The seaman who came from the sky





 約一年ぶりになるのか――とは眼下に広がる祖国の海に自然と頬を緩ませていた。

「まもなく当機は成田国際空港に着陸いたします。到着は定刻通り、現地の気象情報を確認いたしましたところ、現在は晴れ――」

 氷帝学園中等部を卒業すると同時にパリに渡ったであったが、それから一年、帰国している暇もなく春の短い休暇を利用してのようやくの一時帰国が叶ったのだ。
 高ぶる気持ちのままに税関を抜け、ゲートをくぐったの表情にパッと陽がさした。
「お母さん! ただいま!」
 出迎えに来てくれていた母親の姿を目に留めて声が弾んだのだ。目に映る、当たり前のような日本語、風景。何もかもがただただ懐かしく映った。
 久々の再会を喜び合い、有明の自宅へと向かう道行きではそわそわしながらいそいそと携帯電話の電源を入れた。
 日本の携帯電話はパリでは緊急連絡用であり使用頻度は低い。けれど、ここでは違う。は逸る気持ちのままにメール画面を起動すると、無事の到着を知らせるメールを打ち、自身のもっとも大切な想い人である黒羽春風へと連絡を入れた。
 ――中学時代は携帯を持っていなかった彼であるが、高校に入学してから「持っているだけ」は持つようになったのだ。
 そんなことを考えながら笑っていると、運転席の母親がこんなことを言ってきた。
「お父さんにも連絡を入れておくのよ」
 母親には黒羽に連絡を入れていることなどお見通しだったのだろう。苦笑いをしつつ、は「はーい」と返事をした。

 部活中だったらしき黒羽は夜に電話をくれ、久々の生での会話に二人は長話に興じた。
 も手紙などで黒羽の近況は知っていたつもりであったが、改めて聞くと新鮮なものである。高校に進学した彼は、やはり相変わらずのメンバーで相変わらずテニスをしているという。しかも、の知らないところでの同級生であった宍戸亮とかなりの親交を深めていたらしく、たまに自主練習を一緒にこなすほどの仲だというのだから驚きだ。
「去年なんか、誕生日祝い合ったしよ!」
「そ、そうなんだ……。同じ日だもんね……」
「宍戸ん家の犬、すげーかわいいんだぜ!」
「そ、そっか……」
 気質が合っている二人なのだとはとしても感じていたが、にとっても宍戸は気の置けない友人であり、むろん二人が仲がいいというのは喜ばしいことなのだが――あまりに嬉しそうに話す電話口の黒羽の声に、なんだか宍戸を取られてしまったような気がして嫉妬に似た気持ちも芽生えてしまい、そんな自分に苦笑いを零した。
 きっと、宍戸と話をしたとしても同じように感じてしまうのだろう。――やはり男同士の中には入れないものなのだな、と改めて思ってしまう。
 他にも黒羽は、宍戸の後輩である鳳長太郎とプレイスタイルが似ているためにサーブで勝る鳳にサーブを教えてもらったりボレーで勝る黒羽がボレーを教えたりもしているらしく、自分の知らないところで広がる交友関係に微笑ましさを覚えると同時に、時の移り変わりを感じて「一年間」という空白を改めて重く受け止めた。

 ともあれ、ちょうど日本も春休み期間であり――、比較的部活動も暇な時期であることも幸いして、黒羽はフリーだという明日に有明まで来てくれることとなった。
 は千葉行きを希望したが、時差ボケの体調を考慮してそれは別の日にしようという話になったからだ。
 そうと決まれば久々のデートにまず悩むのは服装のことで、くるりと後ろを振り返ってみてもクローゼットの中身はすべて去年までで時が止まってしまっている。こんなことに一喜一憂してしまう自分にとまどいつつ、はハッとしてパリから持ち帰ったスーツケースを開けた。
 中身はほぼ空だったが、一応こういうことも想定して向こうで購入したものを何点か入れて持ち帰っていたのだ。よし、と頷いては次は早々にバスルームに向かい久々の自宅での入浴を堪能しつつ早めにベッドへと入った。
 久々に黒羽に会える――そのことにいやでも高揚してしまいなかなか寝付けずにいたが、やはり機内疲れもあったのだろう。次の日は母親からの朝食コールに起こされるまで深い眠りに落ちていた。

