Deep Blue





朝、いつもどおり関空へと向かう。
晩夏の今日は――生憎の雨だ。
どんよりと重い雲が今にも落ちてきそうな程くすんだ空。フロントガラスに叩きつける雨は弾いても弾いてもなお降り注いできて、嶋本はハンドルを握りながらしかめっ面をした。
ふと、こんな空を見ると思い出してしまうことがある。あれはまだトッキュー隊にいた頃のことだった――と嶋本は赤信号で停止してフッと息を吐き、睨むようにして空を見上げた。



「ソナーに感あり。12時方向――本艦の直上に、船舶です」
「ッ、浮上止め! 緊急停止かけ――ッ!」
「駄目です、間に合いません!」

羽田からは遠く離れた日本海の一角で交わされたその会話を耳にした日本人は誰一人いない。
第八管――隠岐海上保安署管轄の沖で米軍の原子力潜水艦と輸送船の接触事故が起きたのは、まだ残暑の厳しい九月の頭の出来事だった。
接触直後に該当の輸送船より本庁にSOS。本庁から通達を受けた第八管区海上保安本部はトッキューへと直ぐさま出動要請を出した。

「海難通報! 八本オペよりトッキューに出動要請――!」

羽田の特殊救難隊基地にけたたましく鳴り響いた電話を受け取って、基地内には佐藤専門官の厳しい声が響き渡った。
すぐさま本日の当直を務めていた第三隊が各自自身のデスクから顔色を変えて顔をあげる。間髪入れず専門官は状況の説明にかかった。
「日本海で輸送船が米軍の原子力潜水艦と思しき艦と接触、詳しい状況は判明していないが……通報より数分後に該船との通信は途絶えたらしい」
「なッ……原子力潜水艦……!?」
三隊の隊長である嶋本進次を始め副隊長の大口誠治郎も息を呑むも――出動を命じられれば身体は勝手に反応する。嶋本以下は染みついた習慣のように基地を飛び出た。
「すぐにガルフで出発や。詳しい状況確認は機内で、ええな!」
「はいッ!」
走りながら嶋本は隊員達に大声を飛ばし、すぐにエプロンへと急いで同じく通報を受けてスタンバイに入っていたジェット機――ガルフVへと向かった。
海難は待ってはくれない。
一分一秒さえ惜しまれる状況の中で思考に時間を奪われるわけにはいかず――、一心不乱にタラップを駆け上がるとデスクを囲む。そしてガルフがエプロンから滑走路へと移動を開始したころには既にミーティングが開始されていた。
まずは情報の整理。
30分ほど前、隠岐諸島から沖合30キロほどの日本海で輸送船が同海域を移動中であった米軍の原子力潜水艦と接触。輸送船の乗組員の状況は分かっておらず、また輸送船は燃料を積んでいたということで――、隊員たちの顔がにわかに引きつった。
もしも重油・ガス・使用済み核燃料等々が海へ流出したとなれば二次被害は免れないだろう。そうなれば、自分たちの手に余る事態になってしまうかもしれない。
「美保航空基地のベル412が隠岐空港でスタンバっとるっちゅーことやが……、現場は雷を伴う雨で飛べるかも分からへん。気ぃ引き締めとけ!」
隊長である嶋本は力強く言い放しつつも、内心苦い思いを抱いていた。
天気もさることながら、米軍が絡んでいるとなるとこれ以上厄介なことはない。下手を打って外交問題にでも発展してしまえば自分たちの手出しできる範疇を確実に越えてしまう。現に、今も詳しい情報は全く入ってきておらず――ひょっとすれば既に海上自衛隊のほうが詳しい情報を掴んでいるのでは? と考えて嶋本はブンブンと首を振るった。
保安官となって現場に出て既に十年が経つ。それなりに色々な経験を積んできたし、だからこそ今回は言ってしまえば貧乏クジなのでは、と過ぎって気持ちが沈みそうになる自分を必死に叱咤した。
ちらりと副隊長である大口に目線を送ると、やはりというか彼は自分以上に「いやな時に当直だったものだ」とでも言いたげな表情を晒していて――副隊長としての自覚をもっと持つようにと散々口を酸っぱくして教えてきたつもりだが、さすがに今回ばかりは叱咤もできやしない。
要請があれば、たとえどんな現場であろうと駆け付けるのがトッキューの仕事であるが――だからこそ、とその先まで考えそうになって嶋本はグッと拳を握りしめた。
ともかく、やれ外交問題だのを考えるのは自分の仕事ではない。一刻もはやく現場に駆け付け、要救助者がいれば助け出す。――いつもどおりの任務をこなすだけだ。
皆が心内に憔悴を抱えたまま、隠岐空港が近付いてくる。
強雨とはいえ幸いにも空港付近は強風には見舞われておらずガルフは雷雲を迂回するルートで着陸態勢に入り、無事着陸すると隊員たちは急くようにタラップを駆け下りて既にスタンバイしていたベル412に飛び乗った。
四枚のローターが雨を弾くように回転を始め、離陸する直前で嶋本はふと窓から雨粒の落ちてくる空を仰いだ。
――重い空だ。
重くて暗い青。まるで仄暗い海底に閉じこめられたような錯覚さえ起こさせる。状況が厳しいことを無言で認識するように、嶋本以下三隊のメンバーは誰一人として軽口も叩かず黙してただひたすら現場到着を待った。
横風に振られる412の激しい揺れは今にも墜落しそうな程で、どうにか耐えているとやがて引きつったような声が操縦席からインカム越しに皆に伝ってきた。
「見えたぞ……!」
