Blue sky, Blue |
関西国際空港海上保安航空基地、機動救難班・通称キッキュー。そこの班長というのが、トッキューの隊長に代わる嶋本進次の新しい肩書きだった。 しかしながら「隊長」から「班長」に呼び名が変わっても仕事内容はほぼトッキューにいた頃と同じである。 いや、むしろ意識は向上したかもしれない。 なにせ関空基地のある第五管区は管轄範囲が広い。しかも対岸には海保の誇るもう一つの特殊部隊――特殊警備隊・通称トッケイの基地が凛然と建ち誇っているのだ。羽田トッキュー基地のオンボロ具合とは比較にならない、訓練施設を兼ね備えた一級品である。おまけにトッケイ隊員は潜水はもとより語学・武術・救命技術ありとあらゆる専門分野に秀でたまさに世界と肩を並べる部隊でもある。そのおかげもあって、関空基地全般の官舎はすこぶる立派だ。 そんな部隊がそばにあるとなれば、同組織の人間とは言え「負けられへん!」と燃えるのは男児と生まれたものならば避けられない運命だろう。 たまに訓練結果表を見て「君、トッケイ行かないの?」なんて言ってくる上司もいるが――、いやむろん辞令が下れば行かなくてはならないし、もしもあと十年遅く生まれていたら国防に燃えてその道を自ら選んだ可能性もないとは言えないが、今の自分はレスキューを生き甲斐としているわけで、もっぱらの嶋本の目標はこの関空キッキュー班をトッキューさえ上回る立派な組織に育て上げることだった。 今日も基地内では厳しい基礎トレーニングが続き、嶋本はランニング後の腕立て伏せをやった上での懸垂に精を出す救難士たちを見渡し――ひときわ辛そうな表情を晒していた人物に怒声に近い叱咤を浴びせた。 「星野! なんやお前、ヒヨコん時のほうがまだマシなツラしとったで!?」 「――は、はいッ!」 しかし怒鳴りつつも、嶋本の口元は傍目には分からないほど僅かに弛んでいた。 彼、星野基はかつて嶋本がトッキューで新人教官を務めていた頃に新人隊員として入って来た青年であった。そして、基礎的な力は申し分なかったのだが緊迫した場面に陥ると取り乱してしまうという性質が災いし――嶋本自ら除隊命令を下したという苦い過去もあった。 仕方のないことだった。 星野自身の命を守るため、あの時はどれほど恨まれようとも除隊を言い渡すしかなかったのだ。 けれども、人間どうとでも変われるものだということを嶋本自身は自らの経験で良く知っていたし、星野とてずっと前線に怯え続けるばかりではないだろう。星野自身の夢であったトッキュー隊員への道を自ら閉じさせてしまった負い目からではなく、自身の教え子として嶋本は心内でずっと星野のことを気にかけ――いつか共にレスキューできたら、とそう思っていた。 そして、関空に異動になったことでそのチャンスが巡ってきた。 機動救難班には救急救命士の資格を持つ救難士を置くことが義務づけられている。そして星野はトッキューを除隊になってから二年間救急救命士の養成学校に通い、見事国家試験をパスして救命士の資格を取得していた。 海上保安官で救命士の資格を持つものは貴重である。しかも星野はキッキューの条件である潜水士の資格も持っており――班長に就任した嶋本は真っ先に救命士として星野を呼び寄せることを提案・推薦して星野側も快諾し、ついひと月ほど前に正式にそれが叶ったのだ。 「救命士として頼りにしとるで! ヒヨコ時代とは違うことをしっかり見せてくれや!」 関空に異動してきた星野に言った嶋本の第一声である。 感極まった表情で敬礼したその時の星野の表情は今も嶋本の脳裏に鮮明に焼き付いていた。 トッキューとしてではないが、キッキューとして今度こそオレンジに腕を通せるという喜び。そして背水の陣であるという緊張感。――今度こそ、という思いは嶋本も同じであった。今度こそ同じ場所へ星野と共に行く。ずっと胸につかえていた事が、ようやく昇華されたのだ。 けれども、ようやくスタートラインに立ったばかりである。 これから幾度も現場を経験させ、彼を立派なキッキューに育て上げなくては――と思うと図らずももう一度「教官」に戻った気がしてどことなくくすぐったい思いも嶋本は感じていた。 