 翌日、駅前で待ち合わせしようと言ったに対して黒羽は「テニスコートで」と指定をした。むろん、としても目と鼻の先である有明テニスの森公園の方が自身は楽であったものの――。ともかく、10時にテニスコートのスタンドで、ということでは約束に先立ち自宅を出てテニスの森公園を目指した。
 穏やかな春の陽気に、ふ、と目を細める。そしてふと、自身の左手に目線を落とした。去年――ここをこうして黒羽とともに歩いた。そしてパリへと旅立つ自分に彼はこの指輪をプレゼントしてくれたのだ、と太陽を受けて光るそれに目を細める。普段はチェーンを通してペンダントにしているが今日は改めて指にはめ、はくすぐったさから一人緩く笑みを零した。
 そうして公園へと足を踏み入れると、ふわっ、と既視感のようなものが降りてくる。木漏れ日がきらきらと煌めいて、どこか遠くで歓声が聞こえた気がした。

『ゲーム&マッチ、氷帝! 宍戸・鳳ペア!』
『勝っても負けても、恨みっこナシだぜ!!』
『氷帝! 氷帝! 氷帝!』

 ハッとして無意識に手の枠でフレームを作ったの視線の先に、二年前の中体連での光景が過ぎっていく。懐かしくて遠い、でも必死で毎日を駆けていた中学時代の一瞬だ。この場所で、黒羽のテニスを見て――とてもたくさんの大切なものに出会ってきた。
 スタンドからテニスコートを見下ろすと、夢中で応援して見つめていた黒羽たちの勇姿が見えるような気がして、過ぎった風に髪を押さえながらは微笑んだ。
 こうして過去を思い出して暖かい気持ちになれることこそ幸せなんだな、と感じていると少し離れた場所から足音が近づいてきて、ドキッ、との心音が跳ね上がる。
 無意識のうちに、まるで自然と身体が反応したようには音の方を振り返った。すると――、相も変わらずの長身の少年がこちらに向かってくるのが見え、自身が振り返った瞬間に確かに彼が頬を緩ませる様子がまるでスローモーションのように映った。
 惚けて言葉が発せない、とはまさにこのことかもしれない。近づいてくる彼――黒羽に、ただただ涙腺が緩みそうになるのを耐えるしかできることはない。
「久しぶりだな、! 元気だったか?」
間近に来た黒羽は懐かしい声でそう言って、なおが言葉を発せないでいると、ん? と少しばかり首を傾げた。
「どうした?」
 変わらない声、変わらない姿には頬を震わせて口元を押さえ、少しだけ首を振るうとたまらず黒羽の胸へと飛び込んでいた。
「――と!」
「黒羽くん……、黒羽くん……ッ」
 頭上で黒羽は驚いたような反応を見せていたが、すぐに、ふ、と息を漏らすと大きな手で優しくなだめるようにの頭をそっと撫でてくれた。それだけでまた涙腺が緩みそうになっただったが、改めて自身がこの場に帰ってきたことを実感してしばし抱き合った後に互いに顔を見合わせて笑い合った。
 なにも変わらない。けれども、この一年で互いが少し大人びた。そのことを互いに感じて微笑み合いながら空白の時間を埋めるようにこの一年の出来事を報告し合っていく。
「今年の高体連はレギュラーで出てーな。ダビデのヤツも、まあ何とか高校受かったしよ」
「そっか、天根くんが高校にあがればまたダブルス組めるんだもんね。……でも、複雑だな。六角と氷帝があたったらどっちを応援すればいいか分からないもん」
「ハハッ、氷帝も鳳があがってくっからレギュラーの入れ替え激しそうだもんな。知ってっかー? 鳳のヤツ、サーブの中学記録、保持してんだぜ」
「ホント!? 凄いね……、鳳くんて、多彩だよね……。そういえばね、この前の冬休み、鳳くん、ウィーンに留学してたみたいで連絡が来たの。いまウィーンにいます、って」
「は……!?」
「連絡先は宍戸くんから聞いたみたいなんだけど……。いろいろ報告してくれたよ。"なんとかテニス部を全国に率いて行くことはできましたが、関東優勝はできませんでした。すみません"とか。ウィーンへはピアノの勉強で来てたみたいなんだけど……」
 律儀だよね、と続けると黒羽が目を瞬かせて頭をかいた。どうやら初めて聞く話だったようだ。
「わっかんねーな。あいつ、音楽の道に行くのか? 高校はそのまま氷帝でテニス部に入るっつってたんだけどな。つか、パリとウィーンってどのくらい距離あんだ?」
「んー……、1000キロくらいだったと思う。パリに来てくれてたら会えたんだけど、ちょっとウィーンは遠いね……」
 は脳裏に穏やか後輩の姿を浮かべつつ少しだけ肩を竦めた。氷帝の卒業生は将来に海外への道を選ぶものも少なくない。鳳ももしかしたらそんな風に考えているのかもしれないが――。しかし、ともかく今の彼らの目標は共通して「テニス」であることは変わらないだろう。
 話をしながらブラブラと公園内を歩き、どこへ行こうか? とどちらともなく言い合う。立地的にはお台場という一大デートスポットがそばにあったが――も黒羽も、人混みは苦手とするタイプだ。しかもこの場所はにとっては地元であるため、なるべく黒羽の行きたい場所を優先したくそれとなく聞いてみると、うーん、と黒羽は手をあごに当ててしばし考え込む。
「って言ってもなぁ。俺、あんま東京詳しくねぇし。この辺は海が近いからけっこう好きなんだけどよ。……あ!」
「え……?」
「あのよ、この辺って確か南極観測船を展示してる所あったよな? あれ、いっぺん見たいと思ってたんだが……」
「南極観測船……、あ、"宗谷"のことかな?」
 ピンと来たの頭に浮かんだのは「船の科学館」だ。クルーズ客船と南極観測船を見学できる、臨海地区の観光スポットの一つである。もむろん幼少の時分に足を運んだことは何度かあるが、いわゆる学問としての理系科目に強くとも、この手の「男のロマン」に惹かれはしなかったため特別に思い入れが強い場所ではなかった。
「海上保安庁の制御室の見学とかも出来るんだろ?」
「え……あ、そう……だっけ……?」
 対する黒羽はやはりその手の少年的興味はあるのだろう。声の弾む黒羽に対しては懸命に記憶の糸をたぐり寄せて考え込んだ。
 ――海上保安庁、か。
 ふと、の記憶に一人の面影が過ぎった。

