Pledge −her side- 「やるよ」 登校してきたばかりの始業前。 呼ばれて振り返ると、宍戸くんが私の目から少し視線を逸らして小さな包みを差し出してきた。 唐突で、停止ボタンを押された機械のように動きを止めた私の耳に宍戸くんの軽い舌打ちの音が届く。 「あ、あのミントチョコ……美味かったからよ」 言いにくそうな、少し照れたような声で宍戸くんが呟いて、あ、と漸く何の事だか理解する。 「わぁ……ありがとう」 その可愛い包みを受け取って、ちょっとだけくすぐったい気分になる。 「これ、赤坂の有名なお店の……わざわざ買ってきてくれたの?」 焼き菓子が評判のお店で、思わず訊いてみたら宍戸くんは焦ったように被っていた帽子のツバに手をやった。 「ちょ、長太郎に付き合わされたついでだ。ついで」 耳朶を微かに染めた宍戸くんよりも、その言葉から連想される光景を思って私はゴクリと息を呑んだ。 「鳳くん、ひょっとしてあの全てにお返しするのかな……、凄いね」 バレンタイン当日、ひっきりなしに女の子に囲まれてプレゼント攻撃を受けていた鳳くん。 律儀な彼らしいけど、と柔らかい鳳くんの笑顔を浮かべていると宍戸くんは呆れたようにヒラヒラと手を振った。 「俺は危うく荷物持ちさせられる所だったけどな」 その様子からは、さぞ周りから注目の的だっただろうとか、お菓子のお店で狼狽している宍戸くんとか、その全部に慣れてそうな鳳くんとか色んなものが浮かんできて自然口元が綻んだ。 ありがとう、ともう一度笑ってお礼を言って、貰った包みをカバンに仕舞う。 三月十四日。 期末試験も終わって後は卒業式を待つばかり。 この時期の授業は短縮で早く終わるんだけど、早々に帰る生徒そうはいない。 エスカレーター式とはいえ全員がこのまま高等部にあがるわけでもなく、何より馴染んだ中等部とお別れという事もあって放課後は友人同士のお喋りタイムが恒例になっていた。 「おい、」 無事コンクールへの出品も期末試験も終わって自由時間が増え、例に漏れず友達と雑談していた私の声は自分の席で雑誌を読んでいた宍戸くんの呼びかけに中断された。 「何……?」 こっちへ来いと無言で促す視線に宍戸くんの席へ歩み寄るとズイっと携帯を手渡される。 「え?」 「向日のヤツがお前に代われだとさ」 その行動以上に予想もできなかった台詞。 益々首を傾げる。 「向日くん……?」 小柄で、体操部顔負けのアクロバティックが得意なテニス部のレギュラー。 顔と名前は一致するけど、話した事は数回あるかないか。 何でまた、と少し緊張気味に携帯を耳にあてた。 「もしもし……」 「か? 俺、黒羽だけど」 聞こえてきたのはよく見知った声で、その瞬間液体窒素を全身にかけられたかのように身体がフリーズしたのを確かに感じた。 「……え? え!? 何で……だって向日くんって……えぇ!?」 何とか解凍して出てきた声は我ながら間抜けで、再び雑誌へと目を移していた宍戸くんが反射的にこちらを向いてきた。 「校門の所で向日に会ってさ、携帯貸してもらったんだ」 「校門って……氷帝に来てるの?」 説明してくれる黒羽くんの声に何とか応えるも、まだ頭は状況をちゃんと理解するに至っていない。 「何で……テニス部で何かあるの?」 真っ先に出てきたのが引退したテニス部の事で、そう口走ったら携帯越しにほんの少し残念そうな呆れたような声。 「いや、待ってたんだ」 キュッ、と胸が締め付けられる。 「もう授業終わったんだろ?」 黒羽くんの声はあったかくて、優しくて、頬が自然熱を帯びてくる。 「う、うん……今校門にいるんだよね?」 「ああ」 「分かった、すぐ行くから!」 じゃあ、と言って携帯を切ると一体何なんだと眉を寄せている宍戸くんに携帯を折り畳んで返した。 