「キッツー……」 「腹減ったー、けどメシって気分じゃねぇし」 トレーニングを終えて昼の休息に入ると、救難士たちは愚痴もこぼしつつタオルで汗を拭いながら互いに昼食の相談をしていた。 「嶋本教官――とと、班長。どうします? どっか食べに行きますか?」 「あー、ええわ。せやなぁ……ターミナルの中華屋に出前頼むわ、チャーハン大盛り三人前と餃子二人前な。あ、あとラーメン」 「うわー……」 訊いてきた星野に嶋本がそう答えると、星野は露骨に「そんなに食べるのか」と言いたげに引いた表情を見せた。 未だに星野は嶋本のことを「教官」と呼び間違えることがある。それも致し方のないことだろう。星野にとっての自分はトッキューの隊長でもキッキューの班長でもなく、ヒヨコ隊の教官であったことが全てで、そこから一歩も進んではいないのだから、と嶋本は肩を竦めた。 彼との間にある数年間の空白。埋めるのは、そう簡単なことではない。 関空基地がトッキュー基地と違うのは空港のターミナルに徒歩で行けるほど近いという所もあり、他の救難士たちはやれANAのスッチーさんとの出会いを求めるだのと粋がって出かけ――結局嶋本と星野二人が基地に残って昼食を取ることになった。 二人して注文した中華料理を頬張っていると、ふと星野の携帯が鳴り、携帯画面を見やった星野は面白そうに肩を揺らした。 「ヒロタカからだ」 「大羽か? なんや昼間っからマメなやっちゃなー。そないに学生は暇なんか?」 「えっと、"やっぱ地元はええのー。気軽に家に帰れることだけが救いじゃ。"って……ヒロタカ、休日のたびに実家に帰ってるみたいなんですよ」 「なんやたかが半年やないか、我慢せいちゅーんじゃ。俺らは四年間耐えたっちゅーのに。なあ?」 「まあ、そうですけど。でも……俺たちの同期じゃ、ヒロが一番の出世株になりましたね」 メールの送り主である大羽廣隆は星野のヒヨコ時代の同期であり、嶋本の元部下でもある。トッキュー入隊時は身体能力的には一番劣っていたものの、真面目な性格が幸いして技術的にも精神的にも一番の成長を見せ、特に嶋本は彼を高く評価して関空に異動になるまで自身の隊に起用し続けていた。そんな彼の評価は嶋本のみに留まらずトッキュー内でもすこぶる高く、周りの熱い推薦を受けて来春には副隊長へと昇格させるべく今年の春から半年間、海上保安大学校の特修科へと通っている。 人材確保は海保の課題でもある。トッキューにおいてもそれは同じで、どれほど若くても階級が未熟でも「コイツは絶対に隊長にすべきだ!」と周りが判断すれば全力で実現すべくサポートするのが自然のことになっている。大羽に関してもそうで、早急に指揮官として彼の能力が必要だとトッキューは判断したのだ。また、彼は航海士補時代に上級の海技免状を取得していたために最短で特修科を出られるというのも強い推薦の理由になった。 大羽や星野の同じく同期である石井盤が臨時に副隊長に昇格してはいたが、石井は本来なら副隊長になれる立場ではなくすぐに降格したため――彼らの同期の中では大羽が一歩前に進んだ形となる。 だが、もしも、の話であるが星野が除隊せずにトッキュー隊員になっていたとしたら。唯一保大を出ている星野は既に副隊長、状況次第では隊長になっていてもおかしくはなかった。 星野の声には同期であり親友でもある大羽を讃える感情と僅かな哀切が滲んでおり、敏感に感じ取った嶋本はあえてしらっと言った。 「まあ、俺の教え子かつ元部下なんやし当然やな。――けどな、今はお前が俺の部下なんやし、負けるんやないで?」 嶋本にとって大羽は特に可愛がっていた存在だ、現在の彼の状況は喜ばしいことである。しかし大羽は既に自分の手から巣立って離れた存在でもあり――、目下一番の気がかりは目の前にいる星野に他ならない。 発破をかけると星野は表情を引き締めて力強く返事をした。 けれども二年間救命士の専門学校に通っていた星野は下手を打てばヒヨコ時代よりも筋力が衰えており、嶋本が怒声を飛ばすたびに落ち込んだ表情を見せては溜め息を漏らすことも少なくはなかった。 