Relations





 脳裏を、大音量で氷帝コールが駆けていく。
 数日前まで、自分が受けていた氷帝コール。彼らの期待に、少しは応えることが出来たのだろうか……?
 それに――。

『プロになろうと思った事、ない?』
『正直言うと……あります』
『鳳くんは……テニスの為に夢を犠牲にしたの?』
『俺は……』

 ぶわっと、最近、怒濤のように色んな感情が押し寄せることがある――と、鳳はまだ残暑の厳しい空を見上げた。
 中学生活最後の夏の大会が終わったばかり。全国制覇こそ叶わなかったが、今年は無事に関東大会を突破して200余名の部員を率い、全国へと連れて行けた。
 磨きをかけた得意のサーブは中学最速記録をマークして、記録保持者という名誉にも預かっている。
 だけど――、夏が終わっていよいよ「引退」を実感したとき、どこか心にぽっかりと穴があいてしまったような気がした。

 去年、宍戸たちもこんな気持ちだったのかな――、などと後追いで彼らの心情を考えることは、後輩にとっては慣れた作業だ。

 そんな彼らは、今はこちらの感傷からはほど遠いに違いない。なにせピカピカの「新一年生」なのだから、同じく高体連を終えて引退した三年生の代わりに虎視眈々とレギュラー入りを狙っているだろうからだ。
 むろん、自分とて高校にあがったらまたテニス部に入るつもりではいるが――でも。
 鳳は自宅の防音室でパラパラと楽譜を読みながら小さくため息をついた。

