タイムリミットは60秒 |
海上保安庁、特殊救難隊――、通称・トッキュー。 六隊各六人の三十六名から成るこの隊は、国家試験にパスした潜水士の中から特に優秀な者を選抜した海難救助のスペシャリストである。 と、「トッキュー」のことを調べつつ私は「へぇ」と感嘆の息を吐いた。 海上保安庁のことも潜水士のこともよく分からないけど、全国で三十六人しかメンバーになれないトッキューの、更に隊長なんて……やっぱり、もの凄い人なんだろうな。 でも、凄い人だと思うけど、活字が伝えてくる凄い経歴を頭で実感することはできなくて。 私の中で彼――嶋本さんは「電車で会うシャキっとした人」から「いつも元気で表情豊かな面白い人」に変わっていた。 「おはようございます」 「おう、おはようさん」 いつも通りの時間、いつものモノレールに乗って嶋本さんの姿を見つけるとこうして挨拶をするのが当たり前のことになっている。 嶋本さんは当直だったり、訓練だったり、車だったりしてけっこう不規則な生活だから毎日一緒になるとは限らなくて――こうして会えた日は一日嬉しい気分が持続する私はけっこう単純だと思う。 でも、だけど、天空橋から嶋本さんの降りる整備場までの時間は約一分。会えて嬉しい、なんて気分に浸っていたらあっという間にお別れが来てしまう。 「き、昨日、伊豆の方で船舶の座礁事件があったってニュース観ました。トッキューも出たって言ってましたけど……」 「ああ、あれな。俺の三隊は昨日準待機で出動したのは五隊やったんや。あの辺海難多うてなー、もし行くことがあったら要注意やで」 「はい」 こんな当たり障りのない会話を数回続けてるとあっという間に一分過ぎてしまう。何か気の利いた台詞――と必死に思案していると嶋本さんは緩く腕組みしたまま窓の外に目をやって、ふ、と目を細めた。 「ええ天気やなー。今日の海は穏やかそうや、なんやめっちゃキラキラしとるで」 その柔らかい横顔に心臓が破れるくらいに跳ねたのを自覚して焦りまくった私は慌てて嶋本さんから目線を窓の外へと移す。すると流れる風景の中で確かによく晴れた海老取川はいつもよりハッキリと映っているようで――、毎日当たり前のように目にしている風景なのに、よっぽど海が好きなんだろうな、と思った。 海が穏やかだときっと海難が発生する確率も低いということで、嶋本さんが出動しなくて済むのならきっとその方がいい。 「そや」 嶋本さんだってきっとそう思ってるんだろうな、なんて思ってると急に嶋本さんが私の方を見て私は「は、はい!」と条件反射で返事をしてしまった。 なんでこう挙動不審なんだろう。もっと自然に話したいのに――と落ち込んでいると嶋本さんは気にした様子もなくいつもの調子で続ける。 「あんた、海釣りって行ったことあるか?」 「え? 海釣り……ですか? いえ……」 首を捻ると嶋本さんは「ほうか」と頷いてパッと明るく笑った。 「以前な、救助したオッサンに――」 でも、そこでタイムアップ。嶋本さんの話に耳を傾けた瞬間に非情にもモノレールは車内アナウンスと同時に整備場駅に着いてしまって。 空気読んでよ〜〜、なんて不満を覚えたところで意味はなく、当然そこで会話は途切れて私は一瞬迷った。 あと何秒くらい残ってる? 今の続き、なんて言おうとしたんだろう? なんて考えているうちにあっという間にモノレールは停車して嶋本さんはいつも通り「ほな!」と手をかかげて颯爽と降りていってしまった。 「あ……!」 こうして聞きたかった会話が途切れるのは一度や二度の経験じゃない。 "全く見ず知らずの他人"から"通勤電車で挨拶する人"になれたと言っても、ただそれだけ。