「ありがとう」 「別に」 「……黒羽くんがね、来てるんだって。向日くんに会って携帯貸してもらったみたい」 受け取った手がピクッと一瞬反応して、僅かに目を見張った宍戸くんはそのまま携帯をポケットに押し込んだ。 そうかよ、と呟いてまた雑誌に手をやる。 そのまま私は手早く帰り支度をした。 教科書類をカバンにつめた所ですぐ横の窓にうっすらと自分の姿が映って何となく前髪に手を当てる。 「髪……変じゃないかな?」 梳きながら無意識に呟いた直後、バタッと雑誌を机に叩きつける音がした。 「知るか! さっさと行け!」 眉をつり上げて、鬱陶しいと言わんばかりの宍戸くんの声を聞いて若干うわずっていた気持ちが落ち着く。 「帰るの?」 「うん、ゴメン。また明日ね」 友達に手を振って、カバンを手に教室を出た。 廊下は走らない、と小学校の頃張り紙がしてあったっけ。 先生達からも何度も言われた。 それは十二分に分かってるけど、と歩きながらも逸る気持ちに自然早足になる。 校舎を出て、校門の方へ視線を移すと壁に寄りかかっている背の高い人影が目に入って気が付けば私は駆けだしていた。 「黒羽くーん……!」 「よっ」 目の前まで走っていくと明るい声でいつものように軽く手を挙げて迎えてくれて、自然と表情が緩む。 校門を出て、並んで通学路を歩ける事が凄く嬉しい。 「六角はもう卒業式済んだんだっけ?」 「ああ、二日前にな。氷帝は?」 「二十日だからもう少し」 学校が違し、一緒に下校なんて出来ないからなぁ。 ふ……、と笑みを浮かべていると脇に植えてある桜の木の蕾が日差しを受けて鮮やかに光った。 それに手を翳してから指で四角の枠を作り、桜並木が一面に彩る様子を浮かべる。 「後数週間したら綺麗だろうなぁ、日に日につぼみが大きくなって、先がピンクに染まってくるの見てると嬉しくならない?」 桜が満開の頃には黒羽くん高校生かぁ、と相づちを打ってくれた黒羽くんの方を振り返って、あ、とある事を思い出した。 「高校合格おめでとう!」 まだ直接言ってなくて、そう微笑みかけたら黒羽くんは大きな手で私の頭をポンと叩いた。 「サンキュ」 結局そのまま私の家に行くことになって、いつもの通学路を今日は二人で一緒に歩いた。 家の近くまでくると黒羽くんはキョロキョロと辺りに視線を巡らせて、ちょっと懐かしそうに木々で囲まれた公園へ顔を向けた。 「そうか……大会会場コートの近くだっけ? んち」 「うん」 そのおかげで私は黒羽くんに出会えたんだよなぁとか考えた瞬間、ブワッと風が舞い上がってザワザワと木々が鳴り、わ、と反射的にスカートの裾を押さえてもう片方の手で髪を押える。 「わぁ……凄いね、春風」 「え?」 「春三番くらいかな? いまの」 乱れた髪を耳にかけながら私は一歩前へ進み出た。 あたたかくて力強い風はその名の通り黒羽くんみたい。 さっきよりも緩やかな風がふわりと前髪を揺らして、そのあたたかさが身体中に広がっていくような気がした。 「この季節が来たら、風が吹く度黒羽くんの事思い出しちゃうなぁ」 名は体を表すってことわざが、こうもピッタリ合う人は他にいないと思う。 初めて、黒羽くんの名前を知った時もそう感じたんだっけ。 太陽を背に吹き抜ける風を受けて……きっと、ずっと私はこうして黒羽くんを想うんだろうな。 それが凄く幸せで、少し苦しくて胸がいっぱいになるのを感じていたら黒羽くんが直ぐ横に肩を並べてきた。 「んじゃ、俺は風が吹いたらが俺のこと考えてるって思うか」 ピタっ、と思わず足を止める。 サラッとそんな事を言われて、どう反応すればいいのか困って徐々に目線が下がっていく。 「……何だ?」 「いや、だから……」 キザだ、なんて言えなくて俯いた顔が熱を持っていくのを自覚していると、頭上から呆れたような声が降ってきた。 