『鳳くんは……テニスの為に夢を犠牲にしたの?』

 以前、一つ先輩にあたるにそう言われて……「違う」と否定した。でも、だけど。もし、テニスを選んでいなかったら……?
「先輩……」
 もしもピアノ一本に絞っていたら、今ごろ自分ものように日本を飛び出して自分の夢のためにすべてを掛けていたのだろうか? 
 けれども、いくらテニスが一段落したからといって、今さら足掻いても"時既に遅し"とはまさにこのことだ。
 小さく首を振るって楽譜を閉じると、ふとポケットに入れていた携帯が震えた。反射的に取り出すと、画面に見知った相手の名が記されている。宍戸からだ。
「――はい!」
「長太郎か? お前、いま何してんだ?」
「え? 家で……特に何もしてませんけど……」
「ならよ、ちょっと出てこれねぇか? ちょうど今、俺んちに黒羽が来ててさ――」
 それはいつもの宍戸からの自主練習の誘いだったが、同行者の存在に鳳は少しばかり目を見開いた。
 黒羽――とは、千葉の六角中のテニス部であった黒羽春風のことである。関東ではそれなりに名の知れた選手で、宍戸はむろん鳳もたびたび大会で顔を合わせ、互いに見知ってはいたが、そんな「ただの顔見知り」から「友人関係」に発展したのは決定的な接点ができたからだ。
 その接点とは、宍戸のもっとも親しい女友達であり、鳳にしても先輩にあたるの存在である。どういう因果かと黒羽は交際関係にあり、がパリに発つ際に三人そろって見送ったという経緯があり――あれ以来、を通して「ただの顔見知り」のラインを超えてしまった。
 黒羽と宍戸は、いっそ呆れるほど「運命の悪戯」という言葉が似合っているように思う。同じ日に生まれ、そろってテニス馬鹿、そして互いに泳ぎも得意で犬が好きという、まるで親しくなるために出会ったのではないかと思えるほどの共通点があり、当然のように親交を深めていったのだ。
 休みの際は互いに行き来しあってテニスの練習などしているらしく、鳳もたまにその中に加わることがあった。今回もそうなのだろう。
 宍戸の誘いを断る理由もなかった鳳は、手早く準備をするとテニスバッグを背負ってよく使っているストリートテニス場へと急いだ。そうして見えてきたテニスコートに小走りで近づくと見知った二つの影。相変わらず帽子をキャッチャー被りにした宍戸と、自分とほぼ身長も体格も同じである長身の黒羽だ。
「長太郎ー!」
 宍戸がこちらに気付き、手を掲げてくれた。
「よッ!」
 黒羽も笑みで迎えてくれ、二人のすぐそばまで駆けて鳳はぺこりと頭を下げた。
「こんにちは、宍戸さん。黒羽さん」
「急に呼び出しちまって悪かったな」
「いえ……、俺もやることもなくて、時間を持てあましていましたから」
 宍戸の声に首を振るうと、黒羽がカラッとした声でハハッと笑った。
「鳳は引退したばっかだからな。気ぃ抜けちまったんだろ?」
 俺も去年、そうだったしよーなどと言われて鳳は肩を竦めた。まったくの図星だ。するとそれを聞きつけて、若干宍戸の眉がつり上がる。
「気が抜けただぁ? 甘ったれてんじゃねぇよ。引退したからってサボってっと、高等部にあがった時に恥かくのはお前だぜ?」
 鳳は一瞬、言葉に詰まる。――高校でもテニスを続けるとは言っていないではないか。と僅かばかり反発心を覚えたものの、宍戸にとっては自分が高等部でもテニス部に入るというのは揺るぎのない決定事項なのだろう。すみません、と呟いて軽くストレッチに勤しんだ。
 その間、黒羽と宍戸はコートに入って打ち合っており、鳳の目線は彼らを追う。二人は、正反対と言ってもいいほどプレイスタイルが違う。黒羽は長身を活かしたサーブやボレーが得意で鳳自身と傾向が近く、宍戸はライジングを得意とするカウンター型だ。
 なるほど、こうして見ていると黒羽は身体能力が高いのがよく分かる。活き活きと身体全体を使ってショットも多彩で、自然と気持ちを持ち上げられるようなプレイだ。――が彼のプレイに魅せられたというのも分かるな。と、鳳は遠い異国の地にいるを浮かべて小さく笑った。
「鳳ー! 打とうぜ!!」
 しばらくすると区切りが良いところまで打ったのか、コート上の黒羽に呼ばれて鳳は宍戸と交代する形でコートに入った。
「よろしくお願いします!」
「おう、こっちこそよろしくな!」
 ――重い。と開始したラリーの手応えに鳳は少しばかり顔を顰めた。ずんずんと早いペースで返球の来る宍戸とのラリーもなかなかに大変ではあるが、黒羽の打球はいっそ鉛のように重い。「馬鹿力」と自他共に認めている自分ですらそう感じるのだ。パワーに関しては彼の方が一枚上手かもしれない。
 しかも――。
「しまったッ……!」
 重いボールが苦で、ちょっとでも浮き気味のリターンをすればもうアウトだ。不味いと瞠目した鳳に対し、黒羽は絶好のチャンスボールにフワッと飛び上がって鮮やかに身体を捻っていた。刹那、勢いよく逆サイドに見事なボレーが決まり、器用に片足で着地した黒羽は、ニ、と笑った。
「何やってんだ長太郎ー! 黒羽のソレはフォロースルーが弱点なんだからよ、きっちり返せや!!」
 すかさず野次が飛んで、鳳はムッと眉を寄せた。――このボレーは黒羽の得意技で、確かにリターンできれば確実にポイントが取れる技なのだが、リターンできないことが前提の技でもあるため容易くリターンなどできるはずもない。第一、言っている宍戸だって一度たりともリターンに成功していないというのに――と思うも対する黒羽は終始笑顔で、「お前も返せないだろー?」などと今の宍戸をたしなめ、宍戸も軽口で返して笑い合っている。
 過敏に反応する方が間違いなのだろう、と気を取り直して鳳はしばし黒羽とラリーを続けた。