私が彼について知っていることは"嶋本"さんという名字と、"トッキューの三隊隊長"という肩書きだけ。そして、きっと多分私の方が年下だということ。 60秒の時間の中じゃ改めて名前を聞いたりしている間もなくて、そもそも嶋本さんにとってのは私は本当に通勤電車で会う人間以外の何者でもなくて。 でも、60秒という時間を何度も何度も何度も積み重ねているうちに、私は確実にもっと嶋本さんのことが知りたくなってしまっている。 いつも真面目そうに背筋を伸ばしている所も、玄界灘の海難事件で見た目を見張るような勇気も、私を片手一本で軽々と持ち上げてしまえるような力も、あの人好きする笑みも。一つ一つに惹きつけられて――もっと、嶋本さんのことを知りたい。 なんて未練がましく保安庁の施設を流れるモノレールの窓から見下ろして私はため息を零した。 忙しくて厳しい日々を送る嶋本さんにとっては、私はきっとのんきな一般市民なんだろうなーって卑屈なことを考えそうになる自分がイヤ。 よし、次に会えたら一番に今日の話の続きを聞こう! と気合いを入れ直した私は誓いどおり次の日の朝は天空橋に着くまでブツブツと最初に言うべき言葉を復唱し、「よし!」と握りこぶしをしてモノレール乗り場へと急いだ。 この気合いが空回りで会えなかったらどうしよう、というのは嬉しいことに杞憂に終わっていつもの車両で嶋本さんの姿を見つけた私はカツカツとヒールを鳴らして突進する。 「おはようございます嶋本さん!」 「お、おう」 しまった、気合い入れすぎたせいで逆に引かれたかも。少なくとも彼は不意打ちを受けたような驚いた表情をしていて私はちょっとだけ後悔したけど、今さらこの勢いを止めることなんてできるはずもない。 「あ、あの……、昨日の話、続きはなんなんですか?」 「は? 昨日の話て……俺なんか言うたか?」 怪訝な顔をされて、嶋本さんにとっては全然重要でもなんでもない「今日は天気いいですね」くらいの話だったんだと落ち込んじゃったけど、もう後には引けない。 「えっと、その……以前救助した方と海釣りがどうとかって……」 でもさすがに意気消沈してきて語尾が弱くなっていると、ああ、と嶋本さんは思い出したように息を吐いた。 「なんや、必死な形相で昨日の話ー言うから俺なんか不味いことでも言ったんかと心配になったわ」 「……すみません」 恥ずかしくなってきて俯いていると、嶋本さんは「ええて」と笑いつつこんなことを言った。 「非番の日にな、たまに海釣り行くんやけど……これがまためっちゃ穴場のスポットを救助したオッサンに教えてもろてな。昨日は波も穏やかやったし久々に釣り行きたいわーて思ったっちゅー話やったんや」 なんのとりとめもない話やろ? と言われつつも、私は内心「そんなことはない」と思った。 嶋本さん釣りが好きなんだ、とか、救助した人とそんな交流があるんだ、ってまた一つ嶋本さんのことを知れて嬉しくなっていると「あ」と嶋本さんは思いついたような声をあげた。 「そや、次の非番土曜やったんや。あんた会社休みやろ?」 「え、はい」 「一緒に行くか? 海釣り」 「――え、ええッ!?」 「なかなか朝早よう起きて俺に付き合うっちゅー気概溢れたヤツがおらんでなー。昨日の話覚えてたくらいや、釣りに興味あるんやろ?」 え、いや、違。――いや、ないこともないけど。 で、でも……この嶋本さんの勘違いに乗らない手は絶対にない。 なんて考えているうちにあっと言う間に整備場が見えてきて、私は勢い任せに言った。 「行きます!」 「よっしゃ、決まりやな。あんたんちの最寄駅はどこや?」 「あ、えっと……大鳥居です」 「ほーか。なら大鳥居に迎えに行くわ。土曜の朝四時半、時間厳守やで!」 