「お前が先に言ったんだぞ」 「それは、そうだけど」 言うのは平気なのに、同じように言い返されるとどうしていいか分からない。 顔をあげるべきか、このまま黙っているべきか考えあぐねていると急に手のひらにあったかい感触。 見上げると、私の手を取った黒羽くんがニッと口の端を上げた。 つられて私もゆっくり微笑んでみせる。 繋いだ手から伝わってくる温もりがくすぐったくて、私はほんの少し黒羽くんの方へ身体を寄せた。 チラッと黒羽くんを見上げると精悍な横顔が映って、熱を持っていた頬の温度が更にあがる。 黒羽くんの事、ハッキリ好きだって気付いたのいつだっけ。 出会った時から、もう好きだったのかもしれない。 でも、気持ちがどんどん膨らんでいって、昨日より今日の方がずっと好きで。 こうしていつまでも一緒に歩いていけたら良いのに……繋いだ手を離してしまっても、きっと私は黒羽くんを忘れられない。 キュッと手を握り返して、そんな考えを押し戻すようにふっと笑う。 少し歩いていくと自宅が見えていた。 着いたよって声をかけて、黒羽くんを中へ促す。 「ただいまー!」 玄関のドアを開けると、部屋の奥からお母さんが出迎えてくれた。 「おかえりなさい……あら?」 笑顔で迎えてくれたお母さんが、黒羽くんの方を見て目を瞬かせる。 「、お友達?」 「うん、黒羽くん」 横目で黒羽くんを見たと同時に、黒羽くんはペコリと頭を下げた。 「初めまして、さんとお付き合いさせて頂いている黒羽春風と言います」 肩にかけていたから良かったものの、手に下げていたらドサッとカバンを落としていただろうと考える事が出来たのは数秒後。 「まぁ、あなたが黒羽くん。娘から色々話を聞いて一度会ってみたいと思ってたのよ」 お母さんが微笑んでそう言い終わるまで固まっていた私は、視線だけで二人の顔を数往復させた。 言葉にしてキチンとそういう事を言われた事はなくて、驚きと照れくささと嬉しさで自分でもどんな顔をしていたか想像すらできない。 綺麗で自慢のお母さん。 ほんのちょっと頬を染めて見とれてる様子の黒羽くんにクスリと笑みが零れる。 黒羽くんを二階の部屋に通すと、私はカバンを置いてブレザーを脱いだ。 そのままお茶を入れに下へ降りる。 洗面所で手を洗ってキッチンへ向かうと、先にお母さんがティーカップを棚から出してくれている最中だった。 「ありがとう」 代わって準備し始める。 「が話してた通り、背が高くて素敵な子ね。それにとてもちゃんとしてて」 背中にお母さんの柔らかい声があたって、あけようとしていた紅茶缶を持つ手がピクッと強張る。 ハッキリ付き合ってると言い切ってくれた時の声が耳に残っていて、耳朶が熱い。 「……うん」 笑って、リビングの方を向くとお母さんはバッグを取り出して中を確認していた。 「お母さん?」 「ちょうどが帰ってきた時、出かけるところだったのよ」 え、と微かに目を見張る。 「折角だし夕飯の買い物もしてくるから、彼にも食べていってもらったら?」 「え? ちょ、と……お母さん!」 綺麗に口紅を引き直した口元が笑みを作って、お母さんはリビングを出た。 ティーポットを持つ手が震えていたらしく、フタがカタカタと鳴った。 そりゃ、お母さんがいてもいなくても、そう変わらないだろうけど。 お母さんが出かけたなんて黒羽くんは知らないんだし。 とか、無意識に緊張してきて落ち着こうとスーッと息を吸い込む。 「お待たせ」 何とか紅茶を入れて、お茶請けとお手ふきをトレイに乗せると取りあえず部屋に戻った。 部屋のテーブルにそれを降ろして、立ったままだった黒羽くんを座るように促す。 「どうぞ」 「サンキュ。……随分サッパリした部屋なんだな」 「ああ、うん。もう大体荷物まとめちゃったから……元はもうちょっと散らかってたんだけど」 答えながらも、胸の音が高鳴って真っ直ぐ黒羽くんの顔が見られない。 