 真剣勝負をすれば、絶対の自負があるサーブでサービスゲームを落とすのはほぼゼロに近く、おそらく自身は勝てると思うのに。ラリーだとやっぱり分が悪いよなぁ、と感じつつ黒羽との打ち合いを終えて鳳は汗を拭った。やはり、引退して少しだけ気持ちがテニスから離れてしまっているのかもしれない。
 宍戸たちはこうして共に練習する時、単純に「打ち合い」を楽しんでいるわけではなく互いに情報交換をしているようで、おおよその場合、宍戸があれこれ黒羽に訊いている。むろん母校の情報を漏らすなどということではなく、テニスのことである。
「サーブがもうちょいイケりゃ、シングルス狙えると思うんだがなぁ。お前、どうやって打ってんだ?」
「だから、手首を捻るんだって。こうだって、こう! 基本だし、フラットでもスライスでも応用効くから便利だぜ!」
 今もなにやらサーブの話題で盛り上がっており、鳳がぼんやりと眺めていると黒羽はごく自然にこちらに話をふってきた。
「鳳はどうだ? 俺、けっこうお前の記録を目標にやってんだけど全然抜けねぇんだもんな。コツとかあんのか?」
「え……? コツ、ですか?」
 急に話をふられてキョトンとすると、すぐさま宍戸がヒラヒラと手を振った。
「ムリムリ。長太郎のスカッドはすげぇけど、肝心のコイツは感覚で打ってんだしあんま参考にならねぇよ」
「んなこたねぇだろ。なぁ?」
 鳳はしばし黙り込んで考えた。宍戸の意見ももっともだし、かばってくれた黒羽の意見ももっともだ。いや正確には過去形で宍戸の意見が正しく、後追いでちゃんと技術的なことも考えて高速サーブに磨きをかけてきたつもりだ。
「感覚だけで中学記録は作れねぇって! それに鳳の場合、毎回サーブ速度あげて自分で自分の記録を抜いてんだもんな、あっぱれだぜ!」
 ちゃんと研究して頑張ってんだよな。と続けられて、ぐ、と鳳は言葉に詰まる。つくづく、カラッとあっさり他人を認めることのできる人だな、と鳳は感じた。こんな自然体な選手は、少なくとも氷帝にはいない。
「俺はそんな……。黒羽さんこそ、ボレーも多彩でショットも力強いし、羨ましいです」
「お前ならこんくらいすぐ出来るようになるって!」
 そうして結局はテニス談義に戻り、流れで鳳は黒羽とボレーの特訓に勤しみつつ「あと一人いりゃ、ダブルスが出来るのによ」とふと宍戸が呟いた。三人では、試合をすれば残りは審判に回るしかなく、シングルスしかできないのだ。
「ダブルスといや、宍戸は来年はまた鳳とペア組むのか?」
「まあ、そのつもりだけどよ。長太郎はシングルスでもいけっからなぁ。学校別って不便だよな、お前と組んでもけっこういけんじゃねえかって思うし、やってみてぇんだけどよ」
「そうだな。ウチのダビデもそっちの忍足とまた組みたいとか抜かしてやがったし……学校に拘りすぎんのも勿体ねぇよな。そのうちローカルな大会とか出てみっか?」
「おう、いいな! つか、ダブルスだったらお前と長太郎が組んだらめちゃくちゃ強そうだよな」
「え……? 俺と黒羽さん、ですか?」
「ああ。サービスゲーム絶対有利で速攻試合が終わりそうだぜ! お前らみたいなでかいペアが来ちまったら、威圧感もスゲーしよ」
 確かに自分と黒羽はプレイスタイルも身長・体格ともに酷似しており合っているのかもしれないが、と鳳が深く考えそうになった先で既に話題は移り変っており、なおテニス談義は続いている。ハハッと笑って盛り上がる彼らは本当にテニスが好きで気が合っているのだろう。いつも鳳の前では「先輩」然としている宍戸も黒羽の前だと至って普通で、「普段の宍戸」はどちらかというとこうなのかもしれない。むしろ、大らかな黒羽のことを宍戸は頼りにしているようにさえ見える。
 黒羽は「先輩」という風体でなく自然とこちらを気遣ってくれ、もし自分に兄がいたらこんな感じなのだろうか。とぼんやり思いつつ、鳳はハッとあることを思い出して他意もなくこんなことを言ってみた。
「黒羽さん」
「ん……?」
先輩は、お元気なんですか……?」
 瞬間、はたと鳳の眼前にいた二人は動きを止めた。宍戸は黒羽を見上げ、鳳と同じ目線の高さだった彼は少しだけ目を見開いたあとに数度瞬きをして後頭部に手をやった。
「あー……、元気なんじゃねえか?」
「え……!?」
「いや、元気だと思うけどさ。そう頻繁に連絡取れるわけじゃねぇしなぁ」
 そしてあろう事か、黒羽は宍戸の方へと目線を送っている。
「お前、知ってっか?」
「ハ、ハァ!? お前が知らねぇのに俺が知るワケねーだろ!」
 声を荒げる宍戸を横に、鳳は信じられないものを見るような気持ちで大きく目を見開いた。――これは大らかというレベルなのだろうか? 仮にも自分の恋人が海外にいて、近況を知らなくて、そしてさらに彼女の異性の友人に訊くなど、とても信じられない。
「そ、そんな……先輩、寂しいんじゃないでしょうか。心細いでしょうし」
 ついに同情気味な声をあげると、またしても二人は動きを止め、今度は互いに顔を見合わせて苦笑いのようなものを浮かべた。
「いや、まあ……どうだろうな」
「ナイナイ、ぜってーないって! そもそも自体がんなマメじゃねえってのに」
 さすがに黒羽は言葉を濁したものの、宍戸に至ってはぷらぷらと手を振ってそう言い切ってしまった。
 こういう彼らのある意味「男らしい」部分に憧れていると言えばそうであるが――、仮に自分がそういう立場に追いやられたらどうするだろう? まだ恋人も想い人もいないため、想像の域を出ないが、自分の大事な存在が海を隔てた向こうに行ってしまって、まして自分の知らない異性に囲まれて生活していることを考えれば。とても冷静でいられる気がしない。

