声が聞こえる





気づけば嶋本さんに出会って、けっこうな月日が流れていた。
でも、でも――私はいまだに彼の携帯番号やメールアドレスさえ知らない。
どこかへ出かける時も、嶋本さんは持ち前の性格なのか隊長という職業ゆえか凄く短く適切に「〜時に〜に集合や!」なんてワンフレーズで言ってしまうから連絡にかこつけてメアドを聞き出すなんてこともできず、相変わらず私と嶋本さんは「通勤モノレールで顔を合わせる人」同士でしかないと思う。
でも、90%くらいは満たされてるし、残り10%のもどかしさがないわけではなかったけど私は私で忙しかったりなんかして現状維持以上のことに神経を使おうとは考えてもいなかった。
と言うのも、もうすぐ初夏を迎えるこの季節。新入社員の教育係を任されてしまった私は仕事の方に神経をすり減らせてグッタリとしている有様であまり余裕のない日々が続いていたのだ。
そんなある日――、疲れから幽霊のようにふらふらしながらモノレールに乗り込んだ私を見た嶋本さんはおかしなものでも眺めるように顔を顰めた。
「なんや、顔色悪いで? ちゃんと食っとるんか?」
「……はい……。でも思った以上にキツくて、嶋本さんの大変さがよく分かる数ヶ月でした……」
「俺はけっこう楽しんどったけどなー、新人教育」
新年度早々は張り切りつつ、嶋本さんもこんな気持ちで教官やってたのかなぁ、とか思って嬉しくなったり、嶋本さんに「教官としての心得ってなんですか!?」なんて元気いっぱいに訊いてみたりもしてたんだけど、そんなテンションを維持し続けるのは困難で。今もケラケラ笑って楽しんでたなんて言える嶋本さんはやっぱり凄い。というかタフだなぁと感心を通り越して呆れてしまう。
でも、そんな日々もあと数日で終わり。月末の研修旅行が済めばようやくこの重い任務から解放されるかと思うと少しだけ気が楽になった。
「週末に最後の締めとして研修旅行があるんです。伊豆で船に乗って西南海岸見たりする完全な慰安旅行なんですけど……でも、船扱ってる会社だから融通きいたみたいで研修の名目で太平洋わたって船で東京に帰る予定なんですよ」
「おっ、ええなぁ。トッキュー地獄の最終研修とは大違いや。しっかし週末か……俺は当直やな」
それは、そんないつもの朝のいつもの何気ない会話だった。相変わらず一分ちょっとしか話せない時間は短すぎて、あっという間に整備場駅が見えてきてしまい嶋本さんは降車ドアへと向かう。
「ほなら、楽しんできぃや。研修終わったら慰労会開いたるわ」
「え……!?」
「居酒屋から高級フレンチまで、どこでもええで!」
そして相変わらず、笑顔でとんでもない事を言い残して聞き返す間もなく嶋本さんは颯爽とモノレールを降りて行ってしまった。
「え……?」
デート、のようなものは釣りに行ったり野球観戦に行ったりして何度もしてきた。でも、こうして食事に誘われたのは初めてのことかもしれない。一人グルメツアーが趣味だと話したことは何度かあって「良い店あったら紹介してや」なんて言ってたからそれを口実にこっちから誘おうかな? なんて思ってて今まで実行できずにいたけど……まさか、誘ってもらえるなんて。
特別な意味なんてなくて、あまりに窶れた姿を晒す私を哀れに思ったのかもしれないし、かつての教官として少しだけ似たような立場になった私に同情してくれたのかもしれない。だけど、でも、とにかく単純に喜んで表情を緩めて――なんて余裕がやっぱり今の私にはない。
私の仕事は普通の事務で、ごく一般に分類すると私はOLと呼ばれる職種で。モノレール羽田線沿線という海に程近い場所が職場なだけに船も扱ってたりなんかするけど、私は海とは程遠い陸のビルのオフィスでパソコンと睨めっこの日々。
資料作成、受注・発注処理、プレゼン等々ごく普通の事務仕事を今は新人に教えてるわけだけど――、正直、自分が人に教えられるほどできる人間だとは思ってないから未だに気恥ずかしさが抜けない。
というか、上手くできずに涙目になってる新人の女の子を見ると昔の自分を重ねてしまって同情的になってしまう。
新人の頃からバリバリに出来の良い人もいたとは思うけど、最初はみんな出来ないのは同じなんだから……初心は忘れちゃだめだよね、なんて私の方が逆に教わったりなんかして、背筋がピンと伸びる気分。
「――はい、申し訳ありません。いま担当のものと替わりますので少々お待ち下さい」
すぐそばで弱々しい声が聞こえてきて目線をやると、鈴木さんという新人の女の子が縋るような目で私に手にしていた受話器を差し出してきて頭を下げた。
電話対応は慣れてしまえば誰でも事務的にこなせるものだと思うけど、最初はなかなか気後れする人も多くて、けっこう性格にも左右されがちで。まさにその手のタイプの彼女に替わってサッと処理をすると鈴木さんは「ありがとうございます」と再び頭をさげた。
