その距離、半径数メートル





天空橋でモノレールに乗り換えると、いつものように一緒になる人がいる。
スッと伸びた背筋、厳しく前を見据えた瞳。
これから出勤を控えて眠そうな姿を晒す人たちの中で、まるで眠気など感じないほどシャキッとした姿をしている彼は一際目を引く存在だった。
それと、人目を引く理由はもう一つある。
日本女性のごく平均的な身長――よりも若干低いと思われる私よりも高いか否か……もしかすると同じくらいかもしれないという背丈。すごく若く見えるし、いつもラフな格好をしていてひょっとして学生さん? なんて思うこともあるけど、きっと違う。

「まもなく整備場、整備場に到着いたします」

車内アナウンスが流れて、今日も彼は一番に降車ドアを抜け颯爽とモノレールを降りていった。再び走り出した車内から流れる風景の中で彼をぼんやり見送って思う。
飛行機の整備関係の人なのかなー。だとしたらサラリーマン風じゃないのも頷けるかも。
なんて、彼は通勤列車でちょっと印象に残るくらいの存在で、名前も知らない。強いて言うならきつい残業明けの辛い出勤の時に彼のしゃんとした佇まいを見て「すごいな」「羨ましいな」と思うくらい。
本当にただそれだけだった。


けれども――とある日の夜、"それ"は起きた。
帰宅した私は夕ご飯を前に雑誌を読みつつ何気なくテレビを付け、自宅マンションでくつろいでいた。雑誌の文字を追うのに夢中でテレビの音声なんてBGM程度にしか頭に入ってこない。

「玄界灘で起きました漁船の衝突事故の続報です。福岡海上保安庁は巡視船での救助活動を断念、船内にはまだ二名ほど取り残されており、特殊救難隊に救助要請を――」

ふと、何気なく雑誌からテレビに目を移すとまるで台風ど真ん中とでもいうような荒れた海の様子がキャスターのバックに映っていて思わず「うわ……」と呟いてしまう。
ニュースの話を聞くと、数時間前に福岡の玄界灘で漁船同士が衝突――あわや沈没という事態になるも全員救出のまえに荒れ出した海のせいで救助活動もままならないという状況らしい。
テレビ画面に映る現場の映像は息を呑むほどで――海上保安庁の人でさえ活動困難な状態なのに、カメラなんて回していて大丈夫なのかな?
台風や洪水の時も思うけど……現地のキャスターって命知らずだな、見てるこっちが怖い。
「んー……」
早く助かればいいな、と思いつつ一視聴者にできることなどあるはずもなく、テレビを消して私は伸びをしてからソファを降りた。そろそろ晩ご飯の準備をしよう。帰宅してすぐつまんだお菓子のおかげでお腹はまだ空いてないけど、出来上がるころにはまたお腹がすくということは毎日の繰り返しだから熟知している。
お腹がすいてから作ろう! なんて思っているとスピードばかりを重視して酷いときにはご飯だけを掻き込むことになるとかコンビニにダッシュする羽目になるということも経験上知っている。
一人で暮らしてるとついつい食事は適当になってしまうことが多くて、昔は得意だったはずの料理をすっかり忘れ初めて「これはいかん!」と奮起したのはどのくらい前だっただろう?
最近はすっかり昔のカンも取り戻して、一人分の食事を用意するというけっこうめんどくさい作業にも慣れて、自炊が生活の一部にまで定着した。
「んー、我ながら……いつでもお嫁にいけちゃいそう!」
出来上がった料理を満悦気味に見下ろして、うふふふ、と私は人に聞かれたら引かれるだろう笑みを零した。
相手がいないなんて現実はこの際関係ない。
鼻歌をうたいつつお盆に料理を乗せてテーブルへと運ぶと、私は再びソファへと腰を下ろした。
さっきの事件はどうなったんだろう? と思いつつリモコンでテレビの電源をオンにする。