『パリへ行ったら、鳳くんのピアノ聴けなくなっちゃうな……』

 ふと、卒業間際に寂しそうにしていたが脳裏に過ぎって、鳳は思わずグッと拳を握りしめた。
「黒羽さん……、宍戸さんにとっても、先輩は大切な人ですよね? 心配じゃないんですか……!?」
 は、穏やかでふわふわとしていて――きっと自分が黒羽の立場だったら気が気ではないだろう。いや、今の自分ですらこうしての身を案じることがあるというのに――と思ったことを口に出すと宍戸はどこか困惑気味で、黒羽は肩を竦めてから、ふ、と笑った。
「心配じゃないわけじゃないさ。けど……なんつーかな、あいつはあいつで毎日忙しくしてると思うしよ。それに、俺が心配だのなんだの横から口出したら、結局あいつを困らせちまうだけだしな」
「そ……、そう、かもしれませんけど……」
「けど、のこと、心配してくれたんだよな。サンキュ!」
 ニカッ、と満面の笑みで言われて鳳は言葉を無くしてしまう。おまけに「アホ!」と宍戸に悪態と共に頭をはたかれて、それ以上言葉を挟むのは断念した。
 心配ではないわけではない。というのはきっと、黒羽の本音なのだろう。黒羽のことをそんなに多く知っているわけではないが、いつも自然体で何かしらの「弱さ」を見せた瞬間など一度もない。だからこそ、心配という感情以上にのことを信頼して、この場所から大らかに見守っているのだろう。
 大きいな、と鳳は小さく息を吐いた。身長は若干自分の方が高いはずだというのに、黒羽の方が何倍も大きく見える。
 敵わないなぁ、と鳳も肩を竦めつつ、夕暮れが近づいてきてその場は解散となった。
 今日は宍戸家に泊まるという宍戸と黒羽を見送って、鳳も自宅へと茜色の空間を帰路につく。
 なんだかんだで身体は軽く、やっぱりテニスをやるのは一つの習慣になっているな、と再確認して改めて思う。

『俺、犠牲にしたなんて思ってませんよ。ピアノは趣味でこうして続けてるんですし』
『プロになろうと思ったらとてもテニスはできません。手を、何より大事にしなくてはいけませんから』
『ピアニストにはなれなくてもピアノが弾けないわけじゃない。だから、後悔はしてません』

 それほど、深く考えることはないか――と、もう一度、過去に自分で言った言葉を浮かべて鳳は強く頷いた。
 テニスが好きで選んだし、ピアノだって趣味で続けていこうと思っているし。やれる限り、どちらも精一杯やればいいだけだ。どちらもプロになる気がないなら、自由に時間の取れる学生時代しか謳歌することはできないのだから。むしろ、悩んでいるだけ時間がもったいないというものだ。
 深く考えすぎることはない。もう少し、自分も大らかな気持ちでやっていこう。――とテニスバッグを背負い直して鳳は自宅までの道を鼓舞するように駆けていった。


 そして――。

「凄いなぁ……」
 引退から数ヶ月後の、中学最後の冬休み。――新年を間近に控え、鳳は音楽の都・オーストリアはウィーンにいた。氷帝の「短期留学制度」を活用してのことだ。
 クリスマスを過ぎたとはいえ、ウィーンの冬の目玉でもあるクリスマスマーケットは、市庁舎前を中心にいたる所で軒を連ね、観光客も大勢訪れて賑わっている。
 少し日が落ちてくるとイルミネーションが鮮やかで、ウィーンの中心部を一周するトラム沿いに歩いていけばオペラ座が見えてきて、ふ、と鳳は笑った。
 憧れの本場で過ごす時間。――もこんな気持ちだったのかな、と想像しつつ鳳は白い息を吐きながらポケットから携帯電話を取り出した。自分はもう、この地で切磋琢磨することは叶わないが、それでも――偉大な音楽家たちが過ごしてきたこの場の空気を感じられるこの街は、ひどく魅力的なものだ。
 ピ、と番号を操作して――懐かしい声が聞こえてくるのを待ち、鳳は、ふ、と笑みを零した。

「こんにちは。お久しぶりです、鳳です、鳳長太郎。お元気でしたか? 実はいま――――」

 冬枯れた空を見上げながら、鳳はどこからか聞こえてきたバイオリンの音色にそっと目を細めた。





「Blossom out into...」の鳳側の発展系?でした。
しかし、宍戸家で宍戸と黒羽がどう過ごしてるかが地味に気になります……。

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