届かない場所





対岸の火事。とまでは思わないけど、ニュースで取りざたされる事件や事故が身近にリアルに感じられることはきっと少ないと思う。
もちろん胸が痛むことも悲しくなることも沢山あるけど、リアル……ではない。遠ければ遠い場所であるほど、リアルとは遠ざかっていく。
でも、彼を知って――それは少しずつ変わっていった。
彼は、嶋本さんは通勤電車でよく会う人で。いつの間にか言葉を交わすようになって、なぜだか一緒に釣りに出かけて……以降、東京ドームや横浜スタジアムに何度か野球観戦に行くくらいには親しくなっていて、その現状を素直に嬉しく思っていたとある日の出来事だった。


「番組の途中ですが引き続きニュースを続けます。インドネシアでマグニチュード9.4の地震が発生しました。被災地の情報は詳しく入っていないものの今後も余震は続くとみられ、外務省は国際緊急救助隊――通称コッキンタイの召集をかけ、数時間後にも成田から現地へと飛ぶ見込みです」

夜中にテレビから流れてきたのは、遠くインドネシアで起きた地震の情報だった。
ここ数年、インドネシアは何度か大きな地震に見舞われている。そして、日本からも救援に行っているのも、知ってる。
でも――。
「地震の救援なら、陸上自衛隊とかだよ……ね……」
私はどこか現実逃避するように呟いた。
コッキンタイを召集――と聞いたときに真っ先に嶋本さんの姿が過ぎった自分を否定したくて。
嶋本さんは、海でのレスキューをする人だもん。だから、行かないよね? 明日はまた、モノレールで会えるよね……と考えてるうちに一睡も出来ないまま夜があけて、私はぼんやりとずっとニュースを見ていた。
ニュースの情報通りコッキンタイは早急に召集されたのか明け方頃には成田に向かったらしく、テレビカメラが映す成田空港には家族や見送りの人たちでごったがえしていてしきりに「頑張れー!」という声が飛んでいた。
そうしているうちにコッキンタイがカメラに映り、テロップには「警察、消防、外務省、保安庁などから約50名で結成」と描き出されて私の背がピクッと反応した。
海保もやっぱり行くんだ、と眉を寄せる間もなくコッキンタイの人たちがコンコースを歩いていき、やがて一際大きな旗を掲げる一団が現れ――私は思わず口元を覆った。
「か、神林……くん」
旗を掲げていたのは、いつか中華街で会った瞳の大きな男の人――嶋本さんの元教え子だった。
彼の姿を見た瞬間、どこかで諦めが生じたのかもしれない。
神林くんのあとを歩いていく小柄な男性の後ろ服に描かれた「JAPAN」の文字を見て――私は頭を抱えて項垂れた。

『俺は死にに行くんやない、生かすために行くんや』

せやから安心しい、といつか笑っていた嶋本さんの笑顔が脳裏に浮かんで――泣きそうになる自分を必死に叱咤した。


「なんか今日のちゃん暗くない? 朝からテンション低いんだけど」
「課長に叱られたんじゃねーの?」

怪訝がる同僚の声に応える元気はどうあっても沸いてこなかった。
今朝のモノレールでどれだけ嶋本さんの姿を探しても見つかるわけもなく、でも、ただの「知り合い」に過ぎない私が過剰な心配をしてしまうのも気が引けて、いつもの日常を必死にこなそうとひたすら努めた。
今までもトッキューの出動をニュースで聞くたび、やっぱり不安になってたけど……それは日本のどこかだという安心感があって。でも、今回はインドネシア。しかもこうして仕事をしてる今現在も余震で多くの死傷者が出ているような場所。
本当に私にできることは何もないんだな――、っていやでも思い知らされる。


「発生から72時間以上が経ちました。これまで日本の緊急援助隊が救出した人数は16名。遺体収容は162名。この数はどの国のレスキューチームよりも上回っています」

観たくないけど、気づいたらテレビを見やって嶋本さんの姿を探していた。
ガレキの山だ……ジャカルタは。かつての日本での大規模震災を思わせるような、ううん、それ以上に凄惨な光景がモニターには移っていて。
でも、手を伸ばしても届かない。