「よッ……!?」 四時半!? と声をあげる前にモノレールのドアが開いて嶋本さんは良い笑顔を残したままいつものように颯爽と去っていってしまった。 時間厳守、と言ったときの笑顔に鬼教官らしき嶋本さんの素を垣間見たのは気のせい? で、でも、でも……これってデート!? って思ったらものすごい早起きなんて全然苦にも思えず私は車内にも関わらず「うふふふ」と変な笑みが漏れそうになるのを抑えるのに随分と苦労した。 「ねえ、ちゃんが超笑顔で仕事こなしてるんだけど」 「さすがに課長も気味悪がって今日一度も小言飛んでないんだよな」 だって初デートなんだもん。 とはさすがに言わなかったけど、少しでも仕事進めて金曜はできるだけ早く帰って早めに寝るんだ! と考えているとあっと言う間に週末が来て私はいつもより数時間早くベッドへと入った。 女は出かける五分前に起床というわけにはいかない。四時半に駅前ということは最低でも三時過ぎには起きないと――なんて思いつつも興奮で寝付けず、結局眠れたのは何時ごろだったんだろう? 目覚ましで飛び起きた私は入念に日焼け止めやらメイクをしつつ、場所が場所だけにオシャレな格好は避けたほうが無難だと思いつつ「でも、私服初めてだし」なんて既に決めていたはずの洋服選びに無駄に時間がかかって家を出たのは四時十五分くらい。 そういえば「駅に迎えに行く」とは言っていたけど、西口か東口か決めてなかったような気がする。大鳥居にはロータリーなんてないし……そもそも嶋本さんの携帯番号も知らないから連絡だってとれないし。 無事に会えるのかなーなんて不安になりつつも取り合えず西口の方に行くと、既に車が止まっていて私の姿を見つけたのか助手席の窓が開いてよく見知った顔が手を振ってきた。 「こっちや!」 瞬間――これ以上ないほど心臓が音を立てて、私は振り切るように小走りで車のほうへと急ぐ。 「お、おはようございます! 良かった……西と東どっちにするか決めてなくて不安で――」 「前に京急の天空橋で会うた時、あんた真ん中より後ろ寄りの車両に乗っとったやろ? 乗り換えを睨んだにしても中途半端な車両やし……ほんなら出口寄りの場所に乗った思てん。正解やったようやな」 つまり嶋本さんは一か八かではなく、ちゃんと推察して西口に来てくれたわけで。はー、さすがトッキューの隊長なんだなーなんて感心してると「はよ乗り」と催促されてハッとした私はいそいそと助手席の扉をあけた。 「失礼します」 やっぱりまだ緊張気味に助手席に乗ってシートベルトを締めていると、いきなり眠気や緊張なんて一瞬で飛んでしまうような怒声が隣から響く。 「なに寝ぼけとんねん大羽! ちゃんと挨拶せえ!」 「はッ、はいいいい軍曹、ただいま!」 ビクッ、と身体を硬直させた私は後部座席から響いた声にもっと驚いてしまった。 だって、後ろに人が乗ってることに今の今まで気づいていなかったから。 恐る恐る後ろを振り返ってみると、嶋本さんの声に条件反射で反応したものの眠そうに目をこする男性がいて――、私はデートだと勝手に勘違いしていた自分が恥ずかしくなって頬が熱を持ってくるのを感じた。ちょっとだけ涙目になってしまったかもしれない。 「は、はじめまして。おはようございます」 でも取り合えず挨拶すると、私に先に挨拶されてしまって不味いと思ったのか後部座席にいた男性は再び身体を緊張させて緊張気味に頭をさげてくれた。 「お、大羽廣隆です。よろしくお願いします!」 「あ、です。よろしくおねがいします」 嶋本さんよりも大分大柄だけど、すらっとした印象の人だ。改めて挨拶をしていると「おおー」と隣からハンドルを握る嶋本さんの意外そうな声がした。 