条件反射のように隊員達は外を覗き込む。すると、滝のような雨に打ち付けられながら重油の海に傾く輸送船の姿があった。
米軍潜水艦の姿は、ない。退避したのだろうか?
「ッ――」
どちらにせよ、皆の顔は引きつっていた。辺りには積載物もごちゃ混ぜに散乱しておりゴミ箱のような様子を晒している。しかも――いつどこで爆発が起こるとも限らない。放射線漏れが残っている可能性さえゼロではないのだ。
「嶋本隊長ー! 機体の安定が保てん!」
機長がそう叫んだ瞬間、カッ、と近くで一筋の稲光が嶋本の目を過ぎ去って行った。
ゴクッ、と嶋本は自身が無意識に生唾を飲み下す音をリアルに身体で感じた。あの船内には、確実に要救助者が残っている。しかし――この雷雨の中でヘリは持つのか? どこに降りる? そしてどうやって――今の装備で要救助者を助け上げればいい?
頭の中を幾通りもの案が瞬時に過ぎ去り、成功の可能性を勝手に弾き出していく。そして――、導き出した答えに嶋本は色のない表情で深く眉間に皺を寄せた。
「……あかん」
「隊長――!?」
「機長、隠岐空港に戻ってください! ――降下は、無理や」
そう言った自身がどんな表情を晒していたか嶋本には分からなかった。けれどもそばにいた大口が息を詰める気配がし――、彼は今の指示に対して一切の反論を口にはしなかった。同意するということだろう。
副隊長も意見をしないとなれば他の隊員たちが口を挟めるわけもなく――、ベル412は一度大きく輸送船の上を旋回しながらその場を反転、離脱して再び隠岐空港を目指した。
みな、外の状況から目をそらし行きと同様に無言だったのは心中察するまでもないだろう。
行って助けたいという気持ちだけは強く意識を現場に飛ばしているというのに無線からは現場の状況も分かっていない警救からの叱咤と罵倒だけが虚しく飛び、無表情でその声を聞き入れながら三隊を乗せた412は隠岐空港に着陸した。
外に出ると、海に入ったわけでもないというのに降り注ぐ強雨がまるで一仕事終えたあとのようにウエットスーツを濡らしていく。
しかしいつまでもここでこうしているわけにもいかず、嶋本は隊員たちにガルフですぐにでも羽田に戻るよう告げようとした。その時。
空港職員の制止の声だろうか? やたら騒がしい声に振り返ると複数人の男性、女性が必死の形相でこちらに向かって走ってくるのが嶋本の目に飛び込んできた。
「主人は、主人は無事なんですか!?」
「息子がどこ!? 怪我はしてないのッ!?」
あ――、と嶋本は目を見開く。輸送船の乗組員の家族や親類なのだろう。
嶋本は、返す言葉が見つからなかった。無理だから諦めた、とも、きっと大丈夫だ、とも絶対に口には出来ないことだ。
言葉を発することの出来なかった嶋本を見て無言の回答を得たのか、憔悴していた家族たちは感情を怒りに変換させて嶋本にぶつけてきた。
「まさか……見捨てたのッ!? まだ生きてるかもしれないんですよ!」
「レスキューなんだろう!? 人殺しか、お前らは!」
気が動転している要救助者の家族にこの手の言葉を受けるのはそう珍しいことでもない。嶋本が無言で眉を寄せていると止めに入った空港職員が彼らを引き離して連れて行ってくれた。
「嶋本隊長……」
「大丈夫っすか?」
脇で見ていた隊員たちが心配げに声をかけてきて、ふ、と嶋本は息を吐いた。
「ま、なんもできんと帰って来たんは事実やし。言われてもしゃーないて」
彼らの顔は見ずに呟いた頬に雨が当たって痛い。戻るぞ、と一言言ってガルフの方へ行こうとしていると――ふと嶋本の耳に力強いローター音が低く雨音に混じって響いてきた。
ちらりと上空を見やると深海とまごうような紺碧の機体が強風にも揺るがずに飛んでいる姿が映り――、揺れた髪を押さえて大空を仰ぐ。
「ネイビーホーク……!」
海上自衛隊の救難ヘリだ。
コールサインは――"ヒーロー"。
まるで自分たちを見下ろすような日の丸のマークはすぐに視界から遠ざかって行ってしまい、そうか、と嶋本は悟った。
既に自衛隊へと災害派遣要請が出ていたのだ。――もう何度、こんな光景を目にしてきただろう?
自分たちが救助を断念した場合、おおよその場合は自衛隊が救助活動を引き継ぐこととなっている。
その後はもう、ない。彼らが出てくるということは真に最後の最後。もはや後がないということだ。
よく、救助ヘリのローター音は要救助者に天使の羽音のようだと例えられることがある。
死をも厭わない彼らの姿はまさに天使であり――、その名の通りヒーローのように要救助者に映ることだろう。
「うっわー。いくら海自でもキツくないっすかねー今回ばっかは」
隣で大口がいつもの調子ながらも色のない軽口を叩き、嶋本はふいとそっぽを向いた。
「別に、ええやん。アイツらがやれるっちゅーんならそれはそれで」
「隊長……」
「ほれ、帰るぞ」
隊員たちを促して歩き始める。
レスキューに携わっていて、成功率100%などということはまず有り得ない。ゆえに、こんなことも慣れていることだ。いや慣れていかなくてはとてもレスキューなどしていけない。
けれども――握りしめた拳の震えを嶋本は止めることが出来なかった。
やけに空が重くて――落ちてきそうな程くすんだ青が、いつまでも脳裏に焼き付いていた。


