あなたまでの距離





休日の都内はどこへ行ってもカップルだらけ。
いまも隣をすれ違ったカップルの密着具合を見て、距離近いなぁ、なんて思いつつ私はウキウキ気分で新宿中央公園のそばを歩いていた。
目的地は――、すでに視界に入ってきた高層ビル。新宿のハイアットタワーだ。
今日はひさびさにパークハイアットでアフタヌーンティを楽しむべく、張り切って数日前に予約まで入れてしまった。
やっぱり休日に美味しいものをゆったりと一人で満喫するのは最高の幸せ! これぞ独身の醍醐味だよね、なんてちょっとだけ悲しいことも過ぎらせて私はお気に入りのワンピースに気合いの入ったメイクで一人笑みを浮かべて既に何度も来たことのあるパークハイアットに入っていった。
エレベーターで41階まであがると、本当にここは室内なのかと疑ってしまうほどの広い吹き抜けの至る所に緑が広がってて、降り注ぐ光が綺麗で思わず「わぁ」と漏らした息が弾んでしまう。
ラウンジはやっぱり休日だからかほぼ満席で、やっぱりカップルや女の子数人のグループばかりでみんな楽しそうにお茶を飲んでいた。
一人客はやっぱり珍しいよね、なんて少しだけ自嘲していると、ふと小さな竹林に囲まれた中央のテーブルに座っている女性の後ろ姿が見えて――あ、あの人も一人なのかな? なんて考えているうちに私は窓際の席に通されて予定通りアフタヌーンティを注文した。
今日はすごく天気がいい。41階からの見晴らしは最高で遠くにはうっすらと富士山まで見えて私はお茶が運ばれてくるまでの間、すっかり景色を眺めるのに夢中になっていた。
パークハイアットの何が素敵ってまずこの景色! 新宿のビル街を眼下に臨みながら優雅にお茶をする……運ばれてきた三段重ねのトレイに乗せられたスコーンたちもこの光景があってこそ何倍も美味しく感じられて私は自分でも気持ち悪いくらいにとろけた笑みを浮かべてデザートに手をつけていると、ふと斜め前方の席に座っていた先ほどの一人客の女性が今度は正面から私の目に映った。
一人分のトレイしかテーブルには置いてないし、やっぱりあの人も一人なんだなぁ……なんて他意なくそっちを見ていると、俯いていた女性がティーカップをソーサーに戻して不意に顔をあげた。
わぁ、と私は思わず息を漏らしてしまう。
切れ長の瞳がすごく知的。クールビューティってああいう人のことを言うのかなぁ、なんて見とれてしまうくらい綺麗な人で……一人アフタヌーンティが怖いくらい絵になっててカッコイイなぁなんて惚けてしまって慌てて視線をそらした。
他人をジッと見つめるなんてなんて失礼な、ってすぐに自省したけど、思わず視線が釘付けになってしまうくらい綺麗な人で。羨ましいなぁ、なんて思いつつ私は景色とお茶を十二分に堪能してその日は思う存分に癒しチャージをしてから帰宅した。
明日からも仕事頑張るぞ! 課長のシゴキにも耐えるぞー! なんて思ってお風呂あがりの髪をタオルで拭いていると携帯がメール受信音を鳴らして心臓が一瞬跳ねた。
この音は――嶋本さんだ。
携帯に飛びつくようにしてメールを掴み、いそいそとメールを開いてみる。

"おっつかれさん! 今度の水曜、メシ食いに行かへん?"