、どうした?」

コッキンタイ派遣から三日ほど経った頃――同僚も軽口を叩けないほどに私は窶れていたらしい。
休憩室で休息を取っていると、いつもは鬼のような課長が心配そうな声で話しかけてきて私は小さく首をふるった。
「具合が悪いのなら早退許可を出すぞ」
手が折れても仕事しろ、なんて叫ぶ課長がそんなことを言ってきて……私は空っぽになっていたコーヒーの紙コップを思わず握りしめてしまう。
そうして必死に笑みを作る。
「大丈夫です。ただ……知り合いがコッキンタイとしてジャカルタに行ってて、心配で」
私は日本でいつもの日常で。嶋本さんは厳しい状況の中いまも必死にレスキューをしてるはずで……何一つ辛くない私よりも嶋本さんのほうが何倍も大変なんだから、だから……。でも、不安でたまらない。
課長は私の話を聞いてかける言葉につまったのか、小さく「そうか」と呟いた。
その時、ふと休憩室のテレビが急にニュース番組に切り替わった。

「今、ニュースが入ってきました。ジャカルタで新たな余震が発生――」

思わず課長も私も引き寄せられるようにしてテレビを見やる。
するとそこには、確かに見覚えのある人の顔写真がアップで写されていた。

「日本から派遣された国際緊急援助隊一名が津波にさらわれ行方不明となっており現在捜索中です。行方不明となっているのは海上保安庁特殊救難隊の――神林兵悟隊員」

カタ、と私は気づいたときには紙コップを床に落としていた。
……?」
血の気が引く、というのはこういう時に使うものなのかもしれない。私は思わず口元を覆っていた。震えていたかもしれない。
でも、きっと倒れはしなかった。
大丈夫だって言っても課長に強制的に定時あがりにされて、私はわけも分からないまま自宅マンションに戻って――ずっとテレビを付けていた。
テレビの向こうの光景。これは現実に起こったことなの?
だって、現実味がない……。神林くんが亡くなったかもしれないなんて、どう受け止めていいのか分からない。


――どこや、神林……!? くそっ、ここも、どこもガレキの山や。

嶋本さん……?
崩壊した建物に津波が連れてきた海の藻屑が紛れて、ぐちゃぐちゃだ。ああ、ガレキの下敷きになった人が倒れて……ジャカルタは本当に酷い状況なのね。

――トッキューから死人を出すわけにはいかんのや。俺の教え子がそない簡単にくたばってどうすんのや!? 生きとるんやろ、なあ……!

嶋本さん、泣いてるの……?
頬に幾重にも赤いあとが見える。怪我してるのね、嶋本さん……、お願い、無理はしないで。

――ッ余震や! ここから離れろッ!、みんな逃げるんやー!!


「嶋本さんッ――!」
建物の残骸が嶋本さんに降り注いで――絶叫をあげた私が見たのは見慣れた自宅の天井だった。
テレビが付けっぱなしになってる。いつの間にか眠ってたみたい。
私はさっきの光景が夢であったことに安堵して、そうして未だ分からない現地の様子を思い浮かべるだけで恐ろしくて頭を押さえて眉を寄せた。
リモコンを手にとってチャンネルを適当に回す。神林くんの消息はまだ分かってないみたい。
「……ッ」
重い身体を叱咤して、私はいつも通り出勤の準備を進めた。
けれど、やっぱり通勤のモノレールに嶋本さんは乗ってるはずもなくて――、流れる風景からマスコミが押し掛けてごった返してるトッキューの基地を眉を寄せて見つめ、小さく首をふるった。
もう大分前、嶋本さんの名前も知らなかった頃は、ただ単純に「いつもシャキッとしてて凄いな」くらいにしか思ってなかった。
あの玄界灘の海難で嶋本さんがトッキューの人だって知ったときも単純に「凄い人なんだ」って漠然と感じてた。
でも、少しずつ言葉を交わすようになって、嶋本さんのこと前よりも知って「凄い」が「怖い」に変わってしまった。
命がけの仕事をしてる嶋本さんを尊敬してるけど、やっぱり怖い。
今も怖くてたまらない――。