「マニュアルどおりやろうと思ってるんですけど、いつも緊張してしまって……」
「私も最初は慣れなかったよー。今もちょっと苦手」
「そうなんですか!? 研修、あと数日で終わりかと思うと不安で……」
けっこう大きな会社だから鳴り物入りで入社してくる子も多い中、あまり上出来ではなくても素直な彼女を私はとても可愛らしく思っていた。
そう言えば、嶋本さんも出来が悪いって愚痴ってた割にはすごく神林くんのことを可愛がってたし――教官というのは得てしてそういうものなのかな? なんて教官してる嶋本さんに思いを馳せて嬉しくなった自分に叱咤をする。
今は仕事、仕事、なんて言っているうちにあっという間に週末が来て、私たちは早朝から陸路を伊豆へと移動した。
「今日は研修最後のシメだぞ、!」
「……はい」
引率という名のお目付役に課長、私、そして新人男女合わせて十数名。休日にまで課長の顔を見る羽目になるなんて、とブルーになりつつもこの数ヶ月で結束を固めた新人たちを私は一歩外から今は課長と見ているしかないわけで。船の運搬管理なんかについて語りつつ南伊豆で大自然に囲まれつつ海の幸に舌鼓を打って、ブルーから一転ハッピーになった所で移動のために港に停泊してる中型客船にみんなで乗り込んだ。
予定では、これから船で遊覧しつつ離島に行って一泊してから東京にまた船で戻ることになっている。
デッキを歩いていると前を歩く鈴木さんが軽く咳き込んでいて、気になった私は声をかけてみた。
「鈴木さん、風邪?」
すると彼女は「いいえ」と首を振るって、心配させまいとしたのか笑みを浮かべた。
「ちょっと喉が乾いた感じがして……」
「そう言えば、ちょっと空気乾燥してるかも」
鈴木さんの声を受けて、私はなにげなく辺りを見渡す。確かにこんな海の上にいるのに空気が乾燥してる気がする。心なしか風も強い、気がする。遠くに見慣れない雲がかかっているのが気になったけど、でも、晴れてるし――と潮騒に舞い上がった髪を押さえて船内に入ると、課長がニコニコしながら新人男性社員を前に「我が社はこうして船を云々」と社内事情を語って聞かせていて私は課長ってほんと仕事好きなんだなぁなんて思いつつ優雅に観光を決め込んだ。
動き出した船から見える眼前の南伊豆は国内とは思えないほどの大自然のパノラマが広がっていて、岩礁の連なる入江に断崖絶壁を彩る緑がすごく鮮やかで。デッキに出てゆっくりと景色を堪能したかったけどちょっと風が強くて波も高くなってきたから船内に留まるしかないのがすごく残念。でも綺麗だなー、って感嘆の息を漏らしているとふとえづくような小さな呟きを耳にして視線を流すと、真っ青な顔でふらついている鈴木さんがいて私はギョッとした。
「だ、大丈夫? 酔っちゃった?」
「うー……」
私は案外揺れには強い方で全然平気だったけど、そういえばこの船、すごく揺れてる。船には小型から大型まで何度も乗ったことあるけど、全く揺れない船なんてなくて、むしろ揺れるのが仕事みたいなところがあるんだけど――けっこう、すごい揺れ方してる。
「わっ……!」
急に足元がグラつくほどの揺れを感じて私がそばの壁に手を付くと、鈴木さんはもう耐えられないというような顔で口元を両手で覆っていた。
「ト、トイレ……どこですか!?」
「え、あ……階段降りて廊下の突き当たりだったと思うけど」
「ち、地下ですね!」
言うが早いか鈴木さんはふらつきながらも走って階段の方へと行ってしまった。
大丈夫かな……着いていったほうがいいかな? なんて思っていると今の揺れのせいか船内にはデッキへの進出禁止がアナウンスされて外に出ていた人たちは一気に船内に戻ってきた。
「強い風ねぇ……」
「雨も降ってないのに……」
周りの人の呟きを耳に入れて私も眉を捻る。
船の外を見やると、波はさっきの比じゃないくらい高くなって波飛沫がデッキまで押し寄せる有様になっていて――私はサッと青ざめた。周りがやたら落ち着いているのは船の中だから? 嵐でもないし、空も暗くないし、そう心配することもないのかもしれないけど。でも。
不安になってきて辺りを見渡すと課長が渋い顔をしていて、私はいつもなら絶対近付かない課長に歩み寄って尋ねてみた。
「海、荒れてきたみたいですけど……大丈夫でしょうか?」
「出港の時、遠くに尾流雲が見えていた。その影響かもな」
地上まで雨が届かずに蒸発してしまうから雲が簾のような形になって――なんて説明する課長の声を聞きつつ確かに出港の時見慣れない雲を見たことを浮かべながら「だから空気が乾燥してたんだ」って思って私はハッとした。
どこかで読んだ気がする。というか何かで観た気がする。予想だにしない海での暴風。雲からの下降気流で巻き起こる突風。
「"白い嵐"――ッ!」
思い出したと同時に叫んだ私を急な浮遊感が襲った。と、同時に背中を壁で強打していた。