「そういやあんたの名前、今初めて知ったわー。ちゃん言うんや」 ケラケラと笑う嶋本さんはいたって楽しそうで、でも今さらな事実にすごく落ち込んでしまう。 そう、嶋本さんは本当に私のことなんて「通勤電車で会う女」ということ以外知らないのだ。大羽さんは明らかに狼狽して「え、名前も知らない人となぜ釣りに?」と言いたげな表情でハラハラしている。 でも、これが現実なんだから――、ならいっそこれをチャンスに訊いてしまえ、と私は思いきってこう口にした。 「し、嶋本さんはなんていうんですか? お名前」 「俺か? 進次や、嶋本進次」 そんなアッサリ……と、名前を訊くのにこれほど心労した自分がいっそバカバカしくなるくらいサラッと答えられて私は拍子抜けしてしまう。 でも、そっか「進次さん」か……と心の中で復唱して嬉しくなっていると、ハンドルを切りながら嶋本さんは笑う。 「至って普通の名前やからなー。石井みたいに羅針盤の盤と書いてメグルやーなんて会う人会う人に主張せんでいい分楽やで」 「あ……ああ、メグルくん。確か前髪メッシュな方ですよね」 「そや。二十歳すぎてどこのアニメキャラの影響やっちゅーに」 メグルくんを思い出してか嶋本さんがうんざりしたような表情をしていると、後ろから弱々しい声が割って入った。 「ア、アニメはともかく……ジブリは良いもんですけぇ……」 大羽さんだ。とりあえず会話を広げるためにも私は話を合わせてみる。 「ジ、ジブリですか……。あ、私も小さい頃に家族と魔女の宅急便とか観に行きましたよ」 「そ、そうっすか! 魔女宅は今ワシもハマっとります。良いっすよねー、ジジがほんまかわええですし! あ、敬語とかいいですけぇ」 私と歳は変わらなく見えると思うんだけど、もしかして年下なのかな? なら「くん」付けでもいいかな、と思いつつ大羽くんは余程ジブリがお気に入りなのか声が弾んだのが後ろから伝ってきて私は合わせるように笑みを浮かべながら、彼は広島なまり? とかそんなことを考えていた。 メグルくんといい、大羽くんといい、神林くんだって佐世保にいたって言うし、嶋本さんも関西なまりみたいだし、トッキューって随分と色んな所から集まってるんだなーなんて感心してるうちにベイブリッジが見えてきて、湾岸に嶋本さんは車を止めた。 横浜に来るの久々だなぁなんて思ってると、さっそく荷物を降ろせだのと大羽くんは嶋本さんにせっつかれてて、ちょっとだけ大羽くんに同情してしまった。休日まで上司にこき使われるなんて……って思ってある疑問が沸く。 「大羽くんも嶋本さんの教え子なんですか?」 「そや。去年の新人の中では使えるヤツでなー。今年は直々に指名して俺の隊に入れてやったんや。なあ、大羽?」 訊いてみると嶋本さんは笑いながらそんな風に言って、でも露骨にビクッと大羽くんは背を震わせて。あ、不本意な人事だったんだなって理解する前に大羽くんはもう一度嶋本さんに念を押されて涙目で頷いていた。 さっき彼は嶋本さんのことを「軍曹」って呼んでたし、嶋本さんってそんなに怖い人なのかな? ……私には神林くん達をとても可愛がってるように思えたんだけど。 辺りはまだ薄暗い。歩きながら何気なく東の方を見てみるとうっすらと光が差していて――私は思わず感嘆の息を漏らした。 「日の出だ……わあ……」 水平線の彼方から顔を出す太陽。海で日の出の瞬間に立ち会うことなんて滅多にないから、一秒一秒確実にオレンジ色に染まっていく空に感動してこの光景だけでも「早起きしてよかった」なんて単純に思っていると側に立っていた大羽くんも太陽の方を見つめて余程感動したのか荷物を持つ腕を震わせていた。 