――ッ!」

出来る限り心を無にしてミスしないよう努めて仕事を進めていると、不意に休憩をとっていたはずの課長から明るいトーンで話しかけられて、私は自身のデスクから振り返る。
「はい」
「たった今、発見されたぞ。あの行方不明だったトッキューの人!」
「……え?」
課長の言葉はあまりに突拍子もなくて、すぐに受け止められないでいると課長はさらにこう続けた。
「コッキンタイは予定通り明後日帰国だそうだ。まだ気は抜けないとはいえ、良かったなあ!」
いつも鬼みたいな課長が笑って背中を叩いてくれ、そこでようやく私は胸が熱くなるのを感じた。
「……無事、なんですね。神林くん……よかった……」
私の知らない遠いところで、今、何が起こっているのか見当すらつかない。でも、神林くんが無事だったと聞いて――真っ先に私の脳裏には泣きそうなほどに破顔する嶋本さんの姿が過ぎった。遠くインドネシアの空の下で、きっと神林くんの無事を喜んでいるんだろうなと思うと少しだけ胸が軽くなってフッと息を吐く。
そうしていると今度は課長に肩を痛いほどに掴まれてこう言われた。
「ということで、余計なことに気ぃ回さんで仕事するんだぞ……!」
さっきまでの課長はまるで幻だったかのごとく鬼に戻った課長を見て、私は少しだけ苦笑いを漏らした。
明後日には嶋本さんが帰ってくる――、今はただ無事に帰国してくれることを祈るくらいしかできない。こんなこと、思っていい立場じゃないのは分かってるけど……はやく嶋本さんに会いたい。
会って、いつもの笑顔を見せて欲しい、と祈っているうちに二日が過ぎ……国内はにわかに奇跡の生還を果たした神林くんがお茶の間を騒がせる事態になっていた。
どうやら神林くんには結婚間近の恋人がいたらしく、「婚約者の愛の力で生還か!」なんて大げさに煽られちゃったりして……社内ですっかり「行方不明だった神林隊員と知り合いらしい」と噂の流れていた私はこのニュースを受けて「神林隊員に失恋した可哀想な女」に様変わりしていた。
誤解だから、と説明しても暖簾に腕押しで……しばらく好きに言わせておこうと思う。
成田にコッキンタイが着いたニュースは観たしもう日本に嶋本さんは戻ってきてるはずなんだけど、帰国早々の出勤はなかったのか帰国翌日には会えず終いだった。
神林くんの元気な姿はニュースで観たし、インタビューされてるトッキューの人達も観たから嶋本さんが帰ってきてるのは知ってるんだけど。でも、やっぱりちゃんと会わないと実感できない。
ひょっとしてまだ帰ってきてないんじゃ、なんて有り得ないことなのに不安になってしまって、私は翌日も焦燥で鼓動を速めながらモノレールに向かった。
そうして乗り込んだ車内で顔をあげると、まるで何ごともなかったように小柄な男性が窓際から振り返って――ひときわ眩しい笑みをくれた。
「おはようさん。久しぶりやなー、
少しの間、聞けなかっただけなのに途方もなく懐かしい声。目を細めて笑う人好きする表情は何も変わってなくて、私はとっさに声を出すことができなかった。
「……し、嶋本……さん」
「なんや、ちょっと痩せたっちゅーか、窶れたんちゃう?」
嶋本さんだ。嶋本さんがここにいるんだ。すぐ手を伸ばせば届くほどの場所にいる、と思うともう自分でも自分の中から込み上げてくる熱を制御するのは不可能だった。
……!?」
ギョッとしたような嶋本さんの声が聞こえたけど、どうにもできない。
「良かっ……た……良かったです。無事で、私……ッ」
「ま、待てッ、こら、泣くんやないて……!」
辺りをキョロキョロ見渡して嶋本さんが焦っている様子は伝ってきたけどどうしようもなくて必死で唇を噛みしめていると、嶋本さんから見かねたようにして手を引かれる気配がした。
「ほら、取りあえず降りるで」
きっと整備場に着いてしまったんだと思う。嶋本さんに促されるままにモノレールを降りて、私たちは改札へ向かう人たちに逆らってホームの端に身を寄せた。
後追いのモノレールを一本見送った辺りでようやく私は落ち着いて、コンコースからやけに眩しい海老取川の水面を眺め――嶋本さんもジッとそれに付き合ってくれた。
落ち着くと、気持ちが高ぶりすぎて制御できなくなった自分が恥ずかしくてなかなか口を開けない。でも、昨日までの不安な気持ちを思い出せば、すぐそばに嶋本さんがいることがどうしようもないほど嬉しくて、そんなことを考えてたらまた胸が熱くなってきて私は思いきって口を開く。