このまま立っている訳にもいかないけど、どこに座れば良いんだろう。 見慣れた自分の部屋なのに、何だかいつもと違って感じる。 結局、黒羽くんに手が届くか届かないかという程の距離を取って腰を下ろした。 カチャ、と黒羽くんがカップをソーサーに戻す音が響いてビクッと身体が撓る。 何か話さなきゃ、と思うも上手く言葉が出てこなくて二人きりの部屋が必要以上の静寂に包まれていた。 音楽でもかけようかな、そしたら動くことが出来るし。 なんて逃げの一手を考えてるのが情けなくて、余計に体温が上がってくる。 「」 「えっ……?」 急に横から手を伸ばされて、私は反射的にそれを振り払った。 「ご、ごめ……何?」 振り払った左手を右手で握りしめて腰を引くと、黒羽くんは困ったように片方の眉を下げて苦笑いを浮かべた。 「んなビクビクすんなよ。なんもしねぇって」 そのまま伸ばした手を引っ込められて、申し訳ない気持ちがこみ上げてくる。 バカみたい……変に意識しちゃって。 最初から黒羽くんのすぐ隣にいけば良かったのに……そんな事を考えていたら身体を浮かせて私の方に詰め寄った黒羽くんにグイッと肩を引き寄せられた。 驚いて目を見張ると黒羽くんがニッと笑ってくれて、強張っていた身体が少し解れる。 黒羽くんの手は大きくて、あたたかくて、抱かれた心地よさにゆっくりと瞼を落とす。 それとは裏腹に鼓動はドクドクと痛いほど音を立てていたけど、もうちょっと触れたくて黒羽くんの方へ身体を寄せた。 「あの写真さ……海外?」 ふいに、頭上から声がして黒羽くんを見上げる。 目線の先は部屋の壁にかけていたコルクボードへ向けられていて、同じように私もそっちへ視線を移す。 宍戸くんや友達と撮った研修旅行での写真。頷きながら懐かしさに口元が緩む。 「一昨年の研修旅行でドイツに行ったときに撮ったの。建物とかね、当たり前だけど日本と全然違ってて……もっとゆっくり見たかったなぁ」 「ヨーロッパって行き来簡単なんだろ?」 これからいつでも見られる、って意味なんだろうけど、その時黒羽くんは隣にいないと思うと寂しくて、うん、と呟いた声がくぐもる。 ふと、すぐ横の修学旅行で撮った写真が目に入ってその時目にした鮮やかな蒼が頭に蘇ってきた。 「ドイツもだけど、修学旅行で行ったハワイの海もすっごく綺麗でね……ホントに綺麗で」 「絵に描きたかった?」 「うん、それもあるけど……ああいう風景黒羽くんと一緒に見たいなぁって」 真っ青な海、きっと凄く喜ぶんだろうなとか思って目を細める。 一緒に色んなものを見て、何かを感じられたらきっと一人よりずっと素敵。 俺と見たい……?って訊かれて、黒羽くんと一緒だと綺麗なものがより綺麗に見えるとか感じた気持ちを上手く言葉に出来なくて、もっと適切な言葉を探しているとククッと黒羽くんが喉を鳴らした。 え?と眉を寄せるとスマン、と前置きして黒羽くんが軽く目尻を下げる。 「俺も同じ事考えてたからつい」 「同じこと?」 「そ、朝日が綺麗な時とかに見せてやりてぇって思ったり、この景色見たらまた絵に描きたいって言うんだろうなーとか思ったりさ」 そう言って嬉しそうに目を細めた黒羽くん。 ビックリして、そんな風に考えてくれた事がたまらなく嬉しくて胸がいっぱいになる。 思わず涙腺が緩みそうになっていたら、黒羽くんは私を抱いていた肩からそっと手を外した。 「、左手出して」 「左手……?」 突然の要求にキョトンとしてオウムを返す。 よく分からないままおずおずと言われるままに左手を差し出すと、手首を取った黒羽くんがふっと笑った。 「……え?」 スッと薬指の関節に硬いものが通った感触。 見ると銀色の指輪がはめられていて、頭が真っ白になる。 「く、黒羽くん……これ」 瞼がこれ以上ないほど持ち上がっていたのが自分でも分かった。 