いかにも嶋本さんらしいワンフレーズメールだけど、私はパァっと明るく表情を緩めた。
嶋本さんは訓練だったり通常業務だったり待機だったりしてごく一般的なサラリーマンとは違うローテーションのなかで勤務している。だからこうして平日にご飯に誘ってくれる時はだいたい待機の日とか非番の前の日だったりして、あとは私の都合次第で返事が決まる。
でも、断ることは滅多にないというか、よほど遅くまで残業でもしない限りは喜んで受けている。というか死ぬ気で終わらせて帰ってるというか。
うふふ、と浮かれた笑みを零して私は肯定の旨と会社を出たら連絡するとの旨を返信した。
こうしてメールをくれるということは直接話せないということで、多分水曜までモノレールでは会えないということだから週明けに嶋本さんに会えないんだと思うとちょっと寂しかったけど。でも……、こうやって休日に思いっきり贅沢して、嶋本さんには食事に誘ってもらえて、なんだかとっても充実してて幸せだなぁなんて思いつつ私は肌のお手入れを念入りにして早めにベッドへと入った。
嬉しいことは続くもので、その週の水曜は珍しいことになんと定時上がり。
いつもだったらスーツのままで待ち合わせ場所まで行くところだけど、今日は時間に余裕があったから一旦自宅にもどってシャワー浴びてメイク直して私服に着替えて……ふと冷静になると滑稽なくらい舞い上がってる自分が恥ずかしい。
私は身長低めなほうだし、以前は高いヒールの靴を好んで履いてたけど――今は、なんとなくヒールのない靴ばかり選んでしまっている。もうホント、自意識過剰すぎて気持ち悪いんじゃないかって感じる心にフタをして私は用意が済むと張り切って家を飛び出た。
二人で食事をするときは、おおよその場合お互いに都合がいいということで京急蒲田で待ち合わせをすることになっている。今日も例に漏れず蒲田で落ち合って、和風ダイニングで舌鼓を打った。
いつも豪快にお酒を煽る嶋本さんは珍しく一滴も呑まなくて、一番待機なのかな? なんて思いつつ食事を済ませた私たちはネオンの光る街を歩きながら他愛のない話を続けていた。
「この前の日曜にパークハイアットに行ったんですけど、そこで凄く綺麗な人が一人アフタヌーンティしてるの見かけたんです。きっとバリバリのキャリアウーマンなんだろうなぁって勝手に憧れちゃって」
「パークハイアット……ああ都庁のそばのでかいビルかいな。俺にはかすりもせん場所やなー」
「私もちょっと気後れするんですけど、たまにはああいう雰囲気味わいたくて……」
ただの雑談なのにたまらなく楽しくて、でももう食事も済んだしすぐお別れなんだなぁ、ってちょっと寂しく思ってたら急に嶋本さんが歩いていた足をピタリと止めた。
つられて私も足を止めて、どうしたのかな? ってなにげなく嶋本さんを見やると、彼はどこか思い詰めたような硬い表情を浮かべていて私は驚いて目を見開いた。
「嶋本さん?」
「あんな、話があんねん。俺――」
私の方に向き直って嶋本さんがそう言いかけた時――ふいにちょっと低めの女性の声が割って入って彼の口を止めてしまった。
「嶋……?」
自然、声がしたほうを二人で振り返るとそこにはスラッとした綺麗な人が立っていて――あ、パークハイアットで見かけた人だ、なんて偶然を認識する間もなく嶋本さんはこれ以上ないというほどの最敬礼をもってその人に頭をさげた。
「い、五十嵐機長……! お疲れさまです!」
「お疲れさまです。珍しいわね、こんな所で会うなんて」
「あ、ええ……まあ、ちょっと。機長こそどないしたんですか? こんなとこで」
「あら、忘れたの? 私の家は蒲田だし、最近は羽田から歩いて帰ってるのよ」
「あ、いや……忘れたわけやないですけど」
彼女は嶋本さんの上司なのかな? なんて冷静に考えられる頭はきっと今の私にはなかったと思う。
頭が真っ白になる――なんて表現をよく見かけるけど、この状況はまさにそれで。吹き抜ける風だけがやたら痛くて。一言二言嶋本さんと言葉を交わしたのちに過ぎ去ろうとした彼女と目があって、先に会釈されたからほぼ反射的に会釈を返すのが精一杯だった。
