Usual Landscape






朝起きて、学校行って、アイツと顔合わせて、テニスをやる。家帰って明日になりゃまた学校行って。

それが当たり前のように、永遠に続くような気がしていた。



「うーっす」
登校して教室後ろ側のドアを開けると、俺は適当にダチに声かけて席へ向かった。
「おはよう宍戸くん」
前の席のがいつものように律儀に挨拶してくる。
「おう」
相づちを返してから腰を下ろしてバッグから教科書類を取り出しながら、"数学"と自分の字で書かれたノートを手にした瞬間あ、と喉が反射的に鳴った。
「ヤベッ、数学の予習やってねぇ」
今日当たる事をすっかり忘れていて、エスカレーター式とは言え進級決まってちょっと浮かれてたのかもしれねぇと思わず舌を打った。
「あ、私やってあるよ」
声が聞こえたのか、が机から数学のノートを取り出して笑顔で俺に差し出してくる。
「サンキュ、わりぃな」
「ううん」
ここ数日のヤツ、妙に機嫌良いんだよな、とその表情を見つめながら思う。
ま、大体の察しは付くが、それより今は予習だと俺はありがたくノートを受け取ると自分のノートを広げた。



……いねーのか?」
午前の授業が終わり、購買部から帰って来た俺はの姿が見あたらず教室内を見渡した。
「昼休みになってすぐどっか行っちゃったよ」
「……そうか」
とよく喋ってる女子に言われて、教室を出る。

どこへ行ったかの見当くらいすぐつく。

真っ直ぐ目的の場所に走っていくと俺は入り口の大きな扉を開いた。
静まり返った廊下を歩いて美術室のドアを開けると案の定探していたヤツがいて。
扉を開いた瞬間、僅かに鼻についた油のニオイに顔をしかめた俺の方を向いてくる。

「宍戸くん?」
「やっぱここだったか」

キャンバスから離れて全身を見せたは上半身にジャージを羽織って髪を一つに結っていて、「どうしたの?」って首を傾げた。
持っていた缶コーヒーをシュッとに投げ渡す。

「わ、何?」
「おごりだ、飲めよ」

さっきの予習ノートの礼だっつーと「別にいいのに」って苦笑されちまった。
借り作んのはゴメンだっつって机の椅子に腰を下ろす。
ついでに一緒に持ってきたチーズサンドやら焼きそばパンを広げるとはクスクス笑いながら美術室の窓を少し開いた。
「ゴメンね、油くさいでしょ」
入り込んでくる冷たい風がの髪を緩やかに靡かせる。そしてすぐ横の水道で手を洗ってから脱いだジャージを机の上に置いて椅子に座ると、も「いただきます」つって缶コーヒーのプルトップを開けた。
「お前また昼飯返上してんのか?」
「んー……五時間目終わった後にでも食べるよ」
缶に口をつけるを見つめて、俺はやれやれと焼きそばパンを頬張りながら肩を竦めた。

二月の下旬、三月の頭に大事なコンクールの締め切りが控えているらしきこの時期はいつもこれだ。

「で、もう仕上がったのかよ?」
この位置からは見えない後ろ向きのキャンバスをぼんやり眺めながら俺もコーヒーを口にし、訊いてみた。
「後ちょっと、かな」
「見てもいいか?」
「え、うん」
良いけどまだ仕上がってないよと呟くを横に、パンとコーヒーを机に置いて立ち上がると俺はキャンバスの前へ進んだ。

ピタ、と足を止めて瞳にそれを捉えた瞬間、言葉を失う。

チッ、だったらポンポン恥ずかしい単語並べて感想が出てくるんだろうが、俺には無理だ。

「お前……なんつーか、上手くなったよな」

開口一番に喉から出てきたのはそれだった。

え、とが意外そうに目を瞬かせる。
美術部相手に失礼だとは思うが、マジでそう感じたんだ。


俺がに初めて会ったのは入学式の日。
割り振られた教室に足を踏み入れた時だった。
幼稚舎のある氷帝は、大抵そこからエスカレーター式に上がってきて受験して入ってくるヤツはそう多くはない。
受験組の一人だった俺は、昔馴染みで気心の知れた連中同士の雰囲気の中でを見たとき、ああコイツも受験して入ってきたんだなって何となく親近感が沸いた。
あの頃からスケッチブック抱えてて、同じようにテニスバッグ背負ってた俺には何かおかしかった。

それからすぐ後の美術の時間、課題はクラスメートの顔のデッサン。
男女ペアになって作業するよう言われて俺は教師にと組まされた。
『よろしく。……宍戸、くん』
俺の名前を確認しながら微笑んだ、アイツと喋ったのはあれが最初だった。

はどっちかっつーと大人しそうな印象で、女とペアなんてかったりぃと思ってた俺はさっさと授業が終わってくれる事を願っていた。
気怠く頬杖をついて何となくの方へ視線を流すと、あまりに真剣でギョッとして、つられるように覗いたボード。
の手で描かれていく俺の、硬く狂いのないデッサン。
呆然と前を向いてたら、顔を上げたと目があった。
『宍戸くんの髪、綺麗だね』
柔らかく微笑んで、当時肩につくかつかないか位の長さで一つに縛ってた俺の髪を褒めた
その声と言葉と表情と、キレイに描かれた彫刻みたいなデッサン。
それにギャップみたいなもんを感じた。