結局、海自のヘリは意識不明重体の要救助者を一人吊り上げ――あとは既に手遅れ。当て逃げをしたらしき米軍との協議は予想どおり外交問題に発展し、後々の重油の処理等々は海自や八管の海保、横浜の機動防除隊まで出動しつつ時間と共にどうにか収束を迎えた。



今日も雨が酷い。重い空を見ると、ふいにあの時の海難を思い出すことがある――と嶋本は関空の基地で窓越しの空を仰ぎながら頬杖をついて朝と変わらぬしかめっ面を浮かべていた。
「考え事ですか? 班長」
するとコーヒーを淹れてくれたらしき星野がデスクにコーヒーカップを置くとともに柔らかく問いかけてきて、何でもあらへん、と嶋本はそれを受け取って口に付けた。
相変わらずナチュラルに気が利くヤツやな、と感心しつつコーヒーをすすっていると突如基地には海難通報が飛び込んでくる。音を立てて嶋本はコーヒーカップをデスクに置いた。
「キッキュー出動カカレ!」
「はいッ!」
しかし専門官に言われて嶋本が真っ先に他の救難士を先導しつつバタバタと準備を進めてウエットに着替えていると、慌てて専門官が飛び込んできて「待て待て」と皆を制止した。
「出動、ナシだ。今の海難、トッケイが行くことになった」
「ハァ……!?」
みな脱力しつつ、ウエットを脱いでオレンジに着替え直してから渋々通常業務に戻る。
「くそッ、あいつら、ことごとく俺たちの仕事奪いよってからに」
「まあ仕方ないですよね……、関空って言ったらトッケイみたいなとこありますし。トッキューが羽田で幅効かせてるようなものですよ」
「トッキューが羽田で幅やと? あないなバラック小屋なのにか!? トッケイのほうはパリッとしとるやないかい! アイツら既に専用新型の配備とか色々決定しとるんやで? なんやこの扱いの違いは!」
仕事を終えて基地を出つつ愚痴を零す嶋本に星野が持ち前の柔らかさで答えるとすかさず嶋本がツッコミ、さすがの星野もハハハと苦笑いを零していた。
「でも……トッケイが行って解決するなら、それでいいんじゃないかって思いますけどね」
そんな星野の声を嶋本は若干目を見開いて聞き、数秒の間を置いて「せやな」と小さく呟いた。
外に出るとまだ重いながらも雨は上がっていて、嶋本は一度大きく伸びをしてから星野の背中を叩いた。
「よし、お前今日ウチ寄ってけ!」
「え……?」
「どうせロクなメシ食ってへんのやろ? 腹いっぱい食わせたる!」
作るんは俺やないけどなー、と笑いつつ嶋本は強引に星野を自身の車に押し込めると、颯爽とハンドルを握り関空を出た。
長いスカイゲートブリッジを渡って目指すのは隣の貝塚市である。
嶋本は今、官舎ではなく一般のマンションに住んでいた。長いこと独身官舎暮らしが続いていたが、慣れれば官舎を出るというのも存外良いものだ。
駐車場に車を止め、星野を伴ってマンションの部屋まで行くと嶋本はインターホンを押した。一人なら鍵を開けて入るところであるが、客人を伴っていたゆえの行動だ。
「はい」
「俺や、帰ったで」
「あ、はーい。すぐ開けます」
インターホン越しの声に応えると、柔らかい声とともにすぐに中からパタパタという足音が聞こえてきてドアが開かれた。
「おかえりなさい、進次さん」
「おう、ただいま」
迎えてくれたのは嶋本の妻のである。
まだ夕食の支度をしていたのだろうか? エプロンを身に着けたままの彼女は慣れたように微笑んで星野に声をかけた。
「いらっしゃい、星野くん」
「すいません、急にお邪魔しちゃって」
「そんな遠慮しないで、どうぞあがって」
「はい、失礼します」
そんなやりとりを嶋本は横目で見つつ玄関をくぐると、奥からは何とも食欲をそそる良い匂いが漂ってきた。いそいそと手洗いうがいをし、星野にも同じようにやるよう言い飛ばしてからリビングに入るとローテーブルには既に多種多様のおかずが並んでいて星野は「わぁ」と感嘆の息を漏らしていた。その間にもはパタパタとキッチンを往復してテーブルにおかずを増やしていっている。
「ごめんなさい、バタバタしちゃって」
「あー、悪いことしたな、連絡入れるの遅うなってしもて」
「ううん、大丈夫! すぐご飯よそうから座ってて」
「手伝おか?」
「いいから、進次さんは座ってて……!」
「あ、俺も手伝いま――」
「平気だから、星野くんも座って……!」
そんなやりとりをと交わし、二人はどちらともなく笑い合ってテーブルの前に腰を下ろす。
の持ってきてくれたビールを注ぎつつ、嶋本は支度が済んでもなお台所に立とうとしている彼女を呼んだ。
ー! もうええから、お前もこっち来てはよ座れ」