ある五月晴れの日――、気温は異常なほどの高さを叩き出し、ましてや滑走路に程近い関空基地はより一層の熱気に包まれており「鬼教官」ならぬ「鬼班長」のシゴキを受けた救難士たちは熱中症スレスレで屍のごとく地面に突っ伏していた。 水分だけはとっとけ、と忠告をして嶋本はポカリスエットを片手に水場へと急ぐ。訓練後足早に水場へと駆け込んだ星野を案じてのことだ。 案の定星野は嘔吐したらしく口元を拭っており、嶋本がポカリスエットを差し出すと彼は「すみません」と呟いて項垂れた。 救命士の資格を取る勉強をしていたのだから仕方ないとはいえ、肉体が以前より劣っているのを自覚するたびに少しずつ「救命士としてこの場に呼ばれた」という自信もそがれていっているのだろう。そして芽生えているのは「また除隊させられるのでは?」という恐怖に違いない。星野にとって嶋本は、そういうトラウマを植え付けてしまった張本人でもあるのだ。 腰を落とした星野の横に、ドカッと嶋本も座り込んだ。 「俺はなぁ……、見込みないヤツ呼び寄せるほどお人好しとちゃうで?」 深く眉間に皺を刻んで良く晴れた空を仰ぐ。 「ヒヨコん時、お前を除隊させたのは俺自身がアカンと判断したからや。今回かてそうや、いける思たから呼んだんや」 ピクッ、と星野の身体が撓ったのが嶋本にも伝った。 「嶋本さん……」 「なんや? 体力くらい訓練すれば誰でもつくんや、シケたツラすんな」 どこか自信なさげな表情をしている星野を睨み付けていると、遠くから独特の羽音が近付いてきて二人はどちらともなく視線を上向けた。すると哨戒に出ていたのか、訓練飛行だったのか、関空基地の所属ヘリであるベル212がこちらに向かって高度を下げて戻ってくる様が映り――しばしその様子を目に留めてから嶋本は立ち上がった。 「ええ音やな……、なあ星野」 「はい……?」 「今度こそお前をあの空へ連れてったる、絶対や! せやからちゃんと付いてくるんやぞ、ええな!?」 星野の目には、自分と、212と、そして目の覚めるほどの青い空が映っていたのだろうか? 瞠目した星野の表情を一目見てから、嶋本は彼に背を向けた。 星野は以前の星野ではない。救命士という資格を自らの力で手にした事は、無意識であれ彼の中で確かな自信となっているはずだ。それはきっと現場で活きてくる。その時に備えて、今は以前のような体力を取り戻させる事と、来るべき時が来たらかつての教官として班長としてサポートすればいいだけだ。 ともかく――最初の難関は初出動である。 かつて「できない」と判断されて蹴られた星野がちゃんと本番をこなせるか否か。――そうでなくても初出動は緊張するものだ、星野の緊張たるや想像を絶するものがあるだろう。そして、その緊張こそがかつて星野が除隊を命じられた一番の理由なのだ。 落ち着いてさえいればお前は人一倍出来るんや。――そうヒヨコ時代から思いつつ自ら彼を除隊させた。星野をトッキューとしてスタートラインに立たせられなかった責任は、教官であった自分にもあると嶋本は自覚していた。 だから、今度こそ……! という思いは、もしかすると嶋本は星野以上に秘めているのかもしれない。 訓練、訓練の日々が続き――星野の基礎体力が着実に伸びていることはデータとして残る数字が告げている。かつてヒヨコ時代に大失態を演じていたリペリング降下訓練も今は落ち着いてやれている。 やはり鍵は本番だ。――と懸念し続け、ついにその日が来た。 五月も後半に差し掛かろうという良く晴れた日、関空基地に鳴り響いた海難通報を受けて事務室には一気に緊張が走った。 専門官が嶋本の方を見やって告げる。 「五管本部からキッキューに出動要請だ。明石海峡から播磨灘へ沖合約10キロの地点で漁船が意図不明の旋回を続けているという通報が神戸本部に入った。該船は無線にも応じず、接触を試みた漁船は衝突して航行不備。現在近場にいた小型巡視船が現場へと向かっているとのことだ」 「――該船の乗組員の数は?」 