「ハァ……ほんま驚いたわ」
完全に固まっている私の前で嶋本さんはどこかホッと胸を撫でおろしている。
「あ、今の人な、ウチの大型ヘリの機長なんや。お前を伊豆で吊り上げた時に飛んどったヘリも機長が操縦しとったんやで」
「……そ、そう……ですか」
嶋本さんにとってはつい今のことは日常茶飯事で、当たり前のことだったんだろう。
さっきの人が、海保のパイロットだったということに驚かなかったわけでもない。
でも、だけど――、今の五十嵐機長と話す嶋本さんを見て、ハッキリと分かってしまった。
女のカンなんてアテにならないって思ってたのに、こうもハッキリと感じ取れるなんて、いっそ厄介なものだと思う。
――嶋本さんは、彼女のことが好きなんだ。
そう理屈では表せない何かで直感して、舞い上がっていた自分が心底惨めに思えた。
……?」
通勤モノレールで会うだけの関係。それでしかなかったはずなのに。ただ、少しだけ仲良くなれただけだったのに。
「どないしたん? 具合でも悪いんか?」
俯いて言葉を発せなかった私を嶋本さんが心配げに覗き込んでくる。
でも、さっきの事実に気づいた以上はそんな気遣いも苦しくて、でもせめて笑って「何でもない」って言わなきゃって自分を叱咤してると急にけたたましい音を立てて嶋本さんの携帯電話が鳴った。
羽田からや、と呟いて嶋本さんは電話を受ける。
「もしもし! はい、えッ……!? はい、すぐ行けます!」
そうして短く電話を切った。たぶん、トッキュー基地からの呼び出しだろう。
「海難や、基地におった隊が全部出てしもうて行かなあかん。悪いんやけど――」
嶋本さんが私に事情を説明してくれている最中、キ、と道路にタクシーが横付けされて勢いよく後部座席のドアが開かれた。
「嶋! 乗って」
「――あ、はい!」
五十嵐機長だ。彼女も基地から呼び出されて引き返してきたのだと状況からすぐに分かった。
大きな声で返事をした嶋本さんは一度私の肩を叩いて短く言った。
「ほな行くわ! 埋め合わせはまた今度や!」
言い終わる前に手を振って嶋本さんはタクシーに飛び乗り、私はただネオン街を羽田に向けて消えていく車をただ見送るしか出来ることはなかった。
虚脱感――、というものをこれほど深く体験するのは人生で初めてのことだった。
しばらく私はこの羽田へと続く道に突っ立ったままで、そのあと電車に乗って自宅へ帰ったのか歩いて戻ったのかさえ良く覚えていない。
ただ――、ハッキリと一つだけ分かったことがあった。
今までずっと、なんとなくそうなのかな、なんて曖昧にやり過ごしてきたけど、強烈に自覚した。そして、自覚した瞬間に始まってもいない恋は失恋に終わった。それだけだ。
それだけなのに――、胸に込み上げる苦みはどうにもならなくて一人ひたすらみっともなく泣き続けた。
せっかく仲良くなれたんだから、これから振り向いてもらえるように頑張るなんて強い気持ちはとても持てなかった。
そのくらい五十嵐さんに対する嶋本さんを強烈に見せつけられて。あんな風に一緒に同じ方向を向いて命がけの現場へ行くような相手に、どうやったって勝てる気がしない。
だけどもう、気づいた以上は通勤モノレールで話す"知り合い"には戻れない。
望みのない想いを抱えたまま、なにごともなかったように笑って話せるほど器用な真似はできないから。だから、すぐには諦められなくても気持ちにキッパリとフタをしようと決意した。
眠れないまま朝が来て、酷い顔をなんとかメイクで誤魔化して、私はいつもより一時間近く早い電車に乗った。
今までだってゆとりを持った出勤だったけど、これからは毎日この時間に出社しようと思う。
いつもよりも空いた車内が虚無感を煽るようで、私はキュっと唇を結んでいつも通り天空橋からモノレールに乗り換えた。やがて地上に顔を出したモノレールから整備上駅が見えてきて、私は反射的にいつも嶋本さんが降りていく降車ドアの方から目線をそらした。でも、再び走り出した車内から海保の格納庫が見えて――ずらりと並んでいる航空機が視界に入ってきて反射的に俯いてしまった。