「ああ、安物で悪いんだけどさ」 「や、そうじゃなくて……何で」 何度瞬きを繰り返してもピッタリと薬指に指輪が光っていて、頭がその状況を上手く理解できなくて。 きっと端から見れば今の私は相当に挙動不審者だろうと言うことだけはかすかに感じた。 「後、これも」 ゴソゴソとバッグから小さな包みを取り出して、黒羽くんはそれをうろたえていた私の手に握らせた。 綺麗にラッピングされたそれを見て、あ、とようやく今日がホワイトデーだったことを思い出す。 「あ、ありがとう……でも」 物を貰う理由はなくて、なおもうろたえていると黒羽くんは軽く肩を竦めてみせた。 「もくれたじゃん」 おそらくバレンタインの事を指していて、あれは誕生日のお祝いだし、と目を伏せて呟く。 伏せた先にはめてくれた指輪が映って、グッと胸が詰まる。 一度は戻ったはずの涙腺がまた緩んできて、懸命に唇を結んだ。 「……?」 不審に思ったのか黒羽くんが顔をのぞき込んできて、どうしようもなく切なくなる。 「ごめ……ビックリして私……」 頬が熱くて、苦しくて私はそっと瞳を閉じた。 嬉しい、と一言気持ちを伝えるのが精一杯だった。 そのまま、身体が黒羽くんの腕に包まれたのを感じた。 触れられたらもっと気持ちが昂って、唇が重なったのと同時に一粒涙が零れた。 キス、何度目だっけ……何度かお互いの唇の感触を確かめ合って、私は黒羽くんの胸辺りを押さえていた手をおずおずと肩の方へ回してみた。 「……んっ……!?」 舌先にあたたかいものが触れて、とっさにキュッと黒羽くんのシャツを掴む。 僅かに引いた背を黒羽くんが右手でしっかり抱いて、左手が後頭部辺りを捉えて更に深く口付けられる。 どうすればいいか分からなくて、そのまま合わせてされるがままになってると頭がクラクラしてきて力を込めていた手から少しずつ力が抜けていくのを意識の奥で感じた。 「……っふ、――っ」 ゾクゾクと背筋に痺れが走って息苦しさに漏れた吐息は甘く、ふわふわ身体が浮いているような錯覚さえ覚える。 唇が離れてしまってもその感覚は抜けなくて、身体が熱を持ったまま視界がおぼつかない。 「く、口ん中甘ったりぃな。さっき食ったクッキーの所為かな」 そう笑って言った黒羽くんはすぐ近くにいるのに、耳に届く声は遠くて自分でもどうしたのか分からないでいると、もう一度今度は締め付けるくらい強い力で抱きしめられた。 その腕の力に徐々に頭が覚醒していく。 「く、黒羽くん……?」 更に強くなっていく力に戸惑って、苦しげに声を漏らすと黒羽くんはハッとしたように腕の力を緩めた。 そのまま私を見つめた黒羽くんは、一瞬今まで見せた事ないような切なそうな顔をして。 そんな表情見たこともなかった私は、吸い込まれるようにその瞳に捉えられた。 もどかしそうに唇が軽く揺れて、キュッと手を握られる。 「俺はとしたい事も、してやりたい事も沢山あるんだ。だから」 言葉を探して噛みしめるようにそう言いながら、握られた手に力が込められた。 「逃げんなよ」 黒羽くんの瞳に私だけが映って、あまりに真剣にそんなことを言われて、少し目を張る。 黒羽くんはいつも自信に満ちていて、大らかでポジティブで。 物事もいつもならキッパリと言い切ってしまうのに……さっき一瞬見せた表情が蘇って答えに迷う。 「意味がよく分かんないよ」 首を傾げて言葉を濁すとそっとそのまま額に優しくキスされて、言われた言葉の訳を少し理解できた気がした。 ポンポンといつものように大きな手で頭を撫でられ、温かい気持ちがこみ上げてきてふっと笑う。 それにつられたように黒羽くんが声を立てて笑って、私も更につられてクスクスと笑った。 「さて、どうすっか。今からどっか行くか?」 