらの動向など気にも留めていないかもしれないが。と一人自嘲しながらいつものように妻であるが用意してくれた夕食を一緒に取って、食後のお茶で一息入れていると「そうそう」とが思い出したように席を立って何かを手に取り、こちらに戻ってきた。 「進次さん宛てに葉書が届いてたよ」 「葉書……? 誰や」 受け取ると、手に収まった手紙は写真付きで――嶋本は一重の瞼をこれ以上ないほどに持ち上げた。 私たち結婚しました――、とありふれた装飾文字で飾られたそこには、もう幾年も会っていない部下の姿がある。 「や……。なんや、結婚したんかアイツ……ちゅーかどこで俺の住所知ったんや?」 「わぁ……キレイな花嫁さん!」 感慨に耽る間もなく手紙を覗き込んできたが声をあげ、む、と嶋本は唇を尖らせた。 「せやな。のくせに生意気やで」 「トッキューにいた時の部下の人……?」 「ああ、ちゃうで。もっと前の千葉にいた頃のやな――」 そうして嶋本は訊いてきたに自身の主任航海士時代をかいつまんで話した。 自嘲を含みつつ、あのころは若かった、などとありきたりな感情も織り交ぜつつ小さく息を吐く。 「お前もウチの親に散々聞かされたやろー、俺がどんだけアホガキやったか」 「んー……」 「親父のヤツは終いにゃ"お嬢さん、本当にこいつでいいんですか!?"とかなんとか言いだしおってからに……いつまで俺を問題児扱いしとんねん」 話しつつイヤな思い出も一気に甦らせてウンザリしたようにパタパタと手を振っていると、は苦笑しつつ「でも」と葉書のように視線を落とした。 「こうやって離れ離れになった今も結婚の報告をしてくれるなんて……、進次さん、慕われてるんだね」 その言葉に嶋本は、ツ、と息を呑む。 とは、あの春先の千葉での海難以来顔を合わせていない。彼が最後に見た自分の姿は――トッキューの隊長としての背中だったはずだ。 「そうやろか……」 「そうだよ、絶対」 は笑みを浮かべながらも拳を握って力説し、嶋本は知らず知らずのうちにフッと笑みを浮かべていた。 あのが結婚かぁ、とまだ彼が一九歳だった時に初めて会った姿を浮かべながら遠い目をする。 それにしても結婚など、自分にはとんと縁のないものかと思ってもいたが今こうして所帯を持つに至っているのだから人生分からないものだ。 今、目の前にいるはどこか放っておけなくて、けれどもまさか生涯の伴侶にしようなどと意識はしていなくて。でも――現実にあと一歩で永遠に彼女を失ってしまっていたかもしれないという場面に直面した時、初めて結婚の二文字をリアルに意識した。自分がそばについて守ってやるんや、などとそんな青臭い意識だったのかもしれない。 しかし今――改めて思うと守られているのは自分のような気がする。彼女がいつもそばにいて、いつも笑顔で送り出してくれ、笑顔で迎えてくれて、今も笑みを向けてくれていることにどれほど癒されているだろう――と嶋本は感じていた。今も、あんな風に当然のように「そうだよ」と言ってくれて、どれほど気が軽くなったことだろう。 「……」 「はい?」 「そろそろ、家族増やさへん?」 「え!? なに、急に――」 そっとを抱き寄せて呟くと腕の中で彼女がうろたえ「部下もあらかた結婚したことやし」と理由になっているようでなっていない言葉を囁く。すると彼女は苦笑いにも似た小さな笑みをこぼした。 「星野くんとか大口さんは……?」 「それとこれとは話が別や」 本人達が聞いていたら大口あたり「嶋本さん酷いっす!」などと半泣きで訴えてくるだろう事をキッパリと言い放って瞳を閉じた嶋本の脳裏に、うっすらと紺色の制服を着て海を駆け回っていた頃の自身の姿が過ぎった。 随分と遠い所まできたもんやな、と懐かしさに溺れ――今の自分がどれほど幸せであるかを実感しながら、また明日、明後日と積み重ねていく日々をレスキューマンとして、人間として充実したものにしていこうと誓う。部下に、上官に、家族に、友人に。そしてこれから出会うであろう人に誇れるように。 そうしてまた春が来たら、今日のことを懐かしく思い出せるとええな――と考える瞼の裏にぼんやりとオレンジが見えた気がして、温かさに胸を満たしたまま嶋本は感じる幸福感にしばし身を委ねていた。 |
この回想の出来事のあとに「Deep Blue」での回想が起こるので、「Blue Gradation」を踏まえて
「Deep Blue」を読んでもらえるとよりキャラの心情が分かるかも? と思います。
そうしてまた「Blue Gradation」を読んでもらえればもっと(略)
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