Mis-, a saucy miss ?






選択フランス語――それはにとって大事な時間であると共に、少々気の重い時間でもあった。

今日も視聴覚室へ足を踏み入れれば、教室の長机にその人物は居た。椅子ではなく机の上に座って足を組み、絶やすことのない不敵な表情を浮かべている。
はチラリと目の端でその光景を捉え、なるべくその人物から遠い場所へ座ろうと歩いていった。
しかし。
「よう、
関わりたくないという願い虚しく、その人物はあろうことか話しかけてきたのだ。
「先日の小テスト、俺様に続き二番だったようだな? いつもいつも定位置をキープしてんのは誉めてやるぜ」
尊大な物言い。の眉がピクリと動く。
「跡部くんこそ、相変わらずトップで凄いね」
「ハッ、当然だろ」
努めてつっけんどんに返すとその人物――跡部はまるで意に介してないように不敵に笑っていた。
は小さく肩を落とすと適当に席についてパラパラと教科書を捲った。
学年末試験まで後十日と迫っている。
中学生活最後のテスト。しかも、自分は四月からはフランス。
せめて最後のフランス語の試験だけは完璧に終わりたいという思いがの中に強くあった。
「あん? なんだお前、最後くらい俺様に勝とうって心積もりか?」
すると暫くして頭上からあまり聞きたくない声が再び響いてきて、シャープペンを握りしめるの指が小さく震えた。
「ああ、お前んとこの元部長に聞いたんだが、お前春からフランスなんだってな?」
「……そうだけど」
構わず話し続ける跡部に適当に相づちを打って、シャープペンを持ち直してから和訳する手を進めていく。
すると跡部がとんでもない事を言い出した。
「そういうことなら俺様が特別に餞別をくれてやる。そうだな……俺様のギリシャの別荘に招待ってのはどうだ?」
「――え!?」
「もちろんタダではやれねぇ。もしお前が最後の期末考査で俺様に勝てたら……だ」
一人悦に入って語る跡部の声を聞きながら、は頬を引きつらせていた。何を言っているのだろう、この人は。という感想からだ。
常人とは違う感性の世界で生きているのか、跡部の思考回路は理解に苦しむ。
ひょっとして自分が喜ぶとでも思っているのだろうか――?自信たっぷりな跡部には悪いが、答えは「遠慮します」以外にありえない。
それは統計を取れば数多くの女子が歓喜狂乱する事なのかもしれないが――と思いながらはふと考えた。

ギリシャ――エーゲ海を一望できるような場所に跡部家が別荘を持っているらしいとは宍戸から聞いたことがある。

白い壁の建物が建ち並び、視界には潮の香り漂う真っ青な海。
時折強く吹き付ける風は数千年という時を経ても何ら変わらず、まるで太古の昔から時が止まったかのような――そんな場所。

いつかそんな風景をこの目に映して、描いてみたい……とは思った。
そしてその光景を黒羽と一緒に感じることが出来たらどんなに幸せだろう、と跡部の「ギリシャ」という言葉のみではそんな連想を続けていた。

「で、俺様の所有するヨットでクルージング――ってオイ、聞いてんのか?」

ふと不機嫌さを孕んだ跡部の声に現実へと引き戻されたはハッとして顔をあげた。
「あ、えっと……ああ、勝負するんだっけ? うん、いいよ。最後くらい私も勝って終わりたいし」
とっさに「勝負のその後」が頭から抜け出ていたはそう答え、ニ、と跡部が満足そうに口の端をあげる。
「良い度胸だ。受けてやるぜ、感謝しな」
自分から勝負を持ちかけておきながらこの言い様。それだけ言うと跡部は本当に満足したのか自分の座っていた席へと戻っていった。
としては失笑するしかない。
あれは跡部の気まぐれなのか、どうせ自分が勝つから何を約束しようと関係ないと思っているのか。
どちらにしろ最後の試験――跡部に言われるまでもなく、実はトップを取る気でいただ。
負けられない――とシャープペンを握る手に力が籠もる。
幸いコンクールへの出品絵は昨日完成し、勉強時間の確保にも成功している。これで心おきなく勉強に打ち込める、とは頭を勉強モードに切り替えた。


それからの日々はひたすら勉強、勉強、また勉強だ。
人生でこれほど勉学に没頭した日々は初めてかもしれない、というほどはほとんどの時間を勉強に費やした。
しかし、世の受験生はこんな日々をもっと長く続けているのだ。
黒羽も今頃は受験へのラストスパートで頑張っているはずだと思うと、やる気が漲ってきた。


「俺としたことが……ノートを忘れるとは失態だな」
試験開始まであと数日という二月の最終週――一人の少年がぶつぶつ一人ごちながら視聴覚室へ足を進めていた。
ガラッ、と視聴覚室のドアを開いて中へ入ると目的地には既に先客が座っており、チ、と舌を打つ。
しかし少年は次の視聴覚室使用予定が三年生であったことを思い出して、少々態度を改めた。