声にならない声で呻いていると耳には悲鳴が飛び込んできて、再び私は強い力で揺さぶられて床で顔面を強打することとなった。
「い、た……」
船が持ち上がって再び海面に叩きつけられた。そんな感じだった。
、大丈夫か?」
「あ、大丈夫です……」
鼻の頭を押さえながら課長の問いかけに笑って答えたこの時の私は全然まだ今おきた事の重大さなんて分かってなくて。取りあえず強打した背中を労るのに神経を注いでいると、船内アナウンスから船長の切羽詰まった声が聞こえてきた。
それは――つい今の突風の影響で船体に亀裂が発生、機関室に浸水が発生しているということだった。
「え……?」
誰もが耳を疑った。更に船長はこれを食い止める術はなくそう長くこの船が持たないことを告げ、早急に退船するように乗客に告げ――その瞬間から船内はパニックの場と化した。
船長の言葉は冗談なんかじゃなく紛れもない事実であると証明するかのように一秒一秒と残酷にも船は傾いていき、真っ白になっていた私の肩を強く叩いたのは課長だ。
「女性社員を集めろ。俺は男どもをまとめる。頼んだぞ」
「あ――はい!」
そうだった。慰安旅行に限りなく近いとは言えこれは新人研修の一環。私は教育係だったんだ、と思うと自然と強く唇を噛みしめて私は無意識に恐怖を自分から取り去ろうとしていた。
自然と女の子たちは私の所に集まってくれて、みんなで励まし合っている最中にも乗務員さんの鳴らすホイッスルの音が鋭く鳴り響いている。
「男性は救命ボートの組み立てを手伝ってくださーい!」
「子供とお年寄り、女性は先にボートに乗ってください!」
切羽詰まった誘導の声が緊迫したムードをより高めていて、私はタイタニックを観ている最中なの? なんて考えてしまったのはきっと脳が現実を直視するのを拒否していたからだと思う。でも、あの映画で驚いたことが一つある。船は、あんなにもアッサリと沈むという事実。誇張ではなく本当にそうなのだといつだったか嶋本さんも言っていた。
相変わらず海は荒れていて、こんな中にボート一つで飛び出していって本当に大丈夫なのか疑問に思っていたまさにその時。
「あれ、鈴木さんは?」
乗船の直前で後輩の一人がそんなことを呟いて私はハッとした。
慌てて辺りを見渡すと、一人足りない。
課長に女の子は頼むと言われていたのに、パニックで点呼確認を怠ってしまっていた。そうだ、彼女は船酔いに耐えかねてトイレに駆け込んでいっていたはず。
「まさか、トイレで何かあったんじゃ……」
いくら気分が悪くても、この騒ぎのなか戻ってこないのは明らかにおかしい。ひょっとしたら突発的な事故で動けない状態にあるのかもしれない。トイレ内で頭を打って気絶している可能性だってある。
「――みんな、先に行って」
彼女がどこのトイレに入ったのか、今どこにいるのかを知ってるのはきっと私だけだ。避難誘導をしている乗務員さんの手を煩わせてしまったら他の多くのお客さんたちを危険に晒してしまうことになる。
だからって自分が行くのは間違った選択なのかもしれないけど、でも見捨ててもいけない。
「鈴木さんを連れてくる!」
危険だと止める後輩たちにもう一度先に避難するよう念を押して、私は傾く船内へと逆戻りした。
既に浸水が客室にも始まっていて、階段を下りると膝下まで満ちていた海水に思わず息を呑む。
それでも意を決して海水を蹴り上げ、膝を高く引き上げてトイレの場所まで走り抜けた。
この船のドアは押しドアだ。水圧で開かないということはきっとない。じゃあ、やっぱり何かアクシデントが……と懸念した私は勢いよくトイレのドアを押した。けど力一杯押したはずなのにビクともしなくて血の気の引いた私は力任せにドアを叩く。
「鈴木さん! 鈴木さーん!!」
返事がない。ひょっとして中にいないの? でも、ここ以外考えられない。
ぐるぐる巡る思考を振り切るようにひたすら叩き続けていると、一分近くたってから弱々しい声が中から聞こえてきた。
「せ、先輩……?」
「鈴木さん! 良かった、無事ね!?」
「きゅ、急に船が揺れて……頭打ったみたいで……」
やっぱり彼女は最初の揺れで頭を打って少しの間だ気を失っていたらしい。すぐに出てくるよう呼びかけると彼女は呼応するように悲鳴をあげた。
「ドア、開きません……! やだ、なに、水……!?」
そこで初めて、ドアの僅かな隙間から水が漏れだしている事態に気づいたらしく……懸念通りドアが変形しているのか閉じこめられてしまっている事実にパニックを起こしたみたい。
「落ち着いて、大丈夫だから! 私も押すから目一杯ドアを引いて!」
呼びかけて掛け声を掛け合いつつ力を合わせてみたけど、女の力という現実を思い知るだけに終わってしまった。それに船が傾きすぎていてうまく力が出せない。
何も出来ないまま時間だけが過ぎて、狭い空間に閉じこめられて状況も分からない鈴木さんはついに限界が来たのか助けを請いながら泣き出してしまった。