「現場、進展ありました! トッキューのヘリがこれから船に降下する模様です。現場、すごい暴風です!」

いきなりのキャスターの大声に私は思わず身を乗り出してしまった。
玄界灘もすっかり日が落ちてしまっていて、ライトに照らされる海は波しぶきが雨を呑み込む勢いで、陸地と空の両方から捉えたカメラの映像は今にも波に呑まれそうな漁船の生々しい映像を視聴者に伝えている。
「ちょっと……」
もはやテレビ局は無茶しすぎじゃないか、という疑問よりも今遠く九州で起こっているこの現実に私は血の気の引く思いだった。
海上保安庁のヘリコプターらしきものの中からどうやら保安官が漁船へと降りようとしているらしい。
でも漁船は大波に今にも呑み込まれそうで。ヘリだって今にも風に流されそうでどうにも危うい。
あんな状況でどうやって――とハラハラしながら見ていると、ヘリの窓から顔を出した隊員は何の迷いもなさそうに漁船を見つめ――瞬きの間もないほどの速さで海へ向かって飛び降りた。
「え……!?」
少しばかり遠くから捉えたカメラの映像。映ったその人影に見覚えがある、なんて過ぎったことさえ気づかないほどに私は瞠目した。
あんな中に飛び込んでいけるなんて信じられない。拳を握っていると無事に漁船へと降りた彼はヘリに向かって合図を送った。

「ああっと、今降りたのはトッキューの隊長でしょうか? ガイドロープから更に救助隊が降下していきます。ようやく船内の救助活動が開始される模様です」

最初に降りた人が作った船とヘリをつなぐロープの道を伝ってもう一人が揺れる漁船へと降下していき、取り残された人の捜索が開始された。
でも船は今にも沈みそうで――。あの保安官さんたちまで何かあったらどうするんだろう?
刻一刻と時間だけが過ぎていって、マイクの拾うヘリのプロペラ音がやけにリアルで――次第に言葉をなくしていくニュースキャスターに煽られるように私も固唾を呑んで見守った。
そうして何分が経っただろう?
波しぶきのかかる甲板に人影が現れて、あ、と私は息を漏らした。
人影が――2、ううん、さっきの保安官さんたちがそれぞれぐったりとした人を支えていて「見つけたんだ!」と思う前にテレビ画面から歓声があがった。
要救助者二名を確保した模様、とキャスターが先ほどよりも明るい声で伝えてくる。
そうしてさっきのロープで救助者が吊り上げられていって、最後に保安官さんたちがヘリへと戻っていき――ホッと安堵したところで急にカメラがアップになって一番最後にちょうどヘリへと戻る途中だった保安官の顔がハッキリと映り、私は近所迷惑なんて意識できないレベルでの大声をあげた。

「あああああああ!!」

思い切り画面を指さして数秒後、奇声をあげてしまった事実に気づいて慌てて口を押さえる。
モニター先の保安官は無事ヘリへと戻ってヘリは帰投を開始してカメラから遠ざかっていったけれど、私は驚きから口をぱくぱくとさせたままだった。
だって、だって――。
「整備場の人……!!」
そう、つい今カメラの捉えた保安官は――いつも通勤電車で一緒になる、あの小さな男の人だったのだ。
「うそぉ……まさか……」
見間違い? いや、そんなはずない。だって、だって毎日のように無意識に追っていた人の姿で、今朝だっていつものように颯爽と整備場で降りていって。うん、見間違えるはずがない。
でも、まさかあんなに凄い人だったなんて想像もしてなくて……、荒波へ颯爽と降下していった様子、そして戻ってきた様子を脳内リプレイして私はごくりと息を呑んだ。
そうだ、彼が一際目を引く存在だったのは――あんな荒海の中へも飛び込んでいける人並み外れた勇気を持つ人だったからなのだ。
妙に納得して自分でもこれ以上ないほど気を高ぶらせた私は、すっかり冷えてしまった夕食さえ喉を通らないほどにしばらくの間、何度も何度もリプレイされる現地の映像を観ていた。
もちろん、落ち着いてから食べたけど。

「昨日のニュース見たー?」
「ねー、凄かったよねー自衛隊の人たち」
「バッカ海保だろ海保」

翌日の社内では昨日の海難事件について噂する声をけっこうな頻度で耳にした。
私はというと――、今朝のモノレールでは例の彼とは一緒にならず、少しだけ気が抜けたような残念な気がしていた。
昨日の今日だし、お休みなのかもしれない。乗った車両が違ったのかもしれないし、そもそも毎日一緒になるわけじゃないし。
今までだって「あれ、今日は違うんだ」程度に思うことくらい何度もあったのに――、とため息を吐いていると不意に背後に悪寒を感じた。
〜〜〜、ため息の前に手、動かそうか〜〜〜」
「は、はいぃぃい課長! ただいま!」
そうだ仕事、仕事。余計なことを考えている場合じゃない。
ただ、彼のいつも背筋を張ってしゃんとしていた理由がよく分かった気がして、長い間の疑問がようやく解消された気分だった。
あれほどの嵐の中を人助けのために躊躇なく飛び込んでいける人なんだ――と思うと、以前の「すごいな」「うらやましいな」に尊敬の念が加わった。