それからとは事あるごとにペアを組まされる羽目になって、段々よく喋る相手になった。
絵に対して真剣なところはそれなりに尊敬もしていたし、アイツの絵を目にする機会は多く、賞も取れるだけあって風景画が震えるほど上手いのもよく知ってる。
その所為か、あの彫刻みたいなデッサンが頭に刻み込まれてて、どっかでそれが引っかかっていた。


「覚えてるか? 俺が初めて見たの絵って美術の時間に描いた俺の絵だったんだよな」
キャンバスからの方へ目線を移すと、は缶コーヒーを手に思い出すようにゆっくり頷いた。
「覚えてる……でも鉛筆でのデッサン画と油絵って違うし」
「そうじゃねぇよ。お前の描いた俺、なんつーか機械みたいだったんだ」
椅子に座ったまま俺の様子を窺っていたが、小首をかしげながら缶コーヒーを机の上に置いた。
俺の横に来て自分のキャンバスを覗き込むと2、3度瞬きして、ああと納得したように頷き少し口元を緩める。
「黒羽くんのテニスのおかげ、かな」
「黒羽の……テニス?」
「うん、私……前はあんまり人物を描く事に興味なかったの。だから正確にデッサン取る事しか考えてなくて、機械みたいだったのはその所為かも」
窓から入る風にの髪がふわふわ揺れる。

俺にいきなり「知りたい選手がいる」って聞いてきた時は正直面食らったが、その理由は絵の為という実にらしい理由だった。
のスケッチブックを見てみたら、俺のデッサン取ってた時のようなタッチとは違うパッと明るい黒羽のラフ画でぎっしり埋まってて、尻込みしてるアイツにはっぱかけてやったんだ。暗に千葉へ行って来い、ってな。
思えばあれが、始まりだったんだよな……。
黒羽のテニスのおかげ、か――結局何でも黒羽なんだなとぼんやり理解しながらチラッとの横顔に目をやると、もこっちに目線を送ってきて俺は慌ててキャンバスの方へと向き直った。

「まあ、キッカケはそうかな……でも宍戸くんも同じじゃない?」
「俺?」
「うん、都大会の準々決勝」
「……あ」

そうだ――、と言われて気づく。
都大会初戦――どこか真剣になりきれてなかった俺は橘に無様に惨敗した。
そして、自分の姿勢を悔い改めた。
俺を本気にさせてくれた橘には感謝もしてるし、いつか借りは返すつもりだ。

だがそれだけじゃねーよな。
長太郎が俺の無茶苦茶な特訓に付き合ってくれて、跡部のヤツがお節介にも口挟みやがって俺は関東の舞台に立てたんだ。

何より、テニスに対する思いは元もと俺の中にあった俺だけのものだ。

「そう、だな」

頷いた俺に、私も同じ、と微笑んではキャンバスを見つめた。
俺も改めて見つめ、良い絵だな、と思うもついつい口からは別の言葉が出てきちまう。

「た、大賞取るとか言ってたな? この絵で」

喉元まで出かかった誉め言葉をギリギリで止めてそんな事を呟いた俺に、は幾分視線を鋭くした。
「……そのつもりで描いてるけど、結果はわかんないよ」
口元に緩く笑みを浮かべるからは自信も垣間見えていて、俺もつられてふっと笑う。
「その為に描いてんだろ?」
目標はね、と言ってはあ、と思い出したように一度大きく瞬きした。
「そうだ鳳くんもね、出品作は仕上がりましたか? って訊いてくるから、見にきたら? って言ったんだけど――」
「長太郎が?」
「ん、ちょっと悩んで大きな身体でブンブン首振って"いえ、美術館で見るまで我慢します!"って」
「……アイツらしいな」
後ろ髪引かれるような顔で犬みたいに首振る長太郎が容易に想像できる。
「もう責任重大」
肩を竦めてみせると笑いながら、ふとあることに気付いた。

コンクールの結果が出る頃、はもうパリに行ってて、俺はこのまま氷帝の高等部に上がる。

もうこうして学校でと喋ることもなくなるのか――毎日スケッチブック持ちまわって絵ばっか描いてるとか、キャンバスの前で油絵まみれになってるを見ることもなくなるんだな。