『おっちゃんはなぁ、潜水士やっとるんや』
『俺は海上保安庁のほうや。トッキューいう所の隊長でなー……』

 明るくて、カラッとしてて冗談が得意で――そして誰よりも「海の男」だった人のこと。考え込んだに気付かず、黒羽は話を続ける。
「海保といや、知ってっかー? 去年、台風の時に座礁した船の救出で凄かったんだぜ! 特殊救難隊だっけか、ああいうの憧れるよな!」
「特殊、救難隊……」
 黒羽はがパリにいる間に起きたらしき日本のニュースについて語って聞かせた。なんでも海上保安庁の特殊救難隊が、子供ばかりで構成された船を座礁から救出したらしく、その救出劇たるやまさに九死に一生のもので、その時の様子は列島のお茶の間を連日に渡って賑わしていたという。

『海難や! 当直隊が出てしもうて俺の隊も行かなあかん!』

 風のように去っていった「海の男」。ヒーローを褒め称えるような黒羽の声を聞きながら、はふと空を見上げた。もう会うことはないだろう彼は、こうして自分がここを歩いている間にも誰かを助けるために命がけで駆けているのだろうか、と。
……?」
 少しばかり惚けていたに疑問を寄せるような声が降ってきて、はハッとして首を振るった。
「あ、あのね。もう二年くらい前のことなんだけど……」
 そうして二年前の夏の劇的な出会いのことを黒羽に話そうとしただったが、ちょうど乗っていたゆりかもめが目当ての「船の科学館」駅に着いてしまったためにあえなく中断されてしまう。
 駅を出ると、まず真っ白な船体の大きな船が目に映り――その後ろにはオレンジ色の南極観測船「宗谷」が控えている光景が飛び込んできて黒羽は声を弾ませた。
 春休みシーズンではあっても平日であるためか、人はほとんどいない。
 館内に入れば、様々な海に関わるものが展示してあり――その中には海上保安庁の各種の制服も含まれており、ひときわオレンジで目立つ制服を目に入れて黒羽は「お!」と声をあげた。
「コレだコレ! 特殊救難隊が着てたオレンジの制服!」
「これが……トッキューの……」
 黒羽は純粋に憧れに似た眼差しを浮かべ、はその制服の中に「彼」の姿を見た。すると、職員らしき人がなにやらにこやかに話しかけてきた。
「特救隊に興味があるのかな?」
 どうやら引退した海上保安庁の職員らしく、近年なり手の少ない職員勧誘のためか熱心に海上保安庁の仕事内容をPRしつつ黒羽に熱い眼差しを送っていた。
「君なんか体格がいいからピッタリなんじゃないかな! どうかな、海は好きかい?」
「あ、はい。海は好きですけど……」
「日本の海を守るという、とてもやりがいのある仕事だよ!」
 そうして海上保安大学校の受験案内パンフレットを持ち帰るよう熱く語ってから職員は去り、と黒羽は互いの顔を見合わせた。
「す、すごいね黒羽くん……。スカウトだよ……」
「いや、まあ……憧れはあるっちゃあるけど、な」
 は自身が自分の夢のためになりふり構わない人生を送っている身だ。こうして黒羽と今も共にいられるのはひとえに黒羽の理解があったおかげでもある。むろん、黒羽の人生に対して口を挟むことはすまいと誓っているではあったが……もしも彼が海上保安官の道を志したらどうなるだろう? あの「彼」のようになりふり構わず人命救助のために駆けていくような人生を選んでしまったら? きっと、そうなっても黒羽のことを尊敬して尊重はできる。けれども共に歩んでいくことはできないだろう――と感じては無意識に不安げな表情で黒羽を見上げていた。
