――花の都、パリ。
 フランス共和国の首都であり、同国の政治・経済・文化の中心地であり、世界のトップに肩を並べる大都市でもある。
 観光においては他の追随を許さず、国内外を問わずパリを目指す者は後を絶たない。街は多人種でごった返す人種のるつぼだ。
 そんな場所にが中学卒業と同時に越してきて、はや数ヶ月――。


、――」
、〜〜〜〜」

 何語だろう? とは耳をすませた。一つ目は、どうやらドイツ語っぽい。二つ目は……聞いたことすらない。辛うじて分かったのは、「」と自分の名が呼ばれたことのみだ。
ってば!」
「……なに……?」
 今度はフランス語だった。考えあぐねていたが顔をあげると、声の主がこちらに近づいてくるのが見えた。にんまりと声の主はダークブロンドの髪を揺らして笑っている。
 ここ、パリへ来てようやく三ヶ月ちょっとが経った。ヨーロッパではちょうど夏休みへとさしかかった頃合いだ。しかしながらは夏休みとは無縁で、九月の新学期から氷帝学園の姉妹校に入学するということで、入学に先立ち学園付属の寮へと入寮してから毎日語学学校へ通っている真っ最中だった。
 ――日本の常識は通じない。ということを身を持って理解するには三ヶ月という時間は十分すぎる長さであった。
 まずは学校のことだ。の入学予定である学校は氷帝の姉妹校ということで、フランスの中ではそれなりに名の知れた、いや、むしろ名門といって良い。フランスでの中等教育にあたるコレージュ・リセ一貫教育の私立で、エリート育成機関であるグランゼコールへの準備コースもあり、フランス内でもグランゼコール合格率トップを誇っておりパリ在住のみならずフランス内の多くの上流階級の子息が在籍している名門校だ。のような留学生の受け入れにも積極的である。だというのにスタッフはフランス語オンリーなどは当たり前、事務手続きに手間取るのも日常茶飯事という有様であった。
 何もかも自分でやらねばならず、加えてそこそこフランス語に自信のあっただったが、そんな自信は滞在許可証を手に入れるために移民局へ赴いた段階でとうに崩れ去っていた。
 これで新学期が始まれば無事に授業についていけるか――、としては気が気ではなかった。幸いにも寮では二人用の部屋を一人で使えていたため、環境も静かでじっくり勉強できていたが、それも数日前までの話だ。六月に入って、急にルームメイトができたのだ。いま、目の前にいる彼女である。
『あ、日本人? 私、ハンガリーって国から来たの、ヨロシク! ねえ、ハンガリーがどこにあるか知ってる?』
 初対面の彼女はそんなことを言ってきた。中央ヨーロッパのハンガリー出身だという。曰く、英語とドイツ語が堪能であるため、かじりかけのフランス語を次にマスターするため高校進学にフランスを選んだらしい。
 彼女は、が目下フランス語を勉強中であると知るや否やまず英語を封印した。そして先ほどのようにふざけてドイツ語や、おそらく母国語であるハンガリー語で話しかけてきてくれることもあるが、にはさっぱり分からない。
「バスティーユにおいしいパン屋さんがあるんだって! 行こうよ!」
「うーん……いま、勉強中だし……」
「えー、行こうよー! つーまーんなーい!!」
 彼女はとてもアクティブで明るい性格らしく、長い夏休みをフランスで堪能すべく中学を卒業するとすぐにこちらへと引っ越してきたらしい。しかし、他の寮生は夏休みと同時にほぼ全員が地元へと帰省してしまったためこの場にいる人間はすこぶる少なく、何かにつけてはこうしてへと誘いをくれた。
、カロウシしちゃうよカロウシ! 日本人は働きすぎて死んじゃうんでしょう!?」
 いったい、欧州では日本のイメージはどんな風に伝わっているのか。
 結局のところは彼女に引っ張られ、勉強の合間にちょこちょこ外出を重ねるようになった。
 もとより寮母はフランス語しか話せず、フランス語しか話すつもりのない同世代のルームメイトも得て、基礎がしっかりしていたことも幸いして新学期がスタートする頃には自身、会話にはほぼ困らなくなっていた。
 とはいえ、授業に付いていくとなると話はまた別である。一年後、高校二年生になれば、フランスの国内統一試験であるバカロレアの国語部門――つまりフランス語の試験をフランス人と同等のレベルでパスせねばならず、いや、最終的には優秀な成績「トレビアン」でバカロレアをパスしたいとしては、本来の目的である「絵の勉強」を封印して、日々フランス語習得に明け暮れた。
 なぜなら、ある程度の会話が出来るのだから、絵と勉強の両立も何とか出来るだろう。――というのは儚い夢でしかなかったからだ。
 自身がもっとも得意とする理数系の教科でさえ、試験の時にほんの1単語の意味を失念してしまい、そのせいで全体の意味が正確に掴めないという事態に陥ることがあった。結果、質問の意図を取り違えて人生で初めてと言ってもいいほどの点数を取る羽目になり、言い表しようのないショックを受けることとなったのだ。
 質問の意味が分からなかったせいです。などと言ったとしても所詮は言い訳で。もちろん、自分は外国人なのだから理解はしてくれるだろう。同情もしてくれるかもしれない。けれども――、母国語でなら、日本語でならおそらく疲労困憊状態でも解けただろう問題が単語一つのせいでこの結果という事実に、どうしようもない焦燥を覚えた。
 言葉さえできれば、できないはずがないのに。と強く思ってしまう程度には理数科目に強い自信があったらしき自分には改めて驚くと同時に、言葉が出来ない、という壁が想像以上の高い障害であったことに恐怖した。
 分かっているのに、答えられない。出来るはずなのに、出来ない。年齢相応の知識は少なくとも有しているはずだというのに、テストや課題の結果という客観的な事実が示す自身の知能は時には小学生にも劣る。このもどかしさとやるせなさは、今まで経験したことのないものだった。もしも日本語だったら、と否が応でも思ってしまう瞬間も幾度もあった。
 それでも――。