「こげな風景見たら、確かにプロポーズの一つもしたくなる気ぃしますよね!」 「え……?」 いきなり何を言い始めるんだろう、と疑問に思う間もなく大羽くんは太陽に向かって「しずくー! 大好きだー!」なんて叫んでいて、彼女の事でも思い出したのかなって見守ってたらさすがの嶋本さんも今回ばかりはどつくんじゃなくため息を漏らしていた。 「感動興ざめや、アホ」 今の台詞は大羽くん曰く、大羽くんの一番お気に入りらしい「耳をすませば」という映画の有名な台詞らしい。呆れたように呟いて岩場の方に行ってしまった嶋本さんを気にしつつ、大羽くんの荷物を少し分けてもらって手伝っていると嶋本さんが私の方に振り返った。 「ー!」 「あ、はい!」 初めて名前を呼ばれた、なんて感動の間もなく全力で返事をしてしまったのは大羽くんのビビリっぷりを見ちゃったせい? 「やり方、分かるか?」 「え、と。……わ、分かんないです」 訊かれて私は素直に首を横に振るった。釣りのやり方なんて分かるはずがない。一度か二度、釣り堀で遊んだ程度しか経験がないんだもん。 私が嶋本さんの生徒だったら怒鳴られてしごかれるのかな、なんて考える前に嶋本さんは「そっか」と予想してたように言うと慣れた手つきで餌を作って竿に取り付け、スプーンみたいなものでボックスに詰めてあった餌を掬うと海面に向かってひょいとばらまいた。 「よう見とくんやで」 そうして釣り竿を持って言うと釣り竿を背負うようにして後ろに引きつけ――、一気に嶋本さんは重りのついた釣り糸を海面に向かって投げ出した。 綺麗に遠くへ飛んだ釣り糸を見て息を漏らしつつ感心していると「やってみぃ」と促されて緊張しつつ私も嶋本さんの用意してくれた釣り竿を手に取る。 えっと、確か後ろに引きつけて一気に……とさっきの嶋本さんのフォームを思い出しつつ、えい! と放り投げて見ると思い切り目の前に落ちてきて――。 「ん、見事な失敗やな」 声にならない声で恥ずかしさを胸に込み上げさせているとそんな風に言われて、今度こそはと奮起しつつ再チャレンジしてみる。 「もっと左手引きつけて、右は押し出すようにやるんや」 「はい!」 数回やっても上手くいかない私を見かねてか嶋本さんはアドバイスしてくれて、慎重に左手を引きつけつつ精神統一をはかって一度深呼吸。なるべく遠くを見やりながら「えい!」と心で掛け声をかけると今度は海面に向かって飛んで――「やった!」と思わず弾んだ声をあげてしまった。 「おー、なかなか上手いで」 嶋本さんのほうを見やると、彼はそう言って笑ってくれて。笑顔に朝日がかかって眩しくて――、ホントによく笑う人だな、なんて思った頬が熱い。 大羽くんたちにはきっともっと厳しくしてたんだろうけど、上手くできたらこんな風に笑って誉めてたのかな、って考えてふと大羽くんは? と周囲に視線を送ると大羽くんは運んできた荷物を整理しつつこっちに近付いてきた。 「ワシ、ビールかなんか買ってきますけぇ」 「おー、気が利くな大羽。頼んだで」 余程嶋本さんと一緒にいるのがイヤだったのか、それとも何か気を遣って……と考えて、大羽くんがいなければ二人きりだという事実に改めて気づいて私は息を詰めた。 だって、嶋本さんとはけっこうな頻度で顔を合わせているとはいっても、長くてもせいぜい一日60秒しか喋ったことがない。 改めて何を話せばいいんだろう? 釣りの話題? でも、積極的に釣りの話なんてふれないし……どうしよう。 「ほんま、レスキューから離れて海見るってのはええもんや」 迷っていると嶋本さんがそんなことを呟いて、私は迷いつつもその言葉を拾ってみる。 「すごく、海が好きなんですね。お仕事でもずっと海と関わってるのに休日まで海なんて……、海が好きだからトッキューに入ろうと思ったんですか?」 