そんな事思ってたら、キャンバスの前から離れたが俺のやった缶コーヒーを握り締めて、もうすぐ卒業だね、とポツリと一言呟いた。
「そ……そうだな」
一瞬俺と思考がシンクロしたんじゃねーかと軽く心臓が跳ねた瞬間、少し寂しそうな目をした
「もうこの美術室で絵描くこともないんだなぁ」
やっぱ絵の事かと俺が呆れ気味に笑みを漏らすと、何よ、といいたげに眉を寄せる。
「こうやって宍戸くんとも話せなくなるね」
「お、おう」
それも束の間、また少し寂しそうな目をしたはどもった俺を気にする事もなくそのまま言葉を続けた。
「何か想像つかないなぁ……学校行って宍戸くんがいないと思うと変な感じ」
「へっ、俺はせいせいすっけどな」
ついいつもの調子で言い返しちまう。
でも俺も少なからず同じ事思ってた訳で、それが伝わったのかは見透かしたようにクスクス笑った。
「あと数年はこのまま、変わらないって思ってたけど」
俺は瞳を伏せたの睫毛の陰を目で追う。
髪を結っている所為でいつもは見えない白いうなじが見え、シンとしたこの場所に二人しかいないと思うと急に美術室が広く思えて、俺も机に置いていた缶コーヒーを手に取ってグイっと喉に流し込んだ。
「……でも、夢だったんだろ?」
そう俺が言ったらこっちを向いて、うん、と目を細めたに俺も少し目尻を下げ、つい今過ぎったばかりの考えを紛らわすように、あまり俺から話題にしたことはない名前を口にした。
「く、黒羽も理解してくれたみたいだし、良かったじゃねーか」
え、とは反射的にちょっと赤い顔をした。
そして目元は赤いままにが少し済まなそうな表情を浮かべる。
「うん、でも黒羽くんには益々迷惑かけちゃうから」
結局、どうあってもお前の最優先は絵なんだよな、と俺は腕を頭の後ろで組むとを見下ろした。
「良いんじゃねーか? 別に」
「え?」
「黒羽はお前のそういう所、ちゃんと分かって付き合ってんだと思うぞ」
そう言った俺をは少し目を見張って見上げてきて、結んでいた唇の端を僅かに上げると一度ゆっくりと頷いた。
「……ありがとう」
ちょっとはにかんだの口元を押さえる右手はいつもに増して腫れ上がってて、俺は無意識にその右手を見つめた。

黒羽は、こういう知らねぇんだろうな。
朝、律儀に挨拶してくる所も、休み時間に行く場所の大半が美術室って事も、油まみれになってキャンバスに向かうも、全部。

俺のほうがの事を――そう思いかけた瞬間、ハッとした。

そういや俺って学校でのしか知らねーんだ。
黒羽といるときのとか……知らねぇし。

俺らにとっての世界は家から学校までがほぼ全てで、起きて、学校来て、勉強して部活やって、帰って寝てまた起きて――毎日その繰り返し。

それが全てだった世界が、中学から高校へ舞台が移ってまた続いて――そこからがいなくなっても当たり前のように毎日が過ぎる。
そしていつか家から学校が全てだった世界が広がって変わって行くのかと思うと、急になんか胸がつっかえたような気がした。

「どうかした?」

ぼんやりしていたらしき俺をが心配そうに覗き込んでくる。
「何でもねーよ。ただ――」
「ただ?」
「……いや」
まともにの顔が見れず、居心地悪そうに被っていた帽子を直しながら言葉を探す。
「お、お前がいねーと宿題忘れたとき困るなって」
目の端に缶コーヒーが映ってとっさにそう答えると、は何ソレって小さく笑った。

机の上に置いてた残りのパンを頬張ると俺は雑談もそこそこに立ち上がった。
「んじゃ俺はそろそろ教室戻るぜ」
「あ、うん。わざわざありがと」
「邪魔したな」
「ううん、ごちそうさま」
缶コーヒーをちょっと掲げて笑ってみせたを口の端を上げて見やる。


特別教室棟を出ると外の冷たい空気が頬を撫でて、もうすぐ三月だってのにまだ春は遠いと俺に囁くように吹き抜けていった。
見上げた空は快晴。
気持ちいいくらいの青空にうっすらと上弦にへこんだ月が映った。
いつだったか、俺は月に似ている、とに言われたことを思い出す。

『真昼の月は見えにくくて……いつ、輝くのかなって』

そうしながら俺はついつい澄み切った空を睨んだ。

「昼間の月が見えにくいのなんざ太陽の所為だろ」

がそういう意味で言ったわけではない事は分かり切っていたが、しばし夜を待つ月を眺め続ける。

は、今の俺にとって紛れもなくこの日常の一部で、もっとも俺から近い場所にいて、それは多分アイツも同じだ。

当たり前のように過ごしている日々はその中で少しずつ姿を変えて、それが終わって、また当たり前の毎日が始まり姿を変えながら続いていく。
そうして俺たちが一緒に過ごしてきた時間も、いつか黒羽に追い越されて。
俺の知らないが増えて、アイツの事一番に分かってやれるヤツは黒羽になるんだろう。

でもそれで良いんだよな――。

フッと息を吐くと、俺は一度美術室の方へ視線を送った。
予鈴と同時に慌ててドアから飛び出して来るんだろうな、とか思いながらゆっくりと背を向ける。

校庭ではしゃぐ生徒達の声を遠く耳に入れながら、俺は教室への道を歩いた。

陽だまりの粒が揺らめく、いつもの青空の下を。











卒業前って、ちょっとセンチになったりしますよね…。


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