もともと、これほど違う世界にいた人なんだ。
彼がこの日本のどこかで起きた海難に救助に行っている時も、コッキンタイとしてジャカルタに行った時も、私にできることはなにもなかった。

『それでええんやて。お前に俺と同じ思いして欲しいとか思わへんし』

そう言ってくれた笑顔が今は遠い。
うっすらと窓に映った自分の歪んだ顔を見たくなくて、額を窓に押しやって俯いたまま私はモノレールの揺れる感覚にジッと耐え続けた。
嫌われてはいなかったと思う。むしろ神林くんや大羽くんに接するみたいにして可愛がってもらってたような気がする。でも、女として好かれていなかったことは身勝手だと分かっていても今の私には辛いことで。気を抜くと思い出しそうになる嶋本さんの笑顔も、声も、全てを振り切ろうと必死だった。

に会うて、帰ってきたんやなーて思たで?』

一緒に命がけの場所へは行けなくても、嶋本さんが笑って帰って来られるような場所になりたい。なんて……もしかして嶋本さんもそう思ってくれてるのかな? なんてほんの少しだけ感じていたなんて完全な自惚れで。
もう本当に――消えてしまいたい。
そんな思いを抱えたまま二週間以上が過ぎて、さすがにいつもの時間を避けた出勤を続けていると不審に思われたのか嶋本さんからメールや電話の着信が数回あった。だけど、今は返事も出来ずに、結局気持ちに区切りをつけきれないまま一ヶ月以上が経っていた。
休日に気張らしグルメツアーなんて今はする気にもなれず、ひたすら会社と自宅を往復の日々。いっそ整備場を避けて迂回して出勤しようかな、なんて未だ晴れない気持ちを抱えたまま私はその週の仕事も無事終えていつもどおり大鳥居駅で降り、階段を上ってパスケースを取り出しつつ改札にスイカでタッチして流れのままに改札を抜けた。
そして建物を出ようと顔をあげると――、進行方向に腕組みをして不機嫌そうな表情を晒したまま仁王立ちしている人がいて、サッと私の顔から血の気が引いた。
「し――ッ!」
嶋本さんだ。
え? どうして? なぜここに?
そうパニックになってしまった私は一瞬彼と目が合ったけど、グッと唇を一文字に引くと何ごともなかったように視線をそらせて早足でその場を立ち去ろうと足を踏み出した。
「――待てや!」
けど、隣を抜けたところで呼び止められて一瞬だけ躊躇してしまった。そばのTSUTAYAに逃げ込もうかな、なんて考えたけど無視もできずに立ち止まる。
「……なに、してるんですか? こんなところで」
「なにて……お前待っとったに決まっとるやろ!? なんで俺を避けとんのや? 初めはシフトでも変わったか思たんやけど電話にも出えへんし……俺なんかしたか? 話があるっちゅーのに連絡取れんと参っとったんやで!?」
振り返れないままに呟くと怒声と戸惑いが混じったような声が背中にあたって、私は見られていないことをいいことに苦しさから思い切り眉を寄せた。
「この前、海難でお前置いて行ったこと怒っとんのか? せやけどあれは――」
「そんなんじゃないです」
理由なんて聞かれても困る。それに答えたところで困るのは嶋本さんだ。なのに、彼は再び歩き出した私の腕を掴んで強引に自分の方を向けさせた。
「話があるて言うてるやろ!?」
聞きたくないです。なんてとても言えないほど迫力のある表情で迫られて、私は返す言葉に詰まってしまった。
どのみち天下の往来でこんな修羅場じみたことを続けるわけにもいかず、私たちは無言で駅から数分ほど離れたところにある萩中公園へと歩いていった。
広い敷地内の一番手前には"がらくた公園"と呼ばれている電車や船を遊具化して置いてある子供向けの公園があって……そこに足を踏み入れると嶋本さんはやっぱり船が目に付いたのか「なんや面白そうやな」と小さく呟いていた。
すっかり日も落ちた今、公園には人影も見あたらない。