「いや、ちゃうで。海が好きとか、まして人命救助やりたいとかそんな崇高な目的はようもっとらんかったなー……昔は」 すると帰ってきた答えはすごく意外で、ぽかんとしていると嶋本さんはどこか懐かしむようにまた笑った。 「潜水士なんちゅーキッツイもんには死んでもなりたない思とったのに、今トッキューの隊長なんやから人生わからんもんやな」 「……訊いてもいいですか? どうして潜水士になったのか」 「ええけど、笑う思うで? 保大入る前は体力持てあましててな……"海上保安大学校"とか厳つい看板掲げた場所なら力試しできる思てん。それでも俺がトップやーちゅー自信あったんやけど、どうしても勝てへん人がおってな。んでその人をいつか負かしたろ思っとるうちにいつの間にか潜水士になっとったんや」 アホみたいやろ? と嶋本さんは笑う。 「トッキューの隊長になっても、まだあの思いが忘れられんでな。その人とはもう立場同等やっちゅーのに、ちっとも追いついた気がせえへんし今でもまだ"いつか負かしたろ"思てるしな」 きっと対抗意識だけでできるほど甘い仕事ではないだろうし、今の嶋本さんは海が好きで、潜水士の仕事も好きなんだと思う。でもキッカケは今言ったような対抗意識だったんだろう。意外なようで予想通りなような不思議な感じがして、私は少しだけ笑みを零した。 「男の人は好きですよね、そういう勝ち負けに拘るの」 「ああ、そんなことよう言われたわ。けど、しゃーないやん、男なんやし」 すると肩を竦めてそんな風に言われて、ドキッと心臓が複雑な音を立てた。よく言われた、というのは彼女にかな、とか、男だ、なんて改めて言われると改めて意識してしまうようで。 取りあえず笑って誤魔化してみる。 「羨ましいと思います。私も子供のころは男の子に負けたくないとか思ってたりもしましたけど……、今は誰かに負けたくないなんて熱い気持ち持てなくて」 すると嶋本さんはキョトンとしたあとに、思い切り破顔一笑してこう言った。 「それでええんやて。女まで一緒になってバカやっとったら地球回らへんわ。アホな男見て、またアホやっとるでーって笑ってるくらいがちょうどええ」 本当に、泣きそうになるくらい気持ちいい笑顔をする人だな、って――朝日が目に染みて本当に泣きそうになってたらピクッと手首に重い感触。 「ッ、引いとる!」 「え、あッ……!」 急な事態にとっさにどうすればいいのか分からずパニックになりながらも、取りあえず巻かなきゃ! と必死で手元を引き寄せて竿をグンと引っ張ると、ピチョン、とやけに可愛らしい魚が目の前で跳ねた。 「あ……」 全長10センチくらいの小さな魚だ。ど、どうしよう……釣れたことは釣れたけど、小さい。 「あー、そらリリースやな」 「え……?」 「あんまちっさい魚は海に戻してやったほうがいいんや」 どうしても食いたい言うんなら別やけど、と冗談めかす嶋本さんの声に納得しつつ、私はぎこちない手つきで針を引き寄せて小魚を解放する。このくらいは釣り堀でやったことあるし、うん、大丈夫。と思いつつも緊張気味に魚を海へと戻すと、隣で嶋本さんは感慨深げな息を吐いた。 「あの魚……そのうち大きゅうなったらまた誰かに釣られるんやろか」 「……そう思うと、ちょっと可哀想ですね」 「まあ、その辺は言いっこナシやな。何にでも限りはあるモンや……、俺かて、もう数年すれば潜水士の限界来るやろし、陸に上がるのもそう遠い未来の話やないやろな……」 嶋本さんの声はカラッとしつつもどこか寂しげで、少しだけ驚いて嶋本さんのほうを見ると彼はリリースした小魚を追うように遠くを見ていて。