「地元漁連の話によると、どうやら一人らしい」 「ちゅーことは、イタズラや冷やかし目的やないっちゅーことやな……」 専門官の言葉を受けて嶋本は一人ごちた。自身は、キッキュー班長であり潜水士である前に航海士でもある。だからこそ船は、操舵を放棄した際には一定の法則を持って動き続ける事を良く知っている。つまり、該船が無線に応じず不可解な旋回を続けているということは何らかのアクシデントによって操舵士が操舵不能状態に陥ったという可能性が高いだろう。 となると――、突発的な病気や怪我である可能性はなお高い。 「――星野!」 「は、はいッ!」 「俺と来い! すぐにベルで出発や!」 自ら導き出した答えに嶋本は迷わず救命士である星野を指名した。星野の顔がにわかに強張る様が目の端に映ったが、今は気にしてもいられない。 ウエットスーツに着替えてエプロンへと飛び出ると既に格納庫を出たベル212がスタンバイしており、嶋本は星野と共にベルの中へと駆け込む。 ジリジリと二枚のローターの奏でる羽音が加速し、エンジンが低く唸り――、ブワッ、と垂直離陸したあとに空中を前へと泳ぐように飛び立つ感覚はヘリコプター独特のものだ。嶋本の目に、緊張と共にどこか感慨深げにして空を見上げている星野の表情が映った。 「初めての空に感動しとる場合やないで?」 「え、あ……」 インカム越しに言った嶋本の声は決して怒っていたわけではなく、むしろ穏やかであった。しかし緊張していた星野には叱咤に聞こえたのだろう。微かに唇を青ざめさせた星野に嶋本が眉を捻っていると、今の会話を聞いていたらしき操縦席からチャチャが入ってきた。 「そうか、星野は初出動か!」 「え……?」 「ならイッチョ景気づけだ!」 「は――!?」 嶋本はもとより、星野や同乗していたホイストマンがその声に目を見開いている暇は恐らくなかった。緩やかに高度を上げていたヘリが突如として角度をあげて急上昇し、その勢いのままに座席のシートで背中を打ち付けたからだ。更には胃が混ぜっ返される勢いでヘリは急旋回をし――、嶋本たちの耳にインカム越しで副操縦士の怒声が響いてくる。 「機長ーー!! 何してんすか、安全運転、安全運転!」 すると更にインカム越しにケラケラ笑う機長の声が響き、ヘリは穏やかさを取り戻した。 この機長がこういう性格なのだと既に知っている嶋本は、ハァ、と息を吐く。 「勘弁したってくださいよー、ただでさえ212は揺れるっちゅーのに」 「なんだぁ? この二枚羽の良さが分からんたぁ班長はピューマ派かい? フランスかぶれか?」 「なんでやねん! ボンジュールとかよう言わへんわ! 保大じゃロシア語選択じゃ! カサッカ派や!」 そんなやりとりを続けていると「班長も機長も黙ってください!」と副操縦士に諫められ――、静けさを取り戻した機内で星野はあっけに取られた表情を晒していた。 そんな星野を見て嶋本は人知れず、ニ、と口角をあげる。つい今のヘリの動きに冷や汗を浮かべて目を剥いているらしき星野は初出動の緊張など一気に吹き飛んだことだろう。人間の集中力などそう長く持続するものではない。本番前の適度な息抜きは重要なことだ。 「班長ー、巡視船が見えたぞ。どうするよ?」 程なくして播磨灘を眼下に臨んだあたりで機長がそう告げ、嶋本は表情を引き締めてインカムを押さえた。 「俺が先に降下して、次に星野を降ろします。ヘリは俺が指示するまで上空に待機しててください」 「了ー解!」 今日は天気がいい。海も――穏やかだ。今から降下しようとしている巡視船は眩しいほどの飛沫を受けて白く光っており、キレイやな、と感じるもその近くには波をうねらせて暴走しているらしき該船の様子も見え、嶋本はキュッと唇を噛みしめてその様子を見据えた。 「巡視船との相対速度合わせ、右に3メートル。……あと1メートル。――OK、この位置ホールド」 ホイストマンと操縦席とのやりとりを耳に入れつつ嶋本は降下準備を整える。すると、ふと「嶋本班長」との星野からの呼び声が入り、目線をあげればどこか読めない表情で海を見下ろす星野の姿があった。 