『あの辺海難多うてなー、もし行くことがあったら要注意やで』

いつだったか嶋本さんに伊豆は要注意だと言われた言葉を思い出して私も涙が込み上げてきそうになった。――そこで私はハッと我に返る。
「そうだ……トッキュー……!」
嶋本さんは今日、当直だって言ってた。注意されていたにも関わらずに伊豆で海難に合ったことを申し訳なく思うけど、でも、今は頼るしか……! と私はポケットに入れていた携帯に手を伸ばして愕然とした。
そうだった、私は嶋本さんの携帯電話の番号は知らない。それに。
「――! 圏外……!?」
携帯を開くと目に飛び込んできた圏外マークに私は痛いほどに眉間に皺を刻んだ。これではどこにも誰にも助けを求めることはできない。
でも、きっと既に誰かがしかるべきところに連絡をしてくれているはず。そうしたらきっと、きっとトッキューが……嶋本さんが助けにきてくれる。いつかあの玄界灘の海難で荒れる海から要救助者を助け出したみたいに、きっと。
そう思うと気持ちが強く持てた。だけど裏腹に水位は上がってきて、迫り来る海の恐怖から逃避するように私は懸命にドアを押した。皮肉にもあがった水位が圧力となって少しだけドアが動く。
「鈴木さん、もう少し……!」
再度彼女にドアを引くよう言ってグッと腕に力を入れると、不意にガクッと身体が前へと押し倒されたような錯覚に陥った。
二人分の悲鳴が響いて、開いたドアと共にトイレには一気に海水が流れ込んで私たちはトイレの壁に背中を強く打ち付けてしまった。
海水を飲み込んでしまったのか激しく咳き込む鈴木さんの腕を何とか捉え、私は痛みに耐えつつ彼女の背中をさする。
「行こう!」
斜めになった床。流れ込んでくる海水。トイレから出るだけでも一苦労かもしれない。分電盤がショートしたのか先ほどから電灯もおぼつかない状態で船内は薄暗く、鈴木さんは絶望したようにすすり泣いている。
そんな彼女の手を引いて泳ぐように私は外を目指した。服も髪も海水まみれで、水は冷たくてすでに手足の感覚が麻痺しつつある。
「先輩……」
「大丈夫、大丈夫だから」
本当は私も泣き出したかった。ううん、彼女がいなければきっと子供のように泣きわめいていたかもしれない。でも、年輩の私がそうしてしまえばもうダメな気がしていつもの自分より気丈でいることができた。
みんなはもう避難し終えたのかな? 救命ボート、まだ残ってるのかな……船外に出て、どうやって脱出すればいいんだろう?
そんな事を考えていると、再び襲ったのは強い揺れ。廊下にどちらともない悲鳴が響いた。
さっきよりも確実に船は傾いている。もしもこの船が沈没なんてことになったら、私たちは一緒に海底に引き込まれてしまうの? 
過ぎった考えにゾッとして、私は一心不乱に階段を目指した。手すりを掴んで、階段の役目を果たしていない傾いた階段をよじ登るようにして歩いていく。
ようやく一階から出て海面から床に足を付けると少しばかりホッとしたのも束の間、斜めになった視界に飛び込んできた光景は先ほどよりも風が吹き荒れて荒れる海の姿だった。
「せ、先輩……」
壁に寄りかかって倒れるのをどうにか防いだ私の腕を痛いほどに掴んでいる鈴木さんの声も腕も震えている。
「な、なんなんですか、これ……私たち、死ぬんですか……?」
私の思考も一瞬真っ白になってしまった。既に辺りには人影が見あたらない。
じゃあみんなもう脱出したんだ、ときっと無事だろう同僚たちのことを思いやる余裕はどこにもなかった。
「……海に、出なきゃ……」
「え!? な、なに言ってるんですか……そんな」
「このままだと船が沈んじゃう! 海にいれば、海だったらきっと助けがくるから……!」
鈴木さんの手を引いて、私は傾斜45度ほどある床をよじ登るようにして外に向かって駆け上がった。救命胴衣類を探したけど、全て使用してしまったのか空ばかり。でも何かフロートになるものを見つけないと、と必死に目を凝らしていると眼前の船首デッキに一つだけ浮き輪が残っていたのを見つけた。