――トッキューの仕事は過酷だろうし、肉体の限界だって当然あって、今の小魚にちょっとだけ自分の境遇を重ねて見たんだろうな、と思うと私まで切なくなってしまった。 でも、その直後に感傷的になった自分がいっそばかばかしいほど明るく嶋本さんは「お!」と声をあげた。 「こっちも来たで、ええ手応えや!」 見ると嶋本さんはこれ以上ないほどウキウキした顔であっという間に釣り糸を巻いて引き寄せて――海面からは40センチ強のメジナが現れて驚いた私も歓声をあげる。 「わぁ……ッ!」 「幸先ええで、今日は!」 ピチピチ跳ねるメジナを手に、ニカッと嶋本さんは笑いつつメジナを凝視しながら唸った。 「刺身にしたら新鮮でめっちゃ美味いんやけどなー」 思わず、あ、と声を漏らしてしまう。出しゃばりかもしれないけど――、できることは主張しておこう。 「わ、私、捌けます!」 「お、ほんまか!? よっしゃ、任せたで!」 思い切って言ってみると、嶋本さんは明るい声であらかじめ持ってきていたらしき包丁とまな板を急いで準備してくれた。 ――真面目に自炊して料理してて良かったぁ。 なんて自分を誉めつつ、私は腕まくりをして気合いを入れつつまだピチピチ跳ねているメジナをシメると、真水で丁寧に洗ってから深呼吸して一気に刃を入れた。 「おー、鮮やかやな」 感心したような声を嶋本さんにもらってちょっと緊張してしまったけど、我ながらすごく美味しそうなメジナのお刺身が出来上がってふぅと滲んだ汗を拭っているとちょうど大羽くんがビールを抱えてもどってきた。 「ナイスタイミングや大羽。朝メシやで」 「うお、刺身っすか!?」 「俺が釣ってが捌いたんや、美味そうやろ?」 嶋本さんはあくまで笑いながらサラッと言ったけど、なんだか共同作業だったみたい、なんてちょっだけ勝手に照れてると大羽くんは「ちょうど良かった」と言いながら買ってきたらしきビールやら何やらを大量に台代わりにしていたクーラーボックスの上に置いた。 「腹減ったなーと思ってついでにオニギリも買ってきましたけぇの」 「お、気が利くやないか大羽。それでこそ三隊の隊員やで!」 嶋本さんは嬉しそうにバシッと大羽くんの背を叩き――、トッキューでも嶋本さんの三隊ってこんな雰囲気なのかなーなんて思いつつ、三人でカンパイして捌いたばかりのメジナに舌鼓を打った。 二人とも美味しそうにお刺身を頬張っていて、私も表情を緩める。 やっぱりお刺身は鮮度が命。この美味しさはどんな名店にも勝っていて――海を見ながら美味しいものが食べられるなんて、つい勢いで海釣りについて来ちゃったけどほんとに来て良かった。 辺りもすっかり明るくなって、散歩に来た人とかジョギングしてる人とか家族連れとかで随分と浜辺も賑やかになってきて、潮騒の音が耳に心地よく届いてくる。 今日はよく晴れてて、波も穏やかで、潮風もとても気持ちがいい。 でも、もしも急にこの海が荒れだして何か起こったら――この人たちは行ってしまうんだな、なんて考えが不意に過ぎってしまって自然と目線が降りてきてしまった。 「、どないしたん?」 暗い顔して、と嶋本さんに顔を覗き込まれてハッとする。 「あ、今日は海……穏やかだな、と思って」 「そやな、今日は全国的にええ天気で海も穏やからしいし、当直の隊もいくらか安心やろ」 ふわっ、と柔らかく風が吹いて嶋本さんのクルクルした短い髪が揺れる。でも、笑う嶋本さんとは裏腹に彼の目線の先の広大な海原を見つめる私の背にはちょっとだけ寒気が走った。 「海……見てるの好きなんですけど、時々怖くなります。波打ち際でずっと波を見てたり、川の濁流を岩の上から見てたり、暗い湖をずっと眺めてたりすると、不意にゾッとすることがあって」 「そら自然に恐怖覚えることくらい俺らでもあるわ。