「みんなは、ずっとこの光景を見てきたんですね……」 みんな、とは大羽や兵悟たち同期のトッキュー隊員のことだろう。ヘリからのリペリング降下は、海保では一部の人間にしかすることを許されていない。故にこの光景もまた――、一部の者しか見ることのできないものだ。 嶋本にとっては既に当たり前となってしまった光景だが、星野にとってはここが始まりの空。 そんな星野を横目で見つつ嶋本は降下するためにヘリの際へと寄った。 「――お前もすぐ来るんやぞ。ええな?」 ホイストマンにゴーサインをもらい、降下の直前で星野にそう告げて――嶋本は慣れた手つきでヘリから降り立った。目線を下げるとまるで巡視船が止まっているかのような錯覚に陥るほど降下目標地点である船尾デッキが微動だにせず、パイロットの熟練具合を嫌と言うほど感じながら嶋本は着船と同時に素早くロープを自身の身から離脱させた。 すぐさま上を見上げると、ホイストマンが星野に指示を出しているのが見える。 ――かつて、星野はヒヨコ時代に降下訓練で失態を犯し命さえ危ういような状況に陥ったことがある。 もちろん、それは過去の話であるし今日この本番を迎えるまでに何度も何度も訓練はこなしてきた。だから不安はないはずだが、嶋本は緊張で唇を噛みしめながら降りてくる星野を待った。 緊張、不安、期待、渇望、憔悴、念願。胸に飛来する感情は星野のものだったのか、それとも嶋本のものだったのだろうか? 「――着! 離脱ッ!」 嶋本がハッとしたとき、眼前には多少の緊張を見せながらも訓練どおりのリペリングをこなした星野の姿があった。 ――なんや、アホらし、と嶋本は自嘲する。 星野の初出動で緊張しているのは星野自身より自分なのかもしれない、などと過ぎらせつつ嶋本は誉めるように星野の肩を叩くと次の行動に移るべく動き出す。が、探すより先に数名の部下を伴って紺色の制服を着込んでいる船長らしき人物の姿が眼前に現れ――、嶋本は若干目を見開いた。 自分とそう歳の違わぬ女性だ。 そう言えば神戸の小型巡視船に女性船長が就任したという話は耳に入れていた覚えがある。しかも見覚えのある顔だ。 保大の時の先輩か? 後輩? どっちにしてもあの頃は五十嵐恵子に夢中で他の女子のことなどサッパリ覚えていない、などと複雑な感情が胸に一気に飛来するもハッとして振り払う。 「班長の嶋本です! 該船の状況ですが――」 「あ、はい! 止めようとした民間船は航行不能状態に陥ってこっちとしても打つ手なしでして……、どうしますか?」 互いに手短に挨拶をして本題に入ると、嶋本はキュッと一度唇を結んだ。 該船の状況は上空から見えていた。あれを止めて中の人間を救助する――となると答えは一つしかない。 「巡視船は該船に強行接舷してください! 俺と星野が飛び移って該船を停止させ……要救助者を確保します!」 途端に周りにいた乗員達がざわついた。 あの踊り狂う該船に接舷? 無茶だ、という声を受けつつも一瞬の間を置いて船長は確認するように唸った。 「できるの……?」 その物言いに「あ、先輩やったんかな?」などと思い巡らせている間はなかった。 「やれます! ほな、接舷は任せましたよ!」 言って嶋本は星野についてくるよう合図して船首デッキを目指した。走りながら遠くで暴走している該船を見据える。あんな船に脇から近付いて接舷――更に飛び移るとなればもはや命がけだ。一瞬のひるみが即、命に関わる。技量より何よりここで試されるのは度胸だ。 「俺は飛び移ったら船を停止させる。お前は要救助者を確保せえ、ええな?」 「――は、はい!」 柵を握りしめる星野の手が震えている。横目で星野を睨んでいた嶋本は尚も眉間に皺を刻み、強く言った。 「お前、トッキュー辞めて一体何しとったんや?」 「え……?」 「救命士の資格取るため筋力落としてまで勉強三昧やったんやろ!? あの船には俺やない、救命士を待っとる人がおるんやぞ!」 すると星野の目が大きく見開かれ――、彼は震えを押し殺すようにギュッと血が滲むほど唇を噛みしめていた。 