嶋本さんは少しの間を置いて、さっき駅前で問いかけてきたことと同じことをもう一度訊いてきた。
「気に障ることしてしもたんなら謝る。せやからハッキリ言ってくれ」
違うのに。ぜんぜん違うのに――。
「黙っとらんと何か言ってくれや。そうやないと俺もどうしたらええか分からんし」
本当に嶋本さんの声は戸惑っていて、私は自然握った拳と唇を震わせていた。
気持ちの整理なんてまだ全然ついていない。でも、この問いに答えてしまったら嶋本さんをもっと戸惑わせてしまう。
でも――。
「なぁ、聞いとるんか!?」
目頭が熱くて、ひょっとしたら涙も滲んでいたかもしれない。この一ヶ月、ずっと胸に閉じこめてきたけどもう限界。もう、自分でも気持ちを止めるのは無理だった。
「……です」
「は……?」
「嶋本さんが、好きだからです!」
ほぼ逆切れのようにして自分でも訳がわからないまま訴えると、嶋本さんは当然のように鳩が豆鉄砲を食らったようにしてぽかんと目を見開いていた。
「な、なんや……それ……」
「だって、嶋本さんは五十嵐さんが好きなんでしょう!? だからもう会わないでおこうって決めたんです。だから……もう私のことは放っておいてください!」
「ちょ、ちょお待て! なんで機長が出てくるんや!?」
「違うって言うんですか!?」
もう無茶苦茶だ。瞳に涙を浮かべたまま睨みあげるようにして強く言えば、嶋本さんは明らかに狼狽して言葉に詰まった。
ほら、やっぱりだ。
ぐす、と鼻を押さえていると嶋本さんはガシガシと頭をかいて、思案するような表情を見せて言葉を探りながら口を開いた。
「あー……、その、やな。機長は保大時代の先輩でやな……確かに可愛えなー思てた頃もあったんはあったんやけど……」
どこか言い訳じみた声に聞こえたのは穿った見方をしているからではないと思う。
学生時代からの知り合い……、そっか、それで彼女は「嶋」なんて親しげに呼んでたんだな――なんて納得すると同時に、埋められないほどの差を益々感じてしまって一層落ち込んでしまった。
だけど、どうしてそんな言い訳を私にするのかサッパリ分からない。別にいいのに、と思っていると伝ってしまったのか嶋本さんは否定するように強い視線を私に向けた。
「せやけど15年近く前の話やで!? 青春時代の甘酸っぱい思い出っちゅーやつでやな。お前にも身に覚えの一つや二つあるやろ? ないんか!?」
言われて私はグッと息を詰めた。
確かに、学生時代に好きだった人や憧れていた先輩の一人や二人くらいいる。でも――、甘酸っぱい思い出なのはあくまで過去だからであって。
もしも今、再会して彼らが変わらないままだったらやっぱりまた気になってしまうかもしれない。
まして同じ職場だなんて……、忘れるに忘れられないに決まってる。現に私にはそう見えてしまった。なんてネガティブに考えてると、俯いた私を見て嶋本さんはなお眉を曲げる。
「なんや、まだ納得できんのか?」
「……だって、」
「だっても何もあるかい! 俺がちゃう言うてるんやからちゃんや! なんやお前、そもそもその自己解釈は女のカンとかいう胡散臭いモンが根拠なんやろ!?」
「……ッ……」
「別にええけどな、俺の言葉よりお前は自分のカンを信じるっちゅーんやな!?」
畳み掛けるように言われて、更に痛いところもつかれて、私は黙りこくるしかなかった。
確かに、根拠のない話だったけど。絶対外れてはいないわけで。でも……嶋本さんの言うことが信じられないとか言う話では全然なくて。
けど、理屈じゃないんだから……、と言葉に詰まっていると嶋本さんは、ふー、と一つため息を零した。
「アホらし……避けられた思て悩んどった俺の時間返せ言いたい気分やわ」
ともかく最初に言いたいことを爆発させた私は勢い降下気味で何も言えず――、そんな私を見て嶋本さんはなお深い溜め息をつくと、頭を抱えるような仕草で口をへの字に曲げた。
「ほんま、世話のやける……」
呆れたように呟かれて私は再び心底泣きたくなった。
逆切れ気味だったとは言え、勢いで告白したのに返事がそれなんて……もう早く立ち去りたい。