「か、神林くんが無事で……本当に良かったです。皆さん無事に戻ってこられて……」
「――せやな。俺もほんま生きた心地せんかったで、目の前で神林が津波に呑み込まれてしもうた時は」
「私は……いつもの平穏な場所で嶋本さんや神林くんたちの無事を祈るしかできなくて、現地で嶋本さんたちは想像もできないくらい大変な思いをしてるんだと思うと……どうしたらいいか分からなくて」
どうしていつもなにが言いたいのかはっきりまとめられないんだろう? なにが言いたいのか自分でもさっぱり分からない自分がいっそ恨めしい。
こんな状態で真っ直ぐ嶋本さんを見るのはとても無理で目線を下げていると、少しの沈黙のあとにふと嶋本さんが遠くに目線をやる気配がした。
「コッキンタイとして海外派遣されるんは初めてやなかったけど、毎回……ほんま俺らじゃどうしようもない事もあるんやなーて思い知らされることばっかりや。目の前で助けられん人ぎょーさん死なせて……帰る頃には死臭が身体中に染みついてな。さすがの俺でもキッツイわーて、こればっかは慣れへん」
ゾク、と背中に悪寒が走った。いつも底抜けに明るい嶋本さんの声は聞いたこともないくらい真面目で重くて、ふと顔を上げたら精悍な表情を浮かべる嶋本さんの横顔があって――、あの瞳の先でどれだけ辛く大変な思いをしてきたんだろう、と胸が痛いほどに絞られる思いがした。
顔に数カ所残ってる真新しい傷がまた現地の惨状を思い起こさせて、やっぱり、私なんかが軽々しく「心配だった」なんて言うべきじゃなかったんだ……って後悔してると、「せやけど」と嶋本さんはさっきの表情とは打って変わって明るい表情で私を見た。
に会うて、帰ってきたんやなーて思たで?」
「え……?」
「平穏な場所でええやん、別にお前に俺たちと同じ思いして欲しいとか思わへんし。いつも通りいてくれたらそれでええ」
胸がいっぱいでもうなにも考えられなかった。
嶋本さんがここにいる。――そのことがただ嬉しくて、どうしようもなく苦しくて、もう全てがぐちゃぐちゃで私はきっと「はい」と返事をするのが精一杯の状態で、唯一分かったのはまた嶋本さんが慌てふためく気配。
「ア、アホッ、せやから泣くんやないて……!」
子供みたいに頭を撫でられて宥められて、自分でもどうしようもなくみっともなかったけど。
きっと、私はこれからも嶋本さんの身を案じてこうして迷惑なほどに勝手に心配してしまうんだろうけど。
「はー……もう、そんなこっちゃレスキューマンとは関わっていかれへんで? ほんまなあ、俺も毎回人ごとのように思うんやけどな、レスキューバカを知り合いに持つんは覚悟がいるもんや」
「……か、神林くんの……ことですか?」
「ん、それもある。あんなアホを部下に持っていっそ自分がかわいそうや思うこともあるんやけど……俺はあそこまでアホやないし、死ぬような無茶はせえへんから安心しいて」
だけど、そんな風に言ってくれる嶋本さんを見てたら……いつも通りでいることが一番なのかな、なんて思えてきて少しだけホッと息を吐いた。
いつも通りでいることがどれほど難しいか嶋本さんがジャカルタに行ってしまって改めて思い知ったけど――こうやって「絶対生きて帰る」と自信を持って笑う嶋本さんを私も笑って信じたい。
「――はい」
頷くと、「よっしゃ!」と嶋本さんが軽快に笑い、天空橋の方向から数回ほど見送ったモノレールが地下から地上に顔を出したのが見えた。
「もう行けるか?」
「はい、大丈夫です。……済みません、出勤前にとんだご迷惑を……」
改めて嶋本さんの手を煩わせてしまったことを謝ると、「ええて」と嶋本さんはいつもの笑みで言ってくれて、私はもう一度頭を下げてからモノレールの乗車ドアへと向かう。
「ほな、また明日な」
嶋本さんは私がモノレールに乗る直前にそう笑って手を振って――、全然特別な言葉でも何でもないのに、明日があることがとてつもなく特別に思えてまた泣きそうになる自分を叱咤して「はい!」と返事をした。


ちゃんの目、赤くない?」
「ほら、あの神林隊員に失恋したらしいし……ねえ」

この日は一日中そんな噂話を耳にして気恥ずかしい思いをすることになったけど……。全然気にならないくらい、私は幸せだった。





続く、と思います……。

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