這い上がるようにしてデッキに出て、鈴木さんに身体に通すよう渡す。
「で、でも……!」
「早く……!」
じりじりと船は傾斜角度をあげ、流されないように柵にしっかり捕まって私は強制的に浮き輪を鈴木さんの身に着けさせた。そして海面を見据える。暗くて深い青だ。荒れる波から飛沫があがって、これに恐怖を覚えるなというのは無理だ。
だけど、でも――。意を決して私たちは海へと身を投じた。
「先輩……!」
捕まってくださいと必死に訴えてくれる鈴木さんの浮き輪を私も必死に掴んでなんとか船から距離を取ろうとするも、荒れる海相手にそれは無謀な抵抗で。沖合を見てしまえば視界全てを覆う海に絶望感で潰されそうだったから反対側の絶壁を遠く視界に入れることで何とか陸との繋がりを認識して気を強く持った。
口、閉じてなきゃいけないのに何度か開いてしまってその度に容赦なく海水が口内へと飛び込んでくる。
――嶋本さん。
彼はいつもこんな場所で誰かを助けるために身体を張っているのかと思うと、改めて彼の凄さを思い知った。
なのにいつも笑顔で、全然凄そうになんてしてなくて……。いつも、嶋本さんはこんな場所に来るんだなって思うとまた少し彼のことを知れた気がしてこんな時なのに嬉しくなってしまった。
絶望を通り過ぎると脳が麻痺して人間ポジティブになれるのかもしれない。
トッキュー、来るのかな……。もし、このまま海に沈んでも、嶋本さんが見つけてくれるなら嬉しい。でも、例えモノレールで一緒になるだけの仲でも、知り合いの遺体回収なんてイヤだよね。ごめんなさい、でも――。
「先輩……」
「大丈夫……」
せめて、彼女だけは助けてあげて……、と私は波に弾かれそうになる手で必死に浮き輪を掴んだ。
高い波が何度も何度も私たちの身体に容赦なく海水を叩きつけて、もう腕の痺れが限界に近い。
水が冷たい。
手に力が入らない――、と顔を顰めた瞬間、ふ、と指先から力が抜けて襲ったうねりに流されたと気づいたのは鈴木さんの絶叫が波間から微かに聞こえたあとだった。
大量の海水が一気に胃に流れ込んで苦しさにもがきながら私は必死に海面から顔を出す。
泳げないわけじゃないけど、こんな海で浮き輪の場所まで泳げというのはあまりに難題すぎて、沈んでは浮かびつつ息をつなぐのに精一杯な状態まで陥って私を先ほどとは比較にならない恐怖が襲った。
恐怖なんて生やさしいものじゃないかもしれない。ただ苦しくて無意識にもがいているだけだ。
「ッ、助……け……!」
暴れるように助けを求めたのも無意識だったかもしれない。
こんな広い海で本当に誰か見つけてくれるのだろうか? 水死は酷い状態を晒すって子供でも知ってる。それでも遺体が見つかることのほうが稀で、死んだことさえ誰にも認識されないかもしれない。
そんなの……!
いやだ、苦しい、助けて――! と必死に海面に向かって手を伸ばしていると不意に直上から激しい風が私を襲った。もしかして、また風が強くなった? 波が荒れ狂っていよいよダメかと思った私のぼやける視界に映ったのは――まるで天使のような白い羽。ううん、天使そのものだった。
翼をはためかせた白い胴体がくるくると視界を廻っている。まるで天からの使者が舞い降りてくるかのような光景に……私は笑っていたかもしれない。
身体から力が抜けて身体中を冷たい水が包んで、ここが天国なのか今自分が生きているのかさえよく分からなくなってしまった。
ただ身体が動かせなくて、目も開けない私を誰かがどこかへ連れて行ってくれている感覚だけは分かった。迎えに来てくれた天使が私を連れて空へと飛び立ったのかもしれない。
だって、断続的に息が楽になってきた。
天国にも空気ってあるのかな? 胸に入り込んでくる何かが少しずつ満たされて――。