 すると黒羽はの不安を察したのだろう。なだめるように笑って、すっとの左手をとった。
「心配すんなって! な?」
 白い歯を見せて笑う黒羽の笑顔は一年前と何も変わっていない。キュ、と手を握り返しては「うん」と頷いた。例えこの手をいずれ離さなければならない時が来たとしても、今は、と思考に抗うようにして力を込めると予想以上に強い力だったらしく、黒羽が小さく呻いてはハッとして慌てて詫びを入れた。
「ったく。俺はどこにも行かねーっての。俺からすりゃ、お前のがよっぽど遠いところへ行っちまいそうだけどな」
「そ、そんなこと、ないよ」
「ホントかー?」
 カラカラと笑いながらしばし内部見学をして外へ出ると、次はいよいよ「宗谷」のお出ましである。
 真っ先に宗谷独特のオレンジ色の船体が目に飛び込んできて、ふわりと吹いた潮風に二人は目を細めた。
 宗谷の内部はむろん長期の任務に備え生活できるような環境とはなっているのだが、それぞれの船室・通路はいずれも狭くたちから見れば物珍しさも相まってすっかり見入ってしまう。ブリッジに出れば数種のコンパスや操舵輪が当時のままに残してあり、ある種の冒険心がかき立てられ二人して少しばかりはしゃいでしまった。
「こんな船、操縦できりゃ気持ちいいだろうな!」
「そうだね。綺麗な海で航海するのも楽しそう」
 瞬間、の頭をほんの一瞬だけ「マイヨットを所有してクルージングを楽しむ同級生」の不敵な姿が過ぎっていったが、すぐに記憶の外に追いやって二人は後部デッキの方へと出てみた。
 ヘリコプターの発着路となっているデッキは広く、吹き抜ける風が心地良い。わあ、とも風の爽やかさに感嘆の息を漏らして指で四角のフレームを作って空を見上げた。その枠越しの抜けるような青は鮮やかで、思わず見とれた。
 しかし。突如として近づいてきた轟音と暴風によって、その穏やかさはかき消されてしまう。目を見開いたの瞳には、なんとフレーム越しにヘリコプターの腹が映り込んできたのだ。
「え――!?」
 ブワッと強い風が髪をめちゃくちゃに揺り動かし、頭上では一機のヘリコプターがいわゆる「ホバリング」状態に入って留まっており、あまりに想定外な事態についていけないでいると頭上からスピーカー越しの声が降ってきた。

「こちらは海上保安庁です。そこの二人、危険ですから退避してください。これより隊員一名が降下します」

 見上げたヘリコプターの窓は開いており人影も見え、は驚きのあまり動けないまま口元を覆った。
!」
 黒羽がかばうようにの肩を抱き寄せて少しばかり後退すると、ヒュッと空を切るような音とともにロープが落ちてきて――それからはもうただ目の前で行われていることを絶句して見ているしかなかった。
 窓からオレンジ色の服を着た男性の姿が見え、あろう事かヘリコプターからまるで落ちるように飛び出してしまい、はおののいてギュッと黒羽の腕をつかんだ。しかしその男性は見事にロープを伝って地上へと降り、あっという間にデッキへと足を着け素早くロープを解いてしまった。