『これだけの絵を描いても、あなたはこの絵の素晴らしさを自分の言葉で、フランス語で表現できる? できなければ、エコール・デ・ボザールには入れないわ』
『あなたに必要なのは技術はもちろん、その感性を伸ばすことと、フランス語を身につけること』

 自分をパリへと誘ってくれた教師の言葉を、くじけそうになるたびには思い出していた。
 落ち込んでいる場合でも、ましてや泣いている場合でもない。言語のハンデがあることは最初から分かっていたことなのだから、乗り越えなくては自分は前には進めない。
 全てを捨ててここまで来たんだから。――と、気の遠くなるほどフランス語の文章ばかりを日々読み、日本語は最低限のみで封印する勉強漬けの生活を送った。
 とはいえ――。
―――!!」
――! このあとヒマ?」
 フランスは元来ラテン国家である。ラテン系の、特に男子生徒は氷帝の男子生徒と違ってをそう放っておいてもくれず。何かにつけて声をかけてくれ、は母国との違いに戸惑いながらも少しずつ少しずつ新しい環境に慣れてきていた。
 ルームメイトはハンガリー人であったが、地方からやってきているいわゆる「パリジャン・パリジェンヌ」ではないフランス人も寮生には多く、必然的に寮生との繋がりも濃くなっていった。また、彼らのほとんどが上流階級の出身、という事実を除いても、日本よりも環境的に芸術に親しみやすい中で育っているためか絵画に興味を抱く若者も多く、寮生複数で美術館巡りに繰り出すことも多かった。
「先日、ウィーンでクリムトの接吻を見てきたけど素晴らしかったよ。まるで僕が彼女にあの表情を与えているかのような錯覚さえ覚えたんだ」
「あら、そう? あそこまでくると悪趣味ともとれるのよね。そもそも――」
 今日も、何気ない平日のランチの時間にそんな評論会めいた討論が始まり、は舌を巻いていた。日本ではあまり見られない光景だからだ。
はどう思う?」
「――え?」
「クリムトもジャポニズムの影響を受けていたし、日本人としてどう?」
 急にふられては一瞬固まった。ジッ、と複数の青い目に見つめられて、うーん、と唸る。
「モネなんかの和洋折衷は感覚として好きなんだけど、日本人からみたら和と洋が不自然に混ざってる、ように思えるのは奇妙かな……。それよりクリムトなんか写実能力が高かったのに、ピカソといい、そういう人ほど精神世界に入り込むのは何か法則でもあるのかなぁ」
 言いながら、「また理屈っぽい技術屋みたいなことを言う」との脳裏にふと反論の声が響いた気がした。氷帝時代の友人である、美術部の部長を務めていた少女の声だ。
 無意識に、そっとは自分の首元を押さえた。――指にネックレスのトップが触れた感触が伝う。いつも肌身離さず身につけているそれは、卒業式の日に鳳から贈られたものだ。
……?」
 ふと、黙り込んでしまったを心配げに友人らが覗き込み、ハッとしては「何でもない」と首を振るった。
 授業を終え、帰路につく。木枯らしが頬を撫で、の瞳に落ち葉が横切っていく様子が映った。もうじき日本を離れて一年になる。
 鳳は、もうテニス部も引退して高等部への進学に備えている頃だろう。彼にとって最後だった夏の中体連、ちゃんと関東を勝ち上がって全国へ行けたのだろうか。
 彼は――、一年前の春に、自分の絵を見てくれただろうか。
 ――ギュッと首元のペンダントを握りしめる。
 彼の全てを拒絶してここまで来たというのに、この想いが「思い出」に変わる日はまだ訪れてはいない。ふ、と過ぎった懐かしい笑顔を首を振るう事で掻き消して、は前を向いた。
 思い出に浸るよりも先にやることが山のようにある。そのためにここまで来たのだから。――と、ひたすらフランス語に励み、進級が見えてきた頃には少しは本来の目的である絵画の勉強にも集中して時間を割ける程度には余裕が生まれていた。
ーーー!!」
 夏の休暇を控えたある初夏の日、は見知った声に呼び止められて後ろを向いた。見ると、ルームメイトが駆けてきており、並んで寮までの道を歩いていく。
、休暇中は日本に帰るの?」
「ううん。こっちにいるつもり」
「え!? 寮で一人?」
「うん……、たぶん」
「えー!? そうだウチおいでよ、パパとママも喜ぶし!」
「でもイースターの時もお邪魔しちゃったし……」
「平気平気! 一緒にバラトン湖行こうよ! 良い国だよ、私の故郷は」
「うん。私もこの前行って気に入っちゃった」
「でしょー!?」
「なんかホッとするの……。すっごく治安もいいし、パリと大違い」
「あはは、パリはクレイジーだからねえ」
 他愛のない話をしながら、はすっかり慣れた道行きを歩いた。視界の先に白く飛行機雲が伸びていて、ふ、と目を細める。
 無意識に胸元に手をやったのは、あの飛行機雲の先にきっと見てしまったからだ。
 ――日本で、彼は今なにをしているのだろう、と。優しく微笑む、あの面影を。

 ――あの飛行機雲の先に、彼がいる。

 もう二度と会うことがなかったとしても――、あの別れを後悔しないように頑張るから。
 きっと元気でいて欲しい。

 少しだけ寂しさの混ざった笑みを乗せて、は一度足を止めて伸びゆく飛行機雲を仰ぎ見た。




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