「――! おい! しっかりせえ!」

おかしいな、この声……知ってる。天国に知り合いっていたかな? なんて遠く思っていると、また少し、息が楽になってきた。

――ッ!」

声が聞こえる。この声……私、ずっと聞きたかった。天国って凄いな、思ったことが全部叶っちゃうみたい。
うっすら瞳を開くと、よく見知った顔が必死に私を覗き込んでいて……私は必死に唇をゆり動かした。
「嶋……本……さん……?」
そうだ、嶋本さんだ。夢、みてるのかな? 口を開くと彼はこれ以上ないほどホッとしたような表情を浮かべて何かを呟いた。
「気ぃついたんやな、もう大丈夫や!」
周りの音がうるさくて、言葉が聞き取れない。
少しずつ覚醒してきた頭は、ハッキリと嶋本さんの着ているウエットスーツの「特殊救難隊」という文字を認識させ……私は天使に連れられたのではなく救助に来てくれた嶋本さんに助けられて海保のヘリに吊り上げられたのだと理解した。
そこでハッとして私は必死に彼の腕を掴んだ。
「鈴木さんは!? 私の後輩は……!」
ヘリのエンジン音と羽音で声は届かなかったかもしれない。でも彼は意味を理解してくれたのかちょっと離れた場所を指さしてくれ、そっちに目を向けるとタオルにくるまって肩で息をする鈴木さんがいて私はホッと息を吐いた。
「良かった……。ごめんなさい、迷惑かけてしまって……私……」
聞こえないと分かっていても懸命に身体を起こして訴えると、一言二言唇を動かして泣きそうなほどに表情を歪めた嶋本さんが視界に映って――痛いほどに抱き寄せられて私は目を見開いた。
「ほんま、よう頑張ったな! 間に合うて良かった……、あと少しで一生後悔するとこやった……、ほんまにもう……」
言葉は聞き取れなかったけど、力一杯私を抱きしめてくれている腕が震えているような気がして、冷たく冷えた身体に嶋本さんの熱い息がかかって……私はようやく自分がいま生きているという実感が込み上げてきた。
視界が涙でぼやけて、私も必死に嶋本さんのウエットスーツにしがみつく。
申し訳なく思う気持ちも何もかも全てを越えて安堵したのは、嶋本さんの腕の中だったからかもしれない。
そのまま再び気を失ってしまったのだと気づいたのは――次に目覚めた病院のベッドの上でのことだった。
海水を大量に飲んだ以外は特に外傷もなにもなかった私は次の日には自宅へと戻れるまでに回復していた。幸いにも週末の出来事だったから、欠勤することなく明日からいつも通りの出勤。
けれども病院では鈴木さんのご両親にこちらが恐縮してしまうくらい頭を下げられ、両親は「助けてくれた方にお礼を……」なんて言い始めたものだから、まさか顔見知りの人なんだとも言えずに。
明日、嶋本さんに会ったら何て言おう?
本当に本当にほんっとうに当直の嶋本さんの隊には迷惑をかけてしまったし、全快した鈴木さんははつらつと「あの隊長とお知り合いなんですか? 私を助けてくれた隊員さんを紹介してくれるよう頼んでください!」なんて言ってたし……、喉元過ぎればなんとやらの状態になってしまった。
私たち以外の救命ボートで脱出した人たちは同僚も含めて巡視船に救助されたみたいで、結局船は沈没してしまったけど一人の死者も出なかったことは不幸中の幸いだったとメディアでも取り上げられていた。
でも、だけど、私は嶋本さんがいなかったらきっと今ここにはいない。
嶋本さんを知っていたから絶対トッキューが助けに来てくれるって気持ちを強く持てたし、諦めかけてた時もずっと嶋本さんの姿が浮かんでた。
だけど――、鈴木さんみたいに「助けてくれた人は運命の人!」なんて……、もしも初対面だったら思ってたかもしれないけど、そうポジティブに捉えるにはちょっと嶋本さんのことを知りすぎていて。感謝と申し訳なさと、改めて嶋本さんを凄い人だと遠くに感じてしまう気持ちが複雑に入り交じっていて、翌日の私は緊張気味にモノレール乗り場へと足を進めた。
するとそこには普段どおり嶋本さんがいて、緊張そのままに挨拶をすると嶋本さんはいつもより柔らかい笑みを向けてくれた。
「おはようさん。もうええんか?」