「着! 離脱ヨシ!!」

 どこかにとっては既視感を覚える声だった。男性の見上げていた視線の先で、先ほど警告を飛ばしたらしき人物が合図を送ってロープを回収し――そうしてヘリコプターはその場から再び飛び立っていってしまった。
 あっけにとられていた二人の、の瞳に鮮やかなオレンジ色が映る。背の低い男性のようだった。その背には「特殊救難隊」という文字が記されている。――まさか、とは唇を揺り動かした。記憶の中の「彼」がだぶる。そうして男性がこちらを振り返り――は黒羽から離れて無意識のうちに声をあげていた。 
「――し、嶋本……さん……」
 目線の先の男性――が「嶋本」と呼んだ人物もハッとしたのか一重の瞳を見開いている。
「嶋本さん、嶋本さんですよね……!? あの、二年前の夏にお会いした……」
 声に出せば記憶は鮮やかに蘇り、数歩、彼の方へ駆け寄ったに僅かばかり固まっていたように見えた彼、嶋本も「おー」と瞬きをしての方に歩み寄ってきた。
「あん時の絵描きの嬢ちゃんか!? 確か、ちゃんやったな? なんや、えらい偶然やなー、元気やったか?」
「はい! 嶋本さんこそ……お元気でしたか?」
「見てのとーりや! しっかし、堪忍な、驚いたやろ?」
 なんでも今日は宗谷での訓練だったらしく、その際、普段はあまり使用しない小型ヘリコプターの運用訓練も兼ねて嶋本のみがへりでここまで来たという。説明を聞いていると、わらわらと数人の隊員がデッキへと上ってきた。
「嶋本隊長ー! ハミングバードからのリペリング、どうでした!?」
「おう、バッチリや!」
「隊長、誰ッスかその子? あ、もしかして女子高生? 女子高生!?」
 ズイっとこちらをのぞき込むようにしてやってきたのは目の大きな男性だ。見たところ二十代後半だろうか。――胸元に「大口」「副隊長」と記してある。
「あ、あの……」
「アホ! なにガッついとんねん大口! ほら、覚えてへんか? いつか話したやろー、俺の絵が雑誌に載っとるって」
「え? ……ああ、隊長が中学生に口説き落とされてモデルになったって自慢してたヤツっすよね? あれ、この子なんスか?」
「そや。なんや専門官がめざとく見つけてきてくれたアレや。男前やったやろー?」
 と嶋本は二年前の夏に東京湾で出会い、その際、が「Seaman Ship」というタイトルで嶋本をモデルにして絵を描いたという経緯がある。その絵は見事に入選を果たし、美術雑誌に掲載されたのだが――嶋本の話を聞くに、彼はそのことを知っての絵を見てくれていたということだろう。
「嶋本さん……、ご存じだったんですか?」
「まァな。気になってたんや、結果がどうなったか。しっかしちゃん、凄いモンやな! 絶対入選するっちゅー宣言通りや! えらい男らしいで!」
「あ、はは……」
 ニカっと笑って褒めてくれた嶋本はありがたかったが、としては苦笑いを返すしかなく、そうしている間に嶋本はの隣にいた黒羽に気付いたらしく睨むようにして彼を見上げていた。
「なんや兄ちゃん……もしかしてちゃんの彼氏か?」
 嶋本は低身長とはいえたちの倍は生き、まして厳しい職場で隊長まで勤め上げている人物である。まるで「父親からの品定め」のようなオーラを受け、黒羽は少しばかり萎縮していた。
「あ、は、はい! く、黒羽春風です」
「春風ぇ? 最近のガキはけったいな名前ばっかやなー? でかい図体しおってからに。身長いくつあるんや?」
「185センチ前後、です」
 そのやりとりにはあっけにとられ、ブッ、と吹き出したのは嶋本の隣にいた大口だ。
「隊長、高校生いじめちゃダメじゃないっすか! 市民に優しくが俺らのモットーでしょー?」
 そして大笑いしながらなだめるように「なあ?」と黒羽の背中を叩いたものだから黒羽は引きつったような苦笑いを浮かべている。も少し苦笑いを浮かべて、黒羽に手短に嶋本と知り合った事情を説明してから嶋本の方を向いた。
「彼、六角中のテニス部だったんです。ほら……以前お話しした……」