「あの……すいません」

早めに教室を訪れ、一人黙々とフランス語の問題集を解いていたはふいにかけられた声にハッと机から顔をあげた。
「はい?」
すぐ横を向くと、鋭い目つきをした細いストレートの髪が印象的な男子生徒が立っていて、あ、と目を丸める。
同様に何故か眼前の少年もまた切れ長の目を見開いていた。

「テニス部の……」
「ああ、宍戸先輩の……」

互いに声が重なって、互いに押し黙る。先にの方がふっと笑みを浮かべて声をかけた。
「日吉くん、だよね? えっと、何か用事?」
目の前の生徒が日吉という名の宍戸の後輩であることはにはすぐ分かった。今年度の夏の中体連、関東大会で惜しくも青学の越前リョーマに破れたあの一戦が強く印象に残っていたからだ。
少年――日吉の方もまた、目の前にいる三年生の名と顔くらいは知っていた。先輩である宍戸と同じクラスの女生徒――は時折テニス部の練習をスケッチブック片手に見ていたし、何よりあの宍戸と仲の良い、一部では交際しているという噂さえある少女だ。嫌でも覚えていた。
それ故に日吉は少々身構えてしまう。
「あなたの座ってる席に俺のノートが入ってるんですよ」
普段通りといえば普段通りなのだが刺々しい口調。
「え……?」
は少々眉を寄せてから、あ、と意味を理解したように机の下の教科書入れに手をやった。
「そう言えば前の時間は二年生が使ってたんだっけ……ちょっと待ってね」
ノートを忘れていったのだろうと目線を落とすと案の定自分のものではないノートが一冊入っていて、は日吉に渡そうとした。が、ノートの表紙に書かれていた"日吉若"という文字が目についてふと手を止める。
「ひよし……何て読むの? わか……くん?」
言われた日吉はピクリと反応した。
「わかし、です。ひよしわかし」
少々ムッとしたようにうんざりしたように返す。大抵一見で自分の本名を読める人間などそうは居らず、これまでの人生で数え切れないほどされてきた質問だったからだ。
「わかし、か。へぇ……」
逆にの方は感心したような、感嘆の息を漏らした。
「素敵な名前ね」
そうしてふわりと微笑んで日吉にノートを差し出す。
意味も分からず笑みを向けられた日吉は内心強い反発を覚えた。
取りあえず「良い名前だ」とか取って付けて言えば良いとでも思ったのだろう、と少々捻くれた解釈をしたからだ。
「どういう意味ですか?」
え?と目を見開いたに尚も突っかかる。
「何の根拠もなく素敵だ何だって、どうせ本心じゃそんなこと思ってないんでしょ?」
流石にはキョトンとしていた。恐らくこの後は泣くか逆ギレするか――そのどちらかだろうと予測していた日吉の期待は裏切られ、は小さく首を振るった。
「名前の響きが韻を踏んでて、良いなぁって思ったの。とっても素敵だな、って……。ごめんね、気に障った?」
そうして遠慮がちに微笑むを見て、日吉は半歩ほど後ずさった。

『女ってのはさァ、こう、ちょっと生意気なくらいがそそるっつーか。良いよな』

以前、レギュラー陣の間で"好みの女性像"談義になった際、確かに宍戸はそう言っていた。
だから交際相手と目されるは当然宍戸の好みに沿い、生意気な女なのだろうと色眼鏡でを見ていた日吉だ。初めて言葉を交わすに必要以上につっけんどんな口調で接した理由もそれ。
しかしどうだろう。
自分の名前を聞いて適当ではなく真摯に答え、柔らかく微笑んでいるは生意気とは程遠い。
むしろ"清楚"や"可憐"という言葉が日吉の脳裏に浮かんだ。
「全くあの人は……無いものねだりってヤツか」
ごく小さな声でこの場に居ない宍戸に向かって毒づくと、は首をかしげていた。
いえ、と言葉を濁してからノートを受け取る。
「ありがとうございます」
「ううん。テニス、頑張ってね」
ニコッと笑ってくれたに日吉は今度は先程より素直に、はい、と返事をしようとした。まさにその時。