そうしてどうにか彼女を呼び戻し――、改めて三人揃ってコップを持つと乾杯をして今日の疲れを癒すべく一気に喉を鳴らす。
隣では星野が肉じゃがに箸を付けては感動し、海の荒くれどもには到底作り方すら解せないだろう揚げ出し豆腐の亜種のようなものを頬張って美味いと絶賛していた。
曰く、餅と卸レンコンの揚げ出しなのだそうだ。
「嶋本班長が羨ましいなぁ、地元離れて家庭の味に飢えてるんですけど自炊じゃどうしてもこんなご飯にはありつけなくて」
「せやろせやろ? なら、お前もはよ結婚すれ」
そんな星野の声に軽く笑って背中を叩きつつ言ってしまったのは多少酒が回ったせいなのだろうか? 星野と同い年ごろの自分を思うと棚上げもいいところだというのに。
今のところ予定ないんですよ、などと笑いつつ星野は軽快に箸を進めた。
「たまにさんの手料理を頂くんだってヒロタカに自慢したらアイツ本気で羨ましがっちゃって……。俺も昔ヒロからさんの話を聞いた時は一度会ってみたいなーって思ってたんですけど、まさか本当に嶋本さんと上手くいくとは思ってませんでした」
「ってどういう意味やねん!」
「やー、班長のおかげで念願叶ったうえに美味しいご飯にありつけて感謝してるって話ですよ」
プライベートになると星野は存外に口が上手い。自身のツッコミを軽く受け流していくさまに嶋本は内心感心しつつ星野を小突き「あー」と少しばかり遠い目をした。
「しかし大羽なー。そういやアイツと釣り行ったこともあったな」
すると先ほどから照れ笑いを浮かべるしかリアクションの取りようがなかったらしきが「そうそう」と懐かしげに呟いた。
「大羽くん、元気なのかなぁ」
「おー、元気すぎて次の隊編成じゃ特進扱いで隊長昇格の有力候補らしゅうて大口が泣きながら電話してきたで。"嶋本さん! 俺の専属副隊長がいなくなっちゃうよどうしよう!?"やて……しらんっちゅーねん。お前が大羽隊の副隊長に降格したらええんちゃう? ってナイスアイディア出してやったらギャーギャー文句言いおって速攻電話切ってやったわ」
パタパタと嶋本が呆れたそぶりを見せつつ手を振ると、へぇ、とは感心したように頷いて星野は人ごとのように笑った。
「そのうちヒロの隊の副隊長にメグルとかヒロの隊の副隊長にタカミツとか面白いものが見れそうですよね」
「うっわ、キッツー……。お前性格悪いんとちゃう? 次のドラフト、大変そうやなぁ」
心底トッキューを案じながらもキッキューという外の立場から語ると内部事情も所詮は酒の肴でしかなく。かつての仲間達の事をあれやこれやと好き勝手に語りながら夜も更けてきた所で星野を帰し――、後かたづけを終えたが入れてくれたお茶を片手に嶋本は一息入れていた。
「あの大羽が隊長か……、なんや偉うなりおってからに」
一人ごちて、緩く口の端をあげる。
特に目をかけていた大羽がトッキューで一番の出世株となったことはやはり自身の目に狂いはなかったと誇らしく思うし、悪ぶっていても人一倍真面目で他人への配慮ができる大羽のことだ。きっと隊員に慕われるいい隊長になることだろう。
メグルも、タカミツも……大羽よりは時間がかかるかもしれないが、きっと大羽の背を追って立派になっていくに違いない。
兵悟も今はまたトッキュー隊員として元気にやっている。それに星野も、キッキューとして救命士として今や立派に自身の片腕となってくれている。そう、まだ若い星野ならば――今の実績を買われて再び今度こそトッキューに「新人」ではなく「隊員」として呼び戻されることもあるかもしれない。
そうなれば――あの同期たちが今度こそトッキューとして羽田に集う日が来るんやな、と嶋本は感慨深げに思った。
既にみな立派なレスキューマンだ。教官として教えた最後の生徒となる彼らが自分の手からすっかり巣立ったことを嬉しく思うと同時に寂しいと思うなどとは……年をとったということだろうか? と目線を落としていると、ふふ、とすぐそばから小さな笑みが零れてきた。
「? なんや」
見るとがどこか嬉しそうに口元に笑みを湛え、目を細めていた。
「幸せだな、って思って」
「は……?」
なおもはくすくすと笑いながら、穏やかに言った。
「私、進次さんといられて幸せです」
ニコニコと本当に満ち足りた笑みを向けられて嶋本は絶句するしかない。
ただ――、嶋本は自分でも想像できないほどの柔らかい笑みをに返しながら遠く思った。
こうして守るべき人ができた。その事は――少なからず自身の意識を変えていっている、と。
よく言えば度量が大きくなったのかもしれない。悪く言えば、闘争心が減った。