 すると途端に嶋本の表情が明るく変わる。
「なんやお前、千葉出身なんか! 六角かー、六角ちゅうたらアレや、オジイはまだ生きとるんか?」
「え……!?」
「あ、その、嶋本さんも千葉の出身だから……」
 驚いた様子の黒羽にも説明を加えると、ハッとしたらしき黒羽は力強く頷いて笑った。
「はい! まだまだ元気ですよ! 今も現役でテニス部の顧問をしてくれてます」
「ホンマか!? あの爺さん、俺らがガキの頃も”オジイ”やったで?」
 六角の顧問であるオジイの話題は世代を越えた共通のものなのだろう。態度の軟化した嶋本は彼特有の人好きする笑みを浮かべている。
「しっかし六角のテニス部言うたら全国区やろ? 兄ちゃんも強かったんか?」
「一応、全国には出ました」
「ほーか! まァ、そんだけデカけりゃいいセンいくわな! 筋力もありそうやしなー」
 普段はパワー自慢の黒羽であったが、目の前にいる嶋本をはじめ周りの隊員たちはレベルの違う「本物」揃いだ。こうなってくると黒羽としても謙遜するしかなく――さらに黒羽は何かを思いだしたように「あ」と声をあげた。
「あの……嶋本隊長って、もしかして去年、九州の座礁事件で出動されてた方ですか?」
「え……?」
 今度はが黒羽を見上げる。すると黒羽が「さっき話した……」と続け、もハッとする。座礁した船を救出したという特殊救難隊――それがまさに嶋本の隊であったのだろう。途端、嶋本はどこか決まり悪そうにかぶっていたヘルメットに手をやった。
「あー……。まあ、そんなこともあったな……」
「すっごーい! さすが嶋本さん……!」
「やっぱり! 俺もあのニュース観て、感動しました!」
「いや、そんな褒められたモンちゃうわ……。一歩間違えれば大惨事やったんやし、俺も必死でけっこういっぱいいっぱいやったしな……」
 それは謙遜と言うよりは本音だったのだろう。厳しい現場であったことを思い返すように嶋本は少しばかり厳しい目をしてから、切り替えたように笑った。
「ちゅーわけでや! 俺の隊はこれからここで訓練やから、宗谷見学が自由に出来へんようになるけど勘弁してな!」
「あ……!」
「あの、俺たち、見学しててもいいですか?」
 すると意外にもよりも先に黒羽がそんなことを言い、嶋本は一瞬キョトンとしたものの笑って承諾した。
「そういうことや。お前ら、アホなとこ晒すんやないでー!?」
 そうして嶋本は部下に力強く指示を飛ばして自身の訓練に取りかかった。
 その段取りの良さたるや「無駄がない」とはこのことで、一人一人が自身の役割をしっかりと認識してあっという間に船と外にロープを張って繋げてしまった。そうこうしているうちにロープを伝って船に乗り込む訓練、船体を伝って船に乗り込む訓練などまさに「プロの仕事」を見せつけられても黒羽も息をのんで彼らの様子を見守った。
「す、すげーな……」
「う、うん……」
 真剣で、目が離せない。特に嶋本は隊長を任されるだけあり実力が秀でているのが素人目にもはっきりと分かる。――まだまだ子供である自分たちとは違う世界がそこには在って、時間を忘れて見入ってしまった。
 しばし見ていると嶋本が休憩の指示を出し、汗をぬぐって彼はこちらに目配せをしてきた。
「兄ちゃん! ちょっと俺らとやってみるか!?」
「え――!?」
「六角のレギュラーやったんや。少しは自信あるんやろ?」
 試すような視線だ。だがどこか楽しげで、黒羽は数秒逡巡していたものの力強く返事をして嶋本の方へ駆け寄っていった。
 先ほど、職員から聞いた話であるが特殊救難隊は一般市民向けに「展示訓練」というものを頻繁に行っているらしい。その中で一般人参加型のイベントというのもあるらしく、嶋本もそういうつもりなのだろう。
 が見守っていると黒羽はなにやら嶋本に注意を受けつつ、いったん船外に出てからセーフティを取り付けつつロープに手をかけていた。がデッキの端まで行くと黒羽はこちらに向かって手を振ってくれ、そして真剣な面もちで「訓練」を開始すべく前を見据える。