「はい、もうすっかり。本当に、伊豆は海難多いから気を付けろって言われてたのに……溺れたあげくに助けてまでもらって、なんて言ったらいいか」
頭を下げると、どこか嶋本さんが戸惑った気配が伝った。そして間髪入れず「なに言うてんねん!」と否定されてしまう。
「船が沈んだんはお前のせいやないやろ。それにレスキューは俺の仕事やし……ほんま、俺が当直んときで良かったっちゅーか……」
意味が分からずにキョトンとして顔をあげる。目線の先では嶋本さんが複雑そうな表情で僅かに視線を泳がせていた。
「伊豆で客船に浸水いう通報受けて、イヤな予感がしたんや。すぐに調べてもろて、巡視船の救助者からお前が船に残っとるらしいってヘリの中で聞いて……せやから俺は絶対お前を助けるつもりで行ったんや。俺の隊やなかったら、今ごろは……」
目を伏せて辛辣そうに眉を寄せる嶋本さんを見て、私は本当にこの人の手で生かされたんだと理解して――もうどう言ったらいいのか分からなくなってしまった。
私が海で溺れかけてる時、空から私を必死に捜してくれてた。――そう思うと本当にもう、胸がつかえて上手く言葉が出てこない。
……?」
「……声が、聞こえたんです」
「は……?」
「海で、ヘリに吊り上げられたあとも、周りの音なんて聞こえないはずなのに嶋本さんの声が聞こえて……生きてるんだなって思って……」
感情のままをたどたどしく伝えると、対して嶋本さんは面食らったように驚いた表情を晒して――心なしか焦りとともに少しだけ頬を紅潮させたように見え、決まり悪そうに捲し立てた。
「お前……俺が何言ってたか聞き取れたっちゅーんか!? あの状況で……どういう耳やねん!」
「え? い、いえ……そういう気がしただけで、実際はヘリの音しか覚えてないんですけど」
あまりに予想外の反応で慌てて否定すると、嶋本さんは一瞬言葉に詰まったあとに私から目線を外して大きな手で口元を押さえ、更に決まり悪そうにしかめっ面をした。そこで初めて、私はあの時ヘリの中で嶋本さんが何を言っていたのか気になって尋ねてみる。
「あの……なんて言ってたんですか? あの時」
するとピクッ、と嶋本さんの細い眉が反応して、少しの間を置いて嶋本さんはこう言った。
「……覚えてへん」
「え……、だって今――」
「だっても何も忘れたもんは忘れたんや! ちゅーことでこの話は終いや。誰も死なへんかったしお前も無事で万々歳! 終了! ええな!?」
そして凄い勢いで言い立てられて私はコクコクと頷くしかない。あの時ヘリで言われた事の他にもよくよく思い返すと、もっと色々な事が気になったけど――たぶん、これ以上訊いたら不味いのだろう。
頷いた私を見て嶋本さんも強く頷き、そこから嶋本さんは切り替えたようにいつも人好きする笑みを浮かべた。
「前に話した慰労会のことやけど、全快祝いも加えてフンパツしたるわ。食いたいモンは決まったか?」
言われて私は、あ、と声を漏らした。そう言えば先週そんな事を言われて舞い上がってたけど海難騒ぎでそれどころじゃなくて――むしろ、今の私としては慰労してもらうなんてとんでもないことで。
「い、いえあの……むしろ私がご馳走したいくらいで……」
小さい声で俯きがちに言うと「ほー」と嶋本さんは冗談めかした声で私に視線を流してきた。
「ええのか? 俺、お前の想像以上に食うし呑むで?」
恐縮気味な私に気を遣わせまいとしてなのか、それとも素なのか、嶋本さんの切り返しに私が一瞬"想像以上に食べて呑む"嶋本さんを想像して言葉に詰まったのを見て嶋本さんはケラケラと笑っていた。そうすると私の気もなんだか軽くなって、ふふ、と笑みを零すと嶋本さんが私の顔を覗き込むように微笑んでくれてドキッと私の胸が高鳴る。
するとパッと明るい地上にモノレールが顔を出して、ハッとした私は取りあえず前々から訊こう訊こうと思っていたことを思い切って口にした。
「あ、あの……、良さそうなお店とか色々、一緒に選んで決めたいから、その……メールアドレス教えてもらえませんか?」
「メール? あー、そういや教えてなかったな」
私の必死ぶりとは反対に嶋本さんは何ごともないようにして呟くと、ポケットから携帯を取り出してくれて私がパッと明るい顔をした瞬間。