だけど、途端に遠い世界の人に思えて――。
車内では数メートル内に確かにいた人のはずなのに、いっきに数キロの隔たりが生まれた気さえした。

時間が経てば絶つほどそう思ってしまうのは、あの日以来彼に会っていないからなのかもしれない。
「肉マン一つくださーい」
今、どこで何をしてるんだろう? また何かの事件に追われてるのかな、なんて思いつつ休日に横浜中華街へとくり出した私は上機嫌でジャンボ肉まんを頼んでいた。
休日に美味しいものを食べに繰り出す。これぞ最高の癒し……!
このまえ鎌倉で食べたホットケーキも最高だったなぁ。よし、次の日曜はまた鎌倉で……んー、でも新宿のパークハイアットでアフタヌーンティーしばくというのも捨てがたい。
「んふふ……おいしっ」
まさに色気より食い気に脳内を支配されつつジャンボ肉まんを頬張って少しばかり乱雑な中華街の道行きを歩いていると、前方からいやに不機嫌そうな男の人の声が響いてきた。

「なんで非番の時までお前らの顔見なあかんねん!」
「それオイの台詞ですって。オイかてこがん時まで兵悟君の顔見たなかですのにオイの行く先々に現れっとですばい」
「ちょっとメグルくん、ニ陽に最初に目を付けたのは俺だよ!」
「ハァ? なんば言よっとね、オイが先ばい!」
「俺だ!」
「じゃかましわこのボケどもが! 黙っとれ!」