 要するにロープ一本でこちらによじ登ってくるという作業らしく、筋力やバランス感覚を試されるのだろう。ヨシ、とロープに手をかけ足をかけた黒羽を周りの隊員たちがはやし立てる。
「頑張れ坊主ー!!」
「落ちるなよー!」
 しかし、そこは並のテニスプレイヤーならともかく六角生の黒羽だ。彼らは子供の時からオジイの作ったアスレチック広場を遊び場としており、この手の作業は得意中の得意である。もそのことは知っているためある程度安心して見ていると、黒羽は隊員たちには劣るものの危なげなく器用にロープを伝ってデッキまでたどり着き、「おー!」と隊員たちは拍手喝采で彼を迎えた。
「うまいうまい!!」
 黒羽は額の汗を拭いながら笑みを見せ、も手を叩きながら目を細める。すると嶋本も彼を褒めるようにバシッと黒羽の背を叩いた。
「思ったよりやるやないか! 図体でかいヤツは鈍くさいばっかで使えんっちゅーのに瞬発力も良さそうや。身体もよう出来とるし、どや? 海保に入ってトッキュー目指してみるっちゅーのは?」
 カラッと力強く、本日二度目の熱烈なスカウトを受けてさすがの黒羽も少しばかり困った表情を浮かべた。も複雑さを胸に飛来させたものの――嶋本の言うことももっともだと思い、少しだけ首を傾げてみせる。
「ホント、黒羽くん、トッキューも似合いそう」
「お、ちゃんもそう思うか? けどな、俺が言うのもなんやが、海の男とつき合うのは大変やでー?」
 ワハハハ、と笑う嶋本に他意はないに違いない。そう――嶋本にしても本気で言っているわけでなく、あくまで可能性の一つで、そして純粋に黒羽を褒めてのことなのだから。
「いや、俺はまだまだ鍛えたりないですよ」
「トッキューに来ればイヤでも体力つくで? そこにおるアホ二人も俺が鍛えたったんやけど、そりゃひどいモンやったしな」
「隊長、酷いッスよ! かわいい副隊長に向かって! そもそも俺を副隊長に選んだの隊長でしょー!?」
「消去法や、消去法!」
 嶋本は隊長であると同時に複数の隊員と師弟関係にあるのか、大口以下にそんな風に言うと即反論が返ってきて辺りは笑い声で包まれた。そうして休憩もそこそこに嶋本は訓練を再開するようなそぶりを見せた。が、不意打ちのように鳴った機械音に阻まれてしまう。
 嶋本のポケットから響く、携帯電話の着信音だ。
「羽田からや」
 ハッとしたように嶋本は携帯を取り出し、折り目を開いて耳に当てる。
「はい! ――いま、宗谷で訓練中ですけど。……え!? はい、はい、分かりました!」
 にとっては鮮明な既視感だった。おそらくそれは急を知らせるものだったのだろう。勢いよく携帯を閉じた彼の表情は一変し、今までよりもはっきりと「隊長」の顔をして隊員たちに向かった。
「千葉沖で海難や。当直は別件で出てもうて準待機も別の現場に行っとる。第二待機を呼ぶより俺らが行った方が早いっちゅー話や。直ぐにハミングバードが戻ってくる。――大羽、お前は俺と来い、ええな!」
「――はい!」
「大口、お前はここ片づけて直ぐに羽田に戻って待機せえ。あとは任せたで!」
「はい!」
 大口でさえも先ほどとは別人のようだ。指示が飛んでからの彼らの行動は目にもとまらぬ早さだった。彼らは撤収作業と同時に仕事に必要な道具を揃えてヘリコプターの発着口に揃え、嶋本たちは持ってきていたらしきウエットスーツに着替えていた。そうこうしているうちに、先ほどの小型ヘリが近づいてきたらしき音が空から降ってくる。すぐに着陸態勢を取ったヘリは見事にふわりと降りてきて、静かにたちの目の前に着陸した。
「し、嶋本さん……!」
 駆けていこうとする嶋本にが声をかけると、振り返って嶋本は決まり悪そうに肩を竦めた。
「なんや今回もバタバタしてしもうて堪忍な!」
 はふるふると首を振るう。
「気をつけてください!」
「ああ! またな、ちゃん。それと――春風クン!」
「は、はいッ!?」
ちゃんのこと、大事にせぇよ! こんなええ子、滅多におらんで!」