『別に、ええやん。アイツらがやれるっちゅーんならそれはそれで』

今日、久方ぶりに思い出した八管での海難のこと。三隊が断念した現場へ向かう海自のヘリを見上げて呟いたあの言葉の裏には――悔しい、という思いを何重にもフタをして閉じこめていた。
羨ましくもあったのかもしれない。トッキューが諦めるほどの現場へ出ていく彼らのことを。
しかし、今はそう思うだろうか?
彼らの妻となった人は、結婚式の時に彼らの上官にこう言われるという。どれほど喧嘩をしても次の日の朝は笑って送り出してやって欲しい、と。それが最後の対面になるかもしれないのだから――、と。
もし自分に何かあればはどうなってしまうのだろう?
そう思うと今は――あの時見上げた空へ悔しさではなく、生きて戻れよ、と祈りを捧げていただろうと思える自分が嶋本は自分でも酷く奇妙だった。守りに入った、と茶化されても言い訳すらできやしない。
どんな現場からでも必ず生きて戻る。
その重さをより強く実感しているのもまた――年をとったということだろうか? と考えているとカラカラと窓が開かれる音とともの生温い風が嶋本の頬を僅かにくすぐった。
「雨、すっかりあがったみたい。あ……雲の間からちょっとだけ星も見えてる」
空気の入れ換えだろうか? ベランダに出たが空を見上げていて、嶋本も立ち上がるとベランダへと出て空を仰いだ。すると雨の止んだ重い雲の間から紺碧の夜空に光る星が見えており――「ほんまや」と薄く笑う。
「明日は晴れそうやな」
「よかった、張り切って洗濯しようっと!」
「海も穏やかやとええなー」
まるで海の底から見上げているかのような光景。
その美しさと穏やかさに生温い風に揺られながら嶋本はごく自然に目を細めていた。








嶋本班長の今昔物語でした。

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