か、関西弁に……なんだろう、九州なまり?
ま、まあ喧嘩かな……中華街ではよくあることだし、うん、関わらないでおこうと思いつつ前からやってきた三人組を見て、私は思わずジャンボ肉まんを手から零しそうなほどの衝撃を受けた。もちろんその場に固まり、前方から歩いてきた彼らの道を塞いでしまって彼らも「何だ?」という顔をする。
その三人組の先頭にいた人は私と変わらないくらいの身長で、キツそうな目つきを湛えて背筋はしゃんと伸びていて。そう、いつもモノレールで乗り合わせる――あの彼だった。
硬直した私を見て、彼の隣にいた瞳のくりくりした童顔の男性が首を傾げて言った。
「嶋本さん、お知り合いですか?」
「いや……、どこかで会いましたっけ?」
嶋本さん、と呼ばれた彼はそう私に訊いてきて――そうだよね、うん、私が彼を知っていても彼が私を知っているなんて都合のいいこと起こるはずがないよね、と当然の現実に落胆しつつテンパりながら手を振るう。
「あ、その……通勤のモノレールでよくお見かけしたので驚いてしまったんです。いつも整備場で降りられてて、航空会社の人かなーって、そしたら……」
例の海難事件をテレビで観て、とうまく伝えたいのに想定外のことに脳内CPUはメモリオーバー。既に暴走をはじめていると、ああ、と彼は頷いた。
「航空会社やないですよ。俺らは――」
すると彼の言葉を遮って、さっきの童顔の人がよく響く大声でこう紹介してくれた。
「愛します! 守ります! 日本の海! 海上保安庁の特殊救難隊で――」
しかし最後まで言葉を紡ぐことは叶わず、気持ちの良いほどの音で彼――嶋本さんに頭を殴られて童顔の彼はその場に昏倒した。
「大声で何さらしとんねん神林! 恥ずかしいんじゃボケ!」
「……す、すいませんつい佐世保にいたころのクセで……」
眉間にきつく皺を寄せて眉を吊り上げ、口から火を噴く勢いでがなる嶋本さんを横に「そうそう」と頷いたもう一人の男性――黒縁メガネに前髪の一部に緑色のメッシュを施した風変わりな人が私の方を向いてメガネを外し、これ以上ないというほどのキメ顔をくれた。
「オイはトッキューの六隊に所属しとります石井盤です。羅針盤の盤と書いてメグルです。良か名前ですやろ?」
「……トッキュー」
目の前で背景に薔薇を背負ったような自己演出をくれたメグルくんよりも、メグルくんの言った「トッキュー」という言葉に私は反応した。
そうだ、確か先日のニュースでもキャスターは彼らのことを「トッキュー」と呼んでいた。嶋本さんがそのトッキューの人でメグルくんもそうなら、見たところ彼らは嶋本さんの後輩というところだろう。
「すんません、いきなり大騒ぎしてしもて」
一頻り神林くんに怒鳴ったらしき嶋本さんがそう私に謝ってきて、私はハッとした。つい今の騒ぎから道行く人々の視線を見事に集めていたらしく、一気に頬が染まる。
そうこうしているうちに「ほら、行くぞ」と言って嶋本さんは私の横を通り過ぎようとして――無意識のうちに私は彼を呼び止めていた。
「せ、先日……! 玄界灘の海難ニュースを見て……、その、保安庁の人だって知ったんですけど……、あ、あんな状態の海に降りていけるなんて凄いって思って……」
けれどもやっぱり言葉はたどたどしくて自分でも何を言っているか分からないでいると、ああ、と嶋本さんはケロッとして言った。
「まあ、仕事やし」
「こ、怖くないんですか……?」
「んー、そやなぁ……、救助を待っとる人がいる思うと怖いとか考えとる暇ないですわ」
そうしてさっきまでの怒り顔とは一転、ニカッと白い歯を見せた彼の表情はあまりに人好きのする笑みで私はあっけにとられてしまう。いつもモノレールで見るしゃんとした表情とも全く違ってて――。
「ニュース見て、全員無事で本当にホッとしました。でも……あの日以来モノレールで見かけなくなって、ちょっと気になってたんです」
つい気の緩んだ私はさっきよりも滑らかに喋ることが出来たものの、喋った内容は自分でもドン引きするほどストーカーじみていて……いや、別に、待ってたとか探してたとかそんなんじゃなくて! と脳内で言い訳をしていると、さほど気にしたようすもなさそうに嶋本さんは「ああー」と記憶を辿るようにして言った。
「今週は訓練やなんやで朝一に基地行くことがなかっただけですわ」
「そ、そう……ですか」
こんな見ず知らずの人間の変な質問にも律儀に答えてくれるなんて、めちゃくちゃいい人だなぁと涙目になってしまった。――内心ドン引きされてるかもしれないけど。
「ほな」
ペコっと会釈してくれて今度こそ行ってしまおうとした嶋本さんに、「あ」と往生際の悪い私は最後にこう言った。
「が、頑張ってください。お仕事」
もう自分でも何がしたいのか分からない。こんな私のこんな一言に、嶋本さんはもう一度満面の笑みを返してくれた。
「おおきに!」
元々若く見える人だと思っていたのに、さらに五歳は若返ったというような少年のような笑顔。
寡黙で真面目そうな人だとばかり思っていたのに、まさか関西なまりのこんなに明るい人だったなんて――良い意味で裏切られて、そしてある意味予想通り。
あまりに突然のことに、すっかり冷めてしまったジャンボ肉まんの食べかけをかじっても味なんてちっとも分からなかった。
もったいないことしたな。
来週は中華街でジャンボ肉まん再チャレンジに決定。――べ、べつに今日のような偶然を期待してとかでは断じてない。

でも通勤以外の場所で彼に会えたことで、半径数キロ〜数メートルだった距離が一メートルくらいは縮まったかな?
なんて勝手に思ってたけど、実際はもっと広がったのかもしれない。

月曜にモノレールで会ったらどうしよう。会釈くらいはしたほうがいいのかな? なんて無駄な緊張といつもパパッと済ませちゃうメイクをすごく丁寧にやって「み、身だしなみだもん!」なんて自分に言い訳していたことは無駄に終わった。
月曜も火曜も嶋本さんと乗り合わせることはなく――、もしかして避けられたのかな? と朝から無駄に落ち込んで気分が重い。
いやいや、また訓練なのかもしれないし! そもそも避けられたとか思うほうが自意識過剰で気持ち悪い。ここは平常心、平常心。