飲み干した紅茶のカップをソーサーに戻しながら黒羽くんがこっちに目線を送ってきた。 んー、と唇に手をあてているとちょうど良い案が浮かんでポンと手を叩く。 「そうだ、あった、黒羽くんとしたい事!」 「何?」 「テニス!」 「……は?」 「ね、テニスしよ!」 どこかへ出かけるには時間が中途半端だし、とすっかりその気になって立ち上がる。 「いや、いーけど……俺ラケット持ってきてねぇし」 「私持ってる」 クローゼットを開いてスケッチブックの山の奥からラケットとボールを探し当てて、取り出したうちの一つを黒羽くんに渡すと、木製じゃないラケットが珍しいのかトントンと感触を確かめていた。 「ていうかお前、テニスできるのか?」 「……まあ、学校の授業でやる程度は」 「へぇ、んじゃお手並み拝見といくか!」 できる、というより何とか打てると言った方が正解だけど、と付け加えようか迷っていると黒羽くんはニッと興味深そうに口の端を上げた。 「ところで何ができんの?」 「何って……普通にラリー程度しか」 首を捻ると、だよな、と声のトーンを落とされて。 氷帝なら何か面白い技教えてくれるんじゃねーかとか思ったけどと続けた黒羽くんに、氷帝のイメージって、と一瞬苦笑いを浮かべる。 そりゃ跡部くんや向日くんだったら変わった技教えてくれるかもしれないけど、と授業で習った事をそれとなく思い返した。 「技か……ライジングはずっと習ってたなぁ」 「ライジング……?」 「うん、宍戸くんが教えてくれたから」 気だるそうに、だけど懸命にみんなにコツを伝授していた宍戸くんの姿を描いて懐かしく思ってると、目の前で言葉に詰まっている黒羽くんに気付いて、あ、と口元を押さえる。 「テニスの時間はテニス部が模範プレーしてくれたりコーチしたりするの。それで、三年ずっと宍戸くんに習ってたから自然と、その」 個人的に習ったわけでも何でもなくて、変に誤解されたくなくて入れたフォローは本当の事なのに後出しだった所為か何故だか言い訳っぽく聞こえた。 焦ってすぐに話題を切り替える。 「ね、アレ教えてよ。ローリングボレー」 「一朝一夕じゃ無理だ」 突っぱねるようにそう言い返した黒羽くんの顔は笑っていて、宍戸くんの事は気にしてないらしくホッと胸を撫で下ろす。 それは尤もな答えで、でもちょっと悔しくてかねてから思っていた事を言ってみようと持っていたラケットをトン、と肩に掲げた。 「でも……あの技、カッコ良いけどリターンされたらヤバいよね」 ずっと見てたからあの技の弱点、知ってる。 もっとも、分かってても返せる人って少ないんだろうけど。 「良いんだよ。取られねぇこと前提なんだし」 苦しそうにそう口を引き垂った黒羽くんにクスリと笑みを漏らして、出かける準備に取り掛かる。 「テニス久しぶりだなー……あ、手加減ナシだからね」 外へ出てグッと伸びをしながら黒羽くんの方を振り返ると、ちょっぴり肩を竦められた。 「腕痛めてもしらねーぞ」 「そ、それは困るかな」 一瞬ラケットを持つ右手が強張って、決まり悪そうに視線を逸らすとツンと人差し指で軽く額を弾かれて、さっきの優しいキスの感触が蘇ってきた。 ふ、と結んだ口の端をかすかに上げる。 私も、まだ黒羽くんとしたい事も知りたい事も数え切れないくらいあるよ。 だから、黒羽くんみたいにいつも前向きでいる。 言われた言葉も一緒に思い出していると、黒羽くんがそっと私の手を取った。 一瞬顔を見合わせて微笑みあって、私から指を絡めてみる。 こうしていつまでも一緒に手を繋いで歩いていけたら良いな――。 二人で見上げた初春の空は、いつもより美しく私の瞳に広がった。 |
ヒロイン視点のほうが、まとまりがよかったように思います…。
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