「それで、話ってなんですか」
一刻も早くこの場を去るべく短く言うと、嶋本さんはハッとしたように表情を引き締めた。そうして何故かこれ以上ないほど緊張した面もちを見せてから数秒――、一つ咳払いをしてまるで何かを決意したように私に向き直って、スッと息を呑んでから口を動かした。
「異動が決まったんや、関西に」
「……え?」
「関空の機動救難班に班長として行くことになった。まァ、正式に辞令が降りるんはちょっと先やけど……ついでに昇進やし、いわゆる栄転っちゅーヤツや」
緊迫した雰囲気を醸し出した先に出てきたのはそんな言葉で――、なんの話かと思えば……、なんだ、結局五十嵐さんがいなくてもあの日はさよならの話だったんだ。そう思うとまた頭が真っ白になって、なおさら惨めになってきてまた目尻に涙が浮かんできた。
「そ、そう、ですか。おめでとうございます」
きっと五十嵐さんのことがなくても素直に栄転を喜べたかどうかは分からないのに、訳のわからないまま譫言のように祝い文句を述べてそこで終わりにしたかったのに。
「せやから――」
まだ続きがあるの? とぼやけてきた視界で顔をあげると、見たこともないほど真剣な嶋本さんの瞳と目があった。
「ついて来てくれへんか?」
その声が、頭にちゃんと届いたのは何秒後の事だっただろう? 一瞬、なんて言われたのかさえ理解できなかった。事実、どのくらいの時間を黙して固まっていたか分からない。
「え……あの、それってどういう……」
「どうもこうも、そのまんまの意味や」
やっとの思いで訊き返すと嶋本さんはそう答えて、彼はもう一度溜め息を吐いてから再び頭を抱え込むような仕草を見せた。
「なんやもう順番めちゃくちゃや……、神林のことようバカにできへんわ……」
あ、と私は息を呑んだ。
神林くんはジャカルタから奇跡の生還を果たした際にメディアの前で当時付き合ってもいない微妙な関係の女の子にプロポーズをしてしまってその場で断られたという過去がある。
その事を思い出した私は――先ほどとは違う意味で頭が真っ白になってハタから見ると滑稽だろう程に狼狽した。
「え、あの……その……えっと……どうして……」
「なんで、って……俺もいい加減ええ歳やし。お前かて……そうやろ」
「そ、そうじゃなくて! どうして、私……」
「お前、ほっとけんねん。そばにいてくれんと、安心できへん」
嶋本さんは真剣ながらも少しだけ照れくさそうに視線をそらしてから近くの船の遊具の方に歩み寄って、そっと船体に触れた。
「あの伊豆の海難で思い知ったんや。あの時、風も強うてヘリで現場に近寄るのさえ困難な状況でな……当然巡視船も近寄れんし、これ以上時化たら海に入るんも危険な状態やった。あと一分でもお前見つけるの遅れとったら、俺は無理やと判断して羽田に引き返すことを選ばなあかんかった」
船に乗せた手を握りしめて震わせながら、嶋本さんは一度強く瞳を閉じた。そして絞り出すような声で小さく訴える。
「俺は無理やと判断したら、部下には行かせへんし俺も行かん。非情かもしれんがそれがトッキューの誓約やし、俺のポリシーや。けどな……もし、あと一分発見が遅れとっても俺は……海に飛び込んどったと思う。目の前で何も出来んとお前死なせるくらいなら、トッキューの恥や後ろ指さされても全部捨てて助けに行っとった。――そう感じたことが全てや」
いつもいつも、絶対に無理な命令はしない、と嶋本さんが繰り返し言っていたことはよく知っている。だから、震えた声で言ってくれたその言葉がどれほど重いか痛いほどに実感できて――あの伊豆で私を助けて抱きしめてくれた嶋本さんの腕が震えていたことを思い出して。そして初めてつい先ほど言われた一連の言葉を頭が理解するに至って、私は込み上げてきた熱で震える唇を必死に押さえつけた。
「しっかし、あのあとしばらく副隊長以下に取り乱しとったことネタにされるわからかわれるわで大変やったんやでー?」
対する嶋本さんは真剣な口調を一転させて冗談口を叩いて私の方を向き、次いでギョッとしたような表情を浮かべる。