風圧が痛いほどに頬にかかって、船首デッキには割られた海面から飛び散る飛沫が絶えず跳ね返ってくる。柵を握りしめていなければ飛ばされるほどのスピードだ。 暴走を続ける漁船の進路には一定の法則があり、それを読んで巡視船は一気に漁船へと近付いた。 ――お前なら絶対やれる! 心でそう星野に叫んで嶋本は前を見据えた。 接舷から移乗までのタイムリミットは長くても3秒ほどしかない。 迫る該船を見据えて嶋本も星野もなお下半身に力を入れ目一杯柵を握りしめた。接舷の衝撃で海に投げ出されないためだ。 接触まであと2秒――、1秒。 グワッ、と身体が持ち上げられるような浮遊感と同時に巡視船が該船の腹に乗り上げる。迷っている間も考えている間もない。 「今やッ!」 叫ぶと同時に嶋本は柵を蹴って飛び上がった。しかしながら着地目標は動いており――、僅かにズレて倒れ込みそうになるのをどうにか膝を付いて耐える。 隣で、ゴン! と勢いよく転んで頭を強打したらしき星野の音が聞こえたが構ってもいられない。怯まずついて来れたのだ、などと感慨に耽っている間も当然ない。 「はよ立て!」 「は、はい!」 指示を出しながら嶋本は操舵室に駆け込み、舵に手をかける。 船を操舵するなどいつ以来だろうか? トッキューに異動が決まってからは、そんな機会はなかった。 舵を握りしめて船のローイングをフラットに戻し、減速を図る。次第に速度を落としていく漁船にホッと息を吐いて星野の方を見やると――、脂汗をかいて蹲っている要救助者をしっかりとした表情で診ている姿があった。 要救助者の男性はたどたどしい口調で吐き気と頭痛、腹痛を訴えている。 ぎっくり腰? まさか船乗りが船酔いか? と嶋本が眉を曲げていると星野は小さく唇を噛んで呟いた。 「急性虫垂炎」 「は……?」 「――の可能性が高いと思います。班長! 直ぐに病院へ移送しないと……!」 「お、おう!」 顔を上げて、すっかり「救命士」の表情を見せる星野の迫力に圧されるようにして嶋本は無線で上空待機している機長を呼びだした。 星野の話では、とにかく一秒でも早く病院へ、とのことだった。救命士は診断はできない、故に女性なら婦人科へ行かせる所だが男性なら総合の救急で良い。万一に溜まった膿が破裂するかもしれないという最悪の状況を想定して冷やすことで炎症を抑え、一刻も早く専門医に繋ぐのだ――との星野の話を聞きつつ嶋本はヘリからワイヤーストレッチャーを降ろしてもらい、要救助者をしっかり固定して星野と共に吊り上げてもらう。 二人の収容を見届け、次は嶋本の番だ。 キッキューは自身の仕事が終われば速やかに帰投するのみである。しかも要救助者を抱えた今、巡視船に挨拶をしている暇もない。 けれども空中に浮いた嶋本の目には巡視船のデッキからこちらに向かって手を振っている保安官たちの姿がハッキリと見え――、せめてもの挨拶として敬礼を返しつつヘリへと戻ると、すぐさまヘリは反転して現場を離脱し、近くの民間ヘリポートに着陸許可をもらって待機していた救急車へと要救助者を乗せ、引き継いでもらった。 星野はしっかりと救急隊の救命士に状況を説明し、引き継ぎを終えてヘリへと戻り――ヘリは関空へと戻るために再び浮上する。 ふぅ、と息を吐いて汗を拭っている星野を見て、嶋本は頬杖を付きつつ労いの声をかけた。 「なんや、えらい落ち着いとったな。ほんま、心配して損したわ」 するとキョトンとした星野は、星野特有の照れたようなはにかみを見せる。 「漁船に飛び移る前までは死にそうなくらい緊張してたんですけど……班長に"要救助者は救命士を待っとる"って言われて腹が据わったんです。実際、患者さん前にしたら緊張なんてすっかり忘れてましたし」 薄く笑いつつ、星野はチラリと青く澄んだ空を見上げた。 「俺、たぶん昔は前ばかり見てたんです。見えないほど遠くばかり見てて……嶋本教官の出す課題は全然こなせないのにメグルには先行かれちゃうし、勝手に負けた気がして足元見えてなくて怖かったのかもなって思います」 でも、と星野は視線を嶋本に移して微笑む。 