「日吉じゃねぇか、アーン? お前こんな所でなにやってんだ?」

その声を背中で受け、ゲ、という顔を二人は確かに揃って浮かべた。
「跡部元部長」
「跡部くん……」
声の主を確認せずとも誰なのかを瞬時に悟り、二人の声が重なる。独特の艶を放つ跡部の声。特徴的な喋り方を苦手としているのは、二人の共通点なのかもしれない。
「サボってねーでさっさと教室戻らねぇと次の授業始まるぜ?」
「言われなくても戻りますよ。元々ノート取りに来ただけですし。跡部さんこそ、樺地がいなくてもちゃんと授業に出られるんですね、驚きましたよ」
「あん? 生意気言ってんじゃねーぞ」
そんなやりとりをしながらドアの方へ向かおうとした日吉は、ふと思い立ったように足を止めると一度の方を振り返った。
「では、俺はこれで失礼します。先輩」
そしてに丁寧に頭を下げてから視聴覚室を出ていく。
日吉が出ていったのを見送って、跡部は腕組みをしての座る席の方へと近づいてきた。
「ヤツのハングリー精神は買うんだが、小癪な所はちっとも直りゃしねぇ」
愚痴る跡部には苦笑いを漏らしていた。跡部が言えた義理ではない、という含みが込められていただろうことは想像に難しくない。
「でも、すっごく礼儀正しいじゃない」
「ハッ、誰が礼儀正しいって?」
「日吉くんよ。それに日吉くんって、ちょっとテニスのフォームが変わってるけどポージング自体はすっごく綺麗なんだよね。ちゃんと身体の使い方を訓練して育ってきたんだろうなぁって思って」
言っては薄く笑った。
跡部はそのことに対しては深く追求せず、の横を通り過ぎる。
「お前も人のことより自分のこと気にしてねぇと負けるぜ? 試験はあと数日と迫ってんだからな」
「……跡部くんこそ」
はというと通り過ぎた跡部の背に向かってぼそりと呟き、再び問題集に集中すべくシャープペンを握り直した。

そして短くも長く苦しい学年末試験が始まる。
二月の最終週から三月の一週目にまたがって行われるこの試験。
余裕の表情でこなしていく者ももちろんいたが、大抵は神経をすり減らす勢いでこの十日あまりに集中力の全てを注ぎ込むものだ。

も例に漏れず、フランスへ発つ前にみっともない成績だけは残していくまいと今までの努力の成果を精一杯ぶつけた。
特にフランス語――、今回こそはパーフェクトに終わるのだと自身に言い聞かせ、何度も何度も丁寧に答案を見直して時間いっぱい出来る限りのことをした。

結果は――。

「総合一位、跡部景吾……オール満点」
「うげっ、相変わらず化け物じみてんなぁアイツ」

張り出された成績表を読み上げるの横で、宍戸は頬を引きつらせていた。
「凄いね、やっぱり」
一端成績表に目を通してからは宍戸に背を向ける。
? どこ行くんだ?」
「これから選択フランス語最後の授業なの。多分、テストの答案返しと答え合わせで時間終わっちゃうと思うけど」
振り返って宍戸に答え、頑張れよ、と言ってくれた宍戸に笑みを返してから視聴覚室へと向かう。
視聴覚室に足を踏み入れれば、テスト期間とは全く違う春休みを目前にした緩い空気が広がっており、もふっと肩の力を抜いた。
そして授業が始まると、一人一人が教師に名を呼ばれて答案用紙を受け取ってくる。

「よう、

跡部も例に漏れず教卓まで答案用紙を取りに行き、帰り際にに声をかけてきた。
「総合一位、おめでとう」
「ハッ、当然だろ。……ま、お前のことも誉めてやるぜ?」
の机に置かれていた答案用紙に目線を落とし、跡部が尊大に言う。
「仕方ねぇ約束だ、俺様の別荘に招待してやるよ」
そこには赤いペンでハッキリと"100"の数字が描かれていた。
はほんの少しだけ口の端を上げる。
「折角だけど、遠慮する」
「あん? 俺様の誘いを断ろうってのか? 言っとくが、これは光栄な事だぜ?」
内心、としては「お断りします」と声を大にして言っていたことだろう。しかし今はあえてそれは見せず、は跡部の答案用紙の方へ目配せをした。
「そうかもしれないけど、私にはその権利、ないみたいだから」
跡部の答案用紙に書かれた数字も100。
つまり、勝ち負けはなくあいこ。同着と言うことだ。

跡部と勝負をしよう、などとはは全く思っていなかったが一端勝負となれば負けたくないのも事実で。
しかし目標としていたパーフェクトを達成できたことで、はある程度の満足を得ていた。
しかも、同着だったおかげで跡部の途方もない申し出を断る絶好の理由を手に入れることができたのは幸運と言って良いだろう。

跡部の方もの言っている意味は察したのだろう。フ、と笑って引き下がった。
は安堵すると共にふわっと笑って名残惜しげに言う。
「もう跡部くんを負かす機会がないって思うと、ちょっと残念かも」
万年二位だった自分。いつもいつも上に跡部がいたというこの環境を苦手としていたのは事実だが、もう二度とないことだと思うと少々寂しい気がしたのだ。
それに一度は跡部に勝っておきたい、と少なからず思っていたこともまた事実で。その機会ももう、巡ってくることはないのだ。

そんなに跡部はハハハッ、と笑って去り際に一言こう言った。

「生意気な女」








この時間、仏語で会話したり意地の張り合いしたりもしたんだろうなぁ。


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