 が目を見開き、黒羽も一瞬固まったものの「ええな!?」と念を押されてとっさに「はい!」と返事をし。嶋本は満足そうに、ニ、と笑って親指を立てるとそのままもう一人の隊員と共に「ハミングバード」と呼ばれた小型ヘリコプターに乗り込んでいった。
 そしてハミングバードは風のように飛び上がり、嶋本たちを連れてあっという間に飛び去ってしまった。
 そうして撤収していった特殊救難隊を見送って――と黒羽は二人きりとなってしまったデッキに立ち尽くしてそろって息を吐く。
「なんか……凄かったな……」
「そう、だね。嶋本さん……相変わらず、風みたいだった……。前もね、お休み中に急に連絡が入って、あんな風に風みたいに駆けていったの」
「スゲーよな。身体の作りからして違うっつーか……、人の命、かかってんだもんな。あれが、特救隊、か……」
 互いに、どうあっても今の自分たちには入り込めない世界を目の当たりにして――、どちらともなく空を見上げた。突然、空からやってきてすぐに空へと去ってしまった嶋本の姿を空の青に重ねる。
「黒羽くん……、嶋本さんも言ってたけど……もしかしたら本当にああいうお仕事、向いてるかも。私、想像できるもん。黒羽くんがあんな風に誰かのために駆けていくところ……」
 は、今度は不安からではなく純粋な気持ちで呟いた。すると黒羽は少し言葉に詰まり、少ししてから首を振るう。
「どうだかな。けど、そう簡単になりたいともなれるとも言えないんじゃねぇか? よっぽどの覚悟がいるぞ」
「そう、だね……」
 そうしてどちらともなく手を絡めて身を寄せ合う。互いに空へと駆けていった嶋本の無事を願う気持ちだったが、互いに彼の実力を知っている身だ。きっと、あっという間に解決させて無事に戻ってくるのだろう。
「また、会えるかな……」
「さぁな。けど、例え何年後、何十年後に会ったとしても……俺たちが一緒にいなかったら、めちゃくちゃ怒るだろうな。さっきの様子だと」
 言われては先ほどの嶋本と黒羽のやりとりを浮かべ、少し頬を染めたのちに小さく笑った。そしてそっと黒羽の肩に額をつくと、ふ、と黒羽も笑っての額に唇を落とし、はくすぐったさから少し身をよじって笑った。
 いずれ彼らと変わらぬ年頃になったとき――自分たちはどうしているだろう?
 けれども、不思議と不安はなかった。きっとこうして二人で、そうして彼らのように立場と責任も湛えて、ちゃんと自分たちの足で立っていると疑いもなく信じられた。そして、そうなるために、そのために一歩ずつ、ちゃんと歩いていくだろう。
 あれほど不安に満ちていた未来が、いまは確かに信じられる。それもまた――この一年で変化していったことの一つなのだろう。


 つかの間の休暇はあっという間に過ぎ――、黒羽や宍戸たち友人にも会いつつ直ぐにまたフランスへと戻る日がやってきた。

 パッキングを終えて、スーツケースの鍵を閉じてからは一度ぐるりと自分の部屋を見渡した。
 壁に飾ってあるコルクボードの横に掲げられている帽子を目に留め、ふ、と笑う。以前、嶋本からもらったものだ。
 ――嶋本との出会いは黒羽にとっても良い刺激になったらしく、もっと鍛えなくては、といっそうテニスに励むようになったらしい。

 自分も、またフランスへ戻って勉強漬けの毎日だ。
 寂しい、などと言ってはいられない。――よし、と呟いて家を出たを真っ青な空が出迎えてくれた。きっと、今日は海も穏やかだ。
 この一年で変わっていったものと、変わらないもの。――次はどう移ろっていくのだろう? それが今は、純粋に楽しみだった。

 ――またね。

 無意識に呟いた声を、そっと春の風がさらって空へと連れ去っていった。
 まるで大切な人に励まされているような気がして、頬を緩めた。――またね。もう一度呟いて、はゆっくりと歩き始めた。





ヒューマンタッチ黒羽編、+嶋本編の完結編でした。

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