「京浜急行、空港線はただいま人身事故の影響で大幅なダイヤの乱れが発生しております。お客様にはお急ぎのところ大変ご迷惑をおかけいたします」

水曜の朝、いつものように電車を待っているとそんなアナウンスが流れてきて私は時計へと目線を落とした。
京急が遅れるなんていつものこと。むしろ数本遅れてもいつものモノレールには乗れるよう計算はしてあるんだけど……今日はダメかも、なんて周りの露骨に迷惑そうな声を耳に入れながら私はふぅ、とため息を吐いた。
そうこうしているうちにようやく電車がホームに入ってきて、私は再びちらりと時計を見やる。いつも乗っているモノレールの発車時刻まであと五分弱。
乗車と降車がスムーズにいって、かつ天空橋駅から死ぬ気で走ればギリギリ間に合うか否か。――うん、一本遅れたところで出勤には何の問題もないし、見逃してもいいかな。でも、そうしたら――と私の脳裏には中華街で見た満面の笑みが過ぎって首を振った。
勝手に期待して、勝手に落ち込んで。特別に意識していたわけではない、ただほんのちょっと気になるだけだった人のはずで。
でも、"気になる"って自覚した時から、数メートルの距離を少しでも縮めたいと思っていたんじゃない? って悪魔のように心で誰かが囁くから、負けないように必死に歯を食いしばる。
朝の京急は押しくらまんじゅう地獄だ。人の波に潰され続けることで私はできるだけ無心になるよう心がけた。

「まもなく天空橋ー、天空橋に到着します。東京モノレールにご乗車のお客様は次でお乗り換えください」

そう、いつも通りだ。人の波に乗ってなるようになればいい。でも――、だけど、とドアが開いた瞬間に流されるようにして電車を降り、どこか躊躇するように走り出すといきなり背後からバシッと叱咤をされるように背中を叩かれて何ごとかと私は振り返ろうとした。
「急がな遅れるで!」
けど、振り返る前にその影は私を追い越してしまい――取りあえず走りながら私は大声をあげてしまう。
「し、嶋本さん!?」
背の低いその影は器用に人の間を縫うようにして駆けていき、感心するより前に私はその背を追いつつポケットから定期付きスイカの入ったパスケースを取り出した。
「ま、待って……!」
同じ電車に乗ってたんだ。とか、声をかけてくれた。とかそんな感慨感じている暇はなかった。スタンバっていたスイカで乗り換えの改札を器用に通ることには成功するもパンプスとスカートで男子並みの大股走行をしろというほうがそもそも無理で。恐ろしい速さで階段を駆け上がる嶋本さんの背はどんどん小さくなるばかり。
は、速い……、さ、さすがレスキューのプロ。
なんて感心している余裕さえなかった。ああ、なんか発車サイレンが鳴ってない? もう間に合わないって。だめだ脳に酸素が足りない、全力疾走なんてここ数年やった覚えがない。
でも、せっかく励ましてもらったのに諦めたくない――! と死ぬ気でホームに駆け上がると、乗車ドアの脇に嶋本さんが立っていて私は目を見張った。
「手ぇ伸ばせ! はよう!」
もう無我夢中で何が起こったのかサッパリ分からなかった。
言われるままに差し出された手を掴むと、フワッ、と確かに浮遊感。
え――? と目を見張ったと同時にドアの閉まる音を聞いて、間抜けな顔を晒す私の目の前には確かに嶋本さんが立っていた。
「どうにか間に合うたな。……て、大丈夫かいな?」
あんな超スピードで走った直後なのに息一つ乱してない。対して私は呼吸もままならないほどで、ヒールのせいで並んだ目線から心配そうに言われたからブンブンと首を振って応えた。
「は、はぃぃい! だ、だいじょうぶれす!!」
「ん、分かった。大丈夫やないんやな」
なんで、こんなに当たり前に話しかけてくれたんだろう? さっきだって私を待っててくれたの?
頭は訊きたいことでいっぱいなのに、呼吸の方が言うことを聞いてくれない。でも、天空橋から整備場までなんてすぐだし、一秒一秒が勿体なくて喋らずにはいられない。
「す、すごい瞬発力と……ッ、筋力、ですね。さっき……私、宙に浮いたかと思っ、て」
ぜぇぜぇ言いながら、なんとか普通の表情を保とうと必死になって口を開くと、なんだか嶋本さんは呆れたような表情を向けつつも答えてくれた。
「まあ、身体鍛えんのも仕事やしな。あんたくらい持ち上げきれんかったら救助活動なんか出来ひんわ」
「わ、私のこと……覚えててくださったんですね……、て、てっきり私……」
息が乱れてるせいか、自重したのか「避けられてるかと思った」と続けられなかった私の言葉を受けて「んー」と嶋本さんはどこか決まり悪そうな顔で目線を泳がせつつ頬を掻いた。
「覚えてたっちゅーか、なんとなくは知っとったんや、あんたのこと」
「……………。――え!?」
「自惚れやと笑わんといてな。モノレール乗るとなんやヤケに背中に視線感じるわーて前から奇妙に思ってん」
言われて一気に背中の流れていた汗は冷や汗に変わった。
さりげなく、さりげなーくチラ見していたつもりだったのにまさか気づかれていたなんて。
「す、すいませんすいませんすいません! あの、深い意味はなくてただ――」
衝動のままに頭を振って謝罪すると、遮るように嶋本さんに口を押さえつけられて強制中断させられた。
「アホ、声がでかいわ!」
先日、後輩らしき人たちを怒鳴りつけていた時と全く同じ表情で。ううん、若干の焦りも加えた彼の表情を間近で見て私はコクコクと頷いた。すると、ハァ、と嶋本さんはため息を吐く。
「なんや、神林みたいなやっちゃなー」
「神、林……?」
「ああ、ほら中華街で一緒におった目玉くりくりしたヤツや。俺の教え子で元部下でな、出来悪うのにがむしゃらなだけが取り柄っつーか」
言われて思い出した、あの男の子とまごうほど童顔だった人だ。悪態をつきつつもどこか嶋本さんの表情は弛んでいて、その神林くんのことをすごく可愛がっているのが伝わってくる。
大分息の整ってきた私はスッと深く息を吸い込むと、さっき言おうとした続きを今度はボリュームをさげて口にした。
「さっきの話ですけど、自惚れじゃないです。いつも通勤途中に嶋本さんを見かけて、朝から眠そうな顔一つしないでいつも凄いな、って思って……その、そんなにジッと見てるつもりじゃなかったんですけど」
さすがにちょっと恥ずかしくなってきてだんだんとフェードアウトしそうな語調になってしまったけど、嶋本さんはキョトンとしたのちに「なんやー」と気の抜けたような声を漏らした。
「俺、めっちゃ朝型やねん!」
「……は?」
「朝起きるの苦痛やー言うヤツの気がしれんくらいでな。……なんや変な理由やったらどついたろ思とったのに気ぃ抜けたわ」
え、いや、ちょ、違。
えっと、他にももっといつもシャキっとしてて凄いとか、あの海難ニュースを見て益々尊敬したとか言いたいことは山ほどあったのに一人納得したような表情を見せた嶋本さんを前に何も言えないままタイムアップ。