「まもなく整備場ー、整備場ー。向かって左側のドアが開きます」

なんてお約束な――とがっくりくる私の前で嶋本さんはパタンと携帯を閉じ、更に追い打ちをかけるように言った。
「あ、そや。明日から俺の隊、数日がかりで訓練に出るんや。そのあと非番やし、次に会うのは来週やな」
ほなまた! と嶋本さんは手を振っていつもどおり颯爽とモノレールを降りてしまって。せめて今回お世話になった隊の皆さんによろしくお伝え下さいとか言えばよかったかな……なんて私は涙目になりつつ来週こそ携帯番号とメアド訊こう! と決意を新たにモノレールに揺られて職場に向かった。


「ねー、ちゃんてば神林隊員から例の隊長さんにシフトチェンジしたらしいね」
「よほどトッキューに縁があるんだろうな……」

その日の社内では私たちの生還を祝うより先にそんな噂が広まってしまっていて、やれ神林くんの恋人と私が修羅場を演じただの三角関係から四角関係だの嶋本さんまで巻き込んで凄いことになってて、いっそ面白い有り様だった。
裏腹に課長が恐ろしいほどに優しくて――、もしかしてこの世の全ては夢? なんて思って思わず頬を抓ってみた。もちろん、痛かった。
いたた、なんて呟きつつさっきの嶋本さんの言葉を浮かべてみる。

『お前……俺が何言ってたか聞き取れたっちゅーんか!?』

覚醒した頭はヘリの音しか認識させてくれなかったけど、でも、生死の狭間で聞こえた声――あれはきっと幻なんかじゃなくて、本物の嶋本さんの声だったんだよね、なんて思いつつ私はもう一度確かめるように頬を抓った。
もちろん痛くて、でも「うふふ」なんて変な笑みを浮かべていると――優しかった課長があっという間に鬼に戻ったのは言うまでもない。





シリーズ二話目の伏線、覚えてくれてた人はいるだろうか……。

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