「な、なに泣いとんのや!?」
「ご、ごめんなさい……私……」
「い、いや今のは冗談やて! 冗談!」
「わ、私……私で……いいんですか……?」
確かめるように訊くと、嶋本さんはキョトンとして――、そしてふっと笑ってからいつか伊豆でそうしてくれたように力強い腕でしっかりと抱きしめてくれた。
お前がええんや、と耳元で囁いてくれて、嶋本さんの肩に顔を埋めた私はきっと見せられないほどにぐしゃぐしゃな表情を晒していたと思う。
一ヶ月前、あんなに毎日が楽しくて、そしてどん底まで落ちて。今は、嶋本さんの腕の中にいる。次はどんな落とし穴があるのか、ひょっとしてドッキリ? なんて思ってしまったら失礼かもしれないけど。
でも――。
「なんや惚けたツラして?」
しばらくして落ち着くと、いつもどおり上がり眉の眉間に皺を刻んだ嶋本さんの表情が目の前にあって……私はまだ目尻に残っていた涙を擦って拭った。今が夜で良かった。きっとメイクはドロドロで酷い有様になってるだろうから、と思えるほどには思考も戻ってきた。
「いえ、その……夢、みたいで……」
呟くと、嶋本さんはキョトンとしてからまた溜め息を吐き、次に私を睨み付けたかと思ったらグイッと強引に私の腕を引いた。
「な――ッ」
なにするんですか、って反射的に訊こうとしたけど間に合わなかった。
目を見開いた私の瞳孔には触れるほどの位置で嶋本さんの瞼が映って、唇に噛み付かれたような感触が過ぎって――あっけに取られている間に嶋本さんは唇を離した。
「これでもまだ信じられんか?」
すっかりいつもの笑みを取り戻した嶋本さんは口をパクつかせる私を見て悪戯っぽく舌を出してからクルリと私に背を向け、頭の後ろで手を組んで歩いて行こうとしている。
「腹減ったなー、俺、晩メシまだなんや」
「あ……、え、と……」
「せっかく大鳥居に来たんやし、の手料理リクエストしてもええか?」
得意やろ? と続けた嶋本さんに私は更に狼狽した。そりゃ、いつでもお嫁に行けちゃう、なんて調子に乗っていたこともあるくらいには得意なつもりだけど。
「あ、あの……」
「あ、俺明日は非番やから。お前も会社休みやろ、土曜やし。……で、ここから近いん? お前のマンション」
「ちょ、ちょっと……!」
「なんや、イヤなんか?」
「ち、違いますけど……その……」
最近、無気力生活続けていたせいで部屋汚かったかも――なんて焦りつつ私は嶋本さんの背を追いかけた。
一歩一歩と近付いて、追いついたら嶋本さんが私の方を向いてニといつもの人好きする笑みを浮かべてくれた。
そこで初めて――私はもうとっくにこうして並んで歩くのが当たり前のようになっていたこと、縮めたいと願っていた距離も限りなくゼロに近付いていたことを知った。
でも、こんなに近付いたってまだ私は嶋本さんのことを全部は知らない。
五十嵐さんのことだって、全部を納得してるわけじゃないしこれからも不安に思ってしまうかもしれない。
それに嶋本さんだってまだ……きっと私のことは半分も知らないと思う。
だけど――、今、全てを埋める必要はないのかもしれないな、って夜道を並んで歩きながら感じた。
これからこうしてずっと一緒に歩いていけるなら、その時間の中で少しずつ少しずつ積み重ねていけばいい。
だから。
ここからまた、新たなスタートなんだな――、って私は気合いを入れ直して拳を握りしめた。



「まもなく整備場ー、整備場に到着いたします」

年が明けて、これからしばらく一人きりの出勤。
走り出したモノレールから海保の基地を見ると朝早くからオレンジの服を着たトッキューの人が走っていて――、進次さんも今、こうして関空の基地で走ってるのかな? なんて見上げた空は痛いくらいに澄んでいて私はふっと笑った。
もう少しだけ待っててね、って心の中で語りかけながら私は今日も一人、満ち足りた気持ちでモノレールに揺られながら目的地を目指した。





ハッピーエンド、かな?

TOP
良かったらぜひ!