なあ?」 嶋本さんはあくまでケロッと言いつつ大羽くんに同意を求めて、大羽くんもコクッと頷いていた。 嶋本さんたちのお仕事は凄いって思うけど、でも、荒れ狂う海に飛び込んでいく嶋本さんのことを思うと――今は"凄い"よりも"怖い"気がする。 「前にテレビで玄界灘のニュース観たときは、トッキューって凄いって思ったんですけど……今も凄いって思ってるんですけど、あの海に嶋本さんが飛び込んでいったことを思い出すと少し怖いんです。それが仕事だって嶋本さんは笑って言ってましたけど……今は海難のニュース聞くだけで心臓に悪くて」 つい呟いてしまった台詞は自分でも何が言いたいのか分からなくて、とてつもなく恥ずかしくて、随分鬱陶しいだろうなって思ったけど。でも、半径数メートルの壁を破った今はやっぱり以前のような気持ちでニュース越しの事件を観てはいられない。 私はもう嶋本さんのことを知ってしまったんだから――と思いつつも徐々に目線を下げていると、あー、と嶋本さんは空を仰ぎながら笑った。 「大丈夫やて、トッキューは今まで誰一人として死んでへんし、そもそも俺は無理や判断したら絶対行かへんし……部下に行けとも言わへん」 やろ? とまた嶋本さんは大羽くんに語りかけ、大羽くんは今までの嶋本さんの指揮を思い出したのか神妙な表情で頷いた。それを見て、嶋本さんも頷きながら笑う。 「俺は死にに行くんやない、生かすために行くんや。せやからまず俺が生きとらんとな。――ま、そういうことやから安心しい」 笑うと益々童顔になる嶋本さんなのに今ばかりは妙に大人びて見えて。こんなに小柄な人なのに、なんて大きく見えるんだろう――と思う。 手が届きそうで届かない。いつか本当に手の届かない、あの水平線の先へと行ってしまいそうでキュッと心臓が絞られるような気持ちになったけど……、つられて私も笑みを浮かべた。 そうしてハッとある事に気づく。 気づいた事実に、ふふふ、と一人笑みを漏らしてると「どうしたんや?」と嶋本さんに不審がられて私はたった今気づいたことを真っ直ぐ伝えた。 「いえ、60秒以上嶋本さんとお話ししたの初めてだなーって思ったんです。いつも、天空橋から整備場までしか一緒じゃないですから」 「あ、ああ……そやな、そういえば」 「だから、嬉しかったんです」 恥ずかしさより素直に思えた気持ちを伝えたい思いが勝ってそう言うと、嶋本さんは真っ黒な瞳を見開いて少し泳がせてから「そっか」と頬を掻いていた。 もっと知りたいと思ってた嶋本さんのことを少し知って、また少し近づけた気になって嬉しくて――でもまだ知りたい。 きっともう私の中で嶋本さんは「通勤電車で一緒になる、少し気になる人」じゃない。その気持ちの先がなんなのか、ハッキリとはまだ分からないけど――。 そのあと、嶋本さんは実は千葉県出身で関西なまりなのは少しだけ神戸の海上保安部にいたからだったとか、実は野球が大好きらしく去年のWBCのイチロー大活躍について一頻り盛り上がったりして、60秒の壁で悩んでいたのが嘘のように自然に話せるようになった。 次は私から野球観戦にでも誘ってみようかな――なんて思いつつ、家に帰り着いたあとに「色々恥ずかしいことを口走ったかもしれない」と後悔。 でも、とても楽しくて、あっという間の時間だった。 明日からの会話はどうしようか。そもそもどんな顔をして会おう? 明日の60秒は――と考えつつ、私はなんだかんだで幸せな気分のまま眠りについた。 |
続く、のか……?
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