「間もなく整備場ー、整備場に到着いたします」

車内アナウンスと共に整備場駅が見えてきて「ほな」と納得した表情のまま嶋本さんは反対側の降車ドアのほうへ向かおうとして私は先日と同じく夢中で一言言った。
「あ、あの……お仕事、頑張ってください!」
もっと気の利いたことは言えないのか、と自分に呆れつつも、目の前の嶋本さんは先日と全く同じ人の良さそうな笑みでこう返してくれた。
「おおきに!」
そのままドアが閉まり――モノレールから流れる風景を見送ってふと疑問に思う。
神林くんてすごく幼く見えたけど、保安官ということはそれなりの年齢のはずで。その彼を「教え子」だと言った嶋本さんって一体お幾つなんだろう? 
すごく若く見えるだけで、実は四十代とか?
や、さすがにそれはない、か……。うん。
それにしても凄い力だったなー、いたって平均体重のつもりだけど、それでも片手で楽々持ち上げられるなんて。あんな小さな身体なのに、すごいパワーだな……とのぼせた頬を自覚しつつハッとした。
そういえばお礼も言ってない。
さっきはもうなんだか無我夢中で。数メートルは距離のあったはずの人とあんなに普通に話せたなんて、つい今の出来事が信じられない。
「ふー……」
でも、そうだ。今の出来事が本当なら明日もあるんだし、お礼は明日言おう。
天空橋から整備場までの走行時間は約一分。
訊きたいこととかも、整理しておこう、なんてまたストーカーじみたことを思いつつ私は自然笑みを漏らしていた。


「ねえ、今日のちゃん変じゃない?」
「課長に怒られてもニコニコしてて気味が悪いんだけど」

だって半径数メートルの世界が半径一メートルに縮まったんだもん。
なんて浮かれて言ったら同僚たちは怪訝な顔を浮かべていたけど全然気にもならなかった。
そうだ、明日からは半径数メートルの壁を自分から破って「おはようございます!」って言うんだ――、と密かに誓いを立てて私は仕事を進めていった。





続く、かも……?

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