「この空……単に憧れじゃなくて、俺を必要としてくれてる人がいるんだって思ったら恐怖より先に絶対やらなきゃって意識を強く持てたことは……班長のおかげですね」 ありがとうございます、とインカム越しに言われて嶋本は星野から目線をそらして「アホ」と小さく呟く。 まさか、目頭が熱くなってしまったなどとは口が裂けても言えやしない。 目の前にいるのは立派な機動救難士で救命士で。そして自慢の教え子。 ほんま、一人前になったなぁ……と彼を断腸の思いで除隊させてから今までのことを思い浮かべて嶋本が唇を震わせていると――、急にヘリが急旋回をして嶋本はもとより乗員全てがシートに横倒し状態となった。 「なッ……!?」 「祝・初出動成功の曲芸飛行だ! イヤッホォーー!!」 またも暴走操縦を始めた機長に嶋本の感傷など一瞬で吹き飛んだのは言うまでもない。 「ハハハー! 俺は212でヘリの限界に挑戦するぜー! 目指せ打倒・ニンジャだ!」 「何言ってんすか機長ーー! 無理ですから! 安全第一! ――もういい、アイハブコントロール!!」 終いには操縦席で機長と副操縦士が操縦桿の取り合いを始め、嶋本たちは顔面蒼白のままヘリに揺さぶられつつ取りあえず無事関空のエプロンに降り立った。 しかしながらパイロット二名以外は全員ヘリ酔いでフラフラとヘリを降り――、酔いが醒めた頃に先ほどの要救助者の移送先の病院から連絡が入り「無事手術を終えた」と伝え聞いて基地では歓声があがった。 程なくして、帰宅の時間となる。 終わってみれば、いつものキッキューの一日だった。 こうしてこれからも星野と共に空へと飛ぶ日々が待っているのだろう、と思いつつ嶋本も帰路についていると不意に携帯の呼び出し音が鳴った。 つい今、出てきたばかりの基地からの呼び戻しの電話でないことは着信音が告げている。 「もしもし?」 携帯を取ると、聞き慣れた声が染みいるように伝ってくる。 「進次さん? ニュース観たんだけど、今日のキッキューの出動……」 今はまだ東京にいるが、来月にも挙式を予定している婚約者――の声だ。 「おー、ニュースになっとったんか。ああ、別に心配あらへんて」 「良かった……進次さんともう一人、船から飛び移っちゃって心臓止まるかと思った」 「ああ、そいつ今日が初出動でな。ほら話したやろ? 神林や大羽の同期で――」 今日あったことをに話ながら、嶋本は自然笑みを浮かべていた。 トッキューで教官をやっていた頃、鬼教官だの軍曹だのの異名を欲しいままにしていた嶋本ではあるが――その実、裏で「アイツはまだまだ甘い」と陰口を叩かれていたことは嶋本自身よく知っていた。 自分でも多少、自覚している。 教え子たちのことは今も気になって仕方がないし、やはり可愛く思っているし、こうして「救命士として必要やから」といくら理由を付けようとも星野を自分の元へ呼び寄せてしまったことは「甘い」と捉えられても仕方がないのかもしれない。 けれども――、一旦強制的に途切れさせた星野の夢を、こうして繋いでやれることが出来て心底安堵しているのもまた事実だ。 パタン、と電話を切って携帯を閉じ、前方に歩く星野の姿を見つけて嶋本はニ、と笑った。 「星野ー! 明日からまたバンバンしごいたるからな、覚悟しときや!」 するとビクッ、と肩を震わせた星野を見てケラケラ笑う。 アイツを、そしてこの関空キッキュー班をトッキュー以上の精鋭レスキュー部隊に育て上げたる。 ――そう誓って見上げた空は満天の星が輝いていて、明日も晴れるだろうことを告げていた。 後日。 「さっすが嶋本くんねー。伊達に真田先輩のストーカーの異名を取ってないわ。すごい飛びつきで感心しちゃった」 関空に件の巡視船の船長がそんなことを言っていたという話が入り――、「あ、同い年の一年先輩やったんや」と嶋本が納得したのは全くの余談である。 |
星野君奮